七里結界
笠乃屋が赤のキングを盤外に弾き出したと同時に、聴衆がざわつき始めた。
聴衆たちの注目は、笠乃屋の方ではなく、あの解答者の方へ注がれていた。
彼女は椅子に座りながら肘をついて手を組み、それを額に当てて考えるポーズを崩さないまま、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
まるで翼を広げて風の具合を確かめ、まさにこれから飛び立とうとする猛禽類のようだ。
そんなこと見なくても知っているというかのように、笠乃屋は大きな欠伸をする。
「ようやく目が覚めたかい? 俺と同じ怪物さんよ」
私は自分でも恐ろしいくらい冷静に、かつ慎重に、チェックメイトへ向けて駒を手に取った。
まるでここが生き物のいない雪山であるかのように、物音一つ聞こえない。
誰もが雪の女王の息吹によって凍り付かされまいと、息を潜めているかのようだ。
「第十の質問。あなたは今、楽しいですか?」
「不思議なことを問うのだな、お前は。答えはノーだ」
「では第十一の質問。あなたが楽しくないのは、それが自分の意志ではないからですか?」
一瞬スフィンクスの眼に動揺が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
「イエスだ。これは私の仕事だからな。あくまでも義務でやっているだけだ」
恐らくスフィンクスは、誰かに強制されているとは言えないのだろう。
少なくとも、公衆の面前で大っぴらにできる話ではないはずだ。
だからスフィンクスはオブラートに包んだ。
問題を出すことが、スフィンクスの義務である、と。
しかし私にはそれが嘘にしか聞こえなかった。
「では質問を変えましょう。第十二の質問。あなたには、情熱を傾けられるものがありますか?」
「面白いことを聞く。答えはイエスだ。だが、そんなことを聞いたところで、お前が正解に辿り着けるとは思えないのだがね」
スフィンクスのガラスのような瞳が、私を値踏みするように見つめている。
「第十三の質問。それをしている間は、人間が寝食を忘れるのと同じように、没頭してしまいますか?」
「没頭するか、という点についてはイエスだ。ただし人間と同じかどうかは判断しかねる。私は寝食を知らないのでね」
「では第十四の質問。それが楽しいということは、人間でも共感できるものでしょうか?」
「イエスだ。もちろん個人差はあると思うが」
「第十五の質問。それをしていて、飽きることはありませんか?」
「ノーだ。飽きるなんてとんでもない。私の命が続く限り、それを続けるだろう」
スフィンクスは自分に誓うように、そう語った。
「第十六の質問。もしもそれをすることができなくなってしまったら、あなたは死んでしまいたいくらいの苦痛を感じるでしょうか?」
「イエスだ。そうなるなんて考えたくもない。崖から飛び降りた方が、ずっとマシだ」
「それでは第十七の質問。あなたが情熱を傾けているそれは、問題を出すことですか?」
「無論だ。まさしく私の”生き甲斐”だよ」
そう答えてから、スフィンクスは自らの返答の矛盾に気付いたように、言葉を切った。
ついさっき、スフィンクスは問題を出すことは仕事であり、義務だから”今は”楽しくないと言った。
だがその一方で、問題を出すことが”生き甲斐”を感じるほどに好きだと言ったのである。
スフィンクスは、今まさに葛藤しているのだ。
本当は好きなことであるはずなのに、他人に強制されたことで楽しさと自分との間に見えない壁ができてしまっているのだ。
「第十八の質問。あなたは”今も”問題を出すことが好きなのですね?」
私は確認するように問う。
「イエスだ」
何者かに強制されている今でも好きと言えるか、という私の意図を、スフィンクスは察したようだった。
己の欲せざるところ、人に施す勿れ。
私は、自分が好きなことを邪魔されたくない人間だ。
だから誰かの好きなことを止めるつもりは毛頭ない。
もし自分が好きなことを邪魔されている人がいるなら、私は放っておく訳にはいかない。
「そろそろ本題に入りましょう。第十九の質問。この問題は、エキスパートシステム型の問題に見せかけた引っかけ問題ですか?」
「イエスだ。よく気付いたな。大したものだ」
「それでは第二十の質問。この問題は、ルイス・キャロルの『ワニのパラドックス』に基づいていますか?」
あの七里結界のスフィンクスの口元に、微かに笑みが浮かんだ。
「……イエスだ。もはや言うまでもないだろうが、答えを聞かせてもらおう」
私は大地に根付いた巨木のような確信とともに口を開いた。
「あなたが考えていること。それは『誰であろうともここを通行することは許さない』ということです」
「正解だ、挑戦者よ。私の負けだ。約束通り、この門を開放しよう」
そう宣言されるや否や、観衆から大きな歓声が上がった。
私は大勢の人に囲まれるのではと思ったので、そそくさと隅っこの方へ退散した。
そのお陰か特に混乱もなく、見学者たちは大挙してテーバイ展示地区へと入場していった。
人々の群れの中にあの風変わりな探偵の姿を探したのだが、見つけることはできなかった。
それにミダス氏の姿も見えなくなっていた。
私はスフィンクスしかいない広場に、ポツンと残されてしまった。
「学芸員よ」
スフィンクスが私を呼ぶので、再びスフィンクスの近くまで寄っていった。
「ありがとう。そなたのお陰だ」
「通行禁止にしていたのはあなたでしょう? お礼を言うのは筋違いでは?」
「それもそうだな。よくも解いてくれた、と言うべきか」
スフィンクスの表情からは、さっきまでの堅苦しさが消えていた。
よほど重荷になっていたのだろう。
「次こそは、そなたにも解けない問題を用意しておこう」
「私は、また問題を解かされるの?」
「もちろんだ。今度は探偵からのアドバイス無しでな」
おっと。バレてたか。
「しかし、あれでよく分かったな」
「ウサギ、ネコ、チェスという辺りで、ルイス・キャロルの代表作『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』が何となく連想できたからね。
そしたらあとは『ワニ』が何を意味しているかを考えればいいだけだから」
「しかし『ワニのパラドックス』なんて、有名な話ではないだろう」
「ワニが子供を人質に取り、母親に対して『自分がこれから何をするか言い当てられたら子供を食わないが、間違えれば食う』と言った。
母親は『あなたはその子を食べるでしょう』と答えた。
ワニが子供を食えば、母親は正解したことになり子供を食わないという言葉に矛盾する。
ワニが子供を食わなければ、母親は間違えたことになり、ワニが子供を食うという言葉に矛盾する。
このジレンマをモチーフにして、後世、色々な派生作品が作られていてね。
そういう物語の系統図に興味を持って調べていたことがあったから、たまたま知っていたのさ」
「なるほど。得意分野だったということか。覚えておこう」
「次はお手柔らかにね」
私は別れの挨拶をして、最初に来た道へと足を向けた。
「犯人捜しはしなくていいのか?」
投げかけられたスフィンクスの声に、一旦振り返る。
「私の今日の仕事は、スフィンクスの問題に正解すること。
もう給料分は働いたからね。
あとはあの探偵の仕事でしょ」
そうして私は帰路についた。
なお後日、一部の学芸員が展示物である美術品を裏社会に高値で横流ししていたことが発覚し、処分されたことが発表された。
あの痩せたロバに会うことはもう無いだろう。
ただ、あの探偵たちについては、何も情報は無かった。
いずれまたどこかで会うような気はするのだけれど。
お読み頂きありがとうございます。
なんとか一日で最終話を書き上げることができました。
時刻は午前2時半を回ったところ。
脳みそが半分寝ながら文章を書く感覚は久しぶりですね。
このままベッドにダイブしたら熟睡するやつです。
こんな頭でミステリ的な小説を書いて、ちゃんと論理的に間違ってないか、伏線回収を忘れていないか心配ではありますが、今はそんな余裕が無いので明日の自分に任せるとしましょう。
よろしければ評価などして頂けると、筆者は大変に喜びます。
反応が良ければ、また続編を書くやる気が出てくると思います。
そのうち自作の小説執筆AIを活用して、執筆を楽にしていければ、書くペースも上がるかもしれません。
なにはともあれ、寝ます(今、「なめす」ってタイプしてた)。
次回作でお会いしましょう。
2018/12/29 初稿