禁域への誓い
エリア9の廃墟を抜け、フォンとランは「ヴン・カム」(禁域)と呼ばれる地帯の境界を越えた。その瞬間、世界の様相は一変する。
これまでのグレイゾーンが単なる都市の残骸だとしたら、禁域は魔力の戦場だった。空は鉛色に淀み、空気は粘性があるかのように重く、呼吸するたびに肺の奥に冷たい魔力の粒子が沈殿する。大地は異様な色彩を帯びた菌類に覆われ、建物の骨組みはまるで巨大な生物の肋骨のように湾曲していた。
「ここが、深淵の息吹が最も濃い場所です…」ランは声を潜めた。彼女は 救助される した「聖なる監視者」のデータパッドを握りしめているが、この場所の魔力干渉が強すぎるのか、機器は激しいノイズを発している。
フォンはライフルを構え、警戒態勢を維持した。彼が最も恐れているのは、虚ろな者の群れではない。この地に潜む、より原始的で、人の精神を侵食する種類の「闇」だ。
彼らが辿り着いたのは、巨大な結晶質の木々が生い茂る森だった。木の枝は骨のように白く、葉の代わりに鋭いガラス質の破片がついており、風が吹くたびに不協和音のような**「嘆きの音」**を奏でる。
「ラン、気をつけろ。この空気には何かが混じっている。」フォンは警告した。
その時、周囲を突如、冷たい**幻影の霧(Gen'ei no Kiri)**が覆い始めた。それは物理的な霧ではなく、精神を直接刺激する魔力の靄だ。霧は二人の最も深い記憶、最も恐れるイメージを呼び覚ます。
ランはうめき声をあげ、両手で頭を抱えた。彼女の幻影は、幼い頃、魔術の才能に目覚めたが故に「鉄の教会」に連行される直前の、絶望的な光景だった。
フォンは一歩踏み出し、幻影に抵抗しようとした。だが、幻影は彼の過去を容赦なくえぐり出す。彼の眼前には、安らかに微笑むアンの顔が浮かび上がった。温かい手、未来への希望、そして彼らが交わした誓い。
「フォン、俺たちがこの地獄を生き延びたら、二人で城塞を出よう。どこか、酸性雨の降らない…静かな場所へ…」
その声が、幻影の霧の中で反響する。
しかし、その安らかなイメージはすぐに崩壊した。アンの顔は歪み、水槽で見たあの肉塊、機械のプレートが埋め込まれた痛ましい姿へと変わる。腐敗した肉体と、純粋だった愛の記憶が混濁し、フォンを狂気へと引きずり込もうとする。
「アン…!これは、お前の望んだ生ではないだろう!」
フォンは叫び、ライフルを空に向けて乱射した。銃声は幻影をわずかに引き裂くが、霧自体を消すことはできない。彼は憎悪に任せて、持っていた白リン手榴弾を投げつけた。閃光と熱が一時的に霧の濃度を下げた。
「兄さん、大丈夫ですか!」ランは、何とか幻影から脱し、血を流しながらフォンの元へ駆け寄った。
「ああ…大丈夫だ。」フォンの声は掠れていたが、その瞳には、かつてないほどの冷たい決意が宿っていた。幻影の霧は、彼の心を折る代わりに、彼の憎悪を硬い鋼鉄へと焼き固めた。
「彼ら(教会と政府)は、英雄を名誉の死から引き剥がし、最も忌まわしい形で冒涜した。」フォンは極秘ファイルを強く握りしめた。「俺たちは、彼らの行いを城塞の隅々まで広めなければならない。そのためには、どんな危険も顧みない。」
それが、彼が心の中で交わした「誓い」だった。
ランは落ち着きを取り戻し、フォンの指示に従って回収したデータパッドを操作した。
「教会の記録です。彼らは禁域の奥地、**『第三の灯台』**と呼ばれる場所に秘密の拠点を持っているようです。それは古の戦争以前から存在する、異界のエネルギーが集中する場所…」
「奴らの本部か。」フォンは低く唸った。「罠かもしれないが、手がかりはそこにある。奴らの中枢を叩く。」
彼らは骨の木々を抜け、さらに奥地へと進む。しばらくして、彼らの目の前に巨大な建造物が現れた。それは都市の残骸とは異なり、古代の巨石を積み上げた円形の塔だった。周囲には防御壁が築かれ、その塔の頂上からは、不安定な緑色の光が空に向かって放出されていた。
「あれが、第三の灯台…」ランが息を呑んだ。
フォンは塔の周りを警戒しつつ、静かにランに命じた。「警戒を怠るな。この静けさは、奴らの仕掛けた罠だ。」
彼らが塔の影に到達したとき、突然、彼らの進路を遮るように影が動いた。それは虚ろな者ではない。強化装甲を身に纏った人影だ。だが、その装甲には、教会の紋章ではない、見慣れないシンボルが描かれていた。砕かれた王冠と、鎖のシンボルだ。
そして、その影は彼らに向かって、銃を構えることもなく、ただ一言、古びた声で問いかけた。
「…お前たちは、城塞の道具か? それとも、反逆者か?」
フォンは、ライフルを固く握りしめたまま、その人影を凝視した。それは、彼らの計画外の第三勢力との、最初の遭遇だった。




