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 ひかれたカーテンが邪魔で、中の様子がうかがえない。隙間からもれる明かりからまだ起きていることが分かる程度だ。

 目を凝らしても無駄だ。持参した双眼鏡もまるで役には立たない。

 弘美の現在の住居であるアパートの前――夜更けの路上をうろうろしながら、ぼくはときおり彼女の部屋の窓に目をやっていた。

 今、部屋にいるのは弘美一人なのだろうか? あの彼氏だとかいう男もいるのか? 二人で何をしている――まさか、肉体関係を結んでいるんじゃないだろうな?

 部屋の中が見えないことで、想像はぼくの望まない方向へ膨らんでいき、相手の男に殺意すら抱きかけた。

 コンビニの前で彼氏――いや、ぼくは断じて二人を恋人同士とは認めないが――といちゃつく弘美と会って再度別れを告げられても、ぼくはまだ彼女を深く愛していた。ぼくの弘美への想いはあんなことではゆるがない。怒りもしたし恨みもしたが、まだ完全に寄りを戻せる可能性が潰えたとは思わない。ぼくの弘美への愛情は決して消えない。なぜならぼくが彼女への未練を断ち切れば、それこそほんのわずかな可能性すら、自らの手で摘み取ってしまうことに他ならないからだ。

 そういう考えにいたってぼくはあれから諦めきれず、かといって何を話せばいいか思いつかないまま、彼女のアパートに足を運んでは無為に時間を費やしていた。

 

 自分のしていることの空しさは自覚しているつもりだ。男として情けないのは百も承知だ。だがぼくはどうしても弘美を諦められないんだ。

 かつて握った、弘美の柔らかくて暖かな手の感触――そうやって二人で手をつないで歩いているときが、ぼくは幸せだった。

 そう――弘美の手が、特にぼくは好きだった。細い腕、長い指。彼女の手はとても美しかった。

 あんなきれいな手の持ち主は、全国に二人と存在しない――というのは言い過ぎか。だが惚れるというのは本来そういうことだろう。

 

 深呼吸をくりかえして、怒りを鎮める。ここはぼくの寛容さが求められる、いわば正念場だ。男として器の大きなところ見せて、いつでも弘美がぼくのところに戻ってきてもいいように、余裕をもって待っているべきだ。

 ――とは頭では思うのと、実際にそれができるかどうかは別問題だ。

 結論として、ぼくには無理だと判断した――というか、それができるような人間なら、弘美のアパートまで彼女の様子を見に行ったりはしない。

 

 「…………あ」

 

 そこでぼくは、とんでもないことに気付いた。

 

 「これ、まるっきりストーカーみたいだな……」

 

 というか、傍から見ればストーカーそのものじゃないか? 夜毎、自分を振った女の自宅の近くまで赴く男――あきらかに不審者だ。通報されてもおかしくない。いや、ぼくがその立場なら間違いなく通報する。

 だが弘美自身がぼくを避けている以上、いたしかたないことだ。

 近隣の住民に顔を覚えられないよう、一応キャップを目深にかぶってうつむきがちにしてはいるものの、それに果たして意味があるかは大いに疑問だ。それでも何も対策をしないよりはましだろう――多分。

 日中ではなく人目につかない夜を選んだのも、そのためだ。

 誰かが警察に通報しないことを祈るばかりだ。


 そんな日々が何日も続いた。そのうち自分が何のためにこんなことをしているのか、分からなくなってきた。

 弘美と会ってどうする? 彼女がぼくの話に耳を貸さなければどうにもならない。これまでの努力が水の泡になるだけだ。

 なら、何をすればいい? ぼくはいったい何がしたい?

 今の男と別れてくれとでも言うつもりか? そんな説得で、本当に弘美が応じるとでも?

 無理に決まっている――ぼくだって馬鹿じゃない。本当は理解している。また元の鞘におさまる可能性が限りなくゼロに近いことぐらい。

 だがそれでもできる限りの手は打つべきだ。最近のぼくにしては、ずいぶんと前向きな思考だ。それが正しいかどうかは別として。

 弘美のいないぼくの人生が、どうしたって想像できない。想像しようとするだけで苦痛を伴う。

 だからこれからの未来について、ぼくは考えるのを止めた。考えたところでいずれ待っているのは暗い未来だ。

 そんな未来なら、いっそない方がいい。もともとぼくなんて弘美がいなければ生きていけない。

 ぼくあっての弘美で、弘美あってのぼくなんだから。

 

 悩んでいてもしょうがない――男と一緒だろうが知ったことか。出たとこ勝負、当たって砕けろだ。

 結局、ぼくの頭ではろくなアイディアが浮かばず、出た結論はそんなお粗末なものだった。

 弘美の部屋の前に立ち、インターフォンを鳴らしてしばらく待ったものの、部屋からは何の反応もない。

 何となしにドアノブに手を伸ばす。意外にも、鍵がかかっていなかった。

 

 「不用心、だな……」

 

 弘美もぼくになんかに言われたくはないだろうが、元彼氏として心配になる。

 ドアをあける。廊下は明るい。 


 「……弘美?」

 

 声をかけてみても、返事すらない。電気が点っているなら眠っているということはないだろう――居留守、だろうか?


 「弘美? おいってば」

 

 靴を脱ぎ、廊下にあがった。もし文句を言われたら鍵があいていて返答もないから心配になったからとでも言い訳すればいいだろう。

 リビングには誰もいない。バスルームの電気は消えている。残るは寝室だけだ。

 寝室のドアを開けた。明かりは消えている。

 

 「弘美、か?」

 

 やっぱり弘美は寝てしまっているのか? 電気をすべて消さずに?

 仕事の関係者や友人と酒でも飲んで、帰宅するなり酔い潰れて眠ってしまった? いやそれほど酔っていたならまず一人で帰るには難しいだろうし、彼女をここまで付き添って送ってきた人間が部屋の明かりを消すに決まっている。

 疑問には思うが、それもぼくの頭では考え付かないというだけで、いずれどうということのない理由だろう。

 自分なりにそう結論付けて、ぼくはドアの脇にあるスィッチを探り、電気を点けた。

 

 「…………え?」

 

 自分の目に映ったものが信じられなかった――というより、自分が見ているものが何なのか、何を意味しているのか、すぐに理解が及ばなかったという方が正しい。

 

 弘美はベッドで横になっていた。

 

 眠っている――弘美は眠っているのか? そう思ったのは一瞬だった。

 違う。弘美は眠ってなんかいない――わざわざ傍にいって呼吸の有無や脈拍を確認するまでもなく、一目見れば分かることじゃないか。

 

 弘美は、死んでいた。

 

 弘美の死体は、服を着たままだった。きちんと両足をそろえて仰向けになり、両目を閉じている。その様子はただ眠っているようにしか見えない。

 それなのにどうして、ぼくには死んでいることが分かったかというと――弘美の死体には、ある一つの異常があったからだ。

 

 弘美には、右手がなかった。

 

 かつて別れを告げた際、ぼくに振ってみせたあのきれいな右手が――惨たらしい断面とわずかな血痕を残し、今の弘美から失われていたのだった。

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