上司
「おはようございます」
「お、おはようございます!」
「おはよー」
社長と専務に丸め込まれた次の日。いつも通り出社して経理課のドアを開け挨拶をすると、立ち上がって挨拶を返してくれる人といつも通り挨拶を返してくれる人。
経理課所属は俺とこの2人(共に既婚者40代女性)と、俺達の上司である上條経理課長の4人だ。
特別仲が良いとは言えないが、だからと言って居心地が悪い訳ではないこの経理課。
昨日の俺と専務のやり取りを受け、その後俺が社長室から帰って来なかった事で色んな予測をした上で態度を変えた人と、今までと変わらない人。
急に態度を変える人、あんまり良くないと思う。だってそんな態度、今まで課長にも見せた事ないんだから。
座ったまま目も合わさず挨拶してた癖に、俺にだけ突然仰々しい挨拶するのはどうなんだろうか。
俺自身、社長になる事が決まったからって態度を変えて「お前今まで偉そうにしてたよな?」とか変な圧力をかけるようなつもりは一切ない。
ので、回りにも急に態度を変えてほしくないと思っている。
だからって「今まで通りでいいですよ」と言うのも何か違う。俺は特にリアクションせずいつも通り自分のデスクに座った。
チラチラと俺の顔色を窺っているのが分かるが、触れないでおこう。
「あ、あの、お茶でも入れましょうか!?」
「山村さん、急に態度変えるとみんな戸惑うからそういう事するの止めとこ。昨日のやり取り見てたから状況は何となく察しているのは確かだけどさ、まだ会社として正式に発表された事じゃないんだから。
一般社員が戸惑うし、正式発表される前の情報については私達も守秘義務があるんだから」
俺達経理課の人間は、経理だけでなく会社経営に関わる色んな業務に携わっている。中には社長の個人資産の情報や、社員それぞれの給料内訳なんかも管理しているものだから、人に話せない内容も多々ある。
俺がいずれ近いうちに次期社長になる、なんて事はまだ俺と会社との口約束レベルの話なので、外部であろうが内部であろうが話したり態度に出したりしていい段階ではないのだ。
「だから少なくとも、今現在では今まで通りの接し方でいいわよね? 幸坂君」
「もちろんです、村川さん。まだ何も決まってませんから」
「だそうよ、山村さん。いつも通りいつも通り」
「……ならいいんだけど。突然お前クビだから、とか言わないでね?」
「言いませんとも。……今はね?」
「ちょっとどういう事よ!?」
などと冗談を言い合っていると、課長が出社された。
「「「おはようございます」」」
「はい、おはよう」
課長はいつも通り。上司が急激に態度を変えて接して来たりしたら、逆に俺が申し訳なく感じるからな。今のままでいい。
山村さんもいつも通り座ったまま。でも今日はちゃんと課長の目を見て挨拶していた。それが何か好印象に感じた。
「えー、幸坂君が今日付けで社長室へ異動になります。幸坂君に任せていた業務は山村さんと村川さんとで引き継いでくれるかな?
元々2人が幸坂君に教えた業務だから、内容的には問題ないな。幸坂君はどの業務がどこまで進んでいるか2人に伝えるように。
その後、デスクの荷物を纏めて社長室への異動をするように。以上」
他の2人同様、分かりましたと答えたものの……。全く現実味というか、自分の事だという実感がなくて困惑する。
よく考えれば、いや考えればすぐに気付く事だが、自分が社長になれば課長だけでなく営業部長も工場長も設計課長も全員部下になるのだ。
ええ……、これから課長の事を何て呼べばいいんだよ。いや、そのまま課長でいいだろ。役職名なんだから上の立場であろうがそのまま課長と呼べばいいだろ。……多分。
などと考えていると女性2人から引き継ぎの件であれは出来ているのかこれは終わっているのかと尋ねられ、聞かれるがまま答えていく。
気付いたら課長は部屋からいなくなっていた。
俺が携わっていた業務の引き継ぎを終え、デスクの片付けをしている。持って行くべきものなんてほとんどない。
普段使っていた経理資料を纏めているファイルや、税務調査が入った際に税務官に見せる物品購入に関する見積もりや契約書などは、全て経理課として必要なものである。俺が持って行くべきものではない。
結局、俺が段ボールに詰めたのは支給されたノートパソコンと、筆記用具と電卓。それと頂いた名刺を入れたファイル。後は個人的に買って読んでいた決算書の読み方についての書籍など。
その段ボールをデスクからどけ、アルコールスプレーをかけて雑巾で拭いておく。
「それはさすがに次の社長だって人がやる事じゃないな」
村川さんが笑いながら後でやっておくと言ってくれたが、これは自分でしておきたかったので丁重にお断りした。
今までお世話になった場所だ。自分の手で清めておきたい。
「幸坂君、ちょっといいかな」
デスク回りの清掃を終え、さぁ本当に俺はこの荷物を持って社長室へ行くのか? と何とも言えぬ焦燥感を味わっている最中。課長から声を掛けられた。
「準備は終わったようだな。ついて来てくれるか」
「あ、はい」
いつの間に戻って来ていたのか。全く気付かなかった。
片付けと清掃と、そしてこれからどうなるんだろうという漠然とした不安の中で自分以外の事を考える余裕がなくなっていた。
経営者と呼ばれる人達。少なくとも社長や専務はこんな程度では動揺も混乱もしない、いやしたとしてもその場の状況判断で対応出来るんだろうな。
課長の背中を追っていると、小会議室に辿り着いた。
課長が中に入り電気を付け、椅子を引いて座る。俺もそれに倣い、課長と相対して腰を下ろす。
「さて、先ほどまで社長と詳細を詰めていたんだが、昨日の昼食の際に君から実際に口座残高を確認させてもらったと聞いたよ。
あんな事を冗談で言う人物ではないと思っていたが、本当に金を用意出来るとは驚いたよ」
どんな話を聞かされるのかと思えば、課長から俺への最終確認だった。
社長と専務も悪気はないだろうが、君はあまりにも若過ぎる。
色んな経験を積み、皆からの信頼を得た上で次期社長に推されるのが筋であり、様々な批判の声や足を引っ張る者も出て来るだろう。
会社で起こる大小様々な問題の最終的な責任は社長が負う。その重圧に耐えられるか。
決して大きくない声。全く媚のない口調。誠実で真っ直ぐな視線。
課長は次期社長としての俺ではなく、自分の部下である俺へ向けて、言葉を投げて下さっている。
どうする……? 今ならやっぱり会社の株買うの止めますって言っても許されるんじゃないか?
いや、社長や専務は怒るかもしれないが、課長が何とか取り持ってくれるんじゃないだろうか。
「先ほど名誉顧問が会社へ来られてな、社長室で臨時株主総会が開かれて名誉顧問と専務の持つ株式の幸坂君へ譲渡が可決されたよ。
株主名簿の書き換えなど実務としての処理はあるが、実質的には君が名誉顧問と専務の口座へ金を振り込めばそれで君が筆頭株主になる」
筆頭株主。
「ただ、筆頭株主になったとて、必ずしも代表取締役社長にならなければならないという決まりはない。
本来株主と経営者はイコールではないからな。うちのような中小企業であれば限りなくイコールに近いが。
社長も専務も、当分は会社に残って君を経営者として鍛えると言っておられる。逆に、君に会社を押し付けて逃げるなんてそんな無責任な事、普通は出来ない」
いや、俺に株を押し付けているのに変わりないように思うけど……?
「中小企業の難しいところはな、代替わりだ。経営者と株主がイコールであるうちのような会社は、後継者を育てるだけでなく株の引き取り手も見つけなくてはならないんだ。
多くの場合、社長の子供や親戚を入社させて後継者として育て、株は相続させる。このパターンだと実際に現金を動かす必要がない」
うちの社長も専務も、お子さんはおられるが社内にはいないな。
「社長はそもそも身内経営に否定的でな、名誉顧問のお子さんを追い出した過去がある。まぁ実際に絵に描いたような二代目ドラ息子だったからその判断は正しかった。
その反面、自分の子供を入社させる事もなく、株の引き受け手と社長後継者を用意出来なかった。
専務のお子さんは娘さんお1人でね、すでに嫁いでいる」
名誉顧問と社長との間に、そんな軋轢があったとは。
「と、まぁそんなこんなで、君の存在は社長と専務にとっては飛び付くに値する訳だ。
すぐに現金化する事の出来ない非上場中小企業の株なんて、誰も欲しがらない」
そんなにハッキリと言われると、後悔の念が押し寄せてくる。止めとけと、金をドブに捨てるような事はするなと、暗にそう言われているような気がしてならない。
「しかし、だ」
止めます! と口にしようかと思い、息を小さく吸ったタイミングで課長が話を続ける。
「誰も欲しがらない株ならば、誰かが欲しがる株にしてしまえばいい。そう思わないか?」
誰もが欲しがる、株……?
「今は非上場だが、今後上場させようと思えばチャンスなんていくらでもある。東証一部でなければ上場企業ではない、などという事はない。
君が社長になるんだ。君の代で会社規模を大きくして、上場を果たし、市場で売却すればいい。
君が額面で手に入れた株は市場を通せば評価額で売れる。今の我が社の評価額は五千五百円。仮に全て売却したとして、差し引き二億二千五百万円の利益を得る事になる」
上場を果たせば、二億円……。頭に仮想通貨相場でもう少し粘っていれば手に入っていたであろう金額がチラチラと浮かぶ。
俺が社長と専務から経営について学び、事業を大きくしていけば、その分社長として得る役員報酬も増える。会社の業績が良ければさらに株の配当も毎年入って来る。その先に、上場後の株の売却益。
もしてして俺、飛んでもないビッグチャンスを手に入れてしまっちゃったりなんかしちゃったり……!?
「なんて、そう都合良く行くはずがないのは君も重々理解しているだろう。スマンな、社長と専務が君を乗せてさっさと金を振り込ませろとうるさくてな。逃がすつもりはないらしい」
えええ~~~!!?
「株主総会で可決されたのは、株の譲渡を認めるというだけで、君が必ず買い取らなければならないという法的根拠にはならない。
つまり、今ならやっぱり止めますと言えなくはない」
言える、と言い切らないのが実に課長らしい。
いやそんな事はどうでもいい。本当に俺は、会社の株を買うのか……?
「もし君が株を買い取り、社長と専務の教育を受けて経営者になろうと言うのならば……。
私は経理課長として、全力で君を支えるつもりだ」
ふっと、課長の表情が綻ぶ。この状況を言い表すならばそう、男と男の約束的なアレだ。心の根底で通ずる何かだ。
課長が年下の、それも直属の部下に対して、お前が社長になるって言うならば俺が共に歩んでやると。支えてやると。任せておけと、そう言ってくれているのだ。
ここまで言われて逃げるなんて、男じゃねぇ!!
「……やります。僕がやります。僕がこの会社の社長になります!」
結果的に、……まぁ乗せられてるよね。
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