現在 (5)
我に返ると、ぼくはアパートの自分の部屋にいた。
いつどのように帰ってきたか、記憶がまるごと抜け落ちている。弘美の死体を見つけ、頭が真っ白になったと思えば、次にはもうこうして部屋の敷き布団に寝転がっていた。
弘美は殺されていた――紛れもなく、あれは他殺だ。右手が切り落とされていることからも疑いようがない。
そして――ぼくが自分の目で確かめたわけではないが、死因はおそらく絞殺だろう。
二年前に起きた殺人事件にならうならの話だが、そうに違いない。
考えているうちにいつの間にか、夜が明けていた。
あれからどうなっただろう? 弘美の死体は、もう発見者されただろうか?
警察がぼくのところにくるのも時間の問題だ。ぼくが弘美のアパートを出入りするところは監視カメラに映っているだろうし、部屋にも指紋が残っているはずだ。
ぼくには弘美を失った悲しみにくれる暇も与えられないのか?
そっとしておいてほしい。静かに一人で、弘美の喪にふくさせてもらいたい。
だが、ぼくのささやかな願いは裏切られた。案外、そのときは早くやってきた。
夕暮れに缶酎ハイを飲んでいると、遠慮のないノック音が部屋に響いた。
「うるさいっ……」
邪魔をされて苛立ちつつ、ぼくは玄関に行く。
ドアを細めにあけてのぞいてみる。外に立っているのは背広姿の二人組の男性だった。一人は短髪で小柄、もう一人は丸坊主で中肉中背だ。
ぴんときた。彼らは刑事だ。
「すみません。警察の者ですが」
言って、二人は警察手帳をかざす。分かってはいても緊張する。これが国家権力というものか。
「綿貫……耀太さん、ですね?」
言わずもがなのことを、丸坊主刑事はきく。ぼくは頷いた。
「では、綿貫さん。お話をききたいので、すみませんが署の方までご同行を願えますか?」
警察署へ任意同行――つまりぼくは容疑者扱いというわけだ。
断ってしまいたいが、そんなことをすればより疑いを深めて、自分で自分の首を絞めるはめになる。
しぶしぶ、ぼくは応じた。
「あなたが別れたあとも、被害者にしつこくつきまとっていたことは、多くの証言を得ています」
開口一番、丸坊主刑事は言った。直球勝負、というわけた。
警察署内の、殺風景な取調室だった。部屋の中央にぼくと丸坊主刑事が向かい合って座っているスチールの机とパイプ椅子。ぼくの背後の壁には鉄格子のはめられた小窓。出入り口のある壁の右隅の机では、女性警官の記録係がこちらに見向きもせずにパソコン画面を凝視している。ちなみに短髪刑事は丸坊主刑事の後ろで棒立ちしている。というかこの刑事、ぼくのアパートにきてからここまで、一言も発していないんだが。あらかじめ口を挟むなと釘を差されてでもいるのか、それともぼくの知らない役割があって、それまではまず丸坊主刑事に任せているということか。
自分が犯人にされるかどうかの瀬戸際だというのに、ぼくは暢気にそんなことを考えていた。
日本の警察は刑事ドラマのような無能じゃない。それに、あそこまで権力を笠にきて横柄に振る舞ってもいない。警察はドラマの印象でだいぶ損をしていると思う。
だから正直にすべてを話せば、ぼくへの疑いなんかすぐに晴れるに決まっている。ぼくは警察を信用している。
「……綿貫さん、きいてますか?」
丸坊主刑事が不審そうに見てくる。
「すみません、ちょっと考え事を」
都合が悪いことをきかれて黙秘を決め込んでいると思われたらたまらない――ぼくは慌てて答えた。丸坊主刑事の表情は変わらない。
「つまり、あなたには吾妻さんを殺害する立派な動機があるというわけですよ」
丸坊主刑事は、はっきりと言う。ここまで言われると、逆に気持ちがいい。
「事件当夜、あなたが被害者宅に出入りしていたことも、すでに裏がとれてます」
ぼくを真正面から見つめる、丸坊主刑事の眼光は鋭い。ここで目をそらしたら負けな気がして、ぼくは彼を見つめ返した。
「本気ですか? 本気でぼくは弘美を殺したと?」
ついぼくは自嘲してしまう。
「仮にあなた自身に犯行が不可能であることが立証されたとしても、誰かに殺害を依頼することはできるでしょう」
なるほど、そうきたか――丸坊主刑事の切り返しに、ぼくは素直に感心した。
「収入のない今のぼくに、そんなお金があるように見えますか?」
身の潔白を証明するためなら、恥をさらすのもいとわない。
だが丸坊主刑事は、口元に笑みを浮かべた。
「そんなのことは大した問題ではありませんよ。例えばですが、今すぐにも二つ思い付きます」
口調こそ慇懃だが、その雰囲気は威圧感を覚える。
「一つ。互いに共通した目的――つまり吾妻さんがいなくなること自体がなにがしかの利益を生む場合」
丸坊主刑事は、指を一本折ってみせた。
「一つ。あなたが相手の弱味を握り、脅して従わせた場合」
更に指を一本折った。
「…………」
なんだか旗色が悪くなってきた。やっぱり刑事の方が一枚上手だ。どうにかして反撃しなければ――。
「……仮に刑事さんの仰る通りだとして、それならどうしてぼくは、弘美の右手を切らせたりしたんですか?」
「二年前の事件……綿貫さんも無関係ではないので覚えておいででしょう?」
とりあえず頷いて、先を促す。
「残念ながら、あの事件の犯人はいまだに判明しておりません……それを利用して、あなたは今回の犯行をその事件の犯人の仕業に見せかけるよう仕向けたとは、考えられませんか? 第一発見者であるあなたなら、当時の遺体の状態を真似るのは容易でしょう?」
刑事のこの言葉のおかげで、逆転の兆しが見えてきた。
「……それではおききしますが、その切り落とした右手というのは、もう見つかったんですか?」
「いえ……まだですが?」
訝しげに丸坊主刑事は答える。
「それはおかしいですよ。だって二年前の事件では、事件発生の二、三日後に被害者の知人宅の前に、ダンボールに入れた右手が置かれていたはずですよね? こんな中途半端な模倣では無意味でじゃないですか」
テレビのワイドショーや新聞でも取り上げられていたほどだから、誰でも知っている情報だ。
まったくこの刑事も意地が悪い。二年前の事件と今度の事件にいくつかの相違点があるのを承知していながら、こうやってぼくに揺さぶりをかけてくるのだから。
弘美を殺したのが誰であれ、二年前の事件を完璧に模倣するつもりがないのは明らかだった。
それなら――二年前と同じ犯行だと見せかける目的でないなら、犯人はどうして弘美の右手を切断して持ち去ったのだろう?
「そうですね……あくまで今のところは、ですが」
「それなら現時点では、ぼくが犯人だとする確たる証拠はないと?」
「ええ、そういうことになりますか」
丸坊主刑事はやけにあっさりと認めた。
「なら、もう帰ってもいいですよね?」
ぼくは椅子から腰を上げた。
「構いませんよ。また、こうしてお話しするときがくるかも知れませんが、その際もご協力お願いします」
ただの負け惜しみなのか、それとも何らかの確信があってのことなのか、ぼくには判断がつかなかった。