57.白ウサギと白ネコ
まだまだ続く夏休み。
家事を一通り終えた俺は汗をシャワーで洗い流した後、いつも通り【セカンド・ワールド】の世界に飛び込んだ。
鼻腔をくすぐる潮の香り。
窓の外から爽やかな風が吹いてきて、涼しい。
ベッドから起き上がり、バックパックを背負い、部屋を出る。
ここはウォーデルに設けられた宿屋の一つ。至って普通、といった感じの宿屋だ。
でも建物の前に遮るものが置かれていないので、日差しを受けた美しい大海原を眺めることができる。
「んー……良い風……」
景色を思い浮かべていると、前方から声が。
見ると通路に配置された窓、その縁に一人の女性が体重を預けていた。
風によってサラサラと揺れる俺に似た銀色の髪。その左右が軽く纏められ、ネコの耳のように見える。
瞳は透き通るような水色。また一目見て美人だと判断できる顔立ちに相応しく、スタイルもまた驚愕するほどに美しかった。年齢は俺よりも一つか二つ上くらいかな?
ぴっしりとした白いニットに、黒いフリルのスカートを身につけていて、防具というよりも私服だ。
「ん?」
まるで生きているかのようにピクピクと猫耳が動き、その人物はこちらに顔を向けてきた。
しばらく無言で見つめ合って、
「こんにちは」
相手の方から優しく微笑んできた。
「こ、こんにちは」
「君もこの宿屋の利用者?」
「あ、はい。場所が良かったので」
「おお〜、ならボクと一緒だね」
猫耳さんはそう微笑むと、顔を窓の外に戻した。
「発売してまあまあ時間が経ったけど、新鮮味がまったく薄れないよね。VRMMOって凄いなぁ」
すぅ、と。潮風を味わって、
「まだ序盤の街だし、まだまだ楽しい思い出がたくさん作れるってことだよね。毎日が幸せだよ〜」
ドドドドドッ!!
突如として、荒々しい音と地響きが巻き起こる。
それは遥か後方から。振り返ってみると、数人のプレイヤーがこちらに駆け寄ってきた。
誰もが俺とは比べ物にはならないしっかりとした鎧やローブを着込んでいて、かなり強そうに見える。
「……人を探している」
その中の一人が足を止め、低い声で尋ねてきた。
全身を厚い鎧で覆っていて、表情は見えない。百八十センチはあるだろう長身に合った巨大な斧を背中に携えていて、屈強というイメージのみが湧いてくる。
「……猫の耳みたいな髪をした女だ。色は白」
心当たりしかない。
ちらりと後ろを振り返る。
「!?」
けど、そこにはもう誰もいなかった。
あ、あれ? まだ数十秒しか経ってないはず……。
ってことはもしかして、窓の外に?
「……心当たりはあるか?」
ずい、と詰め寄ってくる鎧プレイヤー。
息が詰まるほどの威圧感。……こ、これは嫌な予感がする。もし本当のことを伝えて猫耳さんが捕まったら……何をされるか分からない。というかこの間もこんな展開なかったっけ!?
で、でも耐えられない! すぐにこの場を離れたい!
だから俺は、こう答えた。
「……す、すみません……知ら、ないです……」
真実を話して楽になりたい衝動を抑えて。
そのわざとらしく映ったであろう反応に、目の前の甲冑はぴくりとも動かなかった。
や、やっぱり嘘がバレたのかな。怖いよぅ。
「……そう、か」
と思いきや、そんなことはなかった。
「……悪かったな。もし見かけたら教えて欲しい」
「は、はい!」
そう答えると鎧さんは俺の肩を優しく叩き、ガシャガシャと騒がしい音を立ててこの場を去っていった。
意外と良い人だったのかもしれない。
それに声は低かったけどあの人……、
「っと、そうだ」
考えをやめ、俺は窓に歩み寄る。
周囲に誰もいないことを確認してから声をかけた。
「もう大丈夫ですよ」
反応はなかった。
聞こえなかったのかな? と、窓を覗いてみる。
「――ばぁ!」
「きゃああああッ!?」
あまりの驚きに、女の子みたいな悲鳴が出た。
「ふふっ、あははっ!」
笑いながらも俊敏な動きで戻ってくる猫耳さん。
彼女は、尻餅を着いた俺に手を差し伸べた。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言い、ありがたくその手を取る。
「ううん、こちらこそ――」
ぐいっ、と力強く腕を引かれた。
勢いよく姿勢を戻される俺。
そんな俺をがっしりと受け止めた猫耳さんは、
「――ありがとう、助けてくれて」
そう言いこちらに顔を近づけ、
頬にキスをしてきた。
「ふぇっ、えええええええッ!?」
や、柔らか……じゃなくて何で!? どうして!?
「ふふっ、君は反応が可愛いなぁ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべ、彼女は俺に背を向けた。
そして最後にふりふりと手を振って、
「じゃあね、ウサギさん」
この場所から、ゆっくりと姿を消していった。
▽
「ッ!」
――パリィン!
場所は、巨大な建物に囲まれた都市。
その中に設けられたカフェのベランダにて、そのプレイヤーは手を滑らせていた。
手に持っていたカップは悲惨に割れ、中身は四方八方に散らばり、靴とパンツを汚していく。
だがそのプレイヤーは、気になどしなかった。
意識は、カップを落とした手のひらのみにあったからだ。
「何だ……この震えは……?」
リアルではかけているメガネを持ち上げる動作も忘れて、そのプレイヤーは街の入り口に目を向けた。
「無事、だよね? 僕のゼン君……」




