現在 (2)
体が怠い。何もする気が起きない。
早く仕事を探さないといけないのは分かっているものの、どうせまたすぐに辞めるはめになると思うと、どうしても気が乗らない。
そもそも、外に出るのが面倒だ。他人だろうが知人だろうが、人に会うのが憂鬱で――あ、弘美は例外だ。
ちなみに今のぼくが住んでいるのは、昭和中期ぐらいに建てられた木造のボロアパートだ。
ぼくがいまだにこんなところに身を置いているのは、何も家賃が安いからだけじゃない。事実、前はもっとましなワンルームマンションに住んでいた。
引っ越さないのは、引っ越すだけの理由がないからだ。前のマンションを引き払ったのは人目を気にしてのことで、このアパートを選んだのは弘美のマンションに近く、なおかつ周りに知っている顔がないためだった。
手狭で薄汚いぼくの部屋は、ゴミ溜めと化していた。屑籠は丸めたティッシュやチラシで溢れ返り、台所の流しの中はカップラーメンやコンビニ弁当の空の容器が山積みになっている。
さすがに臭いがきつく、お隣から苦情も受けてもいたが、彼らはまるで分かっていない。外のゴミ捨て場まで行くだけでも、ぼくにとっては重労働なんだ。少なくとも、彼らよりは。
そういえば散髪にも行っていないから、髪も伸びるにまかせている。外出する機会が極端に少ないため、身だしなみもおろそかだ。さすがにデートのときはそれなりに気をつかうが、それはぼくにとってのそれなりで、他人のそれとはだいぶ差がある。以前も弘美に、「そのまま葬儀にでも出席できそうね」と冗談まじりに言われたこともあるほど、地味な服しか持っていなかった。
ふと携帯を手にして、着信履歴を確かめる。
電話もメールも、ともにゼロ件――がっくりと肩を落とす。
もしかして弘美は本気なのか? 本気でぼくと縁を切るつもりなのか?
ぼくの不甲斐なさに呆れ果て、ついに愛想を尽かしたというのか?
昨日――弘美に別れを切り出されてから、何度も彼女と連絡をとろうとした結果がこの通り。電話には出ず、メールも返そうとしない。
ぼくには弘美しかいない。ぼくのことを理解してくれるのは弘美だけだ。弘美がいなければ、ぼくはこの先何のために生きていけばいいんだ?
あのときはお互い冷静じゃなかった。弘美も勢いあまってあんなことを口走ってしまったものの、今頃はきっと後悔しているはずだ。でもあんなことを言った手前、ぼくと話すのをためらっているんだ。きっと、そうだ。
ぼくが気にしていないことを伝えて弘美を安心させてあげれば、また元の関係に戻れるだろう。
いくら好き合ってる間柄でも、喧嘩ぐらいはする。それで興奮して、思ってもいないことを言ったりもする。今回もその類いだ。
とにかく、昨日の話は嘘だ。全部なしだ。すっかり水に流して忘れてしまえばいい。
だいたい仕事を辞めたのは、ぼくのせいじゃない。あいつらが悪いんだ。それぐらい弘美もよく知ってるだろうに。
くぅっ――と胃が空腹を訴えたところで、考えるのをやめる。先に腹を満たそう。
だが、冷蔵庫にも棚の中にもろくなものがなかった。ジャンクフードすらないというのはどういうことだ? 普段は一定量はストックがあったはずなのに。
そういえば、最後に買い出しに行ったのはいつだったか――思い出せない。つまりそれほど前だということか。
出不精、ここに極まれり。
しょうがない、コンビニに行くとするか――ぼくは重い腰をあげる。髪型を整えたり外出着に着替えた方がいいんだろうけど、別に遠出をするわけじゃなし、往復で二十分もかからないし、部屋着のままでも構わないだろう。
そういうわけで、ぼくは財布だけを持って、部屋の玄関のドアをあけ――
「暑っ――」
ドアを閉めた。
何なんだ今の暑さは? 八月の太陽からは人類に対する害意が感じられる。
こんな灼熱地獄の中を、ぼくは進まなければならないというのか? なんという絶望だ。
食料を得るため――生きるためにあえてこの身を危険にさらせというのか?
何かを得るには相応の対価が必要だという、等価交換というわけか――それならまったく割りに合わない。 ぼくはとうに大きな対価を払っている。
そう、己の人生という対価を。