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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

道端の狼さん

お逃げなさい、お嬢さん

作者:

※『ある日出遭った狼さん』続編クロ視点

※暴力、流血表現アリ

 あの女に拾われるまで、俺は家庭の暖かさとか飯の旨さとかそんな世間一般の常識を知らなかった。

 知らなくて良いと思っていたし、これから先知ることなんて絶対にないと確信していたから無駄に期待することなんてなかった。なのに、あの女は俺に妙な期待を持たせようとする。それが無性に気持ち悪くて、むず痒くて。自分自身でも分からないような、どうしようもない気持ちが膨れ上がるときがある。そんなときどうしようもなく、あのムカつくほど暖かくて柔らかい御主人サマを殺したくなるのだ。

 俺の飼い主は、俺なんかよりも何処か可笑しい。


「なァ鏡餅ィ、″クロ″じゃなくてもっと違う名前付けろよ」


「違う名前?」


 拘束されることは嫌いだ。抑圧なんかされず俺は俺で在りたいし、雁字搦めにされてしまうだけで、この身に押さえ付けられている衝動が暴れだしてしまいそうになるから。

 だからこの女のきょとんとした顔にすら殺意が沸き立つ、はずなのだ。だってこの女はこんなだっせー名前を付けて俺に首輪を填めた。俺に″大神(おおかみ)(じん)″とは違う名前をつけて支配をした。なのにどうして。


「そォだよ。ホラ、尋の読み方変えてヒロとかさァ」


「…黒狼と書いてクロウって読むのはどう?」


 現実には見えもしない俺に着けられた首輪も、その先に繋がっている鎖も、容易く想像できる枷達全てを享受してしまっている。こんな現状に不満こそあって可笑しく無いようなものなのに、そんなもの微塵も感じていないようにこの女の言動に、従順とも言えるほど従ってしまっている。俺もこの女に感化されて、頭がヤられたのだろうか。


「ふっっざけんな!俺にそんな名前(くびわ)つけようとしやがって…やっぱりセンスねぇなこの鏡餅!噛み砕いてやる!!」


 嗚呼、やっぱりこの女イカれてるわ。



『お逃げなさい、お嬢さん~狼さん、飼い主に陥落するの巻~』



 あの女──鏡桃が俺を拾ってからというもの、鏡桃は不幸になっているように見える。俺なんて猛獣を拾ったばかりに教師に頭下げに行かなきゃならないし、めんどくせー委員会に誘われているらしいし、俺関連で呼び出しを受けたりなんて。先日は、アイツにとって初めての友人を無くすことになってしまったし。あの女にとって俺と言う存在は疫病神でしかないはずなのに、アイツは俺を手放すどころか、「いずれこうなっていた」だなんて悟りを開いた顔をして俺を見て、結局そのまま傍に置いている。そのことに安心を覚えてなんかいない。ただただその未知の感覚に呑まれてしまいそうだということが、とてつもなく恐ろしい。あの女は、怖い。あの女が与えるもの全てが怖い。

 俺は大神尋だ。大神尋という狂った人間のはずだ。その響きはこの世で最も嫌っているものであると同時に、みっともなく縋りついているものであるはずだった。だけどあの女は俺に名前を与えて、大神尋という狂った人間なんて知らないといった振る舞いをする。大神尋が積み重ねてきた最悪な過去なんて消して、逆に新しい未来を惜しげもなく与える。その行為に俺がどれだけ心臓を揺らされたのかなんて、あの餅は気づきもしないのだろう。

 大神尋に欠片ほど興味もない鏡桃は、クロという名を付けた(ペット)を心底大事にする。俺にクロって名前がなくなったとしたら、あの女は俺を捨てるのだろうか。クロがどれだけおいたをしたら、飼い主はペットを捨てるのだろうか。

 あの女と俺の境界線が見えない。


「あー、鏡餅まだァ?はーやく帰ろォぜー」


「少し待って」


 呼び掛けた途端、いつもと違う返事が返ってきたことに少しだけ眉を寄せた。いつもは(ペット)を優先させるくせに、今日に至っては違っていたらしい。何処ぞの雄と何やら随分と時間がかかる話をしているみたいだ。「待て」を掛けるなんて滅多にないのにな、と考え始めた俺の脳味噌に罵倒をする。しっかりしろよ、お前はもっと自由に暴れて壊してきただろう。あの女に持っていかれてなんかいない。まだ、俺は大神尋だ。あの女曰く、「病んで」しまった始末に終えない、狂った人間だ。

 あの女に飼われてからというものの、そうやって何百回と同じ言葉をかけて感情を沈めて自分を騙してみたが、近頃はどうもしっくり来なくなってしまった。あの女は、俺を大神尋として人間扱いしないから。きっとそうだ。全部アンタのせいなんだ。

 そういったらこの餅は「ドーベルマンに嫉妬したの?大丈夫、クロが一番だから」なんて見当違いのことを抜かすだろうな。あーあ、何を言うか見当がつくだけでなく、ただの男を雄だと称するところでさえあの女に似てしまうとは。

 あの女に対して、何百回目かの殺意が芽生えた。


「早くしろよォ、御主人サマァ」


「うん、もうすぐ終わるよ」


 自分でも寒気がするような甘くドロッとした水飴みたいな声に、狂気と殺意を滲ませる。沸き立った苛立ちに任せて、あの女にしか分からない脅迫をした。どうせこの餅は脅迫だなんて思っちゃいないんだろうな。知ってるよ、だから早くこっち見ろ。俺が暴れだす前に、いつもみたいにタイミングよく気づけよ。じゃないと廊下(ここ)、真っ赤にするからさァ。

 鏡桃(かいぬし)は俺を連れ回して、血統種であることを自慢するような真似を絶対に許さない。だから本来ならこんな廊下のど真ん中に俺を立たせておくだなんて有り得ない。

 さっさと気づけよ御主人サマ。お前の可愛い可愛い狼がお腹空かせてイライラしてるぜ?


「榊くん有り難う、また後日委員長さんを通して連絡するから」


「いや、こちらこそ。いつも有り難う、鏡さん」


「…ふぅん」


 そんな感情を乗せながら、鏡桃が風紀委員とか言う機関の人間と話している姿を、目を細めて見つめた。何について会話しているのか暫く理解した。

 ホラまた、厄介なことになっている。大方榊とかって名前の男と先日の件についての話でもしていたのだろう。少しだけ見えたアイツの顔が、俺に見せるのとは違う色を帯びている。疲れを滲ませているような、何処か隙のある笑顔。いくらアンタが色気皆無で平凡な女だとしても、そんなもん見せたら勘違いされるゼ、御主人サマ。

 しょうがねーからこの際、アンタがいまこっちを振り返らないのを多目に見てやるよ。


 大神尋(おれ)の信者らしい(鏡桃談)奴らと千川由依っつー女が結託して、鏡桃を陥れようとしたあの事件から一ヶ月近く経った。あの女の近くには、相変わらず俺以外誰も居ない。そんなもんでいいのかと聞いても「愛らしいクロが居てくれたらいい」とか、そんないつも通りの返事しか返さない。こんな猛獣に「愛らしい」とか本当に気持ち悪ぃ女。内心、心底この女の事を恐怖していた時期があった。勿論いまだってその得体の知れなさから恐怖心が涌き出る。だがこんなよわっちぃ、喰っちまえば終わる餅に弱気になっていることを認めるには、まだまだ俺のプライドが許さないらしいので下剋上しようと機会を狙っている。あの気持ち悪ぃほど甘くて白い、小さな手を持つ女が。あの、柔くて赤色が死ぬほど似合わない女が。俺の足元で血に濡れているのを、ずっと。

 待てど待てどその機会は訪れない。それどころかいつも俺はあの女に助けられている。あの事件の時だって、あの女は俺の尊厳を、そしてこんなどうしようもない精神を守った。アイツの一方的な約束だったが、その約束に一切違わず、加えて利子までつけようとする。俺を可愛がって、ワザワザ危険人物(おれ)を家まで連れて帰って、健康管理さえしやがる。俺も大概だが、やはりあの女は正気じゃない。ここ二ヶ月間の間、あの女のせいで俺の髪は妙に艶やかになってしまった。このままだとあの餅が付け上がってしまう。それだけは回避したい。


「お待たせ。待たせてしまってごめんね、お詫びに薄荷味の飴をあげる。」


「んなもん要るかってぇのー。そんなのより俺ェ、今日の放課後は″外で遊ぶ時間″がほしーなァ」


「この間はそれで油断したから、当分ナシね…はい」


「はァアアア?!クソ…この餅、帰ったら煮込んでお汁粉にしてや、ゴホッ…ァ?何だこれ」


 全く悪いと思ってなさそうな顔で笑って、あの女が俺の元へ歩いてきた。前回同様潤んだ瞳で飼い主を見つめてみたが、この間の一件は餅の中で相当キテいたみたいだ。普通に流されてしまった。俺が大怪我をしたわけではないのに一々心配して、チワワを守るみたいに過保護になっちゃって、本当に胸糞悪い女。


「薄荷味の飴」


「…クソマジィんだけど。こんなもんよりもっとマシなモンがいいっつってんのよ」


 かろん、と口の中で奇妙な音を立てて飴が転がる。慈悲に溢れたようなこの顔をぐちゃぐちゃにしたい。そうやって何もかもを受け入れるような態度が気に食わないのだ。受け入れることなんて出来はしないはずなのに、簡単にやってのけてしまうから。俺にはもう自分の感情とか有りはしないはずなのに、餅ごときに翻弄される。俺にはさっぱりだ、訳がわかんねーよ御主人サマ。

 無理矢理口に押し込められた、甘いような辛いようなよく分からない味の喉がスースーする飴をガリッと噛む。この飴みたいに俺の不要な感情も噛み砕いてしまえたら。そうしたら俺も、少しは従順にアンタのペットになれるんじゃねぇの?

 なぁ、飼い主さん。


「うん?お汁粉が食べたいの?」


「遂に耳まで呆けたか餅ィ、よォし優しい優しいペットがお前を大福にしてやるよ」


「クロ、物を粗末にしたらいけないよ。今日の晩御飯はベジタリアン向けのものにしてもらおうかな」


「い、要らねぇよ!!!」

 

 そうやって俺の反抗心をすぐへし折って、からりと楽しげに笑うのは如何なもんだ。俺が怯える姿がそんなに楽しいかクソ餅。左拳を振り上げるような状態をした俺に、あの女は笑ってクソ似合わない真っ赤なスマホを取り出す。大方、あの女の家族に電話でもするつもりだろう。それは紛れもなく俺が鏡桃の家族に恐怖していることを知っていての動きだ。俺のことを愛らしいとか言ってたのは誰だよ、愛らしいなら言葉に見合った動きで可愛がれよ餅が。

 ここで舌打ちするのは己が負けたことを明らかにしているような気がして、これ以上ない悔しさを感じたので止めることにした。一々あの女に踊らされるのは癪だ。鏡桃が言うお仕置きだって本当はそんなに怖がるようなものではないことくらい、猛獣(おれ)だって分かっている。初対面でアイツに噛みつきさえした俺が「お仕置き」の内容にビビってるわけじゃない。そんなものに今更ビビるはずがない。当たり前だ。真実そうではないのだから。

 あの女は可笑しい。でなければこんなことになっているはずがない。だが俺が素直にそれを認めるには、些か理性が残りすぎていた。

 そして俺は鏡桃のペットになってからというもの、全てを認めるという行為を拒絶し続けている。


「冗談だよ。長居をして風邪を引いてしまってはいけないから、そろそろ帰ろうか」


「はァ~、誰のせいで長引いたと思ってン…」


 溜め息を吐いてガシガシと頭部を掻いた俺に、くすくすと笑いながら視線を向ける。顔をあげてこのフザケタ飼い主に懲りもせず文句を言ってやろうとした途端、視界の端にある女が映り込んだ。

 俺の大嫌いな砂糖を詰め込んだような全身をしているくせに、顔だけは別のもので固めたかのように歪めている、哀れな女。ああ、御主人サマ。アンタの元オトモダチが俺のことを心底憎そうに、そしてアンタのことを物欲しそうな顔をして見つめているじゃないか。

 針が刺さりそうなほどの強烈な視線に思わず口角を上げて、相手を馬鹿にする。すると端から見ても分かるくらい、歯軋りが聞こえてきそうなほど顔を歪めた。ははは、鏡桃曰く、チワワフェイスが崩れてるわ。指を指して嘲笑ってしまいそうなほど滑稽な姿にヘドが出る。

 そう、別に、本当はアイツがいう「お仕置き」だって従わずに振り払ってしまえばいい。だというのに振り払えないのは、あの女には何かしらの逆らえないものがあるからに違いない。じゃないとあんな何処にでも居そうな女に、俺や元オトモダチが屈する訳がないんだよ。俺は最初からあの女に抵抗することを考えず、素直にペットの位置に収まった。だが元オトモダチはあのとき、自分が陥落しそうなことを認めたくない一心で俺と鏡桃を引き剥がし、自分が望んでいたものを手に入れようとした。


『初めまして大神くん。私、桃ちゃんの友達で千川由依って言います』


『へぇ。俺の御主人サマに何か用事でもあんのォ?』


『ううん。大神くんにお願いしたいことがあって』


『ふぅん、お願いねェ…』


 俺に話し掛ける様は、まるでレプリカの鏡桃(バケモノ)を真似た聖女(バケモノ)だ。慈愛に満ち溢れたような笑顔はよくよく見ると一切隙がないせいでただの壁にしか見えない。言うなれば、そう。俺になんて触れたくもないと書いてある表情だ。俺も負けじと普段通りの軽薄そうな笑顔を浮かべながら、千川由依と会話を続ける。

 鏡餅さんよ、何でこのチワワを飼い犬にしなかった。この女の声も顔も、全身が俺を拒絶していると言うのに無謀なことを仕出かそうとしているじゃないか。あまりにも俺の姿と酷似し過ぎて滑稽で憐れで涙が出てきそうだ。せめてペットという選択肢を与えていたらお互いにこんなことにはならなかったんだろうな。

 同情するよ、同類。駄犬に成り下がったときが人間としての俺らにとって最大の幸福であり、ペット(おれら)にとっての最大の不幸だと言うのに。このチワワはひとつも気づいちゃいない。

 まあそんなの、あの女の正式なペットですらないから当たり前なんだろうけれど。


『あのね、桃ちゃんから離れてくれないかなぁ。大神くん私のものになってよ』


『えェ?まるでその言い方ァ、俺が野蛮な野獣だから御主人サマに相応しくないって言ってるみたいィ』


『…何言ってるの?桃ちゃんが大神くんに相応しくないの。大神くんは桃ちゃんから離れて安全なところに行った方がいいもん』


 あのときもう一度見た千川由依の顔は、俺への嫉妬と憎悪が渦巻いていた。

 なあ御主人サマ、アンタは千川由依が俺に執着しているからアンタと対峙してしまったと言ってたよな。何処がだよ、やっぱり餅の目は節穴だな。今の千川由依の顔を見てみろよ、アンタへの渇欲と俺への嫌悪でぐちゃぐちゃになってるんだぜ。アンタが俺に笑い掛ける度に身体をこっちに動かそうとするが、今更そんなことをする権利がないとやっと分かったんだろうな。身の程を弁えた立派なチワワだ、褒めてやれよ御主人サマ。


「…クロ?」


 鏡桃が心配そうな顔をして、検討違いにも俯いた俺の顔を覗き込もうとする。ちげーよ、そうじゃない。込み上げてくる笑いを堪えているだけだ。ああ、でももうダメだァ。堪えらんねぇ止まらない。


「っ、は、ァ、アハハハハハハハハ!」


 ほんっとうにくだらねぇな、お前も俺も。未だに付けられた首輪にはしたなく尻尾を振って御主人サマに媚売っていることを認めもせず、あまつさえ逃げられもしないし本当の意味で逃げることすら不可能なことを本能で理解しているというのに、それでもなお足掻こうとするのだから。

 可哀想な愛玩犬、お前はもうあの女のペットには戻れねーよ。そして、俺だって。

 この機会を逃してしまえば、大神尋(おれ)はもう鏡桃(バケモノ)に反逆して下剋上を起こせる気がしない。きっといつも通りの、この女が(クロ)をペットにしたときからの日常をこなせばこなすほど、俺はこの女に逆らえなくなる。千川由依(まけいぬ)を目の当たりにした今だからこそ、千川由依(すていぬ)に感じた優越感が度を越してない今だからこそ、俺の反逆は成立する。

 さァ、御主人サマ。


「そう、そうだよお前のせいだ。俺はなァ鏡桃、こんな日向には居られねェんだわ」


「どうしたの、クロ」


「気安く触んな!お前の下だと思うだけでヘドが出る…お前のペットになるくらいなら」


 肩にそっと触れた柔くて暖かくて甘い、あの掌を弾き飛ばす。ああ、そうだ。この感触だよ。あんなに待ち望んでいた鏡桃の絶望した顔は、俺が興奮しすぎているせいか全くもって焦点が合わない。何だよクソ、勿体ねェ。でもまあ、これでいいのかもしれない。もしこの女の表情ひとつで俺が陥落してしまったら、あの負け犬のことなんて二度と嘲笑えなくなってしまうだろうから。


「他の飼い主に貰われた方がマシだ」


 今度こそ最初で最後、俺の勝ちだ。



* * *




「あァ~!クソっっ」


 後頭部がズキズキと脈打つように痛む。そろりと慎重に患部を触ってみると、どうやら熱を持った状態で腫れているようだった。

 あんなにカッコつけて鏡桃の前から逃走したのにこのザマだ。クロはあれほどまで従順で躾の施された獣だったというのに、本当に大神尋は何処までもクダラナイ男だ。痛みから瞼を閉じると、どうしてだか去り際に見た溢れ落ちそうなほど目を見開いた鏡桃の姿が浮かんでしまう。見てしまった。予感通りだ。やっぱり俺は鏡桃には勝てない。あの姿が浮かぶ度に、似合いもしない罪悪感を持ってしまったというのだから失笑だ。


「あっれー?目が覚めたの、大神」


 どうやら俺は寂れた事務所みたいな所に閉じ込められているらしい。キィ、と鉄のドアが耳障りな音を発しながらゆったりと開かれる。部屋の中に外からのうっすらと仄暗い鈍い蛍光灯の明かりが差し込む。窓の外から覗く空は、俺が最後に見た赤色交じりの橙色から、完全なる紫色へと変わっているようだった。本当だったらこの時間はあの女の家でご飯を食べている時間だ。もしかしたら鏡桃が、何時まで経っても帰ってこないクロを心配して探しているかもしれない。あの穢れの無さそうな透明な声で、「クロ」と呼んで。俺を見つけたら泣き出してしまうくらいに、必死になって…自分から破棄した位置だというのに、そんなことを考えている時点で愚かだとしか言いようがない。あんなにも嫌っていたはずのあの女の姿を簡単に想像出来てしまうだなんて。

 とっくに俺は、獣以下だったというのか。


「…俺を連れ込んだのは音無のところか」


「そうそう、おはよー大神。約二ヶ月ぶりの鉄パイプの味どうだよ」


 一見気だるそうに見える金髪の男が開いた扉に凭れ掛かっている。見覚えのあるこの男は多分、音無(オトナシ)(ヒサ)だろう。俺があの女のペットになる前までよく喧嘩をしていた相手の一人だ。いつもなら背後の気配くらい気づくはずなのに、あの女に勝てるかもしれないという興奮から迂闊にも後頭部を殴られ、気絶させられたようだ。ああ、こんなことになっているとあの女が知ったら、こんな猛獣相手に恐れもせず説教してお仕置きだとか言うんだろうな。なんて、こんな状況なのに気色悪い想像が脳裏を過る。

 だからさァ、今更あの女のことを考えるなよ。


「クソマジィわ。人間様が鉄食えるとでも思ってんのかボケ男」


「猛獣のオオカミサマなら食えるかもしんねーじゃん」


「ハッ…かもなァ」


 ゲラゲラと笑う音無の言葉に、本来の俺の扱いを再認識した。そう、そうだ。俺は大人しい飼われた狼じゃねぇんだよ。手に終えない狂った猛獣なんだ。もしも首輪なんてモノをつけられたら、噛み千切って飼い主にも牙を向く。それが世間一般の俺だったはずだ。だからあの女は可笑しい。誰かに守られるだなんて縁遠い位置にあるはずの俺に首輪を付けて、あっさりとその庇護下に置いてしまうのだから。あの女がつけた首輪を噛み千切ることも、あの女に牙を向けることも、最後まで出来やしなかった。俺がこんなに腑抜けた人間になったのは俺のせいではない、あの女のせいだ。

 こんな甘ったるい、グズグズに溶けてしまいそうな枷なんて外してしまえ。早く、早く鉄臭い血溜まりに戻れ。俺の存在する場所は日向の下じゃない。泥と血の臭いが混ざる薄暗い地下牢であるべきなんだ。頭の中にある狂気とあの女に洗脳された本能がせめぎあって、発狂してしまいそうだ。俺はクロじゃない、大神尋だ。痛みすら感じない化け物なんだ。


「で。用件は?」


「いやぁ?腑抜けた狂人をリンチしたら楽しいかと思ってよぉ」


「俺が腑抜けたって?」


 相変わらずの気狂い染みたブッ飛んだ発言に皮肉めいた笑みを返す。脳内でせめぎあう「クロ」と「大神尋」の思考が漏れたかのような言葉に、動揺してしまいそうだった。そんな俺を知ってか否か、音無はなおも俺に喋りかける。


「だってそーだろ。大神尋らしくもなく、オンナに飼われて、血なんて何処にもない安らかな寝床でオネンネしてる。これの何処が腑抜けてないって?」


 「そんなにオンナの胸の中は気持ちいいか?」と声無き声が聞こえてくる気がした。

 ああ、そうだ。心底気持ちいい。あの女の庇護下は、俺が手に入れられるはずのないものを何でも渡してくれるんだ。あの女にそんな気はないだろうが、うっかり依存しきってしまいそうになるほどには鏡桃の掌が欲しい。与えられる御褒美が美味すぎて、どうしてもリードを引っ張って御主人サマの気を引きたくなる。そんなことを喋りだした脳味噌に、いつも通りの軽薄な笑みを向けた。

 俺はとっくに「大神尋」なんて可哀想な子供ではなくて、あの女に愛される「クロ」という名に依存していたみたいだ。


「ガッカリだよ大神尋。俺とお前は似てると思ってたのに。お前には生温い世界は無理だ。俺と同じ鉄臭い世界がお似合いなんだよ!」


「はァ?決めつけんな。俺はお前とは違う。優しい優しい御主人サマは俺に衣食住も愛情もくれる、つまり俺は獅子(おまえ)とは違って愛される狼ってことだわ。分かるゥ?」


 対して拘束されてないらしい両手を使ってオーバーリアクションをとる。興奮し出した音無に、まるで千川由依を思いっきり嘲笑ったときと同じような言葉と笑顔を向けた。馬鹿でカワイソウな獣共。優しい飼い主に拾われることもなく、こんな汚いところが塒だなんてな。同情するゼ、同類(・・)

 途端、高笑いしそうだった音無の顔が無表情に戻る。


「ナニ勘違いしてんだ、そのゴシュジンサマだってお前が人殴ってる姿を見たら拒絶するに決まってる!」


 煽りすぎたせいか音無の何かの琴線に触れてしまったらしく、途端に激昂して俺の後頭部を、頭蓋骨がミシミシと鳴るほどの強さで鷲掴みした。俺もコイツも何処で切れるのか予想もつかないところがまた狂ってるんだろうな、と客観的に観察しながらズル、ズル、と埃まみれで汚い床を引き摺られる。あーあ、この制服一ヶ月はもったのによォ。脱いだら穴が開いているかもしれない。

 引き摺られる度に全身が濁った黄色い蛍光灯の明かりに曝されていく。事務所の外は何処かの廃れた倉庫だったらしく、見覚えのある男共が雄叫びをあげて俺らがいる二階を見上げていた。胸糞わりぃ光景だ。これが大神尋の生きている場所だなんて。あの暖かな手が届かない場所だなんて。お前には信じらんねぇよな、クロ。でもこれもまた、鏡桃の居ないお前の住む世界なんだゼ?

 右手が階段の最初の段差に触れる。その瞬間俺は、階段の下へと肢体をぶん投げられた。


「さっさと此処まで堕ちてこい大神ィイ!」


 ガッ、ゴン、固体が金属にぶつかるような鈍い音を叫びながら俺の身体が階下へと落ちる。衝撃から身を守る為に身体を丸めるのは、もう随分前からの慣れた作業だ。階段の角や鉄の手摺に肉が当たる度に、全身は熱を持ったように熱くなり急速に腫れ上がる。頭は反射的に両腕で守っていたおかげで打撃は少ないようだが、投げられた際にブチ当たった比較的まろい手摺の角に左目側の額を割られ、左目の中に血が入ったおかげで視界が半分だけ真っ赤になってしまった。計画通りズザザ、と音を立てて背中から階下へと落ちたので異様に背中が熱い。きっといまこの制服を脱いでしまえば、俺の背中の薄い皮膚はズル剥けになって血が滲んでいるに違いない。脊椎を守れただけヨシとしておく。

 ふーふーと荒い息を吐いて丸めた身体をゆっくりと元に戻していく。この程度で全身が震え始めたのだから、身体が鈍っているに違いない。確かに音無の言う通り、俺は腑抜けてしまったのだろう。視界の端に見つけた鉄パイプを握ること自体に躊躇を覚えてしまうほどには。大神尋からしてみればイカれてるとしか思えない。

 なぁクロ、お前の大事な御主人サマがくれた綺麗な身体が壊れていくなァ。どうだよ、このまま諦観するのか?このままイカれた野郎の大神尋に逆戻りか?それとも──。


「あーあ、何だよ。天下のオオカミサマはこの程度で死んじまうのかぁ?なっさけねぇなー、やっぱオンナなんか作るからだよ!こんなふにゃふにゃな身体しちまってさぁ!!」


 虫の息をしながら這いつくばっている俺を一瞥して、先程の俺の態度を真似るかのような全体に聞こえる音量で馬鹿にし出す。それにつられて倉庫内の人間が汚物みたいに下品な笑い声の合唱を始めた。やってらんねーよ、何だこの男クソ面倒臭い。それに加え、物理的に真っ赤な視界が邪魔で邪魔で仕方がない。左目をゴシゴシ擦ってみたものの、入り込んだ血は取れることなどなく、新たな痛みを与えるだけだった。

 あー、苛々する。何もかも邪魔で仕方がない。思い通りにならない俺の身体なんて壊れてしまえばいい。ただのゴミだ、こんなもの。ゴミなんて俺には必要ない。


「っ…は、ぁ、ゴホッ…ごちゃごちゃ、」


 黙ってろ「クロ」。死んどけ「大神尋」。もう喋るな、耳障りなんだ。倉庫内の笑い声と「俺」の声が脳味噌の中でぐちゃぐちゃになっていく。何が現実か、何処までが妄想なのか分かりゃしない。視界がぐにゃりと歪んでいく。音無の顔も男共の顔も、縦が横に横が縦にぐにゃりと伸びて曲がって、気味の悪い怪物が大量生産されている。

 いいや、まだ分かる。俺にはまだ一つだけ手があるじゃないか。

 目の前の冷たくて硬い固体を握り締めて、ソレに体重を掛けながらゆっくりと立ち上がる。そして目の前の笑い続ける人形目掛けて、ソレを降り下ろした。


「うるっせぇんだよゴミ屑共がァ!!!」


 後頭部を打撃した勢いとその骨の強度が鉄パイプに吸収されて鈍い音が鳴る。狙いが良かったらしく、紙人形のように一撃でパタリと倒れてくれた。達成感と高揚感から口角がニィイ、と釣り上がっていく。ああこれだ、これ。これがたまンねーんだ。俺が真っ赤になる。相手も真っ赤になる。肉が飛び出るときなんて最高だ。ホラ、なぁ。

 めちゃくちゃ綺麗じゃねぇか。


「は、ハ…ハハハハハハハハハハッ!」


「ぉ、…大神尋ンん!!」


「何だよ音無ィ?これが大神尋じゃねェの、そんなに怒んなって。お待ちかねの俺ダロ?メインディッシュをどうぞってかァ!」


 身体の痛みなんて沸き上がるアドレナリンで吹き飛ばして、そんなものは無かったかのように先程の何倍ものスピードで鉄パイプを振り回す。いつの間にか音無は倉庫の中央部に移動していたので、そこに辿り着くように襲い掛かってくる人形共を殴って殴って薙ぎ倒しながら進む。そんな俺の瞳孔はきっと、完全に開ききっているのではないだろうか。


「オンナに飼われる大神尋なんて許せねぇ!お前は俺らの最下層だっただろう?!」


「寝言は死んで言えクソ野郎。つーかテメェ誰だってぇ、のッ!」


「ヒ!…こんなの大神尋じゃねぇ!大神尋はァアアア!」


 そんなもんはとっくに知ってる。大神尋は時期に死ぬ。いまこの瞬間俺が最も望んでいた形を取りながら、狂いすぎた末路として死んでしまうだろう。それを求めて俺は狂人になったのだから。

 「クロ」が死ぬ。「大神尋」も死ぬ。そんなもの分かりきっていると言うのに、一つずつ狂っていく毎に俺が俺でなくなってしまいそうで。それを望んでいたはずなのに、両手が真っ赤になる度に人に戻れなくなることが酷く恐ろしい。


「なァ音無ィ、金髪に赤ってめちゃくちゃ似合うんじゃねェ?」


 もうすでに血がこびりついて赤黒くなってしまった鉄パイプを持って、ニタリ、と狼が赤ずきんのババアを食ったときのように歪に笑う。

 分かってるんだ。俺が本当に幸せになるには、赤ずきんじゃダメなんだよ。赤はダメだ。食えるものはダメだ。そうじゃない、そうじゃないんだ。

 死ぬほど赤が似合わねぇ、眩しいほど白が似合う鏡桃(ゴシュジンサマ)。何からも俺を守るんじゃなかったのかよ。飼い主はペットに嘘を吐いたりしないって言ったじゃないか。何だよ嘘吐きか。

 俺が壊れる前に早く助けに来いよ。


「コロシテヤルヨ」


 なぁ、鏡桃。




「…くろ、クロどこぉ?」


 その名前を頭の中で呟いたそのとき、泣きそうなか細いあの女の声が外から聞こえた。笑い声と悲鳴が続いていた鈍い黄色に包まれていた倉庫が、突然の来訪者によりその一瞬ピタリと静まり返る。しかし来訪者が女だということに気づいた男共は別の意味の下品な笑いを顔に乗せながら、あの女の元へと近づいていく。俺に向かっていた波が違う波を作り出したせいで、殴っても殴っても思うようにあの女のところに辿り着けない。

 確かに助けに来いとは言ったが、本当に来いとは一言も言っていない。というかこの女どうやってここまで来たんだ。毎度ながら思うが、何で俺の居場所が分かるんだよ。危ないとか一秒でも考えなかったのかクソ女。


「お嬢さんこんな夜中に女の子が倉庫なんて入っちゃダメでしょ、ここには男しかいねぇよ。それとも男でも探し、グハッッ」


「何で?クロは反抗期なの??心配するからご飯の前には帰っていらっしゃいって言ったじゃない!」


 言い寄ってきた男の話なんて聞きもせず、ものの二秒ほどで回し蹴りをしてその男を地面にめり込ませる。その姿を運良くハッキリと見てしまった俺は唖然、少し遠くに居ながらも鏡桃を見た音無も唖然、というか倉庫内の俺ら全員唖然とした表情になってしまっている。固まる俺と音無。それでも見間違いだと思ったのか、懲りずに鏡桃に近づく男共。

 鏡桃が規格外な女だと言うことは重々承知しているが、今のは一体何だ。この女、イマナニヤッタ?


「こんな場所に紛れ込む犬なんてよォ、お盛、ガッッ」


「馬鹿馬鹿馬鹿!また約束破って!!今日はトマトジュース一リットル飲んでもらうんだからーーーー!」


 めちゃくちゃな言葉を叫びながら今度は近くの男に目掛けて飛び蹴りをかました。勿論のこと、その男は気を失ってコンクリートの床に落ちる。それにすかさずあの女は男を踏み台にしてまた目に入ったのだろう他の男へと回し蹴りを繰り広げていた。

 俺対繁華街のゴミだったはずが、いつの間にか倉庫内は鏡桃無双が始まっている。何なんだあの女は。何処までやるつもりだ。ていうか俺は此処だ、叫ぶ前に良く見て早く気づけよ。もしかしてこの女は俺に当たるまで続ける気なのだろうか。

 そんなことを考えてハラハラしながらまだ俺に向かってきている男共を殴り倒していると、今度は鏡桃の泣き声が聞こえだした。


「わた、私がっ…私が悪い飼い主だから他の人の飼い狼(ペット)になるの?!そんなのやだぁ!」


「っ」


 ぐずぐずと泣いてしゃくりあげ始めた鏡桃が視界に入る。短い髪はぐちゃぐちゃで、制服は所々汚れていて、顔は涙でぐちゃぐちゃ、そんなみっともない格好のあの女が居る。

 違う、そんなこと思ってない。あんなもんはお前を突き放すための口実で。違う、違うんだ。だって俺ばかり不公平だろう。俺はお前に依存して、お前は「クロ」だけに依存している。お前が俺をちゃんとした人間に治したら、お前は大神尋(おれ)から関心なんか無くなっちまうだろうが。お前には自覚がないのかもしれないが、そんなの不公平だ。だからああやって言っただけで。

 入り口付近のゴミ屑共が柄にもなくオロオロして鏡桃を宥めようとしている。どうやっても泣き止まないあの女をどうにかしようと音無を呼んでいるようだ。しかし生憎まだ音無は復活していない。ってオイ触んな、あれは俺の…俺の?


「…おい大神。あの人の名前は何だ」


「か、鏡桃だけど」


 浮かんだ心情に焦っていたところで音無に尋ねられたので、馬鹿正直にあの女の名前を答えてしまった。頬を染めてあの女の名前を噛み締めるように復唱しながらそこへ向かう音無に焦りを覚える。おい、ちょっと待て。嫌な予感しかしない。


「お、おい音無、ソイツに近づくー」


「えっ、クロ?!…ってひきゃぁ!」


 俺の声に反応して後ろを振り返ったと同時に、モーセの如く割れた男共の間から出てきた音無とぶつかって、何故か少女漫画のように所謂床ドンの形で音無と対面した。もちろん下が鏡桃で上が音無だ。先程から鏡桃を見る目が可笑しかった音無に、更に嫌な予感を募らせた俺は、閉じてしまったモーセの間を抉じ開けるためにもう何度目かの殴って倒す作業を開始する。

 何でだ。かなり近いはずなのにあの位置までが遠すぎる。


「ふわふわのホワイトゴールド…」


「か、鏡桃さん!あの、俺、音無央って言います!」


「ライオン…?」


「その、俺と、結婚を前提にお付き合いしてください!」


「シロ…?って、えっ」


 二重の意味で遅かったか!俺に目をつけたくらいだから、音無自体もゆっくり観察していたら気に入るだろうと思ってはいたが、まさか名前までつけるとは予想していなかった。いや、別に飼い主を取られそうだとか思ってはいない。それよりも音無がピュアなやつだとは思いもしなかった。一目惚れだからと言って、こんな汚い倉庫で床ドンまでして告白をしてしまうある意味ドラマチックな頭にムカついたわけではない。

 そう、違う。俺はただ単に腹が減っただけだ。

 目的地まで無事に辿り着いたので、鏡桃にバレないように何処か遠くまで鉄パイプを投げ捨て、未だに求愛している音無の腹を蹴り上げる。腕の力が緩んだその隙に鏡桃の身体を音無の下から引っこ抜いた。驚いて目を見張るその姿が最後に見た鏡桃の顔と重なって、何だかちょっと笑えてしまった。よくよくその平凡な顔の両目を見てみると、うっすらと赤く腫れているようだった。あーあ、俺、ばっかみてぇ。最初から勝敗は決まってたんだ。なら俺は逃げなくても、逆にこの女を落とせばよかったんじゃねーか。


「いってーな大神…桃さん!俺、また貴女に会いに行きます。だからどうかその時は」


「来んなカス。あーっと、あんなこと言うつもりなかった。ゴメンナサイ。その、俺のこと…許してくれる?」


 音無の言葉を強引に遮って、しどろもどろになりながら鏡桃に謝罪する。すると、目をぱちぱち叩きながら俺を見ていたあの女がゆっくりと微笑んで、俺の血だらけの頬をその柔くて甘い、真っ白な手で撫でた。まぁ多分、頭の中ではトマトジュースは飲ませるけど、なんて考えてるんじゃねーの。

 ホラ、やっぱり俺は赤ずきんではなくて、この白い手の持ち主がいいんじゃないか。目の前で笑ってるコイツに血だらけの、みっともない手を差し出す。早く家に帰ってご飯を食おう。いつも通り風呂を借りて、服とか洗濯してもらって。それで、傷の手当てされながら怒られてさ。

 それがクロ(おれ)と今の大神尋(おれ)の幸せなんだろ。


「…モモ、帰るぞ」


 何となくこの女の所有権が欲しくなって、俺だけの首輪をこの女につけた。

 鏡桃の手を引っ張って汚ならしい倉庫から出たのはまあ目的通りだったとしよう。ついでにここが鏡家から近い位置にあることが分かり、気が抜けたのか全身がまた熱を持ちだし気が狂いそうなほどの痛みが襲いかかったのもヨシとしておく。しかし、これはいただけない。


「桃さん、あの、メアド交換してくれませんか!」


「うん?いいよ、シ…じゃなくて音無くん」


「あ、あのあの、その、音無でも央でもシロでも桃さんの好きなように」


「ざけんな。モモ、コイツはシロじゃねぇ。音無だ音無ィ!」


 何でコイツまで一緒に帰ってンだよ。何処まで着いてくる気だ、図々しいカス野郎。つーか御主人サマに馴れ馴れしい、身の程を弁えろ野良獅子。俺がやっと鏡桃に首輪を着けたばかりだというのに新しいペットを増やされてはたまらない。節操のない御主人サマを持つペットは心労が絶えない。


「さ、音無くんも入って。汚れた毛並みを綺麗にしようね」


 玄関のドアノブを回して音無を招こうとする鏡桃。お、おい!何でコイツまで呼んでるんだよ!ちょっと待て鏡桃!


「おいモモ、何で音無なんか」


「…クロ。約束破って外で遊んできたクロの意見を聞けると思っているのかな?」


「…」


 この餅まだ怒ってるんだけど。にこりと笑うその瞳が全くと言っていいほど笑っていない。しおらしい鏡桃は何処に行ったんだ、お前泣いて文字通りゴミ屑共を蹴散らしていたじゃないか。あれは俺の幻覚か。俺謝っただろ、お前許してくれただろ。あれは妄想か。


「先にご飯食べようね」


 首輪を着けたからと言って、俺は鏡桃に勝てるわけではないらしい。



「桃ちゃん、クロくんお帰りなさい。ご飯はまだ暖かいから、手をきちんと洗って一緒に食べましょうね」


「桃ちゃん…あれ、その男の子は誰だい?」


「クロと遊んでいた子」


「お、音無央です!」


 倉庫からの勢いでここに来てしまったが、言わずもがな鏡一家は俺にとって恐怖の対象だ。鏡桃もそれはそれは恐ろしいが、コイツの両親は現在俺の中で一位に君臨するぐらいの恐怖を与える。言ってしまえば奇抜で奇っ怪な頭をした一家。ボロボロな姿の俺を嫌悪するどころか、そのまま家に上げてニコニコと笑いながら世話を焼く。娘が連れてきた不信な男に何の疑問もわかない能天気な頭をしているのかと思えば、また笑顔を浮かべて俺の痛いところを突くのだ。

 曰く、娘の目利きを信頼しているのだとか。では俺を信頼していないのかと思えば、「クロくんは私達の家族」と言い出す始末。鏡桃の前では俺をペット扱いし、鏡桃が居なくなるとそれまでとは違う関係を提示してくる。俺と鏡桃の今後を見透かしているようにしか思えない。その得体の知れなさがまた恐怖を掻き立てるのだ。


「桃ちゃん、クロくんで手一杯なのに他の子を拾ってきてはダメよ。お世話できないじゃない」


「でも母上、」


「あ、いえ。俺は桃さんのペットになりたいんじゃないんです。桃さんの旦那様になりたいだけなんで」


 何処かで聞いたことのあるような台詞に、音無がきっぱりと言い放つ。直後に「言っちゃった」と照れる姿は俺が見た音無央の中でもダントツで気色の悪い光景だ。お前が鏡桃の配偶者になるだとか考えられない。気色悪い。お願いだ、失せてくれ。


「えぇ、そうなの?桃ちゃん早くも旦那様候補を見つけたのね。我が娘ながら凄いわぁ」


「ああクロくん、毛を逆撫でて音無くんを威嚇してはダメだよ」


 うるさいオッサン。そんなもん目敏く見るな。嫌なものは嫌だ。考えてもみろ、この喧嘩相手が鏡桃の配偶者になるということは、鏡桃の所有物である俺までコイツと一緒に居なければならなくなるということだ。絶対に嫌だ。どっかいけ。


 確かに鏡桃の隣は気持ちがいい。頭のオカシイあの女は決して俺を頭ごなしに否定したりしないから。俺はそんなあの女がいつも怖くて、気持ち悪くて、眩しくて仕方がなかったよ。だから早く、あの女には絶対に似合わない見慣れた赤色になって欲しかった。そうすれば俺のような狂ったやつでも堂々とあの女に触ることが出来る。そうやって汚すことも、支配欲を満たすことだって。最初のときみたいに噛み付いてしまえばいいのに、それすら怖くて出来ない。あの女が傷つくかもしれないということが、(クロ)にとっての最大の恐怖になったのだから。

 そんな感情を今日認めてしまったのだ。もうこの感情の変化に左右されて、鏡桃を傷つけることはないだろう。少なくとも今は。

 鏡桃の母親と音無の掛け合いを見ていると、横にいた鏡桃が俺のボロボロになった制服の裾を持ちながら、ポツリと小さく呟いた。


「だって、クロにも友達が必要かなって」


 その言葉を聞いた瞬間に、何となくこの小さな御主人サマの言いたいことが分かってしまった。つまりコイツは、俺が鏡桃に縛られることによって、人生を損してしまっているのではと考えているわけだ。だから飼い主に反抗するのだと、もしかしたら俺を傷つけてしまったのではないかと。そんなわけはないのに、この小さな御主人サマはうだうだと考えたのだろう。それで音無を連れ帰ったってことか。逆効果だよ馬鹿餅が。

 そんな鏡桃のことを考えていたら何でか心臓が鷲掴みされたように痛くなって、俺の裾を掴んでいた手を取って俺の左手に握り直させた。


「いらねーよ。アンタが要ればそれでいい」


 他の奴に首輪なんかつけるな。アンタは俺だけで満足すればいい。この先アンタが縛られるのも縛るのも、俺だけに決まってる。そう考えると何だか、あれほどまでに鬱陶しいと感じていた枷達が何の感情も抱かずに享受出来る気がした。

 握り返された左手が熱い。


「うん、そうだね。そっか」


「…おう」


 この日、俺は鏡桃に完全に陥落した。

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