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大奥~牡丹の綻び~  作者: 翔子
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第五章 婚礼の夜

 江戸城大奥で執り行われる、将軍と御台所の婚儀は、六日間にも及んだ。


 【三々九度】、【雑煮三献(ぞうにさんこん)の儀】の後、【寝間入(ねまい)床盃(とこさかずき)の儀】へと進み、初めての寝所入りを果たすのである。


 それらの後も、徳川将軍家の親藩である【御三家】、【御三卿】、並びにその御簾中、そして、各藩の大名、並びにその大名夫人らとの対面と挨拶の儀が行われ、最後には【お生家(さと)びらき】と呼ばれる、御台所の家族への御品(おんしな)贈呈の儀を経て、終了の運びとなった。


 大奥が御台所に求めるのは、第一に将軍の御子(おこ)を産むこと。


 もし果たされなければ、大奥総取締が奥女中から側室となる女を選び出し、将軍に差し出すという暴挙に出る場合もある。御台所にとっては相当な屈辱であることに他ならない。


 とはいうものの、今は【新たな平安】と称される今の時代。もはや公家は、ご公儀に逆らう事も出来ず、脅威となるとは考え辛かったのもあって、公家出身の御台所でも世継ぎを授けることが可能となった。


────────────────────────────


 安久(あんきゅう)十年(1901) 八月二十四日、明日はいよいよ婚礼という日。藤子は【御座之間】で催された婚礼の儀の練習を三日間、夜通しで行い、疲労が顔に現れ始めていた。


 盃の上げ方、唇に近付けるまでの細かな作法、箸の持ち方から婚礼の際に着る〈五衣唐衣裳装束いつつぎぬからぎぬもしょうぞく〉の扱い方に至るまで、しつこいほどに練習を重ねた。


 婚礼指南役も務める待上臈の指図が煩わしく、そこまで細かなことが重要なのかと疑いたくなったが、祖母から賜った婚礼についての書物【婚儀ノ心得】には、待上臈の言った通りのことが書かれていて思わず額に掌を当てた。


 部屋へと戻って、御切形(おんきりがた)之間で明日に備えて寝る支度を御中臈がしてくれている間、藤子は寝間着の小袖に着替え、結った髪が解かれた状態で、もう一度徹底的に頭に叩き込もうと【婚儀ノ心得】に目を通していた。


 一方、藤子の乳母・龍岡は予てから、藤子の祖母・万寿子(ますこ)に託された役目を今宵こそ果たすべく、そわそわとして落ち着かなかった。


「姫宮様、少しお話が……」


 そして、御中臈の手前、龍岡は藤子を呼んだ。


「どうした?」


 書物に目線を落としたまま上の空で応える藤子に、龍岡は本をそっと優しく取り上げた。はっとした藤子は龍岡に向き直ると、徐に傍らに置いてた箱から一巻の巻物を取り出した、


「こちらは、お世継ぎを授かる為の心得について書かれてございます」


 巻物の紐を解き、ゆっくりと開いて見せた、


「あらましは、おおむねこの様になっております」


 藤子はわけもわからず、巻物に描かれている絵を除き見た。そこには男女が折り重なり、下になる女人の顔が苦しみとも恍惚とも取れぬ表情をしている。着衣はそのままで、男の腰から下には異形でとてつもない物が描かれていた。

 すぐさま察した藤子は小さく「あっ」と声を洩らし、顔を背けた。予想通りの反応を示した藤子を気遣って巻物を巻き取りながら冷静に言った。御中臈が退出すると、京言葉に戻した、


「よろしおすか、宮さん。明日はご婚儀の後にお寝間入りです、何事にも公方様の思し召し通りになさるがよろし。お声を上げてはなりません、逃げてもなりませんよって、そのおつもりでなさいまし」


 藤子の恥じらいをよそに真顔で平然と言う乳母に、藤子は顔が熱くなるのを感じた、


「そ、その様な事、良う平気な顔で……」


「より多く公方さんがお渡り遊ばして頂かはるためにも、まずは、好かれる事にございますえ」


 その言葉で藤子は不必要に恥ずかしさが込み上げて来た。


 〈吹上ノ庭〉にて、家正と予想外の初対面を果たした直後、自己紹介をしようとした所へ、小姓が現れ、中奥へ戻るよう家正に声を掛けた。そしてそのまま一行は立ち去って行ってしまった。突然の出来事に、藤子と龍岡は互いに顔を見合わせ、理解しきれず、御殿に戻ってようやく事の重大さに気付かされて騒いだほどだった。


 一言も話せずじまいだったが、間もなく言葉を交わせる日が明日に迫っている事に、藤子はあの日と同じように胸が高鳴るのだった。


────────────────────


 安久(あんきゅう)十年(1901) 八月二十五日。

 

 藤子は御殿の御納戸にて、母・淑子(としこ)が鷹司家に嫁入りする際に着ていた五衣唐衣裳装束いつつぎぬからぎぬもしょうぞくに身を包んだ。髪はおすべらかしに結い、前髪として額の頂点に〈丸かもじ〉という付け毛を乗せた。それを留める髪上げ具と呼ばれるものも挿した。丸い形をした櫛・〈額櫛(ひたいぐし)〉を丸かもじに紫の紐で括りつけて固定し、その後〈平額(ひらびたい)〉を丸かもじと並行になるように付けて、それを〈釵子(さいし)〉と呼ばれる三本の簪で固定した。


 色はめでたい、紅梅重ねの五衣を紅白と表し、唐衣は薄紫色で、顔立ちも含めてとても華やかであった。さしずめ雛飾りのお雛様のような出で立ちに、誰もが息を呑んだが、着ている本人としては緊張と夏の暑さで堪えるのに必死で、握らせられた袙扇(あこめおうぎ)が汗で濡れそうだった。


「宮様、御美しゅうございます。この御姿を拝見出来、まことに喜ばしい限りにて」


 龍岡の褒め言葉が、藤子にとって救いだった。ふっと微笑む主を見やり、龍岡は再び口を開いた、


「私はこちらにて、御待ちしておりまする」


 両手を付いたまま、龍岡が申し訳なさげに言うと、藤子の顔が途端に不安げに変わった、


「どうしてじゃ? 松岡も、飛鳥井も参るというに……」


 次之間に控えている御年寄と上臈を見ながら藤子は訴えた。藤子付きの女中は婚儀の最中、【御座の間】の詰所で待つのが慣わしだと聞いた。

 藤子は大奥の中で唯一信頼出来る龍岡が来ないと聞いて、心がざわついた。


「大方様──万寿子様を御迎えに上がりに、御広敷へと向かわねばなりませぬ故」


 生家を離れて他家へと嫁ぎ、永久(とわ)の別れを告げるため、婚儀が終わる六日の間のみ、御台所の女性親族が大奥へと上がることが許されている。それを〈お生家(さと)びらき〉と呼ぶ。

 この日、万寿子が大奥へと参る予定だったため、御台所の名代として、龍岡が迎えの役をするようにと大奥総取締の東崎(とうさき)から一任されていた。


 大奥での壮絶な生活に苛まれて、都を出立する前夜に万寿子が婚礼の儀に大奥へ渡ると告げていた事を、すっかり忘れてしまっていた。ひと月ぶりの祖母との再会が待っていることに、藤子は緊張の糸がほぐれ、心が躍った。 

 

 そして藤子は、婚礼の儀が執り行われる御座之間へと、大勢の御付きの女中を従えてゆっくりとした歩みで向かった。誰もが恭しく頭を垂れ、これから御台所となる藤子を敬意を込めて見送った。


 上段之間にある下座で、控えていると、奥女中の「御成ーり」という一声で障子が開かれた。すると【衣冠束帯(いかんそくたい)】を召した将軍、徳川家正が静かに上座に座わった。


 少し目を上げると、その凛々しい顔はやはり、〈吹上ノ庭〉で出会った殿方の顔であった。そして間違いなくあの方が上様であると確信に変わった。

 家正はこちらを一度も見ることなく、じっと前を見据えている。藤子は急に恥ずかしさが込み上げ、すかさず目線を落とした。


「本日は、誠に、御目出度う御座りまする」


 待上臈による祝福の言葉が、婚礼の儀式開始の合図であった。


────────────────────


大奥・御広敷 ───────


 【御広敷】とは、大奥の中で唯一、男性役人が勤める場所だ。女の世界とを区切る、【七ツ口】から商人の出入りを監視し、仕入れられた荷物の検査を入念に行う番所の様な所である。

 婚礼の儀式が執り行われている間は、商人の出入りを制限し、大名衆や御三家、御三卿からの贈呈品の受付のみを行っていた。そして無論、お生家(さと)びらきのために訪れる御台所の親族を迎える使いも控えていた。


 初めて御広敷を訪れた龍岡は、周りが男ばかりだと思って警戒していたのだったが、そこは大奥。【表使(おもてづかい)】という奥女中が周りに大勢おり、役人たちとなにやら買い物のことなどで交渉しているのを見て、安心したのだった。

 しばらく座って待っていると、駕籠が玄関へと到着した。龍岡は立ち上がり、少し下がった縁側に降りた。しかし、駕籠から現れたのは意外な人物だった。万寿子ではなく藤子の次姉、佐登子であった。

 不言色(いわぬいろ)の花輪違い文様の小袿を着、髪型はおすべらかしに結っている。龍岡は目を見張った、


「二之宮さん?」


 目を瞬きながら龍岡が呼びかけると、佐登子は「龍岡!! 久方ぶりじゃのう」と明るく手を上げた。


「なにゆえ、二之宮さんが? 大方様は何処(いずこ)へ……?」


「ああ……」佐登子が一瞬悩んだような顔をした後、笑顔に変わった。「姉上が此度、二条家へ嫁ぐことになってのう! その準備で、お祖母様が忙しくなるとかで、来られぬらしいのじゃ」


「一之宮さんが! ……そうですか」


 佐登子の言葉を龍岡は信じようと思ったが、龍岡は疑念を感じずにはいられなかった。そのような事なら前もって文で報せが届けられるものだが、ここ一ヶ月、そのような類の文が送られたことはない。さすれば、婚礼が終わった後に、確認しようと龍岡は念頭に置いた。


 しばらくすると、壺装束の出で立ちの女性(にょしょう)が、とことこと近付いて来た。佐登子の乳母・中島だ。駕籠に乗らず、歩いて付き従ったのだろう。中島の額には玉の汗が浮かび、煩わしそうに襦袢の袖でそれを拭った。


「龍岡さん!」


「中島さん、お久しぶりにございます。共においでだったのですね」


「へえ。宮さんのことが心配で付いて参ったのです」


 龍岡は一瞬、その言葉に引っかかったが、すでに婚儀は始まっている。早く案内せねばと思い、「では、こちらへ」と袖で指し示しながら、歩き出した。



 佐登子と中島は互いに顔を見合わせた。

 二人は京からの長の旅路を経て、前日、田安屋敷に入った。登城の数刻前、突然障子が開かれ、大勢の侍に取り囲まれた。怯える中島を宥めていると。ご公儀老中だと名乗る、松平周防守まつだいらすおうのかみが下座に座し、少しの挨拶を交わすと、憮然とした表情をこちらに向けた、


「よろしゅうござりますかな、御二方。此度は、予定されていた鷹司家の大方の名代として参るのでござりまするぞ」


「分かっております」


「何があろうとも、姫宮様や御付きの上臈には告げ口なさいませぬように。漏れでもすればどのような騒ぎとなるか、知れたものではござりませぬからな。婚儀が終わる六日後までの間は決して、油断したりなされぬように」


 佐登子は既に、東海道を渡っている最中から、こういった話をしつこく聞かされて来た。京まで迎えに来たご公儀の使者と京都所司代から悉く「万寿子の死は内密に」と聞かされ続け、うんざりしていた。まるで、万寿子の死を無いものにしようとしているかのように感じ、悲しくさえあった。

 佐登子は周防守に向かって毅然とした態度を示した、


「分かっていると申しております! そう何度も申さなくとも、公家は阿呆ではありませぬ!!」


 佐登子の激高に周防守は一瞬、表情を曇らせたが、それ以上何も言わなくなり、冷静に駕籠が留め置かれている玄関へと案内してくれ、そして今に至る。

 

 龍岡に気付かれぬようにそっと振り返ると、周防守がこちらを睨み付けながら「分かっているな」と言いたげに頷いて来た。佐登子はひと睨みしたあと、そのまま前を見据え、龍岡に付いて行った。


────────────────────


 龍岡が佐登子と中島を出迎えている間、婚礼の儀式は滞りなく進められていた。


 藤子が三日間に及んだ練習の成果もあって、三々九度を終えて次は、家正の番となっていた。ちらと顔を拝すると、御酒(ごしゅ)が苦手なのか、喉を鳴らしながら飲み込むと苦そうな顔になるのを見て、かわいいお方、と心の中で思った。


 その後は様々な盃事が執り行われ、一旦休憩となった。


 藤子は、おすべらかしに五衣唐衣裳装束の姿から普段の着姿に替えた。


 髪型は〈つぶいち〉に〈葵髱〉に結い替え、小袖は白の竹が刺繍された絽縮緬に、これもまた白地に松竹梅と宝尽くしが刺繍された振袖麻打掛という、江戸における白装束の華やか版と言った出で立ちになった。新御殿の〈御休息之間〉で一息ついて茶を啜っていると、龍岡がふと入室し、傍らに座った。

 藤子は周りを見渡した。祖母を迎えに上がったものとばかり思っていた藤子は、龍岡に訊ねた、


「お祖母さまは何処(いずこ)においでじゃ? 迎えに上がったのであろう?」


 龍岡は、「それが……」と前置きしてから先ほど佐登子から伺った、事の成り行きを話した。聞いていた藤子は目を丸くした、


「姉上がお嫁入り!? なんと……目出度いではないか!」


「そうなのでございますが……」


「どうしたのじゃ?」


「それならそうと、文などを寄越してくださるものではありませぬか。であるのに、何のご説明もなく、御前様からの祝いの文も届けられぬとは……私、次の式が始まった折には、調べて参りまする」


 藤子は躍起になる龍岡に、首を傾げてみせた、


「それは……姉上の婚儀の日取りやら何やらでお忙しいからであろう? 調べることは許すが、余り急き立てるのは良くない。そなたもそう思うであろう?」


「はぁ……」

 

 龍岡は内心、複雑だった。藤子が長姉の婚礼について気を遣うのは、敬愛してやまない姉が、結婚という宿願を果たせたことの喜びからだと理解できる。ともすると、万寿子は、御台所よりも鷹司家の長姉のことを優先して、江戸に行かないことを選んだのか。さすれば、多くの時を費やしてまで教育を施して来た孫の婚儀を放棄していることになる。それは、いささか身勝手が過ぎるのではないか。龍岡の疑念は止まらなかった。


「それで、佐登子の姉上様は何処に?」


 乳母の不安をよそに藤子は次姉の行方を訊ねた。龍岡ははっと我に返って応えた、


「もう間もなく参られます──」


 龍岡が言い終わるか言い終わらないうちに、東崎が現れた。次之間に並んで座っていた松岡ら女中たちが一気に両側へ散らばると、佐登子が後ろから現れ、下座に座して両手を付いた。松竹梅の柄が散りばめられた女郎花色の五衣に身を包んでいる。


「おねいさん!」


 すっくと立ちあがっては次姉の前に駆け寄り、手を取った。佐登子の後ろに控えていた東崎がそれを見て眉をひそめる。


「藤子── い、いいえ、姫宮さん」


「おねいさん……? なぜです? なぜ、そないな呼び方なさるんです? いつものように、()()とお呼び捨てください」


「いいえ、貴方様は御台様になられる御方にございます。どうか、御許しくださいませ」


 藤子は佐登子の言葉遣いを聞いて愕然とした。江戸の言葉を話す次姉が怖いものに思え、手を放した。そして、周りの女中の目を見て、事の状況をようやく理解し、背筋を正した、


「分かりました──佐登子殿、此度は遠路はるばる下られた運び、誠に大儀なことであると共に御苦労なことであった」


「かたじけのう存じます」


 そう深々と頭を下げる姉の後頭部を見下ろしながら、藤子は心に何かが突き刺さったような心持ちになった。見知った姉が、今目の前にいるはずなのに別人のように感じられたのだ。


 龍岡は、藤子の考えていることを察し、哀れに思った。家族と言えど、下々の前ではそう容易く、馴れ馴れしい話し方をするのは固く禁じられているのだ。 


────────────────────


 婚礼の儀はさらに続き、【雑煮三献】と呼ばれる式の後、将軍家正は諸大名の挨拶を受けた。藤子も新御殿へと戻り、奥女中が下段に両手を付いて、改まった挨拶を受けた。


 「御台様」飛鳥井が嗄れた声を少し上ずらせた。「本日は御婚礼の儀、滞り是無く。誠に、祝着至極に存じ奉りまする」


 この日から藤子は【御台様】と呼ばれる事になった。


 そしていよいよ、夜の【寝間入り床盃の儀】に向かわれる事となるのだった。


 藤子は新御殿から大奥と中奥の境にある【御鈴廊下】のすぐ傍、【御小座敷】と呼ばれる御寝所へと歩みを進めた。すると、後ろから「御台様」と呼び止められた。ゆっくりと振り向くと、龍岡が徐に膝をついた、


「お美しゅうございますよ」


 白帷子の重ね夜着に身を包み、髪を流した藤子の姿はなんとも言えぬほど艶やかであった。


「くれぐれも、公方様に好いて頂けますように祈っておりまする」


 龍岡の言葉に藤子は少しはにかんでから微笑を浮かべ、分かっておる、と頷いた。先ほどの佐登子との件はもう思い出さないように努めている様子だった。


「御台様。私はこれにて」


「行ってしまうのか? 寝所まで付いて来てはくれぬのか?」


「たとえ乳母といえど、上臈が寝所へ付き従うことは出来ぬ慣わしでございまして」


 不安そうになる藤子を見て、龍岡はすかさず付け加えた、


「これは、大奥に限ってのことではあらしゃいませぬ。ご安心なされませ。おするすると、あんじょうお運びなさいますように」


 乳母に勇気付けられ、藤子は頷いてから踵を返した。手燭を持つ二人の御中臈の先導を受けながら御小座敷へと向かったのだった。


 藤子が新御殿から去るのを見届けると、龍岡は遠く【長局】へと下がって行った。


 長局とは、大奥女中たちの生活の場で、長屋の様に一棟・二棟・三棟・四棟・五棟と建物が南から北へ続く居住空間である。上級女中は個々に広い部屋が与えられていたが、下級女中にもなると相部屋、雑魚寝となる。

 上臈御年寄の龍岡には、七十畳ほどの部屋が与えられていた。


 自室に戻ると、部屋方と呼ばれる小間使いたち数人が「おかえりなさいませ」と龍岡を出迎えた。部屋方とは、奥女中たちが個人的に雇い入れる下女のことを言う。龍岡は大奥に入る前に親戚筋に文を送り、若い娘数人を募った。それぞれと直接相対して、身分検めもし、大奥へと引き連れたのだ。

 

 打掛を脱ぐとそれを受け取った部屋方の一人、軒端荻(のきばのおぎ)に龍岡は声を掛けた、


「鷹司家からの文について、何か分かったか」


「いいえ、旦那様」部屋方は主人のことをそう呼ぶ。「添番や五菜にそれとなく訊ねましたが、文は届いておらぬとのことにございます」


 添番(そえばん)とは、御広敷に詰めて監視をする役人で、五菜(ごさい)は奥女中に替わって市中に出向いて買い物などの用をする下男のことである。

 何の収穫も無いことを聞かされ、龍岡は悲嘆に暮れて脇息に身体を預けた、


「そうか……。のう、軒端荻」


「はい」


 預かった打掛を衣桁に掛けながら軒端荻が応えた。


「その五菜とやらに都へ向かわせることは出来るか?」


「はぁ、それは……いささか難しいかと存じます」

 

 口をへの字に結び、軒端荻は首を捻った。


「それは何故じゃ?」


「ご公儀が都に介入することは固く諫められております。それが、御台所様のご生家だとしてもです」すると軒端荻があっと言って思い出したように太ももを叩いた。「もし本格的にお調べになられたいのならば、大奥総取締である東崎様にお訊ねになられては?」


 それはごもっともである。だが、龍岡はいま一つ東崎のことを信用していない。感情を表に出すことの無いさまは、総取締としては申し分ないとは思うが、捉えどころが無いのが危惧するところだ。

 急に黙り込んで考え事をする主を見て、軒端荻はふいに両手を叩いた、


「さっ、お食事に致しましょう! 本日は御婚礼がありました故、豪華にございますよ?」


 龍岡は、いそいそと炊事場へ向かう軒端荻の背中を見送って、これからどうするかを顎に手を当てながら思案した。しかし、急に腹が鳴り出し、考えるのは明日からにしようと思いを改めた。



大奥・御小座敷 ───────


 盃の儀式が滞りなく終え、待上臈が辞去すると、傍らに控えていた御中臈と【御坊主】が俄かに立ち上がり、寝所との間に屏風を立てた。御小座敷の次之間には御台所付きの御年寄と御中臈が控えており、襖は開け放したままになっている。


 藤子はちらっと屏風の外を見ると、先ほどのもう一人の御中臈と御坊主はいなく、御中臈と御年寄だけが残って微動だにしないまま背中を向けて座っている。


 藤子は面食らった。閨のことについては万寿子からも龍岡からも教わっていなかった。誰かがいる中であの絵巻物のようなことが出来るのか? と、恥じらいが熱に変わって顔に伝わる。


 家正は、今朝拝した束帯姿の時の表情とは打って変わり、柔和な顔つきをしていた、


「やっと其方とこうしてゆっくり話せるのう」


「……はい」


「先達ては済まなかった」家正は〈吹上ノ庭〉でのことについて話していた。「ちょうど、折悪く老中に呼ばれたのだ」


「い……いいえ」


 藤子は何も考えられず、話しすら碌に出来ないでいた。


 これから起きることへの覚悟と、上手く事が運べるのかと不安が過ぎり、恐ろしくさえなった。そしてあの異形でとてつもない物……身震いがした。

 俯いていると、家正がそっと手を重ねて来た、


「案ずるでない。優しくするゆえ」

 

 優しい眼差しでそういうと、藤子をゆっくりと抱き寄せた。されるがまま、家正の胸に抱かれると次第に心が楽になるのを感じた。二段重ねの布団に優しく押し倒し、家正は頬にそっと触れてから顎へと移し、口づけした。


 瞼を閉じると、初めての感覚に頭の中が(とろ)けそうだった。盃を飲んだ後で、酒の香りが立ち込め、それだけで深く酔えるような心持ちになった。


 口づけを続けながら、家正は藤子の寝間着の帯を解き、自身も脱ぎ始めた。抵抗する気もないのに、家正の腕に思わず手を伸ばすと、ゆっくりと押さえ付けられ、自由を奪われた。余りのことに目を開けると、家正は夢中になって身体中に唇を落として行く。

 再び目を力強く瞑り、身体を捩じらせながら、なんとか時が過ぎるのを待った。自由を失う初めての体験で藤子は頭が混乱するようだった。しかし同時に永遠に続いてほしいという思いにも駆られ、何故か初めて尽くしであるはずなのに、あの異形のものを求めて疼いている。


 軽い口づけを唇にした後、家正は甘い言葉を耳元で囁き身体がぞくぞくとした。やがて藤子に覆いかぶさり、互いが繋がろうとしている。

 ゆっくりと腰を動かす家正の背中にしがみつきながら、藤子は感情の赴くままに漏れだす声を上げ続けた。


 本能の赴くままに腰を動かし続けながら、何度も藤子の顔、首、胸と身体中に赤い標を付けて行く。


 家正の首に腕を回し、藤子は、夫の熱く滾った物を感じ入った。初めてとは思えない程にこの真夏の夜の熱い情事は花開き、二段重ねの布団が乱れるほどに濃厚な時間が二人を包み込んだ。御小座敷中、藤子の喘ぎ声が響き渡る。もはや、屏風の先に人がいることなど、当に忘れていた。

 

 やがて、家正の熱い思いが放たれると、藤子も髪を振り乱しながら果て去った。


 息も絶え絶えに、二人は尚も唇を貪り続けた。夫婦になるとはこういうものなのかと初めて知った藤子は、眠りに落ちるまで互いを求め合ったのだった。


 将軍と御台所の夜の営みが首尾よく運んだことは、翌日、大奥女中たちの語り草となり、お世継ぎご誕生の期待を高めて行くこととなるのであった。




つづく




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