二章~言葉とは、人が通じ合える唯一のコミュニケーションツールであり、最大のディスコミュニケーションツールでもある~
『……もしもし』
今度もまたすぐに応答があった。が、声はあいかわらず、寝起きのような無愛想な声のままで、誰を迎える時のような歓待の響きは宿っていなかった。ひょっとすると彼女は主婦などではなく、一人住まいの妙齢の女性だったかもしれない、という考えが頭をもたげてきた。そうだとするなら、朝早くから外に出るような用事もなかったのかもしれないし、静寂の中で突如として鳴らされた電話の呼び鈴にひとたまりもなく飛び起きた経験の持ち主なのかもしれない……。いろいろと可能性を巡らしながら、僕は言葉を択ぶように言った。
「あの、つかぬことを訊くようですが」――つかぬこと、と僕は言ったが、僕とこの電話相手との間にはそもそも付くことからしてが存在していなかったのだが――「あなたは主婦ですか? それとも独身ですか?」
電話の相手は不機嫌な声で答えた。
『……それって、何かの調査ですか? だとしたら、なんでこんな非常識な時間にかけて寄越すんですかね? ってゆーか、わたしの番号どこで知ったんですか?』
僕は彼女からの問いには応えず、さらに重ねて訊いた。
「その口ぶりから察するに、あなたは今の今まで寝ていましたね?」
『……寝てましたよ。……ええ、たしかに寝ていましたとも。そんな推理めかした言い方しないでくださいよ、普通に考えりゃ寝てる時間帯でしょ。今何時だと思ってんのよあんた、最初から察しなさいよ』
僕は確信した。彼女は独り身だ。そして彼女の普通が、七時という時間は誰もがまだ寝ている世界なのだということの言質まで今の一言からピックアップすることができて、たまらなく嬉しくなった。電話の向こう側にいる、姿の見えない誰かについてなら、僕は野暮にも何かを揣摩することができる。
僕は続けた。さもわかりきったことを訊くみたいに。
「あなたは独身ですね、違いますか?」
相手は苛立ちながら言った。
『……片想い中の人は胸中にいますけど、法律上の身分でいえば、そりゃあ独身ってことになるんでしょうが、でも――』と、この辺りで彼女は一回しわぶきを入れた。これ以降聞かれる彼女の声は、僕の方でも確信からくる補正があったのだろうが、さきほどとは人が変わったように若い女性のものになった。
『それがなにか? なんでそんな立ち入ったことまで訊いてくるんですか? セールスなら結構ですので、まわりくどい訊き方はよしてください……ふぁぁ』
彼女は語尾にアクビを付け足した。それによって示したい何かが含まれているわけでもない、ごく自然な生理現象だった。僕はフェチを気取るわけでもないが、そういうアクビには大いに惹かれる。今すぐ電話口を飛び越えて心づけを渡したいくらいだったが、僕は彼女と金銭のからんだ応答をするつもりはさらさらなかったので、もちろんだがそんな些細な得した気分に僕が一方的にあずかってしまったことは電話では見られることのない胸三寸に隠して、彼女とセールスではなく愛の話をすることにした。
「いいですね、胸のうちに同棲している方がいらっしゃられるんですか」
『ええ。ロマンチックな言い回しね、それで?』
「いやね、僕は彼女にフラれちゃったみたいなんですよ。正直うらやましいなぁ、なんて……」
『あらあら、それはご愁傷様ですこと』
「それもね、ついさっきなんですよ。起き抜けに電話が鳴ったんです。というか電話の方が起きるよりもさきに鳴り出したんですね。で、メールを開くと『別れてくれ』ですって……はは。なんだかあっさりしたもんだなぁ、最近の恋愛事情」
『……』
「思い当たる節が不思議と一つもないんですよ。なにもこのことによって僕は僕自身の沽券というか、人格を高めようというんじゃないんですけどね、僕は彼女がいろいろ満足できるよう、便宜を図っていたつもりなんですよ。よくある些細なことでも逐一見逃さず、いつでも彼女のことを第一にしてきたつもりなんです。なににも増して、彼女のために行動してきました。彼女がしてくれっていうから、僕はいろいろな資格試験の勉強とかして、乗り回すあてもないのに車の免許まで取ったんですよ。別に僕は、車なんて要らないのに……。でも僕は、頑張りました。彼女の指示通りに、こなすことはいろいろとやってきたんですよ。ところが今日、ついさっきですよ。いきなりなんの前触れもなく、『別れましょう』だって。まったく、なんでこう、いっつも彼女は――」
あれ、どうしてだろう。全然、そんな感情でもないのに涙がつと頬を伝った感触が……いや、気のせいか。ここは泣くべきところではないのだから。
電話の相手は黙って僕の吐き散らかす愚痴を聞いていてくれた。もしかしたら電話口でうんざりしていたかもしれないけど、あるいは受話器を置いたつもりが、うまくはまっていなかったから回線がきれていないとか……いや、それもないな。なぜなら僕は相手の携帯電話にかけているのだから、ボタンを押してちゃんとスクリーンを確認すれば通話が切れているかどうかくらい簡単にわかる。
それなのに彼女は、見ず知らず――もとい、聞かず知らずのこの僕の声を、延々と、僕の気が済むまで、どんなものかはつゆとも知れない彼女の電話機から垂れ流させてくれていた。
僕がたまにつっかえると、彼女は『それで?』と催促の言葉を寄越した。僕が涙ぐんで、声にまで塩気のようなものをにじませると、彼女は『そっかそっか』と適当な相槌をうってもいた。
やがて僕が力尽きたように語を継ぐのをやめた段になって、彼女はようよう僕に問いかけてきた。
『んで。二人の付き合いにおいてあんたの方に何の落ち度もないということは痛いほど、身につまされるほど伝わってきたのだけれど……ところでそれを一体全体なんであたしにぶちまけるのさ? あたし全然関係なくないか? ひょっとしたらあたしが憶えてないだけで、あんたとあたしはどっかに接点があるのかもなぁと思ってずっと聞いてたけどさ、ひょっとしたら、あんたとあたしとは昔の同級生とか、ずっと昔に一回会ったきりの遠すぎる親戚だとか、あるいはひょっとして、いつだかどっかのホテルで酔いにまかせてしけこんだことがあるとか、そういう間柄なのかもと詮索してたんだけどさ、終わりまで聞いて確信したよ。あんたとあたしって、たぶんまるで接点ないよね?』
「ありますよ、接点なら」
がたがたうるさい窓から射し込む黄色い光が、どんよりと暗かった室内を明々と照らした。僕はその時、外の世界を望むほとんど唯一といっていい寄る辺を見つけたような気がして、不思議な自信をつけていた。
『どんな接点があるっていうのよ?』
「あなたの電話番号と彼女のそれが、とてもよく似ているんです。こうして間違い電話をかけてしまうくらいに」