七章~死は志の行き着くところ~
「いいかワタル、人生なんてものは存外にくだらない! 生きていればいずれは希望が見えてくるとか、そんな生易しい甘っちょろい夢や理想は早いうちに捨てちまいな。大事なのは現実なんであって、そんなマヤカシみたいなあやふやなものがまかりとおるような世界じゃないんだぜ、そこは! なにかを変えることもできん! こいつは、俺の経験だ。人はてめぇの経験でしか何も知ろうとはしねぇんだ。そいつが理解の邪魔をすんのよ……人が信じるのは科学! そしてカリキュレート! 大事なのはすべてこの二つによって集約され、還元される。そうでないものは、つまり、その範疇におさまらないものは残らず爪はじきにされ、あたかもはじめから存在しなかったかのごとく扱われる……お前にこの意味がわかるか?」
「ううん、これっぽっちも」
「だっはっは、そうだよな!」
と豪快に笑って、年端もいかない子供が親にするであろう、答えるのが難しい三つの質問――すなわち、天皇と総理大臣はどっちが偉いの? だの、サンタさんって何者なの? だの、赤ちゃんはどうすると生まれてくるの? だのといったあたり――にあっさりと、しかもいずれも包み隠さずあけっぴろげに僕に回答してみせた僕の親父は、うぃーひっくと酔っぱらいの臭い息を当年とって四歳たらずの僕のつむじに吐き散らかしてから、がしがしといたいけな僕の頭皮を牛耳った。
――僕の記憶の中に今でもぷっぷかぷっぷか放屁しながら存在している親父は、酒の隣に自分を置き、その隣に実の息子である僕を置き、さらにその傍らに酒を置いては我が身をその傍までよっこいしょと気だるげに運んでいくという体たらくぶりを晒していたが、彼のその有様を「ひどい父親だ」なんて思えるだけの材料もフィルターも持たなかった僕は、世のファーザーと呼ばれる人達はおしなべて面白い人なんだなと、そんな風に物心つけてしまう始末だった。
なぜなら僕は、僕の父親以外の父親というものを、見たためしがなかったのだから。そういうものとの接触は、どういうわけかこの国ではひた隠しにされていた。少なくとも僕にとっては……三畳ほどの二人で住むにはいささか以上に狭すぎる古アパートで、僕らは二人住まいをしていた。幼稚園なんていう年相応の子供が味わうべきお気楽な風景は幻としても遠すぎて、ひもじさの上にさらにひもじさをかけあわせたような赤貧洗うがごとき生活も四歳の子供に難なくフィットしてしまい、テレビなんていう高級な代物もなかったので、時代がみせる飽食の環境すらその日かぎりの糊口をしのぐのにさえ窮屈な僕らの身にはあまりある贅沢とさえ思った。わかりやすく描写すれば、当時の僕が着ていた服にはマンガ的なあの継ぎはぎ、そこだけ布も色も違うというような不格好な正方形の、時代錯誤なもんぺとかにわかりやすい縫い合わせがあった。もちろん比喩であるし、親父も僕もそれくらいの裁縫すらからっきしだったから、そんなものが実際にあるはずはないのだが。
僕が幼少のみぎり、好んで言っていたという「足るを知れ」は、貧乏からくる卑屈さの表れだとか公園で見かける中流層への妬みそねみでないことは、おそらく僕がどんなに言葉をつくしたって弁明できまい。僕にはそもそも、何かに憧れるという感情すら貧困のあまり、まともに素養できていなかったのだろうから。僕の心おきない友達といえば、身の丈にあった、三畳一間に棲息するノミ一疋だった。
記憶の中の親父は、ところどころ破れて尾羽うち枯らした感じの、いい具合に貧乏さを醸し出せる黄ばんだ襖をひっかきながら、たいそう気持ちよさげに言っていた。その襖を、ノミが幾疋もぴょんぴょんと跳ねていた。それを見る僕の身も、踊らんばかりに。
「女なんて存在も、存外にくだらん! やつらはそもそも、人間などではない! 男と女は考えることそもそもが違うなどと、行動原理のはなはだしい相違についてはとかく方々で云々されているが、まったくけしからんよ、どれも間違いだらけだ! あいつらは、すっかり人間を超越してしまっているんだからな!」
親父はばかすかと酒をあおった。酒をあおったというよりも、酒にあおられていた。垂涎なのかアルコールなのかわからない液体が口許に溢れかえっている。へべれけになった頭で何かを考えようとしているのだろう、半ば正体を失いかけたその瞳の奥に宿る黒々とした猛火は今にも崩落してしまいそうなこの三畳一間の現実空間までをも火の海と呑み込むかに見えたが、汚い顔の中で唯一澄んだ眼球の反映に僕の姿を見られるころには、妥協したように腰を落ち着けて、また子供のように襖をがりがりとやった。不確かな呂律はさらに管を巻く。
「やっぱあれだな、我々人間は高潔であらねばならん! そのためには、女と距離を置くべきだ。女を望むのは悪であるし、女に何かを求めようとするのは愚の骨頂だ。女なんか、女なんか……!」
そう言って、親父はさらにまたぐびりとやった。
「……しかしなぁ、淋しいよなぁ……なんでこう、淋しくなるのかねぇ……なぁ、教えてくれよ、坊主」
「さぁ」
「……どうしたら、この淋しさが消えるんだろうか……?」
「……さぁ」
「酒は痛みを忘れさせてくれる……痛みをな。けれど痛みなんて忘れたってろくなことはありゃしねぇぜ! 無痛病者は健常者よりも死と隣にある! 俺は隣にそんなやつ、置いておきたくなんかねぇ、自分が埋められる墓のことなんて考えてられるかってんだ!」
親父は酒瓶を口に含んだ。未来に満ちた若々しい顔をした兵隊が戦場に赴くような、どこかで何かを履き違えたかのような光景だった。僕はその様子を、黙って見ていた。
見るべきものと言っては、遊ぶべき遊戯といっては親父しかなかったからだ。あらゆる中で唯一の対象、それが親父だった。
そうして僕には、あらゆる基準を測量するだけのなにものもなかったのだ。僕は親父の狂態を見てさえ、嬉々としていたように思う。それはあくまで観劇としてそこにあったのだ。
閑古鳥鳴く三畳一間の淋しげな看戯。僕はそれを、唯一の無聊の慰みととらえていたし。
僕が世界というものに対して抱いた、初めての感想でもあった……。
親父は何かに敗北してしまった人だった。全共闘の失敗、とまではいかないまでも、その世代、セクトが横に共有していた一枚岩だったはずの理想に若人となった親父ではあるが、そんなもの今や崩れ去って幾久しく、現実の重さを欠いてその辺に安っぽく浮遊していた。のらりくらりと、さながら根無し草のように、どこにでも浮いている色んな物の一つになっていた。親父がかつてのムーブメントに我勇んでコミットしていただなんていう印象は、残滓は、その精神的零落ぶりからは推しても窺われない。禿げかかった頭の毛ほどにも、覗けない。
「おお、おそろしい! 俺を運んでいく棺が目の前に見えてくらあ! 俺をミイラかなんぞみてぇに一様に扱いおって、白い衣を作業的にひっかぶせて、防腐剤の没薬かなんか塗りたくって、酒が二度と浴びられねぇ妄想の天国へ俺を運んでいくんだな! やめろ、やめてくれ……俺はまだ、そんなところへ行きたくなんかねぇ。本当の天国を一度も見ずに、本当とされる天国へなんて、行けるかってんだ! なぁ、よしてくれよ……俺を終着駅へなんかに送り届けないでくれ……俺を落としてくれ、俺の棺をサイコロよろしく、賽の河原にでもうち捨ててくれよ。そうすりゃ俺は、ここを先途と、そこをこそ天国としてあおげる――
――いいかワタル、俺がもし志半ばでおっ死んでもなぁ――」