第六話 龍の子 後編
不意に、灰色が赤から離れてドリブルを始めた。加速している。速い。
灰色が、真っすぐ歴奈に向かって来ていることに気付いた。猛スピードで数メートルの距離に迫ったところで、こちらに向かって跳んできた。
歴奈は思わず小さく悲鳴を上げ、出入口の陰に隠れた。
バウンド音と着地音が聞こえた。
おそるおそる顔を出して覗いてみると、灰色がボールを拾っていた。まるで歴奈に向かって飛び掛かってきたように見えたが、出入口側のゴールにシュートを決めただけだったようだ。
歴奈は胸を撫でおろした。
灰色は歴奈に背を向けると、片手で軽々とボールを投げた。
ボールは弧を描いて飛んで行って、反対側のゴール近くの赤にキャッチされた。かなりの飛距離ではないか。それでも余力のある投げ方に感じた。狙いも正確だ。
灰色が赤と手を上げ合った後でこちらに振り向いた。歴奈に気付いたようだ。
「もしかして、さっき何か言った?」
歴奈は首を横に振った。誤解で悲鳴を上げたなどと言いたくはない。
「ちょっと待ってて。荷物がそこにあるから」
灰色の声は思いのほか高いが、物静かな美声だと思った。
出入口の死角に姿を消していた灰色が、大きなスポーツバッグを肩に掛けて現れた。
灰色は体育館の外に出ると、出入口脇の靴箱に入れてあった上履きに足を通した。
「お待たせ」
灰色と一緒に体育館から少し離れて、渡り廊下で向かい合った。
歴奈は緊張と同時に、顏が火照るのを感じた。イケメン男子の灰色が目の前にいる。
「動いた後は少し暑い」
灰色がスポーツバッグの肩掛けを少し浮かせ、首元のファスナーを一気に引き下ろした。
歴奈は唖然とした。
シャツ越しに見える灰色の体型が、明らかに女性のものだったからだ。
襟足を刈り上げた髪型や高身長から美青年と間違えていたが、灰色は男子ではなく女子だった。
男子にしては高いと思った声も、女子の中ではやや低めなくらいだ。
改めて灰色の女子を見た。
身長は確実に170センチを超えていて頭身も高い。
七分丈のスポーツウェアからは、長い手足の先が覗いている。
だが、四肢も体幹も決して華奢ではない。均整の取れた魅力的なスタイルをしている。
そして全身に、芯の通ったような力強さとしなやかさの両方が備わっているように見えた。
顔に注目した。
髪型と眉は凛々しい印象だが、まつ毛の奥の切れ長の目、形のいい薄い唇などは女性的だ。彫の深い大人びた顔立ちの美女と言って差し支えないだろう。
クールな印象を受けた。なんとなく眠そうにも見える。瞼の上がり切っていない目つきのためだろうか。
「潮乃音のバスケ部は男子だけで、女子の部は無い。残念?」
「あ、いえ。通りすがりに見させてもらっただけで、バスケ部に入るつもりは。あの、さっきの対戦は?」
「部活に行こうとしたところでバスケ部の友達につかまって、ちょっとだけやった」
灰色の女子はバスケ部ではないらしいが、見事な動きだった。男子のバスケ部員に勝ってゴールを決めている。
「ダンクシュート、凄かったです」
「身長は174あるし、バスケは中学で三年やっていたから。それに人数の少ない男子バスケ部の頼みで紅白戦とかを結構手伝っていて、あまり勘は鈍ってない」
灰色の女子が本格的にバスケをやっていたのは中学時代らしい。それでも現役の高校の男子バスケ部にも引けをとらず、練習の手伝いを頼まれるほどのようだ。
だがそれよりも、灰色の女子が眠そうな声でしゃべっていることが気になっていた。
口調もどこか投げやりで、歴奈の相手をしているのが面倒だという印象を受ける。ずっと同じ話し方だ。表情も眠そうなままで全く笑わない。歴奈は、少し焦りを感じた。
「表情かおとしゃべり方は普段からこう。気にしないで」
灰色の女子が眠そうな顔つきと声のまま言った。本当にこれが普通なのだろうか。
「あの、先輩ですよね?」
「二年」
どう接するべきか迷って訊ねてみたが、やはり上級生だった。失礼が無いよう気を付けなければならない。歴奈が新一年生であることは、雰囲気や真新しい制服で明白だろう。
「先輩は、バスケ部とは別の運動部に所属されているんですか?」
「放課後はいつもスポーツウェアに着替えるけど、私は文化部」
絶対に運動部だと思っていたが、灰色の女子は意外にも文化部だった。
「歴史研究部っていう部で一応副部長をやってる。歴史研究新聞って見たことない? 今掲示板に張ってあるのは、私が書いたもの」
全く予想していなかったことを言われて、心底驚いた。
「もし興味が持てそうなら読んでみて」
「あ、はい。さっき張ってあるのに気が付きました。今度じっくり読ませください」
灰色の女子がうなずいた。
「あの、実は私、歴史研究部へ見学に行かせていただこうしていたところなんです」
灰色の女子の眠そうに見える目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
「もしかして先週来てくれた、小倉歴奈さん?」
「はい、そうです」
「夜宵――、部長から聞いてる。部室まで一緒に行こう」
「よろしくお願いします」
歴奈は灰色の女子に頭を下げた。いや、名前は分かっている。『伏見龍子』だ。
「あの、『フシミ リュウコ』先輩ですよね? 歴史研究新聞で見て、格好いいお名前だって思っていました」
「ありがとう。下の名前の読み方は違うけど」
「あっ、失礼しました。『タツコ』先輩でしたか?」
伏見が首を横に振った。だが、他の読み方は思いつかなかった。
「あれ、『ドラゴ』って読むの」
眠そうな表情のまま眠そうな声で、『伏見ドラゴ』が呟いた。
「――ド、」
一瞬遅れて『ドラゴ』と言い掛けたところで喉につかえ、むせて咳き込んでしまった。
「大丈夫?」
伏見に背中をさすられながら、歴奈は涙ぐんでいた。
キラキラネームが増えている現在でも、『龍子』と書いて『ドラゴ』と読むのはかなり珍しいだろう。それでも人の名前を聞いて動揺して咳き込むなど、最悪に失礼だ。
入部するかもしれない歴史研究部の副部長の歴奈に対する印象は、マイナスからのスタートとなってしまった。そう思うと咳が収まっても、伏見の顔を直視できなかった。
「私の名前を聞くとみんな最初は驚く。気にしなくていい」
意外にも優しく囁かれて伏見を見た。表情も少し緩んでいるように見える。
「ドラゴという名前を、自分では気に入っている。龍のように強い子に育って欲しいという願いを込めて、両親がつけてくれた名前だから」
それなら普通にリュウコ読みの方がいい気がするが、歴奈がとやかく言うことではない。
それにドラゴという響きも、クールな印象の伏見に似合っている気がしてきた。
「ドラゴっていうお名前、やっぱり格好いいです」
「嬉しい」
言葉とは裏腹に、伏見の口調と表情は眠そうなものに戻っていた。
「部室、行こうか」
「はい」
二人で横に並んで、中央棟に向かって歩き出した。
歩調が合っていることに気付いた。伏見のほうが歩幅はずっと広く、俊敏でスピードも速いはずなのに、歴奈にさりげなく合わせてくれているようだ。
伏見が優しい先輩であることが、なんとなく伝わってきた。