四章~実利と美の金愛(兼ね合い)が世界
ある種の鳥は交配の時期ともなると、雌雄が空中でやかましく乱舞するという。鳥の大小、生物学上の分類ごとにさまざまな鳴き声が用意されているけれど、この時かけられていたBGMはまさに、雌雄が欲情したかのごとき聴き苦しいレコードだった。この時、というのは、僕が彼女と偶然にも鉢合わせ、気まずい雰囲気のまま次にやってくるモノレールを待っている……そういう時だ。
「……ねぇサヤカ、メールの件だけどさ」
「なんでワタルがここにいるのよ。モノレールには乗らないって言ってたじゃない」
空気が重いだけではない。あまり心地良いとはいえない起床だったものだから、本来ならば身に染み入るはずの午前中の日光も、背負った甲羅のように重たく感じられてくるから始末におけない。
僕は彼女と接触しまいと意を固めたそばから、誰もいない駅のプラットフォームで彼女と二人っきりという、最悪のシチュエーションに臨んでいた。いったいどういう配剤だろうか、これは。
僕が二人の間にわだかまる気まずさを向こうに追いやろうとして、勇を鼓してかけた言葉を彼女は無視していきなり苛立ったような文句をたれてきた。お、のっけからケンカ腰とは勇ましい。高架が風を受け、ぴりぴりとした音をたてている。見るからに険悪そうな彼女の顔から眼をそらし、僕はそらとぼけたように、風に押し流される雲のように飄々と答える。
「乗らないと言ったら、僕はモノレールに乗ってはいけないのかい?」
はぁ? と彼女は尻上がりな嬌声を強風にのせた。
「……モノレールに乗らないってあんたが言ったんだからね。それとも、自分のお言葉を枉げるおつもりですか?」
「そうではないさ。ただ、モノレールには乗らないと言ったところで、本当に乗らないとは限らないよ、人生において」
「……あれは嘘だったってこと」
僕は首を振ろうとした。けれど、斜めからも横からも殴るように吹き付けてくる風によって平衡が狂わされ、なんともいえないファジーな首の振り方となった。
「だから、そうではないさ。ただ、何か一つのことを提言した場合、それを一貫する必要はないと僕は言いたいんだよ」
「なによそれ。あんたはモノレールに乗らないって言ったじゃない。電車かバスで学校まで通うって、前に言ってたじゃない。あたしてっきりそうするものだとばかり思ってたから、今日だって……」
彼女は終わりまで言うことができなかった。だしぬけに構内アナウンスが二人の間に割って入ったからだ。「……本日、風が強くなるとの見通しのため、九時以降の運転をすべて見送ります――お急ぎのお客さまにおかれましては――」
僕はそこで、プラットフォームにある電子時計を見てみた。時刻は八時四○分。五九分発のモノレールは、ダイヤ通りきちんと運行してくれるだろうか。
「……ねぇ、メールは見たんでしょ?」
「うん」
僕は短く素っ気なく答えた。得体の知れない鳥が、どこかでやかましく鳴いていた。強風にあおられ、それでも懸命に耐えたり忍んだりしながら、彼らは眼には見えない大きなものが繰り出す翻弄の手に不平を言っているようだ。そう聞こえる。その実、ヘテロなセクシズムからくる蝉噪のごとき求愛の鳴き声だったのかもしれないが。
「どうしてあたしがあのメール送ったか、あんたにわかる」
僕はすぐには答えなかった。正直なところさっぱりわからないというのが僕の存念だったが、ここでそういうことを言ってしまうのは、まずいと思った。
心証に悪かろうと思ったのだ。
僕はたっぷり迷ったすえに、やっとどうしてもわからないという厳しい顔をして「さあ、さっぱり」と肩をすくめてみせた。彼女は自分の満足する結果を僕の表情と態度から見て取ったようで、我が意を得たりとばかり、したり顔をした。僕も内心でほほえんだ。彼女が当座の間は、他ならぬ自分自身の行動で二人の関係に終止符を打ったものと思い込んでくれるのであれば、それは僕としてもむしろ本望だ。というのも、やっぱりこの破局が緩やかに僕の策動によって、僕の迂遠な行為の連続が、カオス理論とか、バタフライ効果だとか、そういうごくごく微細な影響を使いまくって実現させられた成果のようにも思えてならないので……。
親父の死が、親父自身が積み重ねた喫煙や飲酒の結果だった時のように、僕は彼女に対して三行半を突き付けてくるよう、なにかを仕向けて、けしかけていたのかもしれない。
そうして、もしまたそのようなことが本当なのだとしたら、僕はこのことを誰にも知られてはまずいような気がしたので……もとより僕のそのようなあさましい魂胆を、あるいは危惧ともいうべき可能性の猜疑を、見透かせるような人物がこの物象界に存在するとは思えない気もするのだが、ややもすると分厚い壁のようにして聳立する不可知論をぶち壊すみたいな、とんでもない人間がこの先僕の人生に現れてこないとも限らないから、念には念を入れて、僕はふるまうのである。そう、ふるまうのだ。僕はそうでないと、そうでいられないと、たまらなく不安で、たまらなく不純な気がしてしかたないのだ……。
「あんたは今まで、一度も自分からは動いてくれなかった」と、彼女は勝ち誇ったように、勝利の証をさながら凶器であるかのように、こちらの眼前に血でもこびりついた鋭利なそれを見せびらかしでもするかのように、そう言った。「あたしが何か言ってやらないと、考えてやらないと――実行してやらないと、あんたは動こうとしないし、考えようともしない。いっつも煩わしいことはあたしに押し付けて、任せっきりで、何も手伝おうとしない――いずれ二人のこと考えてくれるんだろうなって、それでもあたし、少しは期待してたんだよ? それなのにあんたは、やっぱりあたしのために何か自発的にしてくれるわけじゃないし――あたしたち二人の将来のこととか、あんたちゃんと考えてくれたこと、ある? あたしは何度もあるよ。ちゃんと考えてた。卒業して、あんたとこのまま結婚するんなら、当然あんたの就く仕事のこととか頭にいれて、いろいろとマネジメントしなくちゃならないでしょ? 知ってる? 今は年金とか、大変なんだよ? 仕事に就く前にそういうことみんが考えなきゃいけないんだよ、わかってるの、ねぇ。結婚するならするで、子供は何人産むとか、そういうのだってあるでしょう? 私達、親許に挨拶しに行ったほどなんだからさ、私の両親もうすっかりその気なのよ。
……結局さ、あんたはそういうこと、全部あたしに丸投げなんだもんね。他のカップルたちを見てみなよ、みんな思い遣り合ってるよ、幸せそうだよ? それなのに、どうしてあたしたち……あたしだけ、こんな……」
「きみは子供をつくるつもりかい?」
「……結婚するならって仮定でね。だって老後が心配じゃない、そりゃ今時分から老い先の心配なんてあたしだってバカげてるとは思うけども、しかたないじゃない。子供のためにしっかりとお金を貯めて、いい大学に行かせて、いい会社に勤めさせて、そうしてあたしらが死ぬまでの面倒をこんどは子供にみてもらうのよ、あたしたちにはこれといった収入がなくなるんだから、これが当然じゃない」
彼女のいう当然とやらは、僕にはどうもすんなりとは呑み込めなかった。というか気が早いだろ、結婚だの老後だの、いったい何千年後の仮定を彼女はしているんだ。
そんなの――と、僕は思うだけで決して口には出さないが……禍いの因はつぐむが――そんな遠大な仮定はほとんど妄想とどっこいだろう。ひょっとしたらこの直後、何秒後かに自分が何かの事件や事故だかに巻き込まれて死ぬかもしれないという状況論理の渦巻く中で、たとえばありえないことだけど、これからやってくるモノレールが風で転落して死んでしまうとかが起こりうる世の中で、そのような妄想を抱いて生きることの愚かさに、彼女は気づいていないのか(こんなことをうっかり口にしてしまうと、すぐに生命保険会社の話が出てしまうのでなおさら閉口だ)。あるいは、気づいていながらにして、それでもそれにすがらないと生きていけないような、か弱い女性が彼女ということなのだろうか……僕には皆目わからない。
わからないなりに、僕は言う。
「……きみの話を聞いていると、まるで子供というものの具体をみていない気がするよ。たとえば僕らが子供をつくったとして、」
「そんな想像、仮にもしもの仮定だとしても今となってはうんざりするけどね。あんたとの子供を産むだなんて、想像するだに身の毛もよだつわ。ホラーよホラー、怪奇小説」
……ええー、なにその言い様……。
そっちが先に持ち出してきたワードじゃんか……。
ぴしゃりと、にべもなく言われて、僕は胸に込み上がってくるものがあったが、何かを吐き出したい衝動をぐっとこらえて続けた。
「……子供をつくったとして、その子供に将来を養ってもらおうだとか、期待をかけるのはそもそも筋違いなんじゃないかな?」
彼女は哲学的な表情で僕の言葉を受け取ると、「じゃあなんで人は子供を生み育てるわけ? それ以外にどんな意味があるっていうの?」と、いかにも即物的な疑問を返してきた。
「そんなことは知らないよ。だから生んでから考える、でいいんじゃないかな?」
「だからそれじゃ遅いのよ! なにもかもが間に合わなくなる!」
彼女は苛立たしそうに時刻を確認すると、モノレールの到着を切に望む人のようにしてそこに立っていた。
「……きみが何を恐れているのかわからないけど、」
「あんたのマイペースさよ!」
「……それでもさ、僕が思うに、教育は投資じゃないよ。投機じゃいけないよ、子育ては」
「じゃあどうしろってのよ、あたしの老後は⁉」
だから知らないよ、老後のことなんて……。
僕は自分の生きた年月をそこで指折り数えてみたが、やっぱり何度確認してみたところで老後は身近に迫ってきているとは感じられなかった。ただどうしようもなく冷たい風と、あおられた火のような剣幕でこちらをキッと見すえる彼女との場違いな温度差を痛いほど実感していた。
鳥がさえずっていた。ドタン、とどこかで一回鈍い音がしたかと思うと、さっきまで飛んでいた鳥のうち一羽が変に悲痛な声を上げて、どこかで呻いている。おそらく折からの風にやられて、どこかに身体をしたたか打ち付けたのだろう。おおよしよしと、眼には見えないその鳥をいたわるように思いながら、僕は不意に食べ物でもつまらせたみたいにしている彼女に一歩近づこうとしたが、やめてよねと言いたげな顔つきをして、彼女は僕の歩み寄りを拒絶した。うなるような風が二人の間を埋める。鼓動が早鉦を打った……早く、なんとかして手を打たねば、間に合わなくなるぞ……そう言っているようにも聞こえたが、それは僕の声ではないような気がした。
冷え切ったような声で、彼女は短くあっさりと告げた。
「……あたし、もう帰る。今日はどうせ出席をとるような授業ないし」
彼女はコートのファーにくるまるようにして、ちんまりした顎を隠すと、風に溶けて流されでもするように実に女らしい歩き方をしながらエスカレーターを指して歩いて行った。パンプスの音だけが僕の聴覚をいたわるように優しく撫したかと思うと、それはたちまち風に追いやられてしまい、まるで疾走中の車窓から手放してしまったもののようにむなしく思われてもき、猛烈なスピードで遠ざかろうとするその先にどうしようもなく過去を悔やむ自分の新旧入り混じった未来の姿を妄想してしまった。おそらく僕は、この先一生涯、彼女の言ったような「幸せそうなカップル」の片割れにはなり得ないのだなと思うと、たまらなく淋しくなった。そのようにしみじみと実感させられる冷厳さが、何かを置いてけぼりにしながらレールの上を無制限に加速し続ける正体だったのやもしれない。
鳥は断末魔の雄たけびのように、苦しげに呻いていた。僕は救急車でも呼ぶように急いで携帯電話を取り出し、まだ姿が視界から消えてしまったわけではない彼女のそれを鳴らしてみることにした。彼女は立ち止まって、愛らしいデコレーションのほどこされた端末の画面を睨んだだけで、すぐさまそれをもとあった場所にしまった。後ろ髪ひかれるとか、そういう仕種は微塵もうかがわせない、冷たい挙動だった。目玉が現金みたいに見える熊のストラップだけが、控えめなバッグからやっと顔を覗かせて僕にもの哀しくもさよならを告げていた。