第一章 公家の姫君
これは血生臭い幕末の争乱が一切起こる事無く、平和な時代が長く続いたお話である。
慶長八年(1603)より日本国の政を治める徳川家は、二百九十八年の間、その最たる政権を保持し続けていた。
時の十六代将軍・徳川家達は、歴代将軍の中で初めて、各藩大名の参勤交代を廃止し、武家平等の社会を確立させ、外様・譜代関係なく意見言上を特別に許した第一人者であった。
そればかりでなく、米の相場も均等にし、値上がることはここ数十年起きていなかった。わだかまりや諍いも一切無く、民たちからは〈新たな平安〉と評された。
時は慶応から改元され、安久と改まって十年後の安久十年(1901)。
家達の嫡男・徳川家正が十八の歳となり、ご公儀では正室候補を選出するため、京の都に居る多くの公家に法令を発した。
その中で特に選ばれたのが、三代・五代・十三代将軍の御台所・御廉中を迎えた家──
────鷹司家─────
京のやんごとなき五摂家の一つで、その血筋には近衛家や天皇家の血脈が流れており、皇別摂家としてその名を存続させている。
その鷹司家の屋敷に、時の関白・二条道定卿が葵御紋付の紫の風呂敷を三方に乗せて牛車から降り立ち、寂れた黒塗りの門を見上げて溜息を洩らした。
小太りの女房が玄関先で待ち構えており、道定を案内してくれた。白粉は薄く紅をささない口許がやや不気味だったが、発する声がおしとやかで緊張が解れた。
透廊を渡って、寝殿を通りかかると剥がれかけた板の間が目に入り、思わず目を背けた。
袿の衣擦れが響く中、道定は庭の方に目をやり、顔をしかめた。まったく手入れがされておらず、草は生い茂り、池からは悪臭がする。こちらからは窺えないが、鯉すら泳いでおらぬだろう。砂石が敷き詰められた庭には雑草が所々から生えていて、同じ五摂家の屋敷とは思えなかった。
もう一つの廊下を渡った先の奥まった部屋に差し掛かると、女房が「こちらでお待ちくださいませ」と言い、剥がれかけた板張りの客間の上段を広袖で指し示した。礼を言うと、女房は膝を折ってから更に奥へと消えて行った。
上段に足をかけると重みで軋み、思わず引っ込めた。修理ぐらいせぬかと文句を垂れそうになったが、面倒なので堪えた。慎重に足をかけて中央へ移動し、金糸が解れかけた茵に座った。
御簾の房飾りや板は色褪せており、ところどころ解れたり壊れてしまっている。後ろの掛け軸も破れていて、室内にある屏風などの調度品は時代遅れの物ばかりだった。
二条家より一段上に位置する鷹司家は生活に困窮していることが見て取れる。だがそれは、鷹司に限ったことではなかった。
ご公儀開府以来、徳川家は公家の動きを手中に治めていた。
朝廷が公達に与える役職一切の昇進・就任・退任にまつわる全てにおいて、ご公儀の許可が必要だった。帝が御座す天皇家でさえ、年に使用する禁裏御料もご公儀から貰い続けている始末。そのため、公家の地位は揺らぎに揺らぎ、生活は困窮を極めた。
鷹司家の屋敷は雨が降れば屋根から漏れて、庭の手入れ費用も無く、着る服も仕立て直しは当然、食べる食事にも事欠く状況だ。
道定は関白の身分と徳川家との深い縁もあって、ある程度の生活は出来ていた。長く五摂家として共に帝を御護り奉った関係ながら、深く同情した。同情することしか出来なかった。
部屋を見回しながら、傍にある三方をちらと見やりながら身を固くしていると、衣擦れの音が今しがた参った方向とは反対の廊から聞こえた。
先頭には、烏帽子を被った大柄な男と、その後ろに様々な色の袿を着た四人の女人が並んで部屋へと入って来た。思わず道定が立ち上がりかけると、この屋敷の主、右大臣・鷹司周煕が慌てて手を上下に振った、
「あぁ、関白はん。そのまま、そのまま。お座りくだされ」
この調子よい口ぶりが道定は苦手だった。ただ、性格は悪くなく人懐っこいところもある故、笑顔で取り繕いながら座り直した。周煕が下段に胡座で座ると、家族も続いて座った。
「徳川さんから御文があらしゃいました。御台所さんの取り決めの件についてでごじゃります」
道定は早速、本題に入った。
下座に座る周煕の傍らには、正室・淑子が不安そうな眼差しをこちらに向けていた。目尻と口元には皺が走っていたが、道定ですら惜しいと思えるほどの美貌を兼ね揃えていた。
二人の左側に並んで座る三人の姫宮を見やるとこれもまた美人揃いで、嫁ぐのに十分な歳であることはその居住まいだけで伝わった。一之宮の正子、二之宮の佐登子、そして三之宮の藤子。それが姫宮の名だ。道定を怪訝そうに見てくるのは、御台所選出で身構えているのか、果ては古臭い話し方をしているせいかは分からなかった。
道定は目を閉じてひと呼吸おいてから、一番後ろに座る、遠慮気味に眼差しを向ける姫宮を見据えた、
「藤子さんと決まりましてごじゃります」
周煕以外の皆が一斉に目を丸くし、道定を見上げた。まさか自分が呼ばれたとは気付かなかったのか、藤子はひと調子遅れて驚いた表情になり、肩を竦める。周煕には先日御所で伝達済みであった。決定事項であることを知ると抑えきれない笑みが零れていて何とも奇怪だった。
この御台所選出は発令以前から決められていた。
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「おたあさん、何故です!?」
関白が帰った後、長女の正子は我を失って母に訴えかけていた、
「何故一之宮の私ではなく、藤子なんです? 年端も行かない、あやつなんぞが……!」
妹の前でよく言えたものだと、佐登子は天井を仰いだ。周煕と藤子は道定が去ってすぐに部屋へ戻って行ってこの場に居合わせることはなかった。鷹司家の主が、本来娘に言い聞かせるのが筋だが、そもそも周煕は娘の婚礼を重要視していなかった。
「正子さん、これは徳川さんが取り決めなされたことなんや。うちらはそれに従うしかありません。堪えときよし」
冷たくそう言い捨て、淑子は女房の能登を連れて立ち去って行った。
しんとした対面所に置き去りにされた正子は、長女である自分を差しおいてなぜご公儀は三女である妹を選んだのかと憤った。今年二十歳になる正子には、未だ嫁ぎ先が定められていなかった。
それもそのはず。先ほど述べた様に、多くの公家衆が貧困に喘いでいる今、嫁を迎える余裕もなく断絶を選ぶ家も少なくなかった。
断絶を食い止めるには武家へ嫁ぐか、嫁に迎えられる様に手回しをする。また、寺へ入って僧や尼になるか、地下人に身を投じるしか残された道は無かった。
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「宮さん、どないでした? 関白さんは。御台さんはどなたさんにならはったんどす?」
「………」
とぼとぼと、重たい足を引きずりながら自室へ戻った藤子は落ち着く暇もなく、乳母から質問攻めされていた。
この乳母は元来、好奇心旺盛で何かと聞きたがる癖がある。藤子はそんな龍岡のことが好きだったが、今は答えるような気分ではない。
まさか自分が、と驚きを隠せないでいた藤子は押し黙りながら転がっていた毬を手に持ち、何となく眺めていた。
「宮さん?」
龍岡が心配そうに傍に寄ろうとすると、「藤子さん、失礼しますよ」と、淑子の声が襖の奥から上がった。龍岡は急ぎ立ち上がり、襖を引いた。
「御前さん」
頭を垂れて、龍岡が挨拶した。
「藤子さん、其方さんに話があります。龍岡、此方も聞きなされ」
「はい」と畏まって龍岡が隅に座った。藤子は浮かない表情のまま、今しがた座っていた上座を母に譲り、下段に座を移した。暗い空気を帯びた藤子を心配の目で見ながら、淑子は龍岡に向かって先ほどの件を伝えた、
「龍岡、藤子さんが徳川さんの御台所さんになるいうことに決まはった」
「まぁ、宮さんが御台さんに!? よろしおしたなぁ宮さん!」
手を叩き感嘆の声を上げる乳母を尻目に、藤子はなおも表情を曇らせていた。龍岡はこれほどまでに目出度いことは無いのに、なぜ藤子がこんなにも悲しげなのか見当も付かず、首を傾げた。
淑子は少し身を乗り出し、徐に娘を見つめた、
「藤子さん、どないしたんえ? 御台所さんにならはるいうんは大変名誉さんなことや。仰山の賜り金と準備金が届けられる。鷹司家がまた前の様に豊かになるんや」
名誉であることは藤子も分かっている。
直接的な家系ではないが、先祖に 鷹司孝子、鷹司信子 、 鷹司任子がいる。いずれも、将軍家に嫁いで行った方々だ。鷹司家から三名もの姫宮が徳川に嫁いだ先例があるので、自身が選ばれるのも納得だった。しかし、藤子にはそれとは関わりなく別の事で気を揉んでいた。しばらくの沈黙の後、藤子は口を開いた、
「わたしはただ……おねえさんに申し訳ないと思うとるんどす……。おねえさんを差し置いて、わたしが先に嫁ぐなど……徳川さんが申す、長幼の序とやらに背いてはるのではあらしゃいませんか」
藤子は姉たちの事を気遣っていたのだ。特に長姉の正子は誰よりも他家へ嫁ぎたいと願っているのを幼い頃からよく知っている。御台所になるのなら、正子の方が適任なのではないか? そう思っていた。
「そないな事ですか」
娘の不安をよそに、淑子は脇息に寄りかかった。
「これは徳川さんがお決めにならはった事です。年功序列とやらは向こうさんの方から覆したことやし、長幼の序とやらは男の子さんに限ってのことやよってこちらが気にすることやあらしません」
「それだけやありません! おたあさん」
今度は顔を挙げて母の目を真っ直ぐ見つめて昂ったような声を上げた。
「わたしに務まるんか不安なんどす。将軍さんの御台所さんにならはるなど……私には重うございます」
自分は姉たちとは違って美人でもなければ聡明でもない。御台所として務まるのかどうか、藤子は不安を抱えていたのだ。しかも、江戸城大奥は御所の後宮よりも厄介で奇怪な事が生まれる伏魔殿であると聞いたことがある。「関東女は恐ろしや」と次姉の腕にしがみついて震えていたのを昨日のことのように覚えている。
淑子は当惑した。家の繁栄はもとより、娘の幸福を第一に願うのが母親であると自負している。しかし、困窮の極みを見せる同族の公家へ嫁がせる訳にも行かない。それならば、この日ノ本を統治する存在である徳川将軍家に輿入れさせ、江戸城大奥を統べる御台所となれば、この先、何不自由なく暮らせるはずだ。
淑子は考えを巡らせた末、ある方に助けを乞う事にした。
「万寿子お祖母様を覚えてるかえ?」
「え?」
藤子は目を丸くした。
「その昔、近衛家の女房として仕え、十三代の御台さんやった天璋院さんに上臈として付き従はったお方や。今は下屋敷に住んではります。あの御方なら、江戸でのお話をご承知や。この都で江戸の話を聞けるんはあの御方をおいて他にはおられへん。明日にも文を送ります」
そう言って淑子はいそいそと部屋を出て行った。止める隙もなく行ってしまい、藤子は愕然とした。記憶の奥底に仕舞い込んでいた祖母のことを思い出し、藤子は途端に身体が震えた。
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その夜、正子との無益な言い争いが絶えない夕餉を終えて、淑子は夫の部屋を訪ねた。他方の屋敷へ訪問する際には、たとえそれが親戚の家であっても当主に許しを得てからでないと外出が出来ない決まりであった。
そのため、二度と入らないと誓った周煕の部屋に重い足を踏み入れた。鷹司家の当主である周煕は、右大臣でありながら一癖も二癖もあった。
「周煕さん」
「なんやぁ?」
上の空で応え、周煕は道定から受け取ったご公儀からの初手の支度金を一枚、一枚数えている。
周煕は無類の金好きで、金子が手に入れば自身の趣味にばかりつぎ込んでいた。
周煕の趣味とは賭博だった。
将軍家達が定めた【博打禁止】の厳しい取り締まりから逃れ、都へと流れついた江戸の博徒が密かに廃墟と化した寺や公家屋敷で賭場を開いた。
公達仲間と共に三年前から熱中し、足繁く通った。ところが、勝った試しは無く、それが五摂家の一つである鷹司家が更なる困窮に瀕したと言っても過言では無い。
猫背でうす笑いを浮かべながら小判を数える横顔に苛立って、淑子は勢いよく金子を奪い取った。
「あぁ……返せ!!」
「これは藤子さんのために徳川さんから頂戴したものです!! 勝手に使うてはなりません!」
まるで玩具を取り上げられた子供の様に、意地になって取り返そうとする周煕の姿に淑子は顔をしかめた、
「周煕さん!!」急に怒声を浴びせられ、周煕は目を瞬いた。「藤子さんと共に義母上さんに御目文字したいのや。よろしおすかえ?」
金子が入った紫色の葵御紋付の風呂敷を懐に入れて淑子は本題を述べた。しかし、夫は聞く耳を持たず、目を潤ませた、
「分かった、わかった! い、一両でよい、一両だけくれへんか!? せやったら、たあさんの所へ行くのを許してやるわっ」
尚も奪還しようと試みる周煕との攻防戦に終止符を打つべく、淑子は立ち去ろうとした。だが周煕は、最後の悪あがきで袿の裾を掴んで引っ張った。
これ以上動けない淑子は、大きく息を吐いた。仕方なく、風呂敷から一両を取り出し、床の間のほうへ投げつけた。這いずって小判を追いかける大きな背中を見下ろしながら、その無様な姿に何故こんな人に嫁いだのかと、後悔に嘆いた。
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二日後、淑子は藤子と女房二人を伴って万寿子の屋敷へと向かった。
市女笠を被り、壺装束で徒歩で歩く四人の女性に誰もが物珍し気に見ながら、金をせびろうとして来る。もはや都は、室町の頃の応仁の乱が如く荒れ果て、浮浪者で溢れた。牛車や輿に乗っても近付いて来るのだから徒歩でも変わりはないし、そもそも輿を用意する金もない。
速足でなんとか逃げおおせ、下屋敷に辿り付いた一行は荒くなった息を整えた。
周煕との口論の後、すぐに文を送ると「ぜひいらっしゃい」という返事が届けられた。万寿子は上屋敷に近い寺町通沿いにある下屋敷に住まい、大方様としての威厳が健在だった。
万寿子は元は、身分の低い公家の生まれであったが、親戚筋の#つて__・__#を頼り、近衛家の老女を勤めていた村岡という女房の下で雑仕として奉公した。三年を経て女房に御役替えになった頃、近衛忠煕の養女となった篤姫(天璋院)に、上臈として仕える事となった。
江戸城大奥へ入ると、そこは都には無い渋めで粋な江戸文化に惚れ込み夢中になって行った。それ以降、都言葉を捨てて江戸風を貫くようになった。
十三代将軍が脚気衝心で薨去した後、暇を出された万寿子は都へ戻った。大奥上臈を勤めたその才気が認められ、近衛家の推薦で鷹司家へ出仕する事となった。
それからしばらく、当主で、当時関白を勤めていた鷹司輔久に見初められ、側室となった。間もなく、周煕を産んだ事で北の方待遇を頂戴し、幸福な生活を送った。正室はすでに逝去していた為、周煕を乳母と共に大切に育て上げた。
成長し、息子が当主となった後は、近衛家との縁でかつて所持していた土地を与えられ、【万寿御殿】と名付けた屋敷を構えた。輔久が逝去すると事実上の鷹司家の頂に立った。
藤子が恐怖で震える理由は、この都で江戸風を貫き堂々と生き抜く祖母の存在だった。相当な変わり者に違いないと、生まれてこの方、畏怖の念を祖母に抱いているのだった。
御殿の玄関を通ると、女房……いや、江戸城大奥で仕える御殿女中の姿をした女人が出迎えてくれた。掻取を身にまとい、堅苦しそうな裾引きの小袖を着ており、風変わりで複雑な仕組みの髪型にはたくさんの飾りをつけている。前までは、公家の女房もその姿をしていた時代があった。しかし、今の時代は公家文化を守らんが為に廃れてしまっていた。
藤子にとっては初めてのものだらけで、すべてが恐怖に映った。
「お待ち申しておりました。大方様はお部屋にてお待ちでございまする」
都の言葉遣いとは違う冷たい口調に、藤子は龍岡の腕に自分のを絡めては怪訝そうに見つめる。淑子は一つ頷いて、女中について行った。どうしてそんなに堂々としていられるのか、藤子は母に対しても恐怖を覚えた。
屋敷に足を踏み入れると、そこはまさに江戸そのものであった。江戸がどのような場所かなど、知り得ようも無いのだが、公家の屋敷にある様な几帳や、半蔀、歌が書かれた地紙が壁に貼られておらず、また廊下は板ではなく畳であった事に、明らかに都とは違う趣があって驚いた。引きずる袿の衣擦れが尚一層響き渡るのに聞き慣れず、耳が痛くさえなった。
女人に通された部屋では、図体の大きい人物が上段に座って読み物に耽っている。その人物こそが万寿子であると分かったのは、風格からして堂々としているところからであった。
淑子が座ると、藤子も後に続いた。能登と龍岡は、更に後ろの入側縁に両手を付いて畏まった。
「義母上様、ご無沙汰しておりました。本日は突然罷り越しましたる仕儀、お許し賜り、ありがとう存じます」
傍で聞いていて、藤子は驚いた。母の口から、先ほどの女人と同様の口調が放たれたのだ。いつものほんわかした訛りは無く、隣にいる母が母でないように思えた。
挨拶を受け、万寿子は書見台から顔を上げた、
「良う参ったのう。ほう、其の方が藤子か?」
母よりも凄みが感じられる口調に身体をびくつかせて自然に頭が下がった。淑子が挨拶するようにと促すので、もつれそうだった舌に力を入れ挨拶を述べた。
「お、お祖母さま、お、お初に御目文字叶い、う、嬉しく存じます」
目を見ることさえ出来ず、無意識に声が震えた。云い終えると、万寿子はふいに吐息を洩らし、何故か怒られるのではないかと肝を冷やした。
「私らは初めての目文字ではないぞ。会わない内に大きゅうなったのう。初めて会うた時はまだ小さかった故なぁ」
書物を閉じ、書見台を横へと移して立ち上がった。図体だけでなく身長も高く、顔を上げた藤子は首が痛くなりかけた。
目の前に座り、よく見ると顔には幾筋かの皺と白髪がかったその髪は、切り髪ではあったが、着物は出家した証の袈裟では無く、黒染めの枯山水が刺繍されている掻取に白の小袖を着ている。
打掛の裾を整えて、見下ろすように淑子の方を見た、
「して、参った本当の用向きはなんじゃ? また金に困っておるのか?」
すぐ近くで聞く、冷たい江戸言葉に藤子は縮み上がりそうになる。
「はい、実は──」
淑子は徳川将軍家からの要請で、御台所として藤子を輿入れさせる運びとなった件を明かした。
話を聞きながら万寿子が険しい顔になっていくのを見て、藤子は身体が強張った。
「そうか、そういう事か」
「はい……どうも藤子さんは、自分が御台所として成り立つのかと思い悩んでいるご様子でして。私にはどうしてやることも出来ず困り果てるばかりで……」
淑子は藤子の顔を見やりながら、悩みを吐露した。だんだん、母の江戸言葉に震えなくなった。一番近くにいる親類である故か、はたまた耳が慣れたのか。
「藤子、何故御台所として成り立たぬと思うたのじゃ?」
急に万寿子に問われ、藤子は固まった。身体がまた震え始め、とうとう俯いてしまった。耳が慣れたわけではなかった様だ。
「私が怖いか?」
万寿子に見透かされ、藤子はただただ、こくりと頷いた。背中に手が添えられるのを感じた。多分母の手だろうが、依然震えが収まらない。両手を強く握り、震えを止めようとしていると突然、沈黙を切り裂くように、万寿子は持っていた扇を畳に叩き付けた。
「情けない!! 江戸の女は私よりも恐ろしいのだぞ! 大奥には冷淡で心の通っていない者ばかりなのじゃ」
側で聞いていた淑子も思わず身体をびくつかせて、万寿子を見上げた。藤子はとうとう均衡を崩し、身体を仰け反らせた。
「ご公儀よりの直々のお申し出であれば、覆す事は出来まい。腹を括るのじゃ藤子。江戸の言葉に震えあがっていては務まらぬぞ!!」
再度、扇で畳を叩きながら厳しくそう言い放った後、扇を傍らに放り投げて、万寿子は藤子の手を取った。叩かれる! そう思って目を瞑った。
「其方なら大丈夫じゃ。私が教えてしんぜよう」
優しい口調に変わった万寿子の言葉に、藤子は片目を開けた。取られた手を優しく包み込み、祖母の顔は厳しい声の時とは打って変わって、優しく微笑んでいる、
「明日よりこの屋敷で私と住まい、其方に江戸の女としての教育を施そう。御台所として肩身が狭くならぬ様、立派な姫君としてな」
万寿子の目を見て、直感的にこれは信じなければという思いに浸った。心打たれ、突如として自分を変えたいとさえ思った。祖母の目を真っ直ぐ見つめて、両手を付いた、
「お祖母さま……どうか、よろしゅうお願い申し上げます」
藤子の厳しい姫君教育が幕を開けた。
それと同じ日、江戸城ご公儀では、内々に婚儀の日取りが決められた。
婚礼は三カ月後の暑い盛り──八月二十五日と決まり、江戸城入りは大奥での暮らしに慣れさせる為、一月以上早い、七月十一日と定まった。
この事を藤子が知ったのは祖母と初対面してすぐの事だった。
つづく