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八章~勉学せる者が落ち入る陥穽

――空――転――………………。

ぐえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ…………――――。

つんざくように聞かれたのは、鳥の叫びか、はた風のとどろきか……。僕はここへきて僕の特性であるところの眠りの浅さを遺憾なく遺漏なく首尾よく発揮して、俄かにハッとなって、舟をこぎつつあった意識を我に取り戻し、泳ぐべき自分の足場をしかと確認した。そこはモノレール内の硬質な足場……地に足つけて、安心して暮らせる居場所。

しかし、奇妙な浮揚感が一座をすでに席巻していた。乗客は誰もが、泳ぐような胡乱な眼を、右へ左へさし向けていて、その実誰も、誰かを見ていたりはしなかった。視線の不可交錯には、特別な意味はない。ただ実際的な事情はあった。視線が漂うのにたるだけの、厳然たる事実が僕たちを無限かと錯覚するほど長い浮遊の恐怖へと招き入れた。

モノレールはぎしぎし鳴っていた。車体ではなく音自体をきしませるかのようで、恐怖の跫音がすぐ耳許にまで聴覚されてくる。僕は眼の前の厚着にくるまった女性を見つけると、不審そうな眼をあちこちに飛ばしていた彼女と顔を見合わせる。互いに情報不足からくる頼りない不安感を前面に覗かせていて、眼をしばたたかせていた。十人並の、それでいて綺麗な容色が、やおら僕の感覚の奥底を高く低くゆさぶったのは、浮遊がもたらした常ならぬ緊張のせいかもしれなかった。吊り橋効果とはさもありなん、あながち間違いでもなくあるのかもしれないなと感じ入った。

――と、次の瞬間――。

とてつもない浮遊が、さきほどまでとはうってかわって大きな浮力が、僕たちの身体に強烈に働いた。浮遊、というよりもそれは、一種の虚脱感にも近いか。人間は知覚の限度を超えてしまった時、なまじ情報を得ようとする自覚があるばかり、半狂乱のパニックに自らおちいる。それは眼や耳や鼻が必要以上に敏感になり、猜疑の余地が大いに覚醒されるためでもあった。アレルギー症状といえば、譬えとしていささか適当だろうか。過剰な自己防衛が、結果として自らをスポイルするのだ。

車内は突如としておとずれた浮遊感よりも、それに引き続いた人々の恐惶状態の方に騒いだ。

浮かれ騒いでいた。誰も彼もがさっきまで定位置のように陣取っていた場所を離れ、右に動いては左にぶつかったりと、一瞬の間に落ち着きなく忙しなく、本来ならば静止こそふさわしい空間で激しい運動にとりつかれたように従事していた。

身体の統制を欠いてしまったかのように……皆が皆、てんでにぶつかりあう。さながら児戯のおしくらまんじゅう、横へ横へと力がはたらく――そして、浮き足立つ。焦燥とかではない、文字通り足が浮いたのだ。何か予知的な嫌な夢を見てしまった時、ベッドから転落したような奇妙にリアルな感覚が身体を襲う時のように――。

例外なくこの場にいる誰もが、地から足を離して天井に引っ付いていた。蚤の息も天には上がるというが、正直この種の飛翔はノミよりも狭小な僕にとっては、いや僕だけにとどまらず誰しもが要らざる滞空と感じるのだろうが、僕らは恐怖に顔色をひくつかせながら、ぴたりと頭頂を張り付けて天井に逆立ちしていた。

――否、逆立ちしていたのは、僕たちの方ではなく――、

落下しつつあったのは、今しも橋梁からすってんころりんしつつあったのは、高いところにある線路をそれが敷かれたとおりに進むことだけしかインプットされてこなかった融通のきかないモノレールの方で、天地を逆しまに取り違えてしまった慌てん坊のそれは、あたかも上映するフィルムを間違えた映画館のように場違いな風景を窓から覗かせるのだ――観客は誰も、その普段は視られない一瞬かぎりの特別上映会を堪能しようとは思わない。むろん僕とて、何を考えるより常に先を歩く恐怖、という言葉では尽くせぬ感情に身を翻弄されながら、重力が敵に回った位置でのきりもみ状態の中では受け身もままならず、今度は僕がさっきまで背をもたせかけていたドアを地面にして、僕は背をしたたかに擲った。

――つまり、身も蓋もない言い方、事実解説をしてしまえば、モノレールが脱線してしまったのだ。

背中を擲ったと思えば、今度はたちまち圧迫された。みんなが一様に同じ動きを強制されてしまう悲しい世界にあって、僕はその階級の底辺の地べたに横たわっていた……もんだから、すなわちすし詰めに近かった乗客全員の体重が、一時に加算されて僕を、一疋のノミを圧し潰した。

息もつけぬほどに――息をもつかせぬほどに、彼らの体重は何倍にも何乗にもふくれあがって襲い掛かり、モノレールの扉とそれに引き比べて軟らかくまたナイーヴな僕の肋骨を悲鳴が出るほど軋ませた。

声は出ないが、悲鳴が出た。悲痛な悲鳴が漏れた。その悲鳴は虫の羽音のようにひどくか細く、全員がある運動に従事している間は軽視されてしまうほど、ひどくちっぽけな、弱々しい声だった。

反転――僕の感覚があまり強すぎる衝撃に耐えかねて、麻痺してしまったのでなければ確かな浮遊の感覚が、二転三転、今度は僕の身を救う。僕が背負わされてきた全ての重みが、いくぶんか和らいでくるように感じられたのだ。ふんわりと、幽体離脱した魂ででもあるかのように、僕の肉体は起き上がろうとしていた――。

その時僕は、短くも考える余地を得た――おそらくは狂乱の車内にあって、そんなことを悠長に考えていられたのは、ただ一人、僕だけだったかもしれない――そしてそれは、死を前になすすべもない生命が幻視するという、走馬燈なる前段階だったのかもしれない。因果めかせて考えるのはどうかなとも思えるが、人の世が作り出した嘘でも信じないことには、車内の狂騒に耳を塞ぐことができなかったのだ。誰も彼もが、自分の生命の危機のために喘いでいる、鳴いている、あさましい鳥のような声で利己的に叫んでいるように聞かれて……。

僕は死ぬんだろうか……僕は僕なんかとは違って毎日大量の燃料とか、それでなくてもたくさんの人員の汗を傾注して整備される途方もなく大きな存在としての威容を誇りかに見せつけるモノレールの一トンは下らないだろう重量を意識してみた。慣性という不可視の海に泳ぎ、沈まぬ水にすっかり溺没してしまった僕ではあるが、重力落下の加速度はもうどうしようもないほどいやまさり、いつ接地の衝撃が僕らの肉体を、生きづく精神をひしゃげさせるか、わかったものではないという喫緊の事態を知っていた。

精神、と僕は思った。そう、精神。それは時間という軛を逃れてひとりでに世界の裏まで闊歩してのける俊英な洞察の持ち主――宇宙の対蹠点で僕の思考を支え、時間が停まったかのようにめまぐるしく脳を回転させるもう一人の自我、あるいは人間の一部とされるもの――不思議なことに僕は、跨座式のレールから落伍した車体が宙を舞い、ひらひらと乱舞し、ずどんと落ちる、描写にして一行でこと足りてしまうあっけなく終わる現象に今後の身の振り方を左右されながらも、しかして精神の空間ではその時間にして一瞬にすぎないインターバルを最大限まで引き伸ばし、死へのカウントダウンをスローモーションで聞くことができた。

僕は考える。恐惶の中で掴んだ無限にも等しい空間の中で、僕は冷静に考えることができた。帰納法的に、きわめて蓋然性の高い可能性について――転落しつつあるモノレール、冷たく死出の旅路への口を開けて待っている地表との距離は二○メートルもないだろうそんな中――自分が生き残る公算について、考えめぐらしていた。

あくまで合理的に、あくまで利己的に考えていた。

……言わずと知れた、かの天才物理学者、アインシュタインは、ある時年端もいかない子供に相対性理論とは何かを問われた際に、楽しい時間は短いと感じ、辛く苦しい時ほど長く感じられる……と比喩を交えながらそう答えたとされるが、つまり僕の親父なんかとは全然異なる答え方を子供にしたということだが、まったくむべなるかなで、この時の僕にとって苦行にもひとしい滞空の時間は、しかし裏返せばそれだけ脳をクリアにする、洗練されたひらめきの刹那だった。

 やがて激動の中で、僕は一筋の光明を思いついた。成功の見込みは薄そうだったし、なによりあのろくでなしの実父ですらそれをやって身を持ち崩したりしなかった大博打に僕が乗り出そうというのはいささかの抵抗がないでもなかったけれど――その光明は、走馬燈という漢字にもうかがえるように、暖色の明かりとなって僕の取り得べき行動を照らしていた。白い厚手のジャンパーが、さだめし柔らかそうなクッション性に富むそれが、僕の眼には命を繋ぐ……露のように儚いちっぽけな命を向こうへ渡す架け橋に映ったのだ。

 もちろんそんなもので命を繋ぎ止められる確率は、きわめて低かろう。だが、どうせ死ぬしかないのならやけっぱちだった。僕は宇宙空間に投げ出されたかのような慣性の暴力の中を泳いで、浮遊の恐怖を向こうにやって、代わりにその女性をがっしりとかき抱いた。暖かな素材は密着する人間同士の体温を機能的に高めた。僕は何故ともなく、抱いた女性に対して不覚にもどきりとしてしまったが、次の瞬間にはまた別の感情に上書きされた。僕は走馬燈によるものではない、僕の意識の及ぶべくもない外部からの光を背後に感じた――太陽という名の、窓から入射してくる自然の光だ。

 ――そうして車体は、耳を聾するばかりの大音声とともにどっしんと地面へ激突した。僕の身は車両内にあったいたるところにあらゆる部位をうちつけて、とんでもないことになったが、不思議と痛みはなかった。

 それは単純に、大掛かりな手術が麻酔で人を眠らせてから行われるように、僕の意識がブラックアウトしたおかげで一時的に痛覚を失ったせいかもしれなかったし――死と隣り合わせになっていたからなのかもしれないし――。

 ――あるいは気休め程度に腕にかき抱いた、即席のクッションが功を奏したのかもしれなかった。いずれにしろ、僕は特段に知覚される痛みもなく、意識を失った――。


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