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大奥~牡丹の綻び~  作者: 翔子
8/16

第八章 豊姫と天璋院

────半年後─────


 側室騒動から半年の月日が経った、安久(あんきゅう)十一年(1902)五月。藤子が産気づいた。松岡はすぐさま産婆を呼び寄せ、〈北之御座敷〉と呼ばれる産所で出産を迎えた。難産ではあったが、無事に元気な若君を産んだ。


 名は、徳川将軍家代々に受け継がれて来た、〈竹千代〉と名付けられた。後の、徳川家英(とくがわいえひで)となる御世継ぎの誕生に、大奥のみならず江戸城中が沸き立った。


 藤子は次第に竹千代を自身の手で育てたいと思うようになった。久方ぶりに参席した総触れの後、新御殿へ共に赴いた家正に願い出た、


「上様。畏れながら、竹千代を我が手元で御育てしたいと考えておりまする」


 突然の発言に、同席していた東崎(とうさき)がすかさず遮った、


「御台様、それはなりませぬ! 竹千代君は大切な御世継ぎ様。乳母の手によって御育て申し上げねばなりませぬ!」


 東崎の言い様に藤子は反論した、


義母上(ははうえ)様も、上様を御自身の手で御育て遊ばされた。それに倣ってなにか不都合でもあると申すか?」


 かつての慣例に(のっと)れば、御台所自ら育てる事は出来ない決まりだった。親子の情が移ると教育の妨げになり、将軍になる折に権威と政に支障をきたす恐れがある。それを避けるべく、乳母と傅役(もりやく)で育てるのが慣例なのだ。

 その規則(きまり)を唯一破ったのは、藤子が言ったように、先の御台所であった泰子(ひろこ)であった。

 

 母から厳しくも愛に溢れた教育を施されて今の自身がある。泰子が出来たのだから藤子も出来るに違いない。家正は藤子の腕に抱かれている竹千代の表情を見つめた、


「東崎、御台の申す通りにするがよい」


「されど、公方様──」


 大奥に残る、長きに渡るしきたりを覆すわけには行かないと考えた東崎は、家正に反論しようとした。が──、


「余に逆らう気か?」


 御世継ぎが誕生してからというもの、さらに将軍らしくなった家正は東崎を睨むように突っぱねた。東崎はただただ両手を付いて伏した。大奥総取締の東崎の言う事に逆らえなかった家正だったが、ここ数カ月で威厳が増し、怖気づくことは無くなっていた。


 このようにして、竹千代は御台所の手で育てられることとなった。



────十年後─────


 それから、十年の時日が流れ、元号が安久から安治(あんじ)へと改められた。


 藤子は家正との間に、他に三人の姫君を儲け、我が世の春を謳歌した。いがみ合っていた義母・泰子との関係も氷解し、孫の顔を見にわざわざ新御殿へ上がる事が多くなった。


 藤子は、長女豊姫(とよひめ)、次女敏姫(すみひめ)、三女順姫(あやひめ)が庭で遊ぶのを優しい瞳で眺め、これ以上ない幸せを噛み締めていた。


「龍岡。私はようやっと大奥に上がって、幸福(しあわせ)というものを知った……」


 藤子は龍岡に自身の気持ちを打ち明けた、


「竹千代を産んだ日から幸福を感じておったが、こうして三人の姫を儲け、義母上との関係も今までよりずっと良うなり、安堵しておる」


 不安な事が積み重なっていた頃を考えれば、藤子はもはや娘御(むすめご)ではなく、母親の面持ちとなっていた。竹千代が産まれ、更には三人の姫がこの世に生を受け、雲間から顔を出す太陽のように気持ちが晴れやかになった。


「じゃが、斯様に幸福になって良かったのかと、時々考えるのじゃ……」


 順風満帆なはずの藤子の横顔に翳りが見え隠れし、俄かに気弱な発言をするので龍岡は案じた、


「何故、然様にお思いで?」


 藤子は徐に立ち上がり、縁側へ歩み寄った、


「胸騒ぎがしてならぬのじゃ……西の方……京に」


 それは藤子が生まれるずいぶん前の事───。


 ご公儀は京の都の公家たちに厳しい所業を強いた。鷹司家の屋敷の凄惨さや賭博場においての貴族たちのさすらいぶりや勤めの放棄ぶり、言うに及ばず。


 そんな公家の若い子息たちは、京が荒んだのはご公儀の所為であると信じ、いつしか報復を企てるようになった。しかし、この子息たちの動きは〈京都所司代〉の知るところとなり、ご公儀には筒抜けであった。京の治安維持を目的に設置された京都所司代であったが、誠の目的は御所や京の監察であった。


 報せを受けた〈表〉の老中たちは暴挙を企てる公家の勢力を抑え込もうと、断絶へと追い込む策を講じた。ところが、当時御台所だった泰子は老中の不届きに叱責する。五摂家だけは存続する様、大奥上臈を含めた連名の嘆願書を提出した。


────────────────────


京都 ───────


 正子は到底幸せと呼べるような結婚生活を送っていなかった。


 父の愚かな行いによって決められた二条家への輿入れだったが、いざ嫁ぎ先に来て見ると、形ばかりの婚儀しか行われなかった。五衣唐衣裳を召さず普段着である小袿姿で夫婦固(めおとがた)めの盃を交わしたのみの質素なものだった。


 その後の生活も更なる苦難を強いられた。義父となった二条道定からは鷹司家屋敷で出会った時と違って、命令ばかりして来、雑な扱いをされた。やれ花を生けよ、やれ茶を汲めなどと、摂関家の正室とは名ばかりの暮らしを送っていた。


 道定の嫡男で夫である二条定兼(にじょうさだかね)は公務に興味を示さず遊び呆けていた。二条家の侍従らや御所に詰める人々からは、関白を世襲させるのは余りにも手厳しいと指摘し、道定は廃嫡を突き付けた。

 次期当主は弟君の二条正定(にじょうまささだ)と決められてからの定兼は引きこもるようになり、部屋で書物を読んだり、生い茂った庭を眺めるだけの生活を送った。正子に対しては愛情など微塵も無かった。


 ある日の夕刻。膳の準備をしていた正子は篠田に不満を漏らした、


「私は二条家(ここ)へなんのために嫁いだのか……分からなくなる」


 ようやく料理に慣れた篠田が大根を切りながら、正子を慰めた。


「ご辛抱するしかあらしゃいませんえ。妻たるお方さんが、旦那さんである定兼さんに三行半を突き付けるいうんは、鷹司家の汚名になります。堪えときやす」


 篠田は二条家では女房頭に任ぜられていたが、頭とは名ばかりで、二条家が抱える女房の数はわずかばかり、食膳担当の下女もいない有様。様々な苦労を篠田にも強いてしまい、正子は心苦しく思った。


「姉妹の中で、一之宮として崇められた我が身が……今では妹たちに先越され、こないな有様や……。浅ましい……」


 自身の生き様を正子は憂いた。妹たちよりも幸福になろうと心に誓ったはずだったが、もはやそんな見込みが無い程の苦行に追い込まれ、更に妹たちを妬むようになっていた。


 囚首喪面(しゅうしゅそうめん)な暮らしを強いられて来た公家への度重なるご公儀に対する不満が増大し、若い公家衆は結託した。いずれも尊皇派で、いつしか帝を立てて武家から実権を奪おうと考えるようになった。徳川家が公家の断絶を目論んでいる事を知った子息らは、憎悪に心を覆わせた。


「なんとしやはっても、わてら公家の長年続いた歴史を指し示す為、徳川を潰しに掛かるんや!」


 佐幕派に落ちぶれた父らの目を欺けることが出来た一行は、寺田屋へと集結していた。


「度々に渡る、徳川の至極無礼な振る舞いを許すわけには参らへん!」


 高倉清麿(たかくらきよまろ)の勇ましい発言に、冷泉為勇(れいぜいためいさ)は同意した。


「武芸の達者な検非違使(けびいし)さんらはどないしてはる」


 勘解由小路資篤(かでのこうじすけあつ)が盃を傾けながら訊ねた。


「帝に申し上げ奉り、御赦しを得ております。帝もわてら〈尊皇倒幕(そんのうとうばく)〉の御味方であらしゃいます」


 尊皇派を率いる主導者である久我道成(くがみちなり)は、帝から下賜された御宸翰(しんかん)を厳かに置いた。すると、子息らは一歩退いてから御宸翰に向かって敬礼した。

 尊皇派の中には、摂関家の子息も多く賛同していた。正子が嫁いだ、二条定兼(にじょうさだかね)も在籍している。密かに夫たち仲間の企んでいる事を知り得た正子は、徳川を追い込む策に含み笑いが止まらなかった、


「これで、藤子と佐登子に恨みを果たせる事が出来る……」


 しかし、正子が思念を持ったのも束の間、嫁いで十一年……安治六年(1912)四月、夫・定兼は思い半ばでこの世を去った。死因は、京都に滞在していた佐幕派による暗殺だった。


 久我達一行は身の危険を感じ、〈尊皇倒幕〉は京都から奈良、大坂と、それぞれに拠点を二手に分けた。彼らは公家としての身分を捨て、着の身着のまま、商人として身を隠したのだった。


────────────────────


 未亡人となった正子は出家する資金も無いという理由から、篠田と共に荷物をまとめられ、追い出されるように二条家を出た。夫との間には嫁いだその日から愛などすでに無く、子を儲ける事も無く、女の幸せを得ぬまま実家へと戻ったのだった。


 苦界とも言える二条家から解放された正子は清々した心持ちで鷹司家へ舞い戻ると、思いもよらぬ状況に衝撃を受けた。

 今まで修復も出来ず、荒れ屋だった鷹司の屋敷はさらに荒れ果て、庭には煙が立って所々が焼け焦げている。気付けば、板廊下も座敷の畳も泥で汚れていた。


「何事や? これは……」


 篠田は得体の知れぬ状況に身を震わせている。安心させるように正子は片手で風呂敷を持って、乳母の手を固く握った、


「おもうさんとおたあさんは……どこや?」


 正子はおずおずと両親が寝起きする部屋へと急いだ。しかし、そこはもぬけの殻で、掛け軸も調度もすべて失くなっていた。


「正子さん……?」


 急に声がして驚きながら振り向くと、小袖姿の淑子(としこ)が手に桶を持って現れた。


「おたあさん……!! これは、どうした事であらしゃいますか? ……おもうさんは?」


 近くにいるのではないかと辺りを見回したが、母の口から衝撃的の一言が告げられた、


「……おもうさんは、自害しやはりました」


 茫然とした。夫を亡くし、嫁ぎ先から追い出されて、更には父まで亡くすとは……。夫と父に対し敬意と愛情は微塵も無かったが、当たり前のように居たはずの存在が呆気なく潰えるのを身をもって知った。


 淑子が言うには、正子が二条家へと嫁いで(のち)、周煕は娘たちが居ない寂しさを紛らわそうと、全財産を投じて賭博に傾注した。負けると知りながら博打に身を投じた末、とうとう金が尽き果てた周煕は末期の中毒に陥った。


 知り合いや親戚に頼るわけにも行かず、賭博場にいる月済貸(つきなみが)しを条件に烏金(からすがね)に手を染めた。しかし、金を得るも連敗。返済する当てもない周煕に、取り立てが屋敷を土足で上がり込んだ。屋敷中を破壊し、庭に火をつけた。周煕に向かって、返済しなければどうなるかというのを見せしめ、恐怖を覚えさせた。


 淑子は鷹司家を護るため、単身、実家の九条家へ出向いて助けを乞うていた。

 九条家の当主を務める淑子の兄・九条道秀(くじょうみちひで)卿は、妹を危険な目に合わせたことに怒り、烏金から借りた金を肩代わりするが鷹司家から離縁するよう条件を出して来た。淑子は反論したが認めてくれず、条件を飲まなかったら勘当するとまで言われてしまった。


 屋敷への帰途、淑子は悩み抜いた。これから夫にどう説明すればよいか考えを巡らしたが、納得の行く答えは見つけられずに屋敷へ戻った。すると、周煕が首を吊って死んでいたのを発見した。衝撃的な顛末に絶句しつつ、安堵した心持ちだったという。


 初めは愛し合っていた二人だったが、三人の姫宮を儲けてからは博打に手を染める周煕と距離を置いた。しかしそれでも淑子は周煕を夫として慕い、鷹司家の大黒柱としても敬意を表そうと心を砕いた。だが、そんな夫が自害した事で、離縁を切り出す必要も無くなり、たとえ悲惨な結果だったとしても胸のつかえが下りたのだった。


「では……この鷹司家は……?」


 話を聞いた後、正子は察した。男子の継承者が存在しない鷹司家には断絶は避けられない。


「御所にも……他の摂家にも頼ることはできしません。鷹司家はもう終わりです……」


 家の格よりも今の生活を維持するのに手一杯だった公家衆の間には貴種性(きしゅせい)というものを重んじなくなった。そんな古い#しきたり__・__#よりも明日の生活に重きを置いた。


 かつて、鷹司家は断絶の危機に直面していた。そんな折、寺の門跡や養子に入った縁戚を迎え、地位を確立して来た。しかし、公家の地位が危ぶまれている現代では、もはや断絶を受け入れざるを得ない状況となっていた。


────────────────────


安治六年(1912)五月 ───────


 春も麗らかに、新緑が映える季節となった日の事。


 竹千代が十の歳となると、場所を大奥ではなく中奥に移してそこで寝起きした。傅役に新井桐之丞(あらいきりのじょう)が任命された。お世継ぎ時代の家正の教育も彼がしており、絶大な信頼を置かれている。

 次期将軍としての大事な教育:(まつりごと)の仕組み、人の上に立つうえの帝王学、論語、乗馬、剣術、弓術、そして銃の術に至るまで様々な事を学ぶ。


 藤子は竹千代の教育を表方に任せ、姫たちの教育に奔走した。亡き祖母から学んだすべての事を受け継がせたいと考えていた。


「将軍、徳川家正が娘、豊と申しまする」


 藤子と万里小路が三人の姫君に挨拶の指南を施しているところだった。しかし、長女の豊姫は稽古事を嫌っていて、わざとたどたどしく、抜けている言葉を口走った。


「於豊、お父上の名の後には〈(こう)〉と付けよ。いずれ嫁ぐ折に、将軍が父であることは誉れ高い事なのだぞ」


 姫の一生は、いずれの大名家に嫁ぐ事だ。それを幼少の頃より叩き込む事が武家にとって大切な役目であると義母から聞かされた。

 重要な注意点を説明するも豊姫は半目になって聞き流した。


「今は練習でございます母上。いざ挨拶する折には必ず、(こう)と付けまする。今日はもうこのへんでよろしゅうございましょう!」


 すると、藤子の傍らに座していた万里小路が呼び止めた。


「なりませぬ、姫様! 修練を怠られては、いざご自分のご紹介をする折、仕損じる恐れがございます。身体に叩き込む事により、すらすらと──」


 豊姫はきっと万里小路を睨み付けた、


「黙れ、お万里(まで)! わたしに指図するでない!」


「於豊!」


 豊姫はすっくと立ち上がり、走り去って行った。万里小路が追いかけようとするも、子供の足はすばしっこく、追い付くことは出来なかった。


 万里小路を振り切った後、豊姫は庭に下りて、木の陰に座り込んだ。そして、袂に隠しておいた史書を取り出し、歴史の世界へ飛び込んだ。


 豊姫はこの日ノ本の歴史に興味を抱いていた。

 どのようにこの国が生まれ、どのように歴史の偉人たちが創り出したのか、何故徳川家が二百数十年の間、政を治めていられるのか、気になっていた。


 今は戦国の世を制しようとする織田信長の章に入っている。すぐにでも公儀の創生について書かれた章まで飛んで行きたいが、ここは我慢だ。

 心地よい天気の中、豊姫は夢中で読んだ。


 何刻か経ち、章は本能寺の変に差し掛かっていた。これから明智光秀が──「あぁ! 姉上さま、やっと見つけましたわ!!」


 顔を上げると、先ほど一緒に稽古を受けていた次妹の敏姫(すみひめ)が突如として現れた。豊姫は至福なひと時を邪魔され、睨め付けた。


於敏(おすみ)! 何ゆえここにおるのじゃ! 母上に言うたら承知せぬぞ!」


 気分を害されて、機嫌が悪くなった姉に臆することなく、敏姫は飄々と弁明した、


「ご心配あるな、姉上。母上にも、お万里(まで)にも告げ口するつもりはありませぬわ。それより一緒に遊びましょうよ! 夕餉まで時がありますわ!」


 今年、七つになる敏姫は一つ歳上の姉のことを慕っていた。だが、遊ぶより史書を読む事を好んでいた豊姫は妹を忌々しく思っている。しかしここで断れば、後で何を言い出すか知れたものではない。仕方なく、豊姫は遊ぶことにした。


「それで? 何をして遊ぶというのじゃ」


 史書を帯の間に差し込みながら、豊姫が苦い顔をする。それを気にするでもなく敏姫は笑顔で応えた、


「かくれんぼ!」


「かくれんぼ? ふん、そんな子供じみた……」


 豊姫は歳の割には大人びていた。しかし、妹の機嫌を損なえば母に言いつけれると思い、じゃんけんで鬼になる事を受け入れ、かくれんぼを開始した。



大奥・新御殿 ───────


 豊姫に続いて、敏姫も稽古を抜けてしまい、手持ち無沙汰になった藤子は自身の練習も兼ねて茶を点て始めた。龍岡と万里小路は、次之間で御中臈と戯れている順姫(あやひめ)を慈しみを含んだ目で見つめながら、二人の姫の事を考えて項垂れていた。


「いったい誰に似たのやら……」


 茶筅を振りながらふと洩らす藤子に、万里小路は二人の姫君についてだと察した。龍岡が途端に苦笑した、


「なんや? 龍岡」


 藤子の問いに龍岡は咳払いをした、


「姫さまたちは良う良う宮さんにそっくりさんどす。似ておらへんとこなんぞありまへんえ」


 快活なところ、容姿含め豊姫たちは藤子によく似ている。そんなことは産んだ藤子本人が一番よく分かっている。しかし、性格が似ていない。藤子はそのあたりが不安だった。


「しかし、私はあないに物分かりは悪うなかった。お祖母様の話をしっかりと聞いておったと記憶しておる」


「いいや。そないなことはあらしゃいませんでした」


 ぼそっと呟く龍岡の言葉に藤子はふと思い出し、頬が熱くなった。

 泣きべそをかき、御殿を訪れた母に縋り付いた。祖母から逃げ出したいとまで願った遠い記憶が頭の中を駆け巡る。二十九の歳になって、十年前の記憶が曖昧になりつつあった。

 

「しかしなぁ藤子? 姫らはまだ八つ、七つと幼い。物分かり良うせよと命ずは逆効果になるかもしれへんえ」


 姉の考えはごもっともなれど、甘やかすのはいけない事だ。茶をそれぞれに置くと、万里小路は菓子を口に運びながら、思い出したように言った、


「そういえば! 豊姫は近頃、史書を読むのが好きだと小姓たちから聞いたえ。好きなものがあるのは良いことやないか」


「好きだけではあきまへん、おねいさん。夕餉の折、しっかりと話して聞かせねば……」

 

 武家に嫁ぐ公家の姫ならいざ知らず、武家に生まれていずれ武家に嫁ぐことになる姫の教育は完璧なものにしなければならない。


「茶の湯も嫌、琴も好かぬ、挨拶もろくにせぬ……史書ばかり読みふけおっては、しっかりとした家に嫁がせることは出来ぬ」


 姫たちを教育することは予想以上に困難を極めた。姫たちが生まれてからも、乳母を一人も採用していない藤子は、東崎に大きい態度を示した手前、教育係の乳母を途中から雇い入れれば何を言われるか。藤子は、大奥に来て対抗心が芽生えたのだった。


────────────────────


 気が進まなかった妹主導のかくれんぼ。参加してしまったことに豊姫は半ば後悔していた。


 そもそも、この広い大奥でかくれんぼをするなんぞ、常人では考えられないこと。豊姫は妹の神経を疑った。しかし、稽古を途中で放って庭で史書を読んでいたことを母上に告げ口されないためにも、仕方なく付き合った。が、もう限界だ。広い御殿をただただ歩き回っただけで、妹の姿を見つけることが出来なかった。痛くなった脚を引きずりながら、豊姫は自分の部屋へ帰ろうと考えた。妹の性格はああ楽観的だ。どうせ、観念して戻って来るであろうと思ったのだ。


 歩きやすいように帯に挟めていた裾を解いて、部屋までの道筋を歩いていると、途端に声がした。確かここは御広座敷──、御年寄と老中が対面所として使う場だ。豊姫は気になり、豪奢な襖の後ろに座り込んで脚を労りながら耳を傾けた、


「天璋院様におかれましては──」


「挨拶は無用じゃ」


「(てんしょういん……? ひ、ひいおばあさま!?)」


 思わず口を衝いて出そうだった。

 天璋院。直接的な血縁は無いが、祖父の家達の義理の母上となった御方で、十三代将軍の御台所だった御方だ。江戸城の西ノ丸に居を移していたと聞いていたが、何故この本丸大奥の御広座敷にいる?


 ちらと覗くと、御広座敷の上段にどっと構えて座っている大柄の女性が裃姿の男を見下ろしていた。憧れの人物と初めて御目文字……目文字と言えるのか分からぬが、胸が高鳴った。

 しかし、これは寄り合いというのではないか? 将軍の娘といえど、(おなご)(まつりごと)について耳を傾けるのはいけないことだ。立ち去らなければ! だが、足が動かなかった。ひいおばあさまに会えて感極まったのか、それともその貫禄に恐れおののいているのか。


「京都所司代を勤めて参ったその(ほう)に問う。殊に耳にする都の現状は誠のことなのか?」


「は! 嘘偽りも無い、誠の事にござります! 膨大する公家衆のご公儀に対する恨みの念は、脅威の域に達してございまする」


「京都所司代であったにもかかわらず、その方は公家の勢いを抑え込む事が出来なかった。そういうことになるのう。 困窮に追い込んだ公儀も公儀じゃ。考えてみれば、武家よりも長きに渡る血筋を絶やすとは由々しきことである。……なんという酷い事をしでかしたのか、その方は事の重大さを理解しておるのか?」


「畏れながら天璋院様。公家は己の事しか考えぬ不届き者にございます! ご公儀への忠義を見せず、尊皇、尊皇と口癖のように呟き続ける。帝が何だというのです! この国を護っているのは徳川将軍家、武家でございます。公家でも、天皇家でもございませぬ!!」


「(この老中は馬鹿なのか……? この国は──)」


「愚かもの!!」ひいおばあさまの声が室内に響き渡った。思わず飛び上がり襖にぶつかりそうになった。「その(ほう)……無知無学にも程があるぞ! この日本国を作りしは恐れ多くも皇祖神であらせられる! 豊前守(ぶぜんのかみ)──」


 豊前守……ひと月前に老中になった人物だ。父と遊んでいた折に、面会に訪れた時があった。痩せ細っていて頼りなさげな風貌だったのを覚えている。再び中を覗き見ると、確かに頼りげな後ろ姿だった。あの男──確か、名を大河内豊前守正敏おおこうちふぜんのかみまさとしといったか、あんな貧祖な老中が元京都所司代? 笑えない。


「その(ほう)の様な腑抜けが、よくも京都所司代を勤められて来たものじゃのう!!」


「(ごもっともだ)」


「天璋院様、御発言には十分御注意下されませ。大御所様を陰ながら支えて参られた天璋院様ともあろう御方が〈尊皇派〉であると老中方に知られれば、天璋院様も処罰の対象となりまするぞ?」


「ほほう、(わらわ)を脅す気かえ?」


「滅相もないことでございます。ただ、御隠居の身であられる天璋院様が、(まつりごと)に対し異を唱えられるとは……聞いた事もございませぬ。この度、老中にと仰せつかったからには、一心を持ってご公儀に身を捧げる所存でございまする故、どうぞ、この俗輩にお任せになられ、天璋院様には心安らかに御過ごしくださいますように」


「もう良い……下がれ!」


「ははーー!」


 豊前守が深々とお辞儀してこちらに向かって下がって来る。なんとか脚に力を入れて、急いで隅に隠れた。去って行く老中を見送った後、盗み聞きしていたことがバレずに済んだことにほっと胸を撫で下ろした。


「ふぅ~帰ろう……」


 大きく息を吸って、やはり敏姫を探しに行こうと立ち上がると、後ろから甲高い声がした、


「姉上様~~!! どこを探しておられたのですかぁ? わたくし呉服之間にずっと隠れておったのですよぉ~」


 満面の笑みで駆け寄って来る妹に向かって唇の前で人差し指を立てたが、時すでに遅かった。「何をしておるのじゃ!」との声に、恐る恐る振り返った。ひいおばあさまとそのお付きの御年寄が座敷から既に出て来ており、こちらを訝しげに見下ろしていた。


────────────────────


大奥・新座敷───────


 豊姫は緊張で身体が固まっていた。腕にしがみ付き「楽しみでございますね!」と呑気に笑う敏姫を尻目に、曾祖母に着いて行くこと、そこはかつて天璋院が居を構えていた【新座敷(しんざしき)】、将軍生母が住まう御殿だ。


「二人して何をしておったのじゃ?」


 上段と下段ではなく、天璋院は二人を縁側沿いに座らせ、自身も入側に腰を下ろした。なぜあの場にいたのかという問いだったが声色は先ほどとは打って変わって優しかった。


「妹にせがまれ、かくれんぼをしておりまして」


 冷静に包み隠さず答えると、天璋院は俄かに笑った。


「かくれんぼか。愛らしいのう……」


 かつての大御台所が気分を害していないと分かると、豊姫は少しずつ気持ちが楽になった。


 しばらくして、御年寄の()()が菓子と茶が持って現れた。三人の前にそれぞれ出され、ささやかなひと時が流れた。西ノ丸に居を移して十年近く経つと聞くが、新座敷の庭は丁寧に整備されており、池に泳ぐ鯉が優雅に泳いでいる。


 豊姫は憧れの御仁と話を繰り広げていることに感激していた。思わず、史書を読むのが好きだということや母の教育熱心な所が凄まじくて辟易していることを明かした。


「そうか、稽古が嫌か」


 茶を一口飲んでから、天璋院が小さく笑った。


「わたくしは茶の湯や琴よりも、史書を読むことが大好きにございます」


 菓子を口に運んで零れ落ちそうになる頬を押さえながら、天璋院を見ると、懐かしむように庭へ目を向けていた。豊姫は思わず声を掛けた、


「ひいおばあさま?」


「あ、いや、すまぬ……。ただ、若い頃の(わらわ)と同じだと思うてな」


「お若い頃のひいおばあさまと?」


「徳川に嫁ぐ以前、(わらわ)には指南役がおってのう。厳しく教育されておった。(わらわ)はその者が嫌いじゃった。琴や茶の湯の稽古、やれ打掛の扱い方はこうだの、裾の捌き方がこうだのと口うるさくてなぁ。全てが嫌だったのじゃ。されど、大奥に来てからは(わらわ)を助け、支え、ずっと寄り添ってくれおった」


 天璋院の目には涙が溜まっていた。豊姫はその指南役がもうこの世にはいないのだと察した。


「そなたのように、(わらわ)も史書を読むのが好きで、ゆっくりと読めたのは嫁いでから一年ばかり過ぎたころじゃったかのう……。懐かしや……」


 天璋院と自分が似ている事に豊姫は驚いた。豊姫は自身が天璋院に抱いている想いを告白した、


「ひいおばあさま。わたくしは、いつかひいおばあさまの様に、(まつりごと)を補佐できる立派な(おなご)になりたいと念じております。そのために、史書を読み、世の習いや仕組みを学んでおるのでございます」


「殊勝な心掛けじゃ……。なれど、於豊。そなたは少し、勘違いをしておるぞ?」


「え?」


 天璋院は豊姫に向き直った。


「史書を読むばかりでは、政を制する事は出来ぬ。それに、(わらわ)だけが国を動かしておったのではない。公方様……将軍が、この国を制しておるのじゃ。そう、そなたの父上じゃ。今の世では、(おなご)が将軍になる事は決して叶わぬ……いや、ありえぬのじゃ。じゃがのう、(おなご)の身にしか出来ぬ事もある。それは、(あるじ)をお守りし、お支えする事じゃ」


「主をお守りし、お支えする……」


「今時分のそなたにはまだ分からぬかもしれぬが、いずれ分かる時が来る。(わらわ)もそうして、慶喜公以外の十三代、十四代、十六代を支えて参ったのじゃ」


 豊姫はこれまで、天璋院が後見役として政を女の身でありながら制していたと勘違いをしていた。少しばかり残念に思いつつ、曾祖母から諭されたその言葉に感動したのだった。


「そなたの役割は、立派な姫として他家へと嫁ぎ、その夫となる方をお守りし、お支えする……。今は姫としての学びを得ることは辛いかも知れぬが、耐える事じゃ」


「役割……」


「役割じゃ……」


 曾祖母の力強さ、思慮深さを身をもって知り、そして、姫としての大切な役割を教えられた豊姫は、心を変える事を決めた。

 曾祖母の話も聞かずに、菓子を食べ続けていた妹の衿を引っ張って、豊姫は辞去した。天璋院からは西ノ丸の御殿へも遊びに来なさい、と許しを得て再び胸が高鳴ったのだった。


────────────────────


大奥・新御殿───────


 新御殿へ戻ると、母がしかめっ面で待ち構えていた。


「於豊! 於敏! そなたら一体何処に行っておったのじゃ……心配しておったのだぞ」


 気付けば陽は傾いており、夕餉の時刻になっていた。豊姫は曾祖母から教わったことを念じながら、真剣な眼差しで母の前に両手を付いた、


「母上様」


「な、なんじゃ……」


 今までとは違う娘の表情と行動に、藤子は思わずたじろいだ。


「わたしに、茶の湯をお教えて下さい」


「何を急に? 嫌だったのでは無いのか?」


「嫌いです……なれど、母上様。主をお守りし、お支えするのが(おなご)の役割なのでございますよ」


 どういう風の吹き回しか、訳が分からなかった藤子だったが、娘が心変わりしてくれた事に感心しその旨を受け入れた、


「分かった、教えよう。されど良いのか? 母は、お万里より厳しいぞ?」


「望むところにございます!」


 憧れの曾祖母との初めての対面を機に、豊姫はこれ以降、立派な姫君となるため更なる稽古や手習いに励む事になるのだった。




つづく



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