白い結婚は終活の手伝いでした
ある種の共犯者との話。
マリエッタは没落寸前の貴族令嬢である。
そろそろ平民落ちするのも秒読みというところを、支援するかわりに嫁に来い、という話でもって結婚する事になった年頃の娘であった。
こういう話が来た時点で、お相手がさぞ不細工だとか、性格が悪いだとか、ロクでもないものを想像するだろう。
年が親子どころか祖父母と孫くらい離れているだとか。悪い噂が絶えないだとか。
しかしその話を持ち掛けてきたのは、特にそういった悪い噂があるでもない普通の伯爵家であった。
マリエッタと結婚予定の夫になる相手も、年齢はマリエッタとそう離れているわけでもない。
わざわざこんな事をしなくても、普通に社交に参加していれば自然と結婚相手なんて見つかりそうなものなのに、どうしてかマリエッタの家にそんな話が舞い込んでしまったのであった。
これは裏があるに違いない。
そう思いつつも、家族そろって平民落ちした挙句領民たちを路頭に迷わせるわけにもいかないし……となったマリエッタはその話に乗ったのである。
一応マリエッタなりに、お相手の事を調べてはみた。
まぁ、裏の事情とかそういったものまではわからなかったが表面上知る事ができたものといえば。
マリエッタの夫になる予定の男の名を、ロジャー・ディオシュラーダと言って、年齢はマリエッタより二つ上。目を逸らしたくなるくらいの不細工というわけでもなく、むしろ少々無骨な印象はあるけれどそれでも見た目は整っている。
人柄があまり知られていないのは、ロジャーが幼い頃事故に遭ったせいで長い間療養しており、領地にこもっていたからというのもあるのだろう。けれども、それでも数少ないロジャーを知る人物からの評判は悪いものではなかった。
見た目から騎士とかやってそうな印象だけど、しかし幼少期の事故の影響であまり身体が頑丈ではないらしく、滅多に社交にも出てこない事から出会いがないのだ、というのはマリエッタにも理解はできた。
そうはいっても、それでも領地の方で密かに身分違いの愛する人を見つけている可能性もゼロではないのだが。
市井に出回っている娯楽小説にありがちなものをマリエッタは一先ず想像したのである。
マリエッタの兄は幸いにして優秀なので、資金援助をされればそう長くない期間で領地を立て直し没落の憂き目から逃れる事ができるだろう。
それなら、その間はお飾りの妻だろうとなんだろうとこなせばいい。
そんな風に考えて、マリエッタはロジャーと結婚し、そうして初夜を迎えるべく寝室で夫が来るのを待っていた。
「……すまないが、君を愛する事はない」
ほどなくして寝室にやってきた夫は、大層申し訳なさそうな顔をして開口一番そう告げた。
キターッ!!
マリエッタはあっこれ娯楽小説で見たやつだ! とどこぞの進〇ゼミみたいな事を思いながらも一先ず平静に努めた。内心テンションがあがってソワッとしているのを悟られないように夫を見上げる。
マリエッタの視線を受けて、ロジャーは一枚の紙を差し出した。
初夜を迎えるべく寝室は薄暗い状態だったが、そのままでは何が書かれているかわからないだろうと判断してか、マリエッタが紙を受け取るとロジャーは部屋の灯りをつけた。
「契約書」
「目を通して、わからない部分があれば聞いて」
いやこの状況がもうわかんねぇよ、とマリエッタは言いたい気持ちだったが、とりあえず口を噤む。
とても突っ込みたいが、平民みたいな口調でそれを言うのはな……と一応まだ淑女の仮面を外さないよう注意する。
ともあれ、部屋が明るくなったので契約書に書かれた文字はとても見やすくなった。
馬鹿みたいに細かい文字がびっしりしすぎて途中で読むのを諦めそうになるようなものではなく、文字の大きさも程々で、ごちゃっとしたりもぐにゃぐにゃしたりもしていない。
とても読みやすく纏まっていたので、マリエッタはしっかりと最初から最後まで飛ばす事なく目を通す事ができた。
そして見終わった感想はといえば。
開口一番君を愛する事はない、とか言い出したのでてっきり平民の愛人でも囲っていてお前とは白い結婚である、だとか、愛人の子が生まれたらお前との子供として届けるだとか、そうでなくとも白い結婚を貫いた挙句、その後は子供が生まれない理由をそちらにあるとしての離縁をするだとか、娯楽小説にありがちな、いや普通に考えてそれ契約って言うかただの脅しじゃない、みたいな内容ではなかった。
白い結婚である部分はそうなのだが、しかしそれでも内容はマトモであった。
まず先にも述べたが白い結婚。
期間は三年から五年。これについてはロジャーの両親が余命宣告をされているので、ロジャーの両親が死ぬまでの期間と定められていた。
確かに年頃の男性なのに浮いた話もなければ、どうにも結婚にも消極的だったらしいので両親としては心配していたのもあったのだろう。
そこにちょっとだけ息子が興味を示したらしき相手が出た、というのでマリエッタに結婚の話が出たのだ。
そうはいっても、ロジャーの家とマリエッタの家とは特に交流があったわけでもない。
いきなりそんな話をもちかけたところで引き受けるはずがないし、そうでなくともマリエッタの家は没落寸前。ロジャーの両親としても、この結婚に利はないと思ったのかもしれないが、しかしこれを逃すと息子が次に結婚相手を見つけられるかもわからない。
とにかく結婚してくれれば、という思いが最初にきたからか、金をちらつかせて持ち込んだのである。
まずは清いお付き合いをして様子を見てから……なんて悠長な事をするつもりがなかったのは、ロジャーの両親の先が長くない事が理由だった。
ロジャーは幼い頃に事故に遭い、その時に両親もまた事故に遭っていた。
一命をとりとめはしたものの、しばらくはロジャーの両親も社交などに参加できない状態だったのだ。
後遺症もあってあまり精力的に活動できないのも、息子に期待する原因の一つになったのかもしれない。しかしその息子に浮いた話が何一つ出ないとなれば、焦ったのだろうな、とマリエッタもわかる。
ロジャーの両親を看取った後、離縁するつもりのようだ。
もし定めた期間より先に両親が亡くなった場合は離縁もその時点で。もう少し延長する可能性もあるが、医者からは大体三年もてばいい方、と言われているので、契約にはとりあえずで二年分延長して盛り込まれていた。
だが、それより先に離縁する場合であっても、マリエッタの家への資金援助の額を減らすとかそういう事はないらしい。逆にもし両親が延長してある二年よりも更に長生きするようなら、その時は延長しその分更に援助金が増える、とも書かれていた。
離縁理由については、マリエッタに原因があるのではなく、ロジャー原因の子を作れない事が発覚したため、というものになるようだ。
なので、離縁する際マリエッタにはその分の慰謝料も支払われる。
結婚期間中はマリエッタに割り振られた予算内であれば自由に使っていいとも書かれているし、見れば見るほどマトモな契約内容どころかマリエッタに都合が良すぎて、逆に裏があるのではないかと思えてくる始末。
何度か契約書を見直しても、やっぱりマリエッタにとってあまりに破格すぎる内容でしかなかった。
愛する事はない、と言っていても愛人を持っているわけでもなければ、こちらを蔑ろにするつもりのない契約内容。表面上夫婦としての体裁が整っていれば問題ないようで、あえて言うのであれば仮面夫婦となっている間に愛人を作るのも構わないが、子供だけは産まないでほしい事。
まぁ、その状態で子供が産まれたら問題しかないのがわかりきってるものね、とマリエッタも納得した。
それ以前に愛人を作る気はないのだが。
貧乏生活が続きすぎて、色恋に目を向ける余裕がこれっぽっちもなかったし、出会いもほとんどなかったのである。
同年代の異性、と言われてすぐに出てくるのが領地の平民の人たちという時点でお察し案件と言っても過言ではない。
「あまりにもこちらに都合がよすぎますが……本当にいいんでしょうか?」
「あぁ、そちらの貴重な時間を費やすのだからこれくらいは当然だろう」
他に好きな人がいて、とかならまだわかるが、そうでもないのに最初から白い結婚目的というのも気になって、どうして、とマリエッタは問いかけていた。
昔の事故で仮に子供が作れない身体になっていたとして、だとしたら別に両親にはそれを伝えてしまえばわざわざこんな……白い結婚をする必要はないわけで。
普通に嫁に来てくれる相手を探して、養子を迎えるべく行動に移れば両親だってそれで納得するのではないのか。
離縁の際、ロジャーが原因である、とするのなら。
わざわざ社交界にそういった不名誉な噂が流れるような事になるのなら、最初から両親に子供を作れない、と伝えた方が余程マシなはずだ。
ロジャーの両親が亡くなった後で離縁をして、マリエッタはそれでも全然やり直せるとは思うけれど、しかしロジャーはその場合、マリエッタの家以上に問題になるのではないだろうか。
あまりにも良すぎる条件に、逆に不安になってきたマリエッタは思わずロジャーの顔色を窺った。
だってこれでは、彼の両親が亡くなった後、彼自身もまるで……
「…………真実を話すとなると、聞いた後でやっぱりこの契約は無理、と言われても困るのだが」
「でも、聞かないまま契約するのもなんだか怖いです。条件が良すぎて」
「……報酬は多ければ多い程良い、と聞いていたが、そうか……そういう事もあるのか……」
むむ、と眉を寄せて唸るように言ったロジャーは、何故だか他人事のような態度だった。
「だってこの契約、終わった後残された貴方だけが……」
「あぁ、そこか」
マリエッタの言葉にこちらを案じている、と理解したらしく、ロジャーは少し安堵したようだった。
「問題ない」
「そう言われましてもね?」
その問題ない、はきちんと先の事を考えての「問題ない」なのか、自身が破滅する事が「問題ない」のか、マリエッタにはわからない。
それなのに本人の「問題ない」をそのまま素直に受け止めて、そうして契約終了後にロジャーだけが悲惨な目に遭うような事になれば、流石にマリエッタだって心が痛む。
「あと、場合によってはそんな夫を見捨てた薄情者みたいな噂が流れると私の今後に響くと申しますか……えぇ、自己保身で大変申し訳ないのですが」
両親が死んだ直後に夫原因での子ができないという事実が発覚し離縁とか、それもそれで薄情が過ぎる気がする。マリエッタはまだ小娘である自覚があるが、そんな世間知らずでもそう思うのだ。
であれは、酸いも甘いも嚙み分けた年上の者たちならその程度の事はすぐさま考えるだろう。
利を追求した貴族らしい、と良い方向に思われる事もあるだろうし、その逆に人としての情があまりにもなさすぎてあんな女と縁を結ぶなど……と避けられる可能性、どちらも存在していた。そのあたりは家によって考え方が異なるので、なんとも言えないのだが。
思ってもみなかった事を言われた、とばかりに顎に手をあてて、ロジャーは少々思案した様子だった。
「……ふむ、仕方がない。正直に話そう」
言いながらロジャーは改めて部屋の扉を確認する。しっかりと閉じられていたが、改めて確認しその上で内鍵をかけた。それから一度、軽く手を打つ。パン、と小さな音がして。
「……あら?」
音が消えた。
先程までも静かではあったが、それでも部屋の外、窓の向こうから聞こえる風が木々を揺らす音などはかすかに聞こえていた。けれどそれが突然途絶えたのだ。
「これで外に話が漏れる事はない。
そうだな……結論から言うのなら、ロジャーは既に死んでいる」
「えっ? じゃあ貴方はどちら様!?」
突然すぎる事を言われて考える間もなくマリエッタは直通で言葉を口から出していた。もうこの時点で完全に淑女の仮面など遥か彼方である。
「ボクもロジャーだ。だが、別のロジャーだ」
「んん? えぇと、お名前だけが同じ別人、という事ですか?」
「そうなる」
「え、でも、では」
では、この家のロジャーの両親がそれに気付かないはずがないだろう。他人の空似だとしても、まさか身代わりとしてマリエッタの目の前にいるロジャーを育てたところで、彼がディオシュラーダの血を引いていないのならこの婚姻はするだけ無意味だ。
「この家の親子が事故に遭った事は?」
「えぇ、聞いています。そのせいで幼い頃に療養として領地から滅多に出る事がなかった、と」
「その事故でロジャーは死んだ」
「では、貴方は身代わりに?」
「……思っているのとは違うが、概ねそう」
えっ、これ、この話聞いて大丈夫なやつかしら……? と今更のようにマリエッタは思い始めていたが、しかしここで引くわけにはいかなかった。家族と領民のためにはどうしたって支援金がいるので。
「チェンジリングを知っているか?」
「え? それは、まぁ、一応」
煮え切らない返事だとは思ったが、話が突然変わったように思えてマリエッタの理解は追いついていなかった。
チェンジリングって確かアレよね、妖精が人間の子供と入れ替わったりするっていう……という程度にしかわかっていないが、それでもロジャーはそれで充分だと判断したのだろう。大体そう、と言って話を続けた。
「ボクは妖精だ」
「えっ」
「そしてたまたまあの日、彼らが事故に遭ったのを目撃した」
「それは……」
「助けるにしても生憎ボクは妖精界では落ちこぼれと言われていて流石に死者を蘇らせるほどの力は持っていなかった」
「あっ、その時点でロジャー・ディオシュラーダ令息はお亡くなりに……」
「山道を馬車で移動中、どうやら転落したらしい。
その時にまだ小さく身体が軽かった子供だけが、遠くに放り出された。その結果、離れた場所で彼だけが死んでいた」
「それは……」
では、事故に遭った、という時点で彼は既に……
何を言えばいいのかマリエッタは言葉を失ってしまった。
社交界でもちらっと流れた噂ではあったのだ。
でも皆助かって良かったですわね、なんて茶会で他家のご夫人が言っていたのを思い出す。
しかし実際は助かってなどいなかった、という事か。
「大人は治せたけど、死んだ子供は無理だった。考えた末に、自分が一時的に代わりをしようと思った」
「それは……」
死ぬかと思った事故で命が助かった、と思えば夫妻にとっては幸運だろう。けれども、しかし我が子だけが死んだとなれば。助かった喜びが一瞬で悲しみに変わってしまうのは、マリエッタにも想像できた。
普通の人間には考えもつかないが、しかし相手は自称落ちこぼれとはいえ妖精らしいので、そういう考えに至ったのだろう。
「あの、本当のロジャー様はどうなったのでしょう? まさか死んだのをそのまま……?」
「いいや。土に埋めた」
「そう、ですか」
一応弔いはしたようだが、しかしそれでもなんとも言えない気持ちになる。
夫妻がロジャーが死んだ事をその時点で知っていたのなら、せめて死体はきちんと墓に……としただろうに。
(いえでもまだマシなのでは……妖精を見る事は私だってほとんどないけど、でも彼らの悪戯の話は知ってる。
子供とそっくりになって入れ替わってその子の振りをしているなら相当マシな気がしてきたわ。だって似たような話で、自分の子供がある日違う動物と入れ替えられた、なんてのもあったはずだし)
甘やかしに甘やかした結果、まんまるに太ってしまった人間の子供を見た妖精が、あれだけ丸かったら豚と区別がつかないんじゃないか、なんて言って本当に豚と子供を入れ替えた、なんて逸話があったはずだ。
ただのお伽噺だと思っていたけれど、しかしこれが妖精に目をつけられないように気を付けましょうね、という意味での寓話などではなく本当にあったのだとしたら。
死んだロジャーの代わりと言って犬とか猫ならまだ可愛いものだが、これっぽっちも関連性のない動物を夫妻の目の前に置かれている可能性だってあったわけだ。
最悪夫人が発狂しそうな展開である。
事故に遭って、領地からほとんど出られなかったのはこのロジャーが人間社会に慣れていない部分もあったからなのではないか、とマリエッタは思い至った。事故の後遺症で記憶が飛んでいるとか、自由に動き回れないとか、そういう理由でもって人前に出てこないようにしている間に、彼も色々と人間社会で浮かないように学んだのだろう、と納得する。
(あぁ、結婚して妻になったから、というだけじゃなくて、まだ完璧ではなかったのね)
一応それらしく見えるように振舞っているようだが、それでも言葉遣いに違和感はあった。けれどもその違和感の正体がハッキリしてしまえば、すとんと納得できたのだ。
「妖精と人間で子供はできない」
「まぁ、そうでしょうね。そもそも作りが違うのだから」
いくら妖精が人の形をしているといっても、中身は別物だ。
「もっと力のある精霊あたりなら気合で作れると思うけど、妖精にはできない」
「できたらそれはそれで悪戯でやらかされそうなので、正直ちょっとだけ安心しました」
妖精というのはなんだかんだ悪戯好きな種族である。彼らにとっては些細な悪戯のつもりでも、時と場合によってはとんでもない迷惑を被る事があるのもまた事実であった。
ただ、妖精の悪戯であるとわかれば周囲はある程度理解を示すので、それで人生が破滅した、という話は今のところ聞いた事はない。それでもやられた方は堪ったものではないが。
「だからボクと君が結婚したところで、子供はできない」
「それもあって愛人を作っても子供は産むな、という話ですのね。いえ、そもそも愛人を作ろうと思う事もないのですが」
話の流れは大体理解できた。
ロジャーたち一家はかつて事故に遭い、危うく死にかけた。両親だけは助かったものの、幼いロジャーだけが死に、子を失った親も折角助かってもその事実を認識したらまた儚くなってしまうかもしれない。
そう判断してロジャーは人間の振りをし続けた。
妖精の中で落ちこぼれと言われていたロジャーは、それでもまったく力がないわけではない。だからこそ、両親だけは助かった。どのみち妖精たちの中に居場所がなかったロジャーはそのまま夫婦の元でロジャーとして、ディオシュラーダ夫妻を騙し続けている。言い方は悪いが、しかし悪意があるでもないのでマリエッタはなんとも言えない。
事故で一命をとりとめても、それでも夫妻は病に侵されてしまった。残り僅かな人生を偽りであっても死の間際に後悔のないように、としたのが今回の結婚である。
両親が死んだ後で、子供を作る事がロジャーが原因でできなかった、とすれば両親が悲しむ事はないし、マリエッタの瑕疵ともならない。
そして偽りの息子を演じる必要がなくなれば、ロジャーは如何様にでもなるのだろう。
この家の後の事を考えると、遠縁から後継者を選ぶか、それとも爵位を返すのか、そのどちらかだろうか。
「わかりました。短い間ですがよろしくお願いしますね」
言って、マリエッタは契約書にサインをしたのである。
――初夜がなくとも。愛する事はない、と宣言されても。
だからといってロジャーがマリエッタを蔑ろにする事はなかった。巻き込んだも同然の相手である。
だからこそ、ロジャーは拙いなりにマリエッタを尊重した。ぎこちなくも微笑ましいやりとりに使用人たちが目を細めてにこやかにしているのを、マリエッタはなんとも落ち着かない気持ちで受け流したものだ。
マリエッタも屋敷からろくに外に出る事ができなくなるほどに臥せった状態のディオシュラーダ夫妻の看病をロジャーと共に行った。ロジャーはどうにか領地の事もやっているようで、多少言葉遣いが微妙な点を除けば領主としては何も問題のない相手で。
マリエッタはいずれ離縁する事から、あまり社交に参加せず最低限の付き合いだけにしておいた。
ロジャー曰く、人間界に居続ければそれなりに染まる、との事だったが、ロジャーの両親が事故から生還した息子に惜しみない愛情を注ぎ教育した結果なのだろう、とマリエッタは思っている。
表面上とはいえ仲睦まじくしているロジャーとマリエッタに、夫妻は孫ができるのを楽しみにしていたようだが、しかしその願いだけは叶わなかった。
白い結婚をしてじきに三年になる――その直前で、まず妻が、そしてすぐにその後を追うように夫が。
眠るように亡くなったのである。
この時点で契約は終了した。
だが、それでも約三年共に過ごした相手だ。資金援助のためにと結婚を強いてきたり、初夜当日に君を愛する事はないとか白い結婚を突き付けてきた、という事実だけを見れば酷い相手であるけれど、しかしその中身を知ればそれも已む無し。むしろ妖精なんて自由気ままに行動するような種族が、人間社会の中で上手く紛れ込んでいたのだ。多少失礼な事があっても、マリエッタの中ではそれを咎めるつもりもなかった。
どうしても夫婦で参加しないといけない社交にはきちんと出たし、その際ロジャーのうっかりミスがありそうな場面ではマリエッタも全力でフォローに回った。それもあって、ロジャーが真に貴族ではないどころか人外である事すら誰にも気付かれなかったのである。快挙といっても良かった。
夫妻の葬儀を終えた後、ロジャーはその後始末に手を付け始めた。
遠縁から養子を迎えて後継者を据えるにも、その教育までするつもりはロジャーには無いらしく、どころか、遠縁でこの家を継ぐに相応しい人物がいなかったのもあって、ロジャーは爵位を王家へ返す事にしたらしい。役目は終わったからじゃーねバイバイ、とならないあたり、すっかり人間社会の――いや、この場合は貴族社会のと言うべきか、ともあれこの世界の常識に馴染んでいる。
ロジャーの手伝いに回っていたマリエッタは、案外ちょっといかついこの人が手先は意外と器用で庭に咲いていた小さな花々を丁寧に編み込んで花冠を作ってくれた事を覚えている。甘いものが好きな事も、大きな動物がちょっと苦手な事も。天気がいい日は日向ぼっこをする事も、好きな色も。
契約結婚ではあるが、男女の営みだけが存在しない夫婦として三年間やっていけた。
お別れである、とわかっていても、マリエッタはすっかり情が移ってしまっていたのである。
だからこそ、この質問は別におかしなものではなかったはずだ。
「後始末を終わらせたら、貴方はどうするの?」
それは最初、契約書を出された時にも聞いた質問だった。
離縁した後、家の事はどうとでもするし何も問題ないとは言っていたけれど。
それでも、共に過ごした時間から、本当に問題ないのだろうか、という疑問が芽生えたのだ。
妖精たちの中で落ちこぼれと言われていたのなら、仮に全てを終わらせて仲間の元へ戻っても、仲間外れにされるかもしれない。妖精というのは無邪気だと言われているけれど、その無邪気さが時として残酷な事になるかもしれないとマリエッタは思っている。
人間の幼い子供ですら、無邪気に残酷な事をしでかす場合があるのだ。
妖精ともなれば、マリエッタには想像もつかないような残酷な事をあまりにも当たり前のようにやるかもしれない――そう、思うのも無理はなかった。
マリエッタは別にロジャーに恋をしたわけではない。愛している、というのもまた少し違う。
けれど確かにそこには情があった。
無理矢理言葉をあてはめるのならば、それは友に対するものであろうか。
仕えてくれていた使用人たちへ紹介状を書いて暇を出したのは、つい先日の事。
本当ならマリエッタも既に離縁をしているので、ここから出て行くべきであるのだ。
けれど、最後に残されたロジャーがどうするつもりなのかがわからないから、それを知らないまま出ていけなかった。
領地を王家へ返す事になり、近々ここには新たな代官が訪れる。領民たちが困るような事にはならない。
荷造りも終えているので、後は街の馬車を手配すればマリエッタは実家にいつでも帰る事ができる。
それでもそうしないのは、まだ気がかりな事があるからだ。
マリエッタの質問に、ロジャーは少しばかり動きを止めて首を傾げた。その様子がなんだか可愛らしく見えて、マリエッタの頬が緩む。最初にその姿を見た時は戸惑いもしたのに、今ではすっかり可愛らしく見えているのだから不思議なものだ。
「ボクが妖精たちの中で落ちこぼれだった、といった話は憶えているだろうか?」
「えぇ勿論。ちゃんと憶えているわ。どこが落ちこぼれなのか、私にはわからないけれど」
「それは多分……違うからだ」
「違う?」
「そう。ここの妖精たちとボクは違う。その差がボクを落ちこぼれたらしめている」
差、と言われてもマリエッタにはやっぱりよくわからなかった。
何がどう違うのか。それを問う前に、ロジャーは言葉を続けたのでマリエッタは問おうとした言葉を飲み込む。
「マリエッタの知っている妖精はどんなもの?」
「どんな、って。えぇと、小さな人の形をしていて羽が生えていて……」
言われるままにマリエッタは自分が知っている限りの妖精について述べていく。
それらを聞いて、ロジャーは小さく首を振った。
「ボクは違う。ボクは――」
言って、ロジャーの身体がポンと音を立てて変わる。
マリエッタが最初に思ったのは、白くてもふっとしている、であった。
パタパタと羽を動かし浮いているそれを見て、思わずマリエッタは両手を前に差し出した。それは泉の水を手で掬う時のように。
白くてもふっとしているそれは、少し躊躇うようにしながらも、マリエッタの両手に着地する。
もす、っと仄かな重みと暖かさが手の平にやってくる。
鳥だった。
金糸雀よりは大きいが、しかし鷹と比べれば圧倒的に小さな鳥だ。
真っ白というわけではなく所々に黒い羽根も見えるが、汚れているというわけでもなく、むしろその模様がどこか愛らしさを増している。
「ずっとずっと昔、嵐の夜にボクは風に乗って遠いこの地にやって来た。同じ仲間のいないボクは、この地の妖精たちにとって異質で、出来損ないだった。一人だったボクに、時々クッキーや果物をくれたディオシュラーダ家の人たちの近くはボクにとって少しだけ安全な場所で、だから時々お邪魔してたんだ。
でも、ある日、馬車に乗って出かけた彼らは……」
鳥の姿であっても声は変わらぬロジャーのままだったので、マリエッタは不思議な気持ちでそれを聞いていた。
少し前までは目を合わせるために見上げなければならなかったロジャーが、今はマリエッタの両手に収まっている、というのも不思議な気持ちに拍車をかけていたのかもしれない。
「故郷がどこかわからないけれど、終わった後はそれを探そうと思っているんだ。
だから、何も問題ない」
マリエッタがロジャーの今後を心配して問うている事を、ロジャーも流石に理解はしていたのだろう。安心させるように小首を傾げながら、ピィ、と小さく鳴く。喋る時はロジャーの声そのままなのに、鳴いた時の声はとても愛らしい鳥そのもので。
「……わかりました。
お供しますわ」
「あれっ?」
「その姿のまま故郷を探すにしても、限界というものはあるでしょう。人の姿とその姿、自在に変化はできますの?」
「いや、ある程度時間をかけないと無理かな。もうあの姿じゃなくていいかなと思ったから戻ったけど」
「そう。でもその姿のまま街の中にいれば猫に狙われ大きな鳥にも狙われるでしょう。時として、意地悪な子供たちから石を投げられるかもしれません」
「あー、あったなぁ、それは困るな」
「ですが私と共にいれば、石を投げる子供はいませんし、少なくとも猫も狙ってはこないでしょう。上空からの鳥はちょっとわかりませんが。ご飯も、私が買えば問題ありません」
「いやでも、契約は終わってるわけだし」
「ご安心を。私、この結婚が終わった後は好きにしてよい、と家族から言質をとってあります。折角なので各地を旅するのもよろしいのでは、と思っていました」
その言葉に嘘はない。
どのみち実家に戻っても、マリエッタはまだ若いので再婚の話が出るかもしれない。領地は盛り返したそうなので、売られるようにまた嫁ぐ事はないと思うがそれでも、マリエッタとしてはそこまで結婚しなければと思うわけでもなかったので、帰る事に抵抗はないが再婚話が出るであろう事に関しては憂鬱だったのである。
ロジャーがやった事は、人間の基準で当てはめればお家乗っ取りである。
けれども人間ですらない妖精にそれを言ったところでどうしようもない。
ロジャーは故郷から流れてやって来たここで時折優しくしてくれたディオシュラーダ家の人が事故に遭った時、助けようと試みた。怪我は妖精パワーで治せても死者までは蘇らせる事はできなかった。
自分たちが助かったのに我が子だけが死んだとなれば、夫妻の悲しみを想像するのは容易い。
だから、悲しませないためにロジャーが入れ替わったのは、ロジャーにとってそれが精一杯だったのだろう。
これが人間だと完全にお家乗っ取りになるわけだが。
しかし、ロジャーは夫妻の子供である事を全うし続けた。家の財産を無駄に食い潰す事はなかった。もし夫妻が病気にならなければ、頃合いを見て家を出たかもしれない。
けれどもそうはならなかったし、結果としてマリエッタの家も巻き込まれる形になってしまったが。
それでも、ロジャーはロジャーなりにディオシュラーダ家を傾かせるような真似はしなかった。
もしロジャーが夫妻を助ける事もなかったのなら。
マリエッタの家に支援の話が来る事はなかったので、今もきっと生活は苦しいままだったかもしれないし、あまり評判のよろしくない家に身売り同然で嫁いだかもしれない。
領地を国へ返した時点で薄々わかりきっていた事だが、ディオシュラーダ家の遠縁にあたる家はあまり良い話を聞かなかったので、もし夫妻が当時死んでいたのなら、これ幸いとこの家の財産はそちらに食い潰されていたかもしれない。そうすれば、領民たちの生活も酷い事になっていただろう。
本当の意味でロジャーはディオシュラーダ家の人間ですらないので、マリエッタの家に資金援助をする話に関してはディオシュラーダ家の財産を食いつぶした、と言えるかもしれないが、マリエッタとしてはそれに助けられたので悪くは言えない。
ディオシュラーダ家の嫡男に成り代わった、と言ってしまえばそれまでだが。
ロジャーはロジャーなりに助けようとしただけで、決して彼らを陥れようとしたわけではないので、悪事を働いた、と糾弾するのも微妙なところである。何せ彼は妖精で、人の法に当てはまらない存在なのだから。
受けた恩を返そうと思っての事、とわかる。
わかるのだけれど、人の社会に完全に馴染んでいるか、と問われればそれもまた微妙。フォローに回っていたマリエッタはそれをよく理解している。
だからこそ、人の姿ではなく元の姿に戻り故郷を探して帰るつもりのこの妖精を、マリエッタは放っておけなかった。うっかりこの姿で喋っているのを目撃されてみれば、喋る鳥を珍しがって捕まえて高値で売ろう、なんて人に目を付けられるかもしれない。喋る鳥自体いないわけではないけれど、珍しいのは事実である。
案外お人好しな部分がある彼が、うっかり悪い人間に騙されてしまうのではないか、と思うと放ってはおけなかった。いや、そこまで馬鹿ではないと思うのだ。思うのだけれど、それでもうっかり騙される可能性がどうしても脳裏をよぎってしまうので。人間社会で数年生活していたといっても、積極的に社交に出ていたわけではない。なので、狡猾な人間に騙される可能性は有りか無しかで言えば普通にあるのだ。
多少なりとも情がある相手がそんな目に遭うかもしれない、と考えると放っておけなかった。
それに、とマリエッタは思考する。
嵐の風で飛ばされてやって来た、というのなら、精々隣の大陸くらいだろう。
流石に世界の果てまでとはいくまい。であれば、この微妙に人間味を持ってしまった妖精の故郷を探すのだって、一生かかるわけではないはずだ。
好きにしていいと言われた人生なのだから、だったら、もう少しこの友に付き合うのも一興ではないだろうか。
この場でさようなら、とお別れするには、マリエッタの心はまだ受け入れられなかったので。
「それとも、私は邪魔?」
そう聞けば、ロジャーは「そんな事はない、けれど……」と煮え切らない様子で答えた。
「飽きたら途中で帰っていいからね」
「そう。それじゃあ飽きるまでは一緒ね。よろしく」
そんなマリエッタの言葉に。
ロジャーは小さくピチュチュ……と鳴いて。
諦めたようにマリエッタの手のひらに擦り寄ったのであった。
次回短編予告
悪役令嬢に転生したけど破滅確定の人生なんてまっぴらごめんデース!
そういうわけで、対策を練る事にしました。
次回 転生悪役令嬢だけどヒロイン作ったった
やべぇ奴にはやべぇ奴をぶつけるっていうのなら、ヒロインにはヒロインをぶつけるべきでは……?
悪役令嬢は訝しんだ。