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一章~示される言葉だけが、世界のすべて~

 僕の親父が掛かりつけの医者にあれほどやめろと言われていたのにもかかわらず、結局やめずじまいに、むしろ眼前に浮かぶ絶望とか恐怖の色に骨まで屈した自殺志願者のように勢い込んで酒やタバコをがばがば呑んだすえに、はたせるかな、くゆらせた紫煙のごとく儚げなよたよた歩きをしながら、それでも天国までまっしぐらに向っていった今際の際に、その死に水を実の息子である僕よりも一足さきに取りに駆けつけてくれた甲斐甲斐しいにも程があろう僕のガールフレンドは、今朝がた携帯のメールに一通の短いメッセージを寄越してきた。

 その文面にいわく、

『もうあなたとは無理です、別れてください。』

 ……僕はスズメのさえずりを聞きながら、液晶の画面に映る素っ気ない明朝体と、そのトーンの暗いディスプレイに辛うじて反射している自分のしどけない顔とを見比べていた。……寝起きのこととて、まだ頭がよくはたらかないので、とりあえず粗末なベッド下のフローリングの床から手をついて、ノミみたいにちっぽけな身体を起こしにかかり、

カーテンを開いて、眼に危ういほどの朝陽に顔を思いっきり顰めながら窓の外を見つめ、

次いで枕頭に置いてあった目覚まし用のアナログ時計の文字盤を見、

時間に余裕のあることを確認したのち、寝癖をなおすために軽くシャワーで頭髪を濡らし、ついでとばかりに顔も洗うことで眼瞼の開け閉てを円滑にし、

洗い髪にドライヤー、前日来何も入れていなかった空きっ腹にトーストエッグ、

昨日読みかけだった文庫本をきりのいいところまで読み終えたところで――。

――僕は疑わしいものでも見るような眼で、メールの文面をもう一度読み返してみた。

『ゴネン。もうあなたとは無理です、別れてください。』

 ……たっぷりと朝の行程をやり終えた今となっては、頭もすっかり冷めているし、冷静な判断力をもってすればその文面に隠された意図のようなものまで透かし見えてくるだろうと楽観していたものだが、駄目だった。たった二行しかないそのメールの、改行によって開けられた行間からは、蚤とりまなこを皿のように細めていたって、ただの白い画素しか見えてこなかった。言い知れぬ苛立ちに、心臓がばくばくと打ち鳴った。

 朝陽は窓から遠慮なく室内に黄色い光をえんやっと投げ入れている。登校中の小学生が他人の家の垣に遠慮会釈なくボールを放って知らんぷりするように……光は不躾に、僕の神経を逆撫でるかして、一人住まいの侘しい部屋のなかを唾液を塗りたくるようにして舐めていた。いちおう都内で、陽当たりもよく、駅近の立地も良好となれば、誰しも重畳と喜ぶところなのだろうが、狭いワンルームワンフロアの床には畳は重なってなどいないせいか、あるいはノミみたいに親父の許で親父と一緒に生活していた記憶が未だに肌から抜け落ちないのだろう、僕はチープなテーブルに肘を凭れて、地域のリサイクルショップで購入した風情のない安物の椅子に掛けながら、光を恨めしく思う。

 ……僕は急いだってしょうがないからと、愛用のカップに注いだコーヒーをおもむろに口にする。インスタントの粉をよりにもよって今日きらしてしまったので、極限まで薄められた出涸らしの茶みたいな味がしたが、というか味がしなかったが、かまやしなかった。今は味蕾を誤魔化すためのあれやこれやの術策を弄するよりも、解析に没頭しなければならないテクストの読解が優先課題としてそこにあった。そして、ゆっくりかつ慎重に吟味しなければならないような舌触りでもそれはあったのだ。

 ……これはつまり、いや、ひょっとしなくとも、彼女からの「別れ」の申し出、ということなのだろう。しかしそれはなぜだ、どうしてなんだ……。僕は腑に落ちないところだらけで、正直なにが彼女の気に障ったのか、はたまた何をしなかったから彼女の機嫌をそこねたのか、てんでわからなかった。その由を問い詰めたくとも、当人の姿はそこになかった。

 もしかすると……と、あまりにも突拍子もないメールを唐突に貰い受けたために、僕は脈絡もなくある考え、可能性を仮定してみた。それは絶望にひれ伏す前のワンクッション、一種の合理化がノミみたいに狭量な小人にはたらきかけるある種のプロセスといえた。「もしかすると、誰か知友のイタズラメールかもしれない。その誰かが彼女の端末を駆使して、イタズラにこのような益体もないメールを送信したに相違ない」と――、

 そう仮定してみた後で、すぐさまそれはないなと僕は首を振る。念のためメールが作成された時刻を見たが、六時二○分とそこには書いてあった。

 六時二○分。夕方の場合十八時と表示されるはずであるから、それは朝の六時ということである。僕の歴史でいうと、半睡眠半覚醒状態の僕がポリポリとぼさぼさになった頭をかいたりなんだりしている最中のことだ。

ともすれば、半覚醒状態ですらなかったかもしれない。半分寝ていて半分起きていて、というイルカのような脳のきわめてあやふやな状態は、一般的にみて熟睡とはいえないむしろ病に近接した位置に措定されるのだろうけれども、元来が眠りの浅い体質だったもんだから、僕にとってはこの境地も特段病気として意識されることはなく、むしろ快眠といえた。あくまで僕にとっては、だが。

そんな折にたまたま電源を落とすのを忘れていた携帯が鳴動したので、すわ何ごとぞと思って無理に眼を押し開いたにすぎない。また六時といえば世間的に考えればまだ寝ぼけ眼をひきずっている人達が多い時間帯でもあるんじゃなかろうか。すくなくとも僕の生活でいえば、近くにある大学まで行き着くのに、そうは時を要さないから、僕にとってはこの時間に眼を開けていないのは平常通りのことだった。といって僕がふしだらな寝坊助だと思われたらかなわないから弁明するが、というかやっぱり朝の六時にくるメールは非常識といえそうだ。

幸か不幸か、ちょうどそのタイミングでこの僕にドッキリネタを仕込んでくるような、頭のネジが他とはズレた友人を僕はもっていないから、ならばこれは正真正銘彼女の手ならぬ指によって打たれた文字であることがどうも本当らしく思えてくるから、さてはて困ったものである。

僕はもう一度文面をしげしげと眺めやる。最初に読んだ時は半ば寝ぼけていたせいか、あやまって改行部分をスクロールしていたようで「ゴネン」の字を識別できなかったが、その三字が今は疑いようもなく彼女の筆跡であることを、万人がまったく同じ文字を書ける活字媒体ではあっても認めることが――この普遍化する書式の世界で、送り主がたった一人彼女にほかならないというふうに特定することができた――。すなわち、彼女はメールの文字を打つ際、ほとんど必ずといっていいほどMとNを押し間違え、あまつさえ本人もそれに気づかず送ってしまうそそっかしい癖があるのだった。それを知っているのは今のところ僕ひとりのようで、彼女の友人や家族さえMとNの誤変換の法則には気づいていないようだったのだ。僕はなんだか彼女についての誰も関知しない秘密について知り得たことがなんだかうれしくて、その秘密を彼女にさえ内緒にしていたのだ。ひょっとしたらこの秘密が、僕が勝手に命名するところのMとNの法則が、いつの日か、なんらかの時に役立つかもしれないと期待を込めてのことなのだが。

まさかこんな形で、まるで胸にズブリと突き刺されたものがよく焠がれた刀剣であったことを自分で傍証してしまうような間抜けな格好でその僕だけに秘められた彼女の秘密が役立とうとは思いにもよらなかった。火傷したみたいに、胸がひりひりと突っ張り、焦げ臭い。「ゴネン」なんて、僕の知るかぎり彼女以外の人間が打ち間違えることがあろうはずはない。胸の動悸が激しくなるのを、僕は抑えられずに貧乏ゆすりで誤魔化していた。

あるいは相当に手の込んだイタズラで、僕だけが知っているものと思い込んでいるかの法則を、逆に応用して見せることで、僕に揺るぎのない確信を抱かせるという巧妙なドッキリ計画が仕掛けられていたという線もなくはないのかもしれないが、……やっぱりその線はありえないだろう。誰が悲しくて、こんな朝っぱらから僕みたいなつまらない、しがない貧乏学生を不意に背中から声をかけるみたいに驚かさないといけないのだろう。

『ゴネン。(改行)もうあなたとは無理です、別れてください。』

 僕は溜め息を吐いた。こういう場合、憤ったらいいのか悲しんだらいいのか、経験のないことだったので、わかりかねたのだ。まあ経験があってもその由がわからないとなれば誰しも困惑を禁じ得ないことだろうが、いったいどうして彼女は、こんな突飛なメールを僕に送って寄越すまでになったのか、考えてみても、いっかな要領を得ない。

 とりあえず、記憶を遡ることからまずはしてみようではないか。なにか心当たりはないか、自分の胸ととっくり話し合おうじゃないか。これはある原因不明な失敗に直面した人物ならば、誰でも真っ先に思いつけることだろうが、僕は遅ればせながら、起きてこのかたなんだかんだで小一時間ほど経過した段になってからようやくそうしてみた。朝の慌ただしい時間というものは、一日のうちいっとう早く過ぎるものである。僕は僕をよそに一人僕の前から去ろうとする何かを追いかけでもするように、彼女との関係を憶い出しうるかぎり洗いざらい憶い返してみた。それは、このメールがサポートセンターから届いた故障通知だとして、その原因にいたるまでの結果をフィードバックするだけの簡単な作業だ。それだけで、僕はたった一通の(少なくとも僕の見方では、たった一通のやりとりでしかない)メールだけで壊れてしまいそうな二人のおよそヴァーチャルすぎる仲を繋ぎとめられる、と思ったのだった。

 結果からいえば、何も、この事態を引き起こした核心と思しき何ものも、僕のちっぽけな頭の中からは掘り起こせやしなかった。

 何かをしてしまったわけでもなければ、

 何かをしなかったわけでもなく、さりとてとりわけ思い出されることどもも、何も無し。

 建物の庇より内側に巣づくられた簡素な実家に住まう渡り鳥の雛が、時季になると当然のようにどこかに巣だっていってしまうように、それがさも当たり前の、自然のなりゆきの一部とでも言いたげな顔つきで――否、眼に痛々しいほどの強烈な照明で、「ゴネン」は僕の眼前にちらついていた。

 残っていた。「ゴネン」だけが、僕の隣に残っていた。取り残されたように、速足に駆け去る彼女のフェミニンなバッグからぽろっとひとりでに零れ落ちたように――所在なさげに、彼女の口からではない部分から放たれた言葉は、拾われる相手をもとめて今も僕の前に浮遊していた。そんな落とし物、こっちの方でもゴネンだ。受け取りたくない。交番に届け出られるものなら今すぐにでもお巡りさんに押し付けてやりたい。

 本当にこれが、画素の見せる幻覚とか、そういうものであったらなと僕はくだらぬ妄想の世界に浸ってみる。すると、高校生の頃に才能を開花させてから、その後ある時期を契機にセーブさせつつもたゆまなかった日々の特訓によってたくましく鍛え抜かれていた僕の妄想力は、あれよあれよという間にふくれあがり、ついには僕という意思をすら超えてしまい、僕の手の届かないはるか遠くの出来事までをやや暴走気味に妄想しだしてしまう始末だった。妄想のなにが厄介といって、否定がないのだ。てんでにめぐらした勝手な考えの枝葉を打ち消すための思案を練る暇もあらばこそ、妄想はエスカレートして被害妄想となり、沈静化する兆しを見せようとしない。制動がない、自ら頭を振ることができない。どうにも歯止めのきかなくなった僕の妄想を前に、僕は頭でそれを考えているというよりも自分で自分の首を絞めているような気がしてきて、たまらず身震いした。

 そうして僕の妄想が行き着くところまで行き着くと、その頃には彼女という人間がドス黒いオーラをまとった伏魔殿中の人物のように思えてきてしまい、くだらないゲームだとか映画だとかの悪役のような下品な顔つきをして立っている彼女の姿が妙にしっくりきてしまうような、それまでのイメージとは打って変わって彼女の姿態が僕のフィルターに描写されるようにもなり、たまらなく自分の愚かな思案を呪いたい気分になってきた。

 ……そうして僕は、にわかに不安を覚え、いてもたってもいられずに彼女の携帯の番号をコールしてみた。

別人が出た。

慌てすぎて手が滑ってしまったために、不必要なところで6のボタンを二回押してしまい、それでいて打鍵のリズムが帳尻合わせ的に作用してどこかを押し忘れたものだろう。電話口の声は明らかに不機嫌そうな、中年の女と思われる声だった。

 ところで、僕は直前まで受け取ったメールの内容を心無い友人の仕掛けたイタズラの如く前向きにとらえようと一度は努めた際に、まだはっきりと頭が回らない早朝の時間帯であったのを理由に、常識的に考えてイタズラの実行には不向きのシチュエーションだとしてその可能性を否定に付した。つまり、イタズラなどではなく本当の別れの通告だと。それは当然だろう、何故ならイタズラとは相手の反応を予め期待して、それが「欲しい」ために実行されるものであるのだから、相手がまだ半分寝ているかもしれない状態でいったいどんな愉快なリアクションが期待できるというのだ。尤も、世の中には寝起きドッキリだなんていう、そんなことをわざわざテレビでしてみせなくとも人間が夜寝て朝起きるまでの刹那にして永劫を思わせる世界がパチクリと眼が開いたその時――覚醒した意識の中で現実というものをまざまざと見せつけられ、自覚した時の衝撃ほどドッキリなものはないのだからやる意味は薄かろうがそれでもあたかも慣行か何かのごとくして旅先で平然とやられてしまうのだろう催しが存在するわけだけれども、それにしてもまさか飛び起きるほどのテンションがこの僕の、あまつさえ朝の倦怠にあるだなどとは先方も期待できないだろうし。いずれにしても――それがイタズラだろうが絶交の申し出だろうが――、朝も早よから人様にメールだのなんだのをするのは、迷惑以外のなにものでもない。

 そう、いわんや電話をや。

 ――朝の清澄な閑寂――一般家庭においてそれは、新聞片手に慌ただしく出勤する夫や、宿題忘れたぁだの母さんあれどこに置いたんだよだの、前日にやっとけよと誰しも半畳を入れたくなってくる無責任な息子や、はたまた粧し込むのに余念のない小生意気な娘などといった、どいつもこいつもあなたまかせな家人らをそれでも柔らかな微笑みと共に送り出す主婦のたくましい姿がふさわしいひと時、だろうか。世の奥様方ならばとっくに起床していて、どころか精力的に立ち働いている頃合いかもしれない。さーて、これからお洗濯しなきゃ。昨日は旦那の臭い靴下やらがしこたま出されたから、いっぺんに洗うわけにいかない、よし二度に分けてやらないと! とか気合をいれながら、弁当のおかず作りに用いた器材をごしごし洗ったり、敷布団を畳んだりとかしていたのかもしれない。いずれにしろ、朝の七時というのは比較的忙しい時間帯であり、

 そのために、人が一番機嫌の悪くなる時間帯でもある。良識のある人間ならば、まず電話をかけたりなんかしてこない。なぜかって? 朝一番に電話をかけられてみればいい、その答えは子機を手にしたその瞬間、文字通り手に取るようにわかる。ノイズのひどい回線にのせて、ひしひしと、伝わってくる。

『……もしもし、どなたですか?』

「……もしもし」

 声の主は皺嗄れた女のような声だったが、僕と同様寝起きで咽喉の調子がよくないだけかもしれない。とにかくそれが僕のかけようとした本来の相手、つまるところ僕のガールフレンドのものでないことはこのうえなく明瞭だった。僕は溜め息吐いてから女の声に応じた。

 ……ところでなぜ僕は、携帯のアドレス帳から彼女のダイヤルを直接プッシュしなかったのだろうか。この段におよんでその疑問がはたと頭をかすめた。正常な判断ならば間違いなくそうしていた。しかししなかった。なぜだ。考えたってわかりっこないから、僕は己のミスはミスとして、ただ一言「間違い電話でした」という事実だけをさらりと告げて、機嫌の悪そうな相手に如才なく詫びようした。

『……もしもし? どちらさまですか?』

 電話の主は言葉にこそ表さないが、その声からははっきりと苛立っている色が窺い知れた。僕はなんだか申し訳ない気もしたが、この電話を切って再びメール画面を開くと、またぞろ彼女から送られたあの「ゴネン」が蘇ってくるのかと思うと、恐ろしくて、なんだかわけがわからなくてたまらなかったから、ついつい無言のまましばらく苦い思いだけを無味無臭の飴玉かなんぞのごとくして口に含んだまま何も言えずに固まってしまっていた。メールというツールは便利なようでいて、嫌な言葉をなかなか擦過させてくれない意地悪なやつでもあった。見るのが嫌なら、削除すればいいだけの話なのだが……そのような処置は僕にはやりかねた。

 そんなこんなで僕は、朝一番の無言電話という、おそらく小学生の繰り出す怒涛のごときピンポンダッシュに次ぐくらいのイタズラをしてしまった。

『もしもし? イタズラでしたら、もう切りますよ!』

 ブツっ。電話回線の一方的に途切れるそれが、なにか決定的な音のように聞こえてしまったのは、気のせいだろうか。僕はしばらく携帯の画面を見つめていた。尤もそうしていたって、僕の端末はさっきまで画面に表示していたメールの意味を教えてくれたりはしない。当たり前だ、それはそんな風にはつくられていないのだから。けれど、しかしながらそれは、なんだか悲しいことにも思えてきて……。ほかならぬ伝達の手段が、破綻と苛立ちしか持ってこないのが、げに腹立たしくも思えてきて……。

 窓ががたがたと揺れた。一瞬、何かよからぬものが部屋に侵入してくるかと思い、心臓が竦み上ったが、そういえば前日の天気予報で、今朝は特に風が強いから注意せよと言っていたのを思い出す。いつになく動きの速い雲に遮られたか、朝陽は明度を落として室内をどんより暗く染めた。僕は座りながらにして、揺れる窓と外の風と、室内の静けさを思った。ざわつく外の世界を意識するにつれ、隣に誰もいなくなる実感が怖いほど僕を苛んだ。

僕はアドレス帳を開いて、今度こそ彼女の番号をコールしようと思ったのだったが……さきほどの女性の不機嫌な声を思い出すと、不意にどうでもいいことが気になってしまった。僕はさきほどの電話の声の主を勝手に中年の主婦だと決め込んでいたのだったが、果たして本当にあの女性は、平日の朝に忙しい主婦だったのだろうか。この疑問を解決せずには、なんだか自分は前に進めぬ奇怪な不安がし、真冬のアスファルトに力づよく生えた雑草に眼もくれず踏みしだく通行人の一人に自分がなってしまったかのようで、居心地が悪かったのだ。ちょうど冷めてきたらしいカップのコーヒーがただの水道水の味に渝わってきたのも、それに拍車をかけていたのかもしれない。色んなものが、僕の味覚にかかれば大味に感じられてしまっていた。

 つまり、僕は――なんということだろう。たった今向こうから切られたばかりの番号にこちらからかけなおしてしまっていたのだ。


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