裏切り者の足音
爆発の余韻は去り、エリア9の空気に残るのは、焦げたコンクリートと酸性雨の冷たさだけだった。フォンとランは、荒廃した街の屋根を滑り降り、錆びついた瓦礫の山に身を潜めた。アドレナリンが引き起こした高揚感は消え失せ、代わりに、逃亡者という冷たい現実の重みがのしかかる。
「もうデルタ-4は存在しない。ホン中尉もミンも、そして俺たちも、公式にはあの爆発で塵になった。」フォンはヘルメットを脱ぎ、雨で濡れた髪をかき上げた。顔についた煤と血の跡が、彼の表情を一層険しく見せる。彼の胸元には、極秘ファイルという、命懸けで守るべき重荷が張り付いていた。
「フォン兄さん…私、どうすれば…」ランの声は震えていた。彼女は術式工学の行使で体力を消耗しきっており、精神的な恐怖が頂点に達していた。「どこへ行けばいいんですか? 城塞に戻ることはもうできない。」
「戻らない。」フォンはきっぱりと言い切った。「奴らは我々を殺そうとした。もう二度と、あの欺瞞の壁の中に入ることはない。俺たちはゴーストだ。グレイゾーンに溶け込み、やつらが最も嫌がる場所へ向かう。」
彼らが目指すのは、城塞の「外壁」だ。それは皮肉な目的地だった。城塞の門を通って戻ることは不可能だが、外壁の影には、政府の目が行き届かない密輸業者や反体制派の隠された連絡通路が存在する可能性がある。そこが、彼らに残された唯一の希望だった。
二人は残されたエネルギーを振り絞り、ひたすら南へ向かった。風景は絶望的な灰色で統一されている。崩落した橋、酸の川が流れ込む淀んだ水溜り、そして時折、異界の魔力で歪んだ植物の奇妙なシルエットが、彼らの視界を遮った。
フォンはランに手を貸しながら歩いた。彼の心は常に、過去と現在を行き来していた。
(フォンの記憶)
…暖かかった。城塞の鉄壁とは裏腹に、彼の部屋はいつも暖かかった。
「お前は馬鹿だ、フォン。そんなに必死にならなくても、誰も俺たちを責めやしないさ。」
「お前は違う。お前は光だ、アン。この世界で俺が守りたい唯一の純粋なものだ…」
アンの少し掠れた笑い声が蘇る。そして、その記憶は一瞬で、水槽の中で変異させられていたグエン・ヴァン・アンの、肉塊と化した姿へと置き換わる。
――俺の愛は、奴らの道具になったのか。
その怒りが、フォンの疲弊しきった身体に、新たな活力を注ぎ込んだ。この憎悪こそが、彼を「虚ろな者」にしない最後の防波堤だった。
「待って、フォン兄さん。」ランが突然、フォンのコートの裾を強く掴んだ。彼女の顔色は悪魔を見たかのように青ざめている。「何か来ています。風の音じゃない…エンジンの音です。すごく速い。」
フォンはすぐに地面に伏せ、古い給水塔の残骸の陰に身を隠した。彼は耳を澄ませる。ランの直感は、彼女の魔術的才能と同じくらい正確だ。荒野のノイズの向こうから、確かに低く唸るようなエンジン音が近づいてきている。それは、通常の巡回車両の音ではない。
「軍だ。だが、巡回隊ではない。あれは追跡者だ。」
フォンの胸に不安がよぎった。軍の通常部隊が到着するには早すぎる。あの地下施設の自爆は、単なる証拠隠滅ではない。それは囮だった。彼らは、フォンたちが生き残る可能性を想定し、既に精鋭の追跡部隊を投入していたのだ。
彼はバイザーの倍率を上げ、音の方向を凝視した。地平線の向こうから、漆黒の四輪装甲車が砂塵を巻き上げながら、恐ろしい速度で接近してくる。その車体には、デルタ部隊でも見たことのない特殊なコーティングが施されており、光学迷彩を施しているのか、時折景色の中に溶け込むように揺らめいていた。
そして、その装甲車の横腹に描かれた紋章を見た瞬間、フォンの喉が詰まった。
それは「鉄の教会」のシンボル、**『聖なる監視者』**の刻印だった。
「…教会の目(The Eye of the Church)。」フォンは血の味がする唾を飲み込んだ。軍事政権だけでなく、狂信的な教会もこの陰謀に深く関わっている。そして彼らの追跡部隊は、生け捕りではなく、抹殺を目的としている。
「彼らに見つかったら終わりです。兄さん!」ランは震える手でフォンの腕にしがみついた。
フォンはアサルトライフルを構え直した。逃げ道はなかった。彼らの前は広大な瓦礫の平原。後ろからは、「聖なる監視者」が牙を剥いて迫ってくる。
「終わりじゃない、ラン。」フォンは冷徹な眼差しで暗闇を見た。「これが始まりだ。」
彼は引き金を引く準備をした。この道は、ただの逃亡ではない。これは、愛と正義のために、世界に宣戦布告する最初の銃声となるだろう。




