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二年前 (1)

  弘美と最初に出会ったのは、仕事で外回りに出ていたときのことだ。

 いきなり大きな音がしたのでそちらを見ると、サングラスをかけた初老の男性が、何台もの自転車の上に覆い被さるように、うつ伏せに倒れていた。

 どうやら、歩道の駐輪スペースをはみ出した自転車につまづいてしまったらしい。男性の傍らには杖が落ちている。

 自転車は点字ブロック上にまで及び、視覚に障害がある男性の行く手を阻んでいたようだ。

 他の通行人は男性をちらと一瞥して、急ぎ足で通り過ぎるばかりだ。

 ぼくもまだ仕事中で忙しく、時間はない。だがそれがどうしたというんだ? そんなものは自身の罪悪感を和らげる言い訳に過ぎない。

 名前も知らない通行人たちに苛立ちを覚えてながら、ぼくは男性の元へ駆け寄った。


 「大丈夫ですか?」


 ぼくが声をかけると男性は驚いたように顔をあげたが、次には安堵のためか表情をゆるませた。


 「怪我はしてないですか? ぼくの肩につかまってください」


 言って男性に肩をかして立ち上がらせる。それから拾った杖を渡した。


 「……ありがとうございます。助かりました」


 男性は笑顔で礼を言い、去っていった。


 「……さて、と」


 歩道に横倒しになっている自転車を見下ろして、ぼくは呟いた。


 自転車は六台――いや、七台か。

 携帯で時間を見る。このままだと予定までに仕事が間に合わない。


 「しょうがない、か……」


 ぼくは潔く諦めて、自転車を一台ずつ起こし、駐輪スペース内に並べはじめた。

 もし仕事が遅れたことで上司に叱られた際にどう言い訳するかを、考えながら。

 そのとき、一人の通行人が近付いてきて、倒れている自転車のうちの一台に手をかけた。


 「わたしも、手伝います」


 通行人の方に顔を向けたぼくは、思わず言葉を失った。


 若い女性だった。目鼻立ちがはっきりした顔に、スレンダーな体型、そして白くて形のいい、その手――。

 とても美しい女性だというのが、ぼくの第一印象だった。つい見惚れてしまったのも無理はない。


 「あっ……す、すみません」


 赤面してないか不安になりつつ、ぼくはやっと言葉を返した。

 女性はぼくの言葉ににっこりと微笑むと、自転車の整理を手伝ってくれた。

 その女性こそが吾妻弘美で、これが彼女との初対面だった。

 どうやら弘美は、ぼくが男性を助け起こす一連の流れを車道を挟んだ対面の歩道から見ていたらしい。それから信号が青になるのを待って、わざわざ手伝いにきてくれたようだ。


 「都会では珍しい、親切な人がいるんだなと思って……あ、ごめんなさい。珍しいだなんて、失礼な言い方をして」


 「いえ、いいんですよ。どうにもぼくは昔から困ってる人を放っておけない性分で……知人からは『損な役回りだ』なんて、よく言われますよ」


 そんな会話を交わしたことを覚えている。人生、何がきっかけになるか分からないもので、このときはまさかこんなきれいな女性と付き合えるようになるとは、夢にも思わなかった。



その日、久しぶりに互いの休日が重なったので、デートをした。多忙な弘美はなかなか休みがとれないが、そのことで彼女が愚痴をこぼすようなことはない。今の仕事にやりがいを感じているようだ。ただ食べていくために日々の仕事をこなしているだけのぼくには、そんな弘美がときおり眩しく見えた。

 付き合いはじめた当初はこんな自分がはたして彼女と釣り合うのかと卑屈にもなっていたが、ここ最近になって慣れてきたのか、むしろこんな彼女がいることが誇らしく思えるようになっていた。

 立ち並ぶ店を冷やかしながら、二人で歩く。つないだ弘美の手の感触が、彼女をよりいとおしい存在であると実感させてくれた。

 ぼくには人を楽しませる話術も、洒落た店などの情報も、端正な容貌すら持っていない。そんな自分をなぜ弘美が選んでくれたのか疑問に思う一方、いつ愛想を尽かさせるかと不安に思うときもある。

 それでもこうやって強く弘美の手を握り、その温もりを感じていると、そんなことはすべて些末で、心配性な自分の杞憂に過ぎないように思えてくる。

 不安も悩みも心労も何もかも、弘美と手をつなぎ、彼女の笑顔を見たとたんに吹き飛んでしまう。

 誰かを本気で愛するというのは、こういう状態なんだろう。


 「――ねえ、耀太」


 弘美が口を開く。


 「? 何?」


 「耀太は、腕時計ってつけないの?」


 唐突な質問に、ぼくは面食らった。


 「つけないけど……どうして?」


 「だって、ないと不便じゃない? 仕事でもあった方がよくない?」


 ぼくは何もはめていない自分の左腕につい目をやる。


 「まあ、ぼくも必要だとは思うんだけど……」


 「なら、どうして?」


 「金属アレルギーだからね。すぐかぶれちゃってさ」


 それで弘美は納得した。


 「だったら、やっぱり服装か……」


 弘美は何かを思案している表情をしていた。 


 「どういうこと?」


 「耀太のファッションセンスのことよ」


 こたえて、弘美はぼくを上から下まで眺めてみせる。


 「前から思っていたんだけど、いつも変わり映えがしないっていうか……」


 弘美は言葉を濁すが、つまりぼくの格好がださいのだろう。自分では気にしたことはないが。


  「そ、そんなに変……かな?」


 少し――いや、かなりへこんだ。


 「違うの。今のままが別に悪いっていうわけじゃないんだけど、何かもったいないなぁって。せっかく顔はいいのに」


 「ぼくの顔が? こんな顔、どこにでもいると思うけど」


 「いいのよ。わたしの好きな顔なんだから」


 拗ねたような顔が、素直に可愛いと思った。




 幸福な時間に限って過ぎるのが早い。

 駅前で弘美と別れ、ぼくは徒歩で帰った。

 本音を言うと、もっと一緒にいたかったし、あわよくば一晩を過ごしたいという希望もあったが、しょうがない。機会はこれから先もあるだろうし、慌てず急がずでいこう。あまりがつがつしすぎて弘美に幻滅されては元も子もない。

 いつかはぼくも結婚して子どもも産まれ、家庭をもつ日がくるのだろう。夫として、父親として一家を支え、忙しくも充実した人生を送っていくのだろう。

 結婚適齢期を迎えた今、そんな自分の将来について考えることが多くなっていた。

 自分が一家の大黒柱となる姿はうまく想像できない――それでも願わくば、家庭を築くなら弘美が相手でいてほしいと思っていた。


 月明かりの下、夜道を一人きりで歩く。

 左に月極駐車場が見えてきた。

 駐車場の前を横切る。特に意味はなかったが、ふとそちらに支線が向いていた。

 トラックや軽自動車などが、今もまばらに停まっている。


 「…………?」


 ぼくは足を止めた。改めて駐車場内に目をこらす。

 右手前の地面に、何かが落ちていた。大きい物体だ。ここからだと暗くて、それしか分からない。

 いったい何だろう? 妙に気になる。

 興味をひかれるまま、その物体に近付く。

 ぼくはゆっくりと、歩み寄る――。


 「――ひっ!」


 物体の正体を知り、思わず身をひいた。

 それは、人間だった。生身の人間が、駐車場の地面に横たわっていたのだ。

 女性だ――おそらく二十代後半くらいの。おそらく、といったのは、うつ伏せになって横を向いた顔が、元の顔つきが思い描くのが難しいほど歪んでいたからだ。

 絞め殺されたらしく鬱血した顔、ぎりぎりまで見開かれた両目、歯の間からはみ出した長い舌――。


 女性は、死んでいた。


 だがおかしなことに、絞殺されているにもかかわらず、女性の倒れている地面には血だまりができている。

 それに疑問を抱いてようやく、ぼくは女性の死体に右手がないことに気付いた。いまさら気づくとは、ぼくはどれだけ動揺しているんだ?


 落ち着け、冷静になれ――ぼくが今しなければならないことは一つだけだ。


 震えが止まらない手で携帯を取りだしたぼくは、何度も押し間違いながらも110番にかけた。

 警察がくるまでの間を、気が遠くなるくらい長く感じていた。

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