現在 (1)
「ところで、さ……」
気まずい沈黙を最初に破ったのは、吾妻弘美の方だった。
やっとお互いの予定があった、せっかくのデート――せっかくの二人で過ごせる時間だというのに、弘美の口数は極端に少なかった。
声を出すときといえば、ぼくの言葉に「うん」とか「そうだね」と返す、素っ気ない相槌ばかりだった。
そんなにぼくといるのが退屈なのかと不安に思ったとき、今になって始めて弘美の方から話しかけてくれたのだ。 今日のデートのために事前にチェックしておいた、店内に飾られたアンティークの小物がお洒落なカフェだった。ぼくはブラックコーヒー、弘美はホットチョコレートを注文し、お互いに一度、カップに口をつけた後のことだった。
「……ん、何?」
弘美の顔を見て、これがあまり歓迎できない話題であるとすぐに察した。カップにそえた彼女の手には力がこもっているし、その表情もかたい。
――と、カップの中身にじっと注がれていた弘美の目が、こちらに向いた。
「わたしと、別れてほしいの」
頭の中が真っ白になった。やっと話題を振ってくれたと思えば、いったい何を言い出すんだ? 考えうる限りの、最悪の話題じゃないか。
「い、いきな、いきなり何を――」
「いきなりじゃないわ。前からずっと考えてきたことなの」
それはあくまで弘美にとっての話で、ぼくにとっては寝耳に水だ。
「理由を、理由を教えてくれよ?」
そうだ。ただ別れてくれと言われて、分かったと納得できるわけがない。ぼくには正当な理由をきく権利がある。
「理由、ね……言ってもいいの?」
弘美は意地の悪い笑みを浮かべる。
「あ、当たり前だろ……」
弘美の態度にちょっと動揺したものの、それでもぼくは引き下がらない。
「そう? だったら言わせてもらうけど――」
ごくん、とぼくは生唾を飲み込み、身構える。
「耀太、仕事してないじゃない」
「うっ……」
それは今現在のぼくが、いちばん言われたくないことだった。
「バイトも長続きしないし。将来的に結婚することも考えたら、不安になるのは当然でしょう?」
痛いところを突かれてしまい、ぼくは思わず怯んでしまう。
「い、いや……そ、それはさ……しょうがないだろ?」
しどろもどろになりながらも、必死に反論する。
「しょうがない、ですって? そうやって言い訳をして、働かなくて済むなら楽よね」
あからさまに蔑みの表情で、弘美はぼくを見た。
「…………」
「それとも何? このままわたしに食べさせてもらうつもりだったの? 男として恥ずかしくない?」
ちなみに弘美は、都内の美容院で働いている。
「そ、そんなつもりは……」
「どうかしらね」
弘美は嘲るように鼻を鳴らした。
「あいにくだけど、ヒモの彼氏を持つ気はないわ」
「――っ!」
屈辱にたえかねて、ぼくは腰を浮かす。
「何よ? 殴りたければ殴れば?」
挑発的な笑みを、弘美は見せる。これで暴力をふるえば彼女の思う壺だ――つい振り上げてしまった左の拳を、ぼくは下ろした。
「それじゃ……あなたとは、もうこれっきりだから」
席を立ち、右手を振って弘美は去った。
弘美のカップの中はいつの間にか空になっていたが、ぼくのカップはほとんど口をつけずに残されていた。