新旧魔法あれこれ
最近「ハリーポッター」のBOXを買ったので、時々シリーズを観賞している。
今頃「ハリーポッター」?
まあ、そういわないで。何しろ安かったんでつい、衝動買いしてしまった。ついでに「ロード・オブ・ザ・リング&ホビット」のBOXも買ってしまった。両方合わせて一万円以内だったので、まあいいか、と買ってしまったのだ。もちろん中古で!
それであらためて「ハリー(略)」を観ると二十一世紀に発表されたとは思えないクラシックなストーリーだなあ、と思ったしだい。
クラシックというより先祖返りのような設定である。
この物語の主人公、ハリーポッターは魔法使いである。魔法を学ぶため、ホグワーツ魔法学校へ入学する。魔法の世界には、いろいろ不思議なことがおきる。
それは魔法だから。
主人公は魔法を使える。
なぜなら魔法使いだから。
とにかく魔法に一切説明がない。
不思議な事件、キャラクター、乗り物等々、つぎつぎ登場する事物はすべて魔法がらみだがそれには説明がないのだ。魔法は魔法、それでおわり!
魔法に何の理屈がいるんだ? という声が聞こえてきそうだが、それなら「ゲド戦記」はどうかな。
アーシュラ・K・ル・グインはこの小説に「言霊」の概念を持ち込んだ。
この言霊、日本でははるか昔から脈々と受け継げられていて、日本人ならおなじみだ。
ほら、縁起の悪いことを言うと「そんなこと言うな!」と叱られることがあったでしょ?
たとえば旅行や、運動会で「雨がふる」なんて言うと「本当に雨が降ったらどうするの?」と言われたり、受験する人に「滑る」という言葉をかけてはいけない。そんなこといろいろあるでしょう。
日本ではまだまだ「言霊」という概念が生きているが、欧米ではほとんどないらしい。それでグインがこの概念を持ち込んだ「ゲド戦記」がヒットした要因のひとつになっていると思う。
ラリイ・ニーヴンは「魔法の国が消えていく」という小説で「マナ」というアイディアを開陳した。マナは大地そのものに存在し、それが魔法のパワーを発生させている。が、このマナは有限で、魔法を消費するとマナも消費され、マナが消えた土地では魔法が使えなくなる。
マナの概念はもともと東南アジア諸国や、ハワイなどの先住民たちにあった。
ピアズ・アンソニイの「魔法の国ザンス」ではザンスという魔法の国では、住人ひとりひとりが魔法の力を持ち、同じ魔法は存在しない。このシリーズでは地下に魔王ザンスが存在し、その魔王がすべての魔法の源となっている。
マンガでも魔法が重要な要素となっている作品は沢山ある。ぼくはマンガについては詳しくはないので、ここでは個々の作品名はあげないが、それらは読者のほうが詳しいだろう。
いままでの記述で気が付いたかな?
ハリーポッター・シリーズ以外の作品では、魔法そのものに制約があることを。
「ゲド戦記」では魔法を使うためには「真実の言葉」を知る必要がある。また他人に自分の真実の名前を知られることは自殺行為なので、魔法使いは自分の本当の名前を使わず通称をもちいている。
「マナ」が消えると魔法が使えない設定は、魔法は資源問題である。
ああ、そうか!
今気が付いた。
なんで「ハリーポッター」が映画化できたのに、ラリイ・ニーヴンの「魔法の国が消えてゆく」やピアズ・アンソニイの「魔法の国ザンス」が映画化されていない理由がわかったぞ!
魔法について七面倒くさい設定をつくりあげると、映像化が困難になるからだな。
「ザンス」シリーズや「マナ」シリーズ、映像化してくれないかなあ……。




