上層区の混沌
教授の密室に銃声が響いた直後、上層区全体が地獄のような赤に染まった。非常警報のサイレンが耳を劈き、床と壁の間の合わせ目が一斉に光を放ち、すべての主要な通路とハッチが厚いチタン合金の壁で封鎖された。城塞は、心臓を攻撃されたかのように、即座に自己防衛システムを起動させたのだ。
「ラン、行くぞ!」フォンは叫び、最後の貴重な手榴弾をドアの外の廊下に投げつけた。
ドォン!
爆発と閃光が、突入してきた教会の**精鋭部隊(Seiei Butai)**の先鋒を一瞬怯ませる。フォンはランを背後に庇いながら、迷いなく瓦礫を飛び越えた。彼の視線は、周囲の衛兵の死体など目に入らず、ただアンが残した脱出ルートへと向けられていた。
「正面の衛兵は三人! 後方からさらに五人接近中! 逃げ道が封鎖されています!」ランが叫びながら、ディン教授のデータパッドを必死に抱きしめる。
フォンは通路の角に飛び込み、アサルトライフルを連射した。弾丸は衛兵たちの強化装甲を辛うじて貫き、その動きを止める。彼は戦場を瞬時に分析した。上層区の廊下は広く、遮蔽物が少ない。これは彼にとって不利だ。
「この環境を使うぞ!」
フォンは、廊下に設置された高圧蒸気パイプに、連続して弾丸を叩き込んだ。パイプが破裂し、高熱の白い蒸気が廊下を満たす。同時に、ランがその機会を逃さなかった。
「電気系統を攪乱します!」
ランの指先から青い魔力の光がほとばしり、蒸気に覆われた廊下の監視カメラと照明パネルを狙い撃つ。魔力のサージが、無菌的な電子システムを一瞬で破壊し、廊下は赤色の非常灯と蒸気による白い靄、そして完全な暗闇が混在する混沌へと変わった。
「グアァァッ!」
衛兵たちは視界と通信を奪われ、叫び声をあげた。フォンは、この混乱を逃さなかった。彼は衛兵の盲点を突き、躊躇なく、素早く、そして無慈悲に彼らを排除していく。彼の動きには、感情はなかった。あるのは、アンの死と魂の冒涜に対する、凍てつくような復讐心だけだ。
「ラン、次のブロックだ! 魔力共振センサーが最も薄くなるポイントまで走れ!」
彼らは、蒸気と硝煙の中を走り続けた。壁には血と弾痕が飛び散り、清潔だった上層区の廊下は、わずか数分で地獄の通路へと変貌した。
通路を曲がると、さらに二人の精鋭衛兵が待ち構えていた。彼らは魔術で強化されたシールドを展開し、逃走経路を完全に塞いでいた。
「これ以上は通さない! 止まれ、裏切り者!」
フォンはシールドの硬さを知っていた。正面突破は不可能だ。ランは限界に達し、膝をついた。彼女の鼻から、止めどなく血が流れている。
「フォン兄さん…私には…もう…」
「まだだ、ラン! お前の力が、俺たちの命綱だ!」フォンは叫び、シールドに向けて牽制射撃を行いながら、ランの顔に手を当てた。「シールドの電源を狙え。術式を**過負荷**させるんだ!」
ランは、その言葉に、最後の力を振り絞った。彼女は身体中に残された魔力をかき集め、衛兵たちのシールドを駆動させているエネルギーパックに、猛烈なテクニカの波を叩きつけた。
――キキキキィィン!
シールドが甲高い悲鳴を上げ、衛兵たちの手に持たれた駆動装置が爆発した。衛兵たちは無防備になり、フォンは瞬時に二人の心臓に弾丸を打ち込んだ。
彼らは、再び脱出ルートへと駆け出した。背後からは、さらに多数の増援部隊が、魔術の呪文を唱えながら迫ってくるのが聞こえる。
「ハッチまであと少しだ!」
ついに、彼らはアンが残した秘密のハッチへと到達した。チタン合金製のハッチは、再び完全に封鎖されている。
「ラン、ロックを解除しろ! 急げ!」
ランは血だらけの手でキーパッドを操作し始めた。秒針が永遠のように感じられる。フォンはハッチを背にして立ち、最後の弾倉を装填した。
「一つでも奴らが通れば終わりだ!」
教会の精鋭部隊が角を曲がり、彼らに向けて一斉に呪文弾を発射した。フォンは、全身のアーマーが悲鳴を上げるほどの衝撃を受けながら、必死で反撃した。彼は、自身を最後の盾として、ランを守り抜いた。
「解除…解除しました!」ランの震える声が響いた。
ハッチがゆっくりと開く。フォンは最後の力を振り絞り、閃光弾を廊下に投げ込み、ランを先に暗闇のシャフトへと突き落とした。彼自身も、地獄の業火から逃れるように、シャフトの中へと滑り込んだ。
――ガシャアァン!
ハッチが閉ざされる瞬間、教会の精鋭部隊の先頭が到達し、その憤怒の叫び声は、分厚いチタン合金によって遮断された。
二人は、再び暗く、冷たい下水道の通路へと転がり落ちた。上層区の混沌と、復讐の代償は、彼らの心と体に深く刻み込まれた。彼らは生き延びた。そして、城塞の最も忌まわしい秘密を握る、最重要指名手配犯となったのだ。




