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なにもかもが翼

作者: 泣村健汰

 叔父の仁平が、雪山で事故に遭い緊急入院をした。

 自室に飛びこんで来た母から報せを受けた花川隼人は、それが出来の悪い冗談に思えた。母の切迫した表情が、徐々に隼人から余裕を奪っていき、心の隙間には絶望が忍び込んでくる。

「今、叔父さんは?」

 母に向かい、やっとの事でそれだけを口にすると、不意に、隼人は左膝に刺すような痛みを感じた。

 梅の綻びにはまだ日がかかりそうな、三月の始めの事だった。


「おーっす、隼人、元気してるか?」

 冬端仁平は、隼人の母の弟にあたる。

「おお、相変わらず青っ白い肌してやがんな~。ちゃんと食ってんのか?」

「ちゃんと食べてるよ」

「そうかそうか、ならいいんだ。姉ちゃんの飯はうめえから、一杯食っとけ」

 仁平はその日も、半年振りに隼人の部屋に訪れるや否や、鞄から写真の束をごそりと取り出して、床にばら撒いた。

「今回はどこ行ってきたの?」

「今回はな、北米の方を順繰りに回ってきた。相変わらず寒ぃとこばっかだけどよぉ、いい写真が撮れるんだわ」

 隼人は気になった写真を数枚、自らの手元に寄せる。荘厳な白い山々が、高い空に向かい雄雄しく聳えている写真だった。

「これはどの辺?」

「それはロッキーだな。ロッキー山脈を、カナダ側から撮った奴だ。カナディアンロッキーって聞いたことねぇか?」

「名前だけ、昔習った事がある気がするよ」

「その辺りを訪れた時は、参った事に猛吹雪でな。写真を撮るどころの騒ぎじゃねぇんだよ。どこにも行けねぇし、それこそ前も見えねぇくれぇのもの凄い風と雪が四日も続いてよぉ。他の場所へ行く兼ね合いもあるし、こりゃあもう駄目かあ、って思ったら、山の神ってのはやっぱいるもんだなぁ、五日目になったら、それまでが嘘みてぇに、ピタッと止んでよ。空がカラッと晴れて、雲なんか一つもありゃしねぇんだ。やったぜこんちきしょうと思ってよ、とりあえずその喜びの勢いで、登る前にバシャバシャっと撮りまくったんだよ」

 仁平の写真を眺めながら、その時々の冒険譚を本人の口から聞くのが、隼人は大好きだった。

「その後登って、二合目辺りでまたバシャバシャっと撮ったのがこれだな。えっと、確か隼人が喜びそうなのがあったんだよな~。っとっとっと、これだこれだ」

 仁平が指で手繰り寄せながら探し当てた写真を、隼人に差し出す。無骨な太い指から渡された写真には、山登りの最中に、山頂付近を狙って構えた写真が映っていた。その山頂付近には、数羽の渡り鳥が群れを成して飛んでいた。

「渡り鳥?」

「おうよ、ちょっと遠いから鳥の種類まではよくわかんねぇけどよぉ、きっとこいつらも、最近の吹雪が晴れて、やっと飛べるぜって思ったんだろうな。気持ちよさそうにすいーっと飛んでてよぉ、またそれが、山と空と丁度いいんだ。隼人、鳥の写真好きだもんな」

「うん、これ貰っていいの?」

「あたりめぇよ。ここにあんのは全部おめぇに持ってきたんだからよ。好きなだけ持ってけ」

 仁平は豪快に笑うが、隼人の部屋の壁は既に、彼の持ってきた写真にほぼほぼ埋め尽くされていた。だけど、旅先から帰る度に、こうして態々自分の為に写真を届けてくれる叔父の気持ちが、隼人には嬉しかった。


 冬端仁平は、写真家である。

 世界の名跡や極寒の風景、灼熱の大地や秘境の地など、自然の刹那を切り取る事で、評価を得ている写真家であった。雑誌や書籍で特集を組まれる際は、『旅人』と銘打たれる事が多かった。

 そんな仁平は、幼い頃から甥の隼人の事を殊更可愛がっていた。自分が危険と隣り合わせの仕事をしている自覚からか、家族を作る事をしてこなかった仁平にとってもまた、彼の写真を楽しみにしてくれる隼人の存在は、我が子以上のかけがえの無い存在だった。

 数年前に、隼人が家に引き篭らざるを得なくなってからは、自分の専門の風景写真とは別に、隼人がよく好む鳥の写真を、お土産に撮ってくる事が増えた。鳥の写真もストックが溜まり、新たに風景と鳥をテーマに写真集を出しませんかと、出版社から要請があった程である。


「叔父さん!」

 病室のドアを開けた隼人は、弱々しくベッドに横たわる仁平の姿を見て、思わず叫んでしまった。

「おお、隼人……。お前、よくここまで来れたな?」

「母さんと、タクシーに乗ってきたんだ」

「大丈夫だったか?」

「俺の事より、叔父さんは?」

「ああ、まあ、なんでもねぇって訳にはいかねぇけどよ、意外と元気だ」

 身体を起こそうとする仁平を、隼人は押し止める。

「いいから、寝ててよ」

「わりぃなぁ。姉ちゃんは?」

「今、下で先生と話してるよ」

「そうかそうか、世話かけちまうなぁ」

 仁平は申し訳なさそうに笑うと、

「おお、そうだ」

 と、思い出したように枕元に置いてある、ボロボロの大きな鞄を指差した。

「隼人、悪いんだけどよぉ、その中に、カメラが入ってるから、ちょっと、とってくれねぇか? 一番でけぇ奴」

 隼人は仁平の指示に従い、彼の鞄の中を覗き込んだ。その中から、銀と黒の光沢を放つ、大きなカメラを慎重に手に取る。

「これ?」

「おお、それだそれだ」

 仁平に手渡そうとすると、

「ああ、そうじゃねぇんだよ」

 と笑った。

「そのカメラでよ、俺を撮ってくれ、って言ったんだよ」

「俺が?」

「ああ、お前に撮って欲しいんだ。一つ頼むぜ」

 仁平が、被せていた布団を剥ぐと、その姿に隼人は驚愕した。

 その屈強な仁平の身体には、左太ももから先が無くなっていた。

 つまり、隼人の足と、同じ境遇になっていたのだ。


 中学二年生の夏休み。

 隼人はその日、母親のお使いの為に自転車で買い物に出かけていた。流れてくる汗がTシャツに纏わりつく、そんな、茹だるように暑い日だった。

 横断歩道が青信号に変わるのを待っていた時に、ふと隼人の横目に、こちらに目掛けて突っ込んでくる赤い軽自動車の姿が映った。恐怖を感じる間もなく、その軽自動車は軽々と隼人の体を自転車ごと吹き飛ばした。

 次の瞬間には、隼人は集中治療室のベッドの上にいた。痛みや衝撃を脳が拒否したのだろうか。車が突っ込んで来てからの記憶は殆ど無かった。ただ、運転席の老人が、苦しそうに胸を押さえている姿だけが、何故だか鮮明に脳裏に焼きついていた。

 ここはどこだろうと、体を動かそうとした時、隼人は自分の左太ももの先端に痛みを感じると言う、強い違和感を覚えた。起き上がる体力も気力も無かったが、感覚で理解が出来た。

 ――左足が、無くなってる……。

 薄く靄のかかった微睡むような意識の中、隼人はふと、幼い頃に、仁平に肩車をしてもらった日の光景を思い出した。

 後少しで、空を飛ぶ鳥に手が届きそうに思えたあの日の光景を、思い出していた。


「叔父さん、その足……」

 目の前の光景が信じられない。ショックのあまり、隼人は危うく仁平の大事なカメラを取り落としそうになってしまった。

「おお、こんな事になっちまったけどな。まあ、なっちまったもんはしょうがねぇだろ?」

 仁平は、弱々しくではあるが、確かに微笑んだ。

「命があっただけめっけもんなんだよ。いやなぁ、あれだよ、色々いい写真が取れてよ、いざ下山だって時になってよ、うっかりクレバスに落ちちまったんだよ。ポッカリ穴の開いてる所を塞ぐようによぅ、薄い氷が張ってあって、その上に雪が積もってたもんだから、全然気づかなかったぜ」

 クレバスとは、氷河や雪渓などに出来る、氷と氷の間を深く切り取ったような割れ目の事を指す。

「いやぁ、最初何が起こったのか全然分かんなかったんだよ。突然地面が消えたかと思ったら、目の前の景色がどんどん滑り落ちてってよ。まぁ、奇跡的に俺は数メートル落ちただけで済んだんだよ。でも、色んなとこが削れて痛ぇし、落ちた時に氷かなんかに引っかかったんだろうな、左の膝が、ウェアごとズタズタになっちまってよぉ。でも、不思議なんだが、その時はそんなに、痛みは無かったんだよなぁ」

 仁平はそこで、まるで懐かしいものを思い浮かべるように、薄くへへへと笑った。

「何笑ってんの?」

 隼人の声音が、仁平の薄笑いをかき消す。

「笑ってる場合じゃないでしょ! 足だよ! 足無くしたような事して、何でそんな笑ってるのさ! 叔父さん、ショックでおかしくなっちゃったんじゃないの?」

「……隼人」

「叔父さんが、危ないところ行って、写真撮ってきて、それを持ってきてくれるの、俺はすっごく嬉しいよ! 感謝してるよ! でも、俺は、叔父さんに、こんな風になるまで、こんな無茶してまでだなんて、思ってなかったんだよ! そりゃあ仕事だから、俺だけの為に撮ってきてくれてるなんて思ってる訳じゃないよ! でも、こんな、こんな怪我して……」

「違うぞ隼人」

「違うって何がさ! 現に叔父さんは、足を無くすまでの大怪我負ってんじゃん! 違わないよ! 何にも違わないでしょ!」

 その時、仁平は両掌を強く打ちつけた。パンと言う、強く、乾いた音が、隼人の心に刹那水を打つ。

「隼人、ちょっと落ち着こうぜ」

 枕元にあったティッシュの箱を、仁平は隼人に投げ渡した。そこで初めて、隼人は自分が泣いている事に気がついた。

「気持ちは嬉しいけどよぉ。ここは病院だ。あんまりでけぇ声は、迷惑になる」

「……ごめんなさい」

「……それにしてもよぉ、おめぇ、そんなでけぇ声も出るんだな。初めて聞いたぜ、お前のそんな声」

 隼人は、先ほどまでの自分を振り返り、少しだけ恥ずかしく思えた。

「多分あれだな、お前は俺の足を見て、無意識に、自分の時の事を思い出しちまったんだろうなぁ。いや、悪かったよ」

「そういう訳じゃないよ……」

 仁平の足を見て、ショックを受けたのは確かだった。だが、自分の足の事がフラッシュバックしたかと言えば、そんな事は無かった。ただ、叔父の足が無くなった事実の一因が自分にあるような気がして、そして、その事実に狂おしい程の衝動を感じて、思わず、叫んでしまったのだ。

 だけど、仁平に言われ、隼人は久々に、自分の心が平静を保つまでの日々を思い出した。

 それは、仁平のおかげで、すっかり思い出さなくなった筈の記憶だった。


 集中治療室から一般病棟に移れたのは、事故から3週間程が経過してからだった。

 軽自動車の運転手の老人は、どうやら運転中に急な心臓発作に襲われたらしかった。持病などは無かった為、運転中の不幸な出来事だったのだろうが、その不幸に、隼人は巻き込まれた。

 軽自動車とコンクリートの外壁に、隼人は左足を挟まれた形になり、病院に運ばれた時には、太ももから下の損傷は目も当てられない状況だったと言う。

「あのおじいさんは、どうなったの?」

 隼人の言葉に、母親は首を振るばかりだった。どうやら、事故に遭った時に亡くなったらしい。

 恨むべき相手もいなくなってしまったが、足がなくなった事にも変わりは無かった。幸い、向こうの遺族からの賠償金もあり、万全の治療の後、義足でのリハビリ生活が隼人を待っていた。大変な事もあったが、経過は順調だと先生も言ってくれた。だけどこの頃、隼人は酷い幻肢痛に悩まされる事になる。

 幻肢痛とは、既に失われてしまっている四肢の部位に、痛みを感じてしまうと言う、治療の難しい病である。実際には存在しない部位の痛みの為、痛み止めなどもあまり効果を期待出来ない。

 隼人の幻肢痛は特に酷く、時に潰されるような、時に刺すような痛みが、昼も夜も襲うような日が目立った。それと共に隼人を悩ませたのは、義足や幻肢痛を、誰かに嗤われているように感じると言う症状だった。

 リハビリ施設に、彼を嗤う者がいるはずが無い。だけれども、ふとした時に聞こえる笑い声や言葉が、自分を嘲笑っているように感じられ、隼人はリハビリを続ける事が出来なくなってしまった。

 幻肢痛と同じように、決定的な原因は分からないが、自分が足を失った事を、コンプレックスと感じ、それが精神の不安定を引き起こした幻聴ではないか、と言う結論が医者から下された。リハビリの先生や看護士さん、両親も、リハビリを続けるように励ましてくれた。誰も笑ったりしていないからと、そんなのは気のせいだよと、優しい言葉をかけてくれたが、すぐに誰ともつかない笑い声に苛まれてしまう。そんな時は、決まって足も痛んだ。義足で動けるようになってしまったら、人の多い所を歩かなくてはいけなくなる。そんな後ろ向きな考えも手伝い、隼人はリハビリに消極的になっていった。

 そんなある日、

「おーっす、隼人! 元気してるか?」

 仁平が、一年の南米巡りを終えて、真っ黒い肌で隼人の下へやってきたのだ。

「なぁ隼人、足見せてくれよ」

 この時隼人は、義足を隠すようにいつも長いズボンを履いていた。叔父の言葉にすら迷いを見せたが、

「な、頼むよ、この通りだ!」

 と、何度も何度も拝み倒してくる為、隼人は渋々、ズボンをめくって足を見せた。

「おー、すげぇな! 格好いいじゃねぇか。なぁ、触ってもいいか?」

 隼人の言葉を待たずに、仁平は大事そうに義足に手を触れた。

「おー、格好いいなぁ、これすげぇなぁ」

 無神経に思われるその行為が、何故だか不思議と嫌な感じがしなかったのは、相手が仁平だったからだろうか。

「格好いい?」

「おうよ。ちょっと、歩いてみてくれよ」

「うまく歩けないよ。リハビリ、サボってるから」

「ちょっとでいいんだよ! ちょっとで、な。頼むぜ!」

「ちょっと?」

「ちょっとだけ、ちょっとでいいからよ!」

「……しょうがないなぁ」

 本当にしょうがない、と言う気持ちで、隼人は立ち上がり、松葉杖を片手に歩いて見せた。リハビリを放棄してはいたが、杖をついてだったら、ある程度なら歩けるようになっていた。

「おお、すげぇな! なんか、あれだな、上手く言えねぇけど、未来! って感じがするな!」

「そんないいもんじゃないよ」

「いいもんじゃねぇかもしんねぇけどよ、なんか、格好いいな! それに、サボってるとか言って、ちゃんと歩けてんじゃねぇかよ。こっそり練習してやがんな~」

 その時、義足の足をつける位置を失敗し、膝に力を入れられず、隼人はその場に転びそうになった。あわやと言う所で、仁平が抱きとめる。

「ほら、サボってるから、転んじゃった」

「そんな事ねぇよ。こんだけ歩けるんだったら、立派なもんじゃねぇか」

「……叔父さん、俺ね」

 そこで隼人は、幻肢痛の事と、そして、どうして自分がリハビリを避けているのかを、仁平に話して聞かせた。

「みんなは、そんなのは気のせいだって言うんだけどさ。俺、なんか、嫌になっちゃって」

「そうかそうか、それは辛ぇなぁ。よし、辞めちまおうぜ、リハビリ」

「……え?」

「そんなに辛ぇんなら、無理する事はねぇよ」

「いや、でも……、やらないと、歩けるようにならないし」

「十分歩けてるじゃねぇか」

「転んじゃったでしょ」

「たまたまだよ、たまたま」

「たまたまじゃないよ。俺、ここにリハビリの為に入院して結構経つけど、いっつも、杖をついても転んじゃって上手く歩けないんだよ」

「歩けないといけねぇのか?」

「だって、歩けるようにならないと……」

 仁平は抱きとめていた隼人を、慎重にベッドに座らせ、隼人に一枚の写真を手渡した。それは、南米の遺跡を悠々と飛ぶ鳥の群れを、遺跡が収まるように俯瞰で撮った写真だった。

「ペルーの天空遺跡をよぉ、撮りまくった時に偶然撮れた、今回のベストショットだ」

 叔父が手渡してくれた写真は素晴らしかった。

 奇跡とも言える天空の遺跡、そこを悠々と飛ぶ一羽の鳥が、雄々しくもあり、儚げでもあった。

 一年の南米の旅、その最高の一枚がこれだと言われても、納得の出来る写真だった。

「なぁ隼人。俺は見ての通り、がさつだし、人の心の中の事とかはよくわかんねぇ。でもよぉ、いくら気のせいだって言われたって、おめぇは確かに、足が痛ぇし、誰かの嗤い声が聞こえて、嫌ぁな気持ちになってんだろ? おめぇは十分頑張ってるじゃねぇか。俺には、隼人がこれ以上無理してまで頑張らなきゃいけねぇって道理に、納得が出来ねぇんだよ」

 仁平は自分の言葉を噛みしめるように、うんうんと頷く。

「外の景色なら、こんな風にこれからも、俺がバンバン写真持ってきてやるよ。寧ろ他の奴なんかより、世界中の色んな景色を一杯見せてやるよ。俺はよ、今はおめぇは、もっと別な事を色々やってみるのもいいんじゃねぇかって思うんだよ。世界中飛び回ってる俺が言うのも変だけどよ、外に出るだけが、世界との繋がりじゃねぇと思うんだよ」

 隼人に握られた天空都市の写真に、図らずも、一滴二滴の雨が降った。

 これが自分の答えだと、隼人も理解した。

 その後仁平は、隼人がリハビリを途中で辞めて、家に帰る為に尽力してくれた。学校にもすぐに行かなくてもいいように隼人の母親を説得し、いつ隼人がリハビリを再開してもいいように病院に頭を下げ、関係してくれた人達に礼儀を尽くしてくれた。あの大きな体を折り曲げて、隼人の為に動いてくれたのだ。

 あの仁平の助言と判断が、本当に正しかったかどうかは今も分からない。だけど、隼人は確かに強く感謝をしたし、足の痛みも、心を苛む嘲笑も、驚く程少なくなったのだ。


「そんな事よりよ、写真撮ってくれって」

 やれやれと思いながら、隼人は仁平のカメラを覗き込み、ファインダーの中に収めた。

 2度、3度とシャッターを切り、叔父に手渡し、確認をしてもらう。

「おお、俺、マジで弱ってんな~」

 応急処置だけを向こうでして、たったの一週間で無理矢理帰国した。既に叔父さんの大まかな様子は母親から聞いていたが、まさか足を無くす程の大怪我をしていたとは、完全に想像の埒外だった。リハビリ含め、ちゃんとした治療などは全てこれからだと言うのに、足を無くしても尚、冬端仁平は冬端仁平だった。

「叔父さんさ」

「ん?」

「なんでそんなに強いの?」

「ん? どう言う意味だ?」

「普通はさ、足を無くしても笑ってられるなんて、絶対無理だよ」

「いやいや、俺は強くなんかねぇさ。クレバスに落ちた時もよぉ、もう嫌って程死を覚悟したしな。でもな、そんな時によ、クレバスの上を、鳥が飛んだんだよ」

「鳥?」

「ああ、鳥の影がよぉ、何羽も何羽も横切ってよ。あぁ、鳥だって思ったんだよ、そしたらよ、急におめぇの事思い出したんだ」

「……俺のこと?」

「お前に、また写真渡してやりてぇなって思ったんだよ。今回も、いい写真撮れたって思ってな。そしたらよ、なにくそ! って、死ねるかって、思ってよ」

「そんな大怪我してまで、俺に写真を?」

「この足だってよ、おめぇのお陰で全然平気に思えるんだぜ?」

「俺のお陰って、どう言うことさ」

「多分、俺一人だったらよ、足を無くしちまった事に耐えられなかったかもしれねぇ。でもよ、隼人、お前はもうずっと前から、俺の前で、その足で普通に生きてるじゃねぇか。そう思ったらよ、ああ、別に怖ぇもんじゃねぇなって、隼人のお陰で、そう思えるんだよなぁ」

 仁平はそう言うと、またへへへと笑った。

 リハビリを最後までこなせなかった自分だが、家の中で動く事で、確かに日常生活をなんなくこなせるまでにはなっていた。だけど……。

「俺、俺の足が、足を無くした事が、誰かの役に立つ時が来るなんて、想像もしなかったよ」

「……そう言うもんなんだよ。俺だってよぉ、俺の撮った写真が、誰かの希望になるなんて考えながら撮った訳じゃねぇ。だけどよ、俺がいいと思って撮った写真が、誰かにいいって言ってもらったら、頑張ってよかったって思うんだよ。おめぇはあの時、確かにすげぇ頑張ってたし、今だって、頑張って生きてるじゃねぇか。その頑張りが、俺にとっての希望になったって、何の不思議もねぇよ」

 胸の内に、熱いものがこみ上げてくるのを、隼人は押さえ切れなかった。

 戦う事を諦めてしまった筈だった自分の生き様が、自分を救ってくれた人の絶望を希望に変えた。その事実が、隼人の心を強く揺さぶらない筈が無かった。

「ありがとな、隼人」

 隼人はただただ、押し寄せる感情の波に負けぬよう、叔父に首を振ることしか出来なかった。


 6年後。

 隼人はカメラを構えて、ネパールのマナスルと言う雪山の麓から、山頂を狙っていた。

 仁平のリハビリに付き添っていた隼人は、自身の経験を踏まえ、必死に彼をサポートした。そのまま、叔父の成長度合いに合わせて、共にリハビリを再開したのである。仁平が再び山に登れるようになるまでを目標に定めた為、結果として、隼人も相応のレベルまで到達する事が出来た。

 無いはずの足が痛んだり、聞こえない筈の笑い声が聞こえたり、そう言ったことが完全に消えた訳では無い。だが、少年だった頃よりは、上手に付き合えるようになったと思う。

 仁平のリハビリに付き合う代わりに、隼人は空いた時間にカメラの技術を教わった。リハビリの一環として行った国内での山登りに隼人も付き合い、写真を撮る魅力にも、徐々に嵌っていったのだ。

「この世界は奥が深けえぞぉ。まぁ、無茶しねぇ程度に、好きにやってみな」

 からかうような、素っ気無いような口ぶりとは裏腹に、仁平は嬉しくて仕方ないと言う表情を浮かべていた。

 初めての海外遠征は、仁平に付き添わせてもらう事にした。両親を叔父と二人係りで説得し、足の事も考慮して余裕のあるタイムスケジュールを組んだ。

 これから山を登り、道中で沢山写真を撮る。胸の高鳴りを感じつつ、ここまで連れてきたくれた足を一撫でした。

 登る前に数枚と思い、山頂に向けてカメラを構えていると、不意にファインダーの中に、数羽の鳥の群れが飛び込んできた。

 あの病室で叔父が言ってくれた言葉が思い浮かばれる。

 逃げと諦めでしかなかったと思っていた自分の人生が、誰かの希望になる事もあるのだと、思えたこと。

 自分も叔父のように、誰かが希望に羽ばたく翼の、ほんの一片にでもなれたらいいなと、思えたこと。

 なにもかもが翼になりえるのだと、思えたこと。

「おーい隼人! そろそろ行くぞ~!」

 キャンプから、仁平の声が聞こえる。さぁ、出発の時間だ。

 悠々と羽ばたく鳥は、冬の山によく映える。軽い挨拶を交わすように、2度だけシャッターを押し、隼人はすっかり走ることにも慣れた足を弾ませ、叔父の元へと駆けていった。


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