回帰、その間
「はてさて一体どうしたものか」
絢爛豪華な着物を着飾る可憐な女が頬杖をつく。耳がぴくぴく。それは狐のものと全く同じに見える。
「これまで誰より傍で見てきたあなたが一番わかるでしょう?」
必死な形相。身振り手振りを使って訴えるは男。年季が入り、縒れた背広が酸いも甘いも物語る。
「お主もつくづく興味深いな」
ニヤリと笑みを浮かべ立つ。
「こんなの滅多に相まみえん。みすみす玩具を手放すものか」
そう言い女は空に手を置き、優しい手つきで愛撫する。
「億に1つの優れた玩具。君にはきっとそうだろう。私にとっては唯一の、かけがえのないものなんだ」
「誰が母親だ? 誰のものだ?」
鼻で一蹴笑い飛ばす。
「汗水たらして大きくなるまで面倒を見た俺の子だ!」
「いい加減うざったいぞ」
笑みは一瞬にして消え、女は眉をしかめた。同時に空間の角が伸び縮みを始め、線は歪になる。強い黒が空間を満たしていくが、明るい白がこの空間を照らしだしてもいる。
「わしは滑稽さをあざ笑っておったに過ぎん。頭が高いぞ」
彼に加えられる重圧が、否が応でも口を開けさせまいとする。
「"誰よりも傍で見てきたあなたが一番わかるでしょう?" それこそお主は理解しておろう? 面白ぅないことに付き合う義理はない。大体、何が大切だというのじゃ」
たった75文字。その間にのしかかった耐えかねる程の緊張感に、彼は憔悴していた。空間を構成する全てが彼の脳を通過する。彼に対する苛立ちや呆れ、玩具に対する好奇心や探求心。脳が飽和した感情を理解し、処理しようと務めに励むが故に、言葉を紡げるほどの余裕を彼は有していなかった。何を伝えればいい? どう発声するんだった? 震えてカチカチと音をたてるその歯で、乾ききったその口で、彼は舌を歯茎に当て、ゆっくりと調音した。
「そ、そいつは、大事な、俺の息、子だ」
「この作り物がか? わしが書き加えてやった、ただのお前の息子だぞ?」
「俺の……俺の……」
「ご苦労なこって……仕方ない」
女は両掌をパン、と叩き合わせた。明滅とも言えない強い黒と明るい白、伸び縮みした角、歪んだ線が途端に安定を取り戻す。のしかかっていた重圧から解放された彼は思わず膝から崩れ落ち、四つん這いになりながらあまり余った体液を垂れ流した。反響したその音が波を失うより先に、女の隣に存在が生じる」
「彼は顔を上げ言った。「鉄平……!」」
「しゃがんで彼と目線を合わせる。「親父……」顔を暗くし、何かを言い淀む」
「帰ろう鉄平! お前に何があったかは知ってる! 借金がなんだ! 俺も協力して返済してやる!」
「真っ直ぐ彼の目を見つめる。もうすでに決めたことだ。未練は断ち切る。「親父、俺、気付いたんだ。恵まれた環境に育っちまったからこそ俺はこんなにも傲慢になっちまった。俺は生まれ変わる。叶えてもらうんだ。最後の希望をな」」
「だそうじゃが」
大気に腰を掛け、足を組み、再び頬杖をつく。
「縋るように存在に手を伸ばす。「待て! 最後なんて言うな! まだ助かるかもしれないだろ!」」
「「大切に育ててくれてありがとな。けど俺がいるべき場所じゃなかったんだ」微笑みかけ、曲げた膝を伸ばす。女が再び両掌をパン、と鳴らすと、そこにあった存在は跡形もなく消え去っていた。
「ああ……あああ……」
「安心せい、どうせお前が親であることに変わりはない。と、言うわけじゃ。わしらには次があるからのぅ。邪魔じゃ。帰るがよい」
300馬力の轟音が車内にまで響いておる。深夜2時過ぎ。こんな時間までご苦労なことだ。
「……そんなに自分の人生が嫌か?」
……本に面白いやつよのぅ。鉄平。
これの世界で書いてた止まる所を知らぬ悲運は5分くらいで読了できるんですけど、書き終えちゃったので読まなくても大丈夫です。