海と牧童(3)
海と牧童(3)
ある日少年は中の泉を訪れた。当然そこにはあの牝羊が自分を待っていてく
れると思ったのである。ところが彼女は居なかった。
少年はがっかりして、いろいろ思い惑ってみたが、仕方のないことでもあり、
牧場を牝羊探して歩きまわった。
しかし、その日も、また次の日も、その翌日もどこにもあの牝羊は見当らな
かった。
どうして彼女は中の泉に居ないのだろう。何よりもどうして彼女は自分の前
に現れないのだろう。彼女は僕の気持を理解してくれている。にもかかわらず
今、姿さえ見せないのは何故だろう。
彼女の中には、僕より大切なものがあるに違いない。だとすれば、それは何
だろう。
夢、と彼女は言っていた……少年は次第に思い起こしていた。
「夢を見るとき、私には牧場が邪魔……」
どうしてだろう。牧場より大切なものはいまの自分には考えられない。彼女
のことだって、この牧場を切り離しては考えられない。夢が大切だって?どん
な夢を見るというのだ彼女は。
何日かたって少年が今日も中の泉を訪ねたとき、牝羊はいた。
「どこかに行っていたの」
「夢の世界へ」
「夢の世界だって!」
そんなものがあるだろうか。夢を見るってことはあたりまえにある。しかし
夢の世界へ行くなんて事が……
「いろんな夢を見るの。そしてとても素敵な夢だったら、その中に入って行
くの。そんな時、誰も私を見つけることなんて出来ないわ」
少年は驚いた。そして話を変えようと思った。なんだか夢の話は恐い気がし
たのである。それは少年の第六感であったろう。彼も海の話をする時に、羊た
ちに触れてもらいたくない所があったからである。
「西の泉の子羊がね、君のことをとっても素敵だって言うんだよ」
牝羊は優しいまなざしで少年を見つめている。少年は話を進めようとするが
続かない。
(牝羊はよく、とても優しいまなざしをする。それで僕のことを愛してくれ
かと思うと、突然どこかに居なくなったり……)
少年は今、何かを牝羊に聞こうとしている。それは当然の質問のように思え。
むしろ牝羊の方からけしかけてきた様にさえ感じる。しかしその質問と共に、
牝羊が豹変しそうな気がする。
少年はおそるおそる口を開く。
「夢の世界へ行っていたって言うけれど、それはどんな夢?よかったら、聞
てくれないか……」
そう言いながら、少年の顔は次第に真っ青になる。やはりこの質問はしては
なかったのだ。あの夜、彼女の眠っているまぶたを触った時だって……でも、
のないことじゃあないか。僕はこの質問をせずにはいられなかった。
すなわち、彼が見たのは、突然けわしくなった牝羊の瞳である。
「あなたは、どうしてもそれを知ろうとするのね。私の夢の領域に土足で踏
もうとするのは許せないわ」
「でも仕方がないだろう。今日〈夢〉って最初に口にしたのは君の方じゃない
「ふん、間抜けな牧童さん、あなたの無神経さには耐えられないわ。さような
ら」
「あっ」
少年は叫び声と共に倒れてしまった。牝羊はそしらぬ顔で茨を通り抜けると
へと走り去った。
しばらくしてぼんやりとまぶたを開けたとき、羊たちが心配げな顔を
彼をのぞき込んでいた。少年は一度は起き上がろうとして努力したが、わけの
ない深い悲しみが彼の心を浸しきっており、そのまま目を開けていることが出
かった。
そして、覚めかけようとする意識がその悲しみの底に沈むと彼は再び眠りの
落ちた。
……しばらくして少年は海にいた。彼は船に乗っており、それは少年の心と
前進していた。海は静かであった。
しかし、それは怒りを込めていた。次第に強くなって行く雨が看板の少年を
していた。
遠くに雷光が閃いた。天を駆けるような雷鳴がとうとうと高鳴り、やがて海
に逆巻く波涛と共に力強いうねりの本性を露呈した。そして、またたく間にそ
怒涛激しく、見渡す限りの大海を打ち震わす狂気の海と化した。
その目まぐるしい海の変容を少年の瞳はしっかりと見据えていた。彼の顔は
波しぶきを受けて雫の絶える間もなかったけれど、それでも彼の眼は喜びに満
れ、輝いて情景を見つめ続けていた。
「海だ、海だ」と少年は叫んだ。
その叫びの中で少年は目覚めたのである。
羊たちがまわりを取り囲んでいた。牧草の上に、彼の体は横たわっていた羊
ちは皆一様に心配そうであった。
そういった優しさが今の少年にはまた悲しみと錯綜した感情の渦となって心
を締めつけ続けるのだ。再び彼の眼は閉じられた。
……少年はうなされながら、世にも恐ろしい夢を見ていた。
牧場での日々の続いたある日、彼は遠い町に出かけては何かを買い込むのだ
った。
そして牧舎の中に閉じ篭っては全く外に出なくなっていた。羊たちはとても心
配した。
ある日、一匹が牧舎を覗き込もうとした。少年をそっとしておいてやろうと
いう心遣いと、また以前の明るさを取り戻してほしいと願う気持ちの果てにつ
いこうしてここまで来てしまったのである。
少年は牧舎の中で何やら作業をしていたが、入口の戸がちょっと開いて羊が
覗いたのを知って手をとめた。羊は少年の冷たい無表情な様子にまず驚いて後
ずさりした。
少年は笑ったかのように見えた。
しかしそれは微笑ではなかった。何か理性でないものにつかれて神経が引き
つったものだった。羊は思わずまた一歩後ずさりした。その瞬間少年はつと羊
の直前に迫っていた。
あっと思った時、その右足の爪先は動物の脇腹に深い一撃を与えていた。羊は
もんどり打って倒れた。そしてそのまましばらくは息をすることもできなかった。
別の日、やはり牧舎に近づこうとした他の羊は、突然一枚の鋭利な鉄片に襲
われた。
それは羊の柔らかな首筋にぐさりと音をたてて刺さった。牧場を映しながら
溢れ出る血液の中で一匹の獣の命は途絶えた。
その情景を牧舎の中で見ていた少年は、自分の投げた凶器が見事にその役割
を完遂したのに満足した。そして羊の死骸には嘲笑のみを投げかけたのである。
羊たちは少年が狂ったと思った。そして狂った彼が何をやろうとしているの
か全く分からないことが彼等を脅かした。
そうするうち、牧場は茨に被われ、羊たちは痩せ衰えた。その羊たちに決定
的な、恐ろしい事件が起きたのである
ある朝、目覚めて彼等は立ちすくんだ。この広大な牧場の周辺が、恐ろしい
巨大な有刺鉄線で被われていたのである。しかもそのひとつひとつのトゲは、
磨かれでもしたように鋭く輝き、近づくだけでもぐさりと羊たちを刺し殺しそ
うな気がした。
そうした恐怖の中で、彼等は知ったのである。少年が日々をかけて密かにや
っていた仕事が何であったかを。もはや少年の中には狂気と殺意しか窺えなか
った。羊たちはただ恐れ慄き、わけもなく、あてどもなく逃げまどい、阿鼻叫
喚の叫びは絶える間なく響き続けた。
……少年は地獄の苦しみの中で目を開けた。夢だった。夢でよかった。 彼は心
配そうに覗き込む羊たちの顔を見上げると口を開いた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。恐い夢を見たけどね、もう大丈夫だ。僕の
方はもう大丈夫だよ」
羊たちは皆ほっとした表情になった。そして少年に薬を飲ませたり、彼の心
を和ませる明るい話題でわれ勝ちに話しかけた。だが、薬のせいか少年はまた
もやまどろみの世界に落ちた。しかし今度の夢は穏やなもののようだった。少
年の寝顔には笑みさえ浮かんでいた。
羊たちは心から安心することが出来た。数刻後、少年は、今度こそはっきり
と目覚めた。そして3度目の夢について羊たちにこう話した。
「夢の中で、僕はあの牝羊さんとあったんだよ。僕は彼女に語りかけたんだ。
あなたは夜になると美しい夢を見る。それはとても素敵なことだ。僕はこうし
て今、海へ向かう準備をしている。やがて海にたどり着き、遥かな国々をめざ
して僕自身の船で海原へ乗り出すなら、いつかそう遠くないある日に海の彼方
で必ずまたあな
たに会うだろう。夢の中のあなたに……」
夢をなぞるようなまなざしでそう少年は言うと羊たちに視線を戻した。
「僕はやはり海に出ることにしたんだ。
それが、近づこうとすればするほど遠ざかって行く虹や蜃気楼のような希薄な
幻であったとしても、しょっぱい海水や打ち寄せる破壊的な波や、蛸やイカや
様々な魚たち、鯨や鮫や獰猛な人食い魚たちをその中に包み込み、とおとおた
る波頭を月影にさらしながら幾万年の冥想にふける海。その海原を僕は自分の
船で突き進むのだ
」
「みんな、波頭が白いのは陽の光や月の光を受けて輝くからじゃないんだ。
波は陽の光を、あるいはまた月の光を、その波高波長のうねりの中で、かすか
に予感して自ら輝くんだ。
波しぶきを蹴立てて船で行くとき、光の予徴のような無秩序な色彩の彷徨の
中で僕は重い航海を進めるだろう。そこにしか、自分の生きる道はないんだよ。
もちろん、君たちと別れるのはとっても辛い。優しい心の牧場をこのまま去
って行くのはとても悲しい。しかし僕の優しさは本物じゃあない……」
「あなたの心の中には海と牧場しかないんですね」
一匹の子羊が思わずそうつぶやいた。子羊は続けた。
「いや、もう海だけしかないんだ。あなたはもともと海に生きるべきだった
んですよ。あなたの本当の幸せを僕たちも心から願うべきなんだ」
子羊を見る少年のまなざしは感謝にあふれていた。
牧場が深い霧に包まれた夕まぐれ。
やがてここを閉ざす闇のとばりが再び開かれ、抜けるような青空が明日は広
がるだろう。そしてその時こそひたすら「海」をめざす少年の新しい旅が始ま
るのである。