十八章~虚言なくして、天国なし~
「……なぁ、おい、チビ……いまお前が俺に脅されて吐いた電話番号に、外の公衆電話からかけてみたんだがよぉ……本当にお前さんの両親は……両親があの家に住んでんのか?」
と、雪が降り積もる一面の銀世界の中、下着姿で外に放り出された三歳児の僕を拾って、最初からクジで引き当てた住所の子供をかどわかし、親から命の保証の代わりに金品を強請ろうと画策していたろくでなしの親父は、さっきまでの、僕をどやしつけるような声はひそめて、しんしんと降る雪片の音にも負けそうなくらいの小さな声で僕に訊ねてきた。
「……うん」
三歳児がどこまで口が利けたものか、子供を育てたこともなければ、家庭科の授業を真面目に取り組んだ経験もない僕にはとんとわからない知識だし……なにより自分の歴史だというのに、この時僕が親父に何と応えたか、さっぱり憶い出せないのが実に腹立たしいかぎりだが――。
すくなくとも、家の電話番号をそらで云えるくらいの「教育」はあったのだろう。そう判断できる。尤もそれも世間体を気にしての、やむにやまれぬ「躾」だったのだろうが――それを見ず知らずのおじちゃんに教えてはいけませんよ、という、手の込んだ「子育て」まではされていなかったに違いない……。
親父は僕に有り合せのぶかぶかの服をかぶせるように着せると、深い息をして座り込んだ。
「クジで引いた番号どおりの住所に暮らすガキでもかっさらって、このうえは身代金で食っていくしかねぇ……クジで引いた番号の住所に、ガキがいなきゃ俺は思いとどまる……そのつもりで、俺はここに来たんだが……」
親父は僕を見た。黒ずんだ眼の奥は、濁っているようで、何も見えなかった。
「……しかしお前さんが折りよくポーンと素っ裸で放り出されたのを見て、俺はしめたと思ったね。天は俺にやれという料簡さ。てめぇのガキを雪ん中に裸で投げる教育も最近にしては珍しいと、最初は俺は、お前さんの両親を高く買ったもんだがね……よほどお前さんはダダっ子なんだろうと思って、どやしつけたが……泣きもしなけりゃ、喚きもしねぇってのは、これはほんとたまげた、手の届いたシツケをする親も今日日珍しいと、雪に埋もれた電話ボックスにつかつか歩きながらなおご両親を買いかぶって、これだけ子供によくできたシツケをするくらいだから、さぞ子煩悩な親だろう、『ガキはもらった、返してほしけりゃ、金をだしな』こう、カッコつけて、銀景色の中でいぶし銀な声でも出しながら脅せば、子供可愛さに、ほいほいと釣れるかと思ったら……」
親父はそこで、上を向いた。どれくらい剃っていないのだろう。無精髭が黒い雪のように顎のあたりにすだっていた。
「……なぁチビ、なんで雪って降るのか、知ってるか……?」
「……ううん」
僕は親父の発問になんと答えたかわからない。三歳時分の子供が言えることのできる喋り方で、舌ったらずに口にしていたように思う。雪は、水が固体になった姿でしかないんだよ、と……まぁ、そんな知識が三歳児にあろうはずもなく。
親父は僕に、ろくでもないことを吹き込んだ。
「雪はな……天国にいるやつらが、俺たちを試すために降らせているのさ。地上にいる人間の中で誰が天国にふさわしい奴だろうかってな。でなきゃこんなに白くて、寒くて、冷たい筈ねぇんだ。この白さは周りの黒さを引き立てるためのもので、寒さも冷たさも、温かさを際立たせるためにあんのさ。全ては天国の住人の、試験なのよ」
「てんごく?」
「おうとも、天国だ。そこではみんなが、幸せでいられる……俺たちは、そこへ行こう」
親父は何を思ったか、そこではぁと白い息を吐き出した。息は重力に引っ張られたように横へとたなびき、白い風景に溶け込んで寒さとなった。
「……なぁ、おいチビ。どうする? 俺ぁよ、お前さんの両親に丁重にお願いされちまったよ。『どうぞもらってください』ってよ。いや、芯の方から凍り付いたね。寒さにゾッとしたよ。おいおい、そんなことってあんのかよ、それはちょいと、教育が行き過ぎじゃねぇのかってな」
……あるいは、ネグレクトが行き過ぎている……この時代にネグレクトなんて言葉は市民権を得ていなかったから、昔気質な親父からすれば、それは大いなる感覚の相違であったろう……擦過であったろう。なんという、雪明りの中の夢物語……。
「……どうする、チビ? 俺のガキになるか?」
「……うん」
なんと応えたか、記憶はないが、その後の結果と、身体が覚える寒さがここで幾分やわらいだことから、まぁ、なんというか僕は、頷いたのだろう。否やのあろうはずも、ない。
「そうか……しかし、あれだな、先立つもんがねぇとな……」
「……うん」
「……はぁ、金蔓を掴んだと思ったら、とんだ拾いもんだぜ。口が増えてんじゃねぇかよ……本末転倒とはこのことだ」
と、口ではぶっきらぼうに言いこそすれど、親父はそれほど、苦しそうにはしていなかった。
「歩くぞ、チビ」
「……うん」
道々歩くと、外の銀世界はおそろしい物の怪たちの巣窟だった。道路には大きな図体をした野生のライオンが、ぶぉぉぉぉぉと唸りを上げ、鬣を雪化粧している。線路には、ぷぁぁぁぁぁとおそろしく甲高い俊足の獅子が、獲物をとらえんばかりに一直線に走り抜ける。危うく擦過しそうになり、親父にバカと一声窘められた。雪曇る空高くには怪鳥が猛禽的な叫びを上げながら、僕らを遥か上空から付け狙っていた。僕はそういったいっさいにびくびく怯え、寒さをちょっとでも忘れようと、親父のいかつい手を握った。かどばってごつごつしていて握り難いったらなかったが、ものすごくあったかかった。
「なんだチビ、お前の手、ノミみてぇに小っちぇえな」
「……ノミ?」
「なんだ、ノミを知らねぇのか? あいつらは手に負えねぇぞ、見つけたら、指でこう、な――」
「おじちゃんより、つおいの?」
「――あ? ああ、まぁ……見方によっちゃあ、強ぇな。気付いたら俺の血を吸いやがんのさ。まったくよぉ、ノミばかりが俺を尊敬して寄ってくんのよ」
「ぼくもノミがいいよ」
「だっははははは! お前も俺のノミになんのか!」
「うん」
「だはははは! そりゃあいい、ところでよぉ、俺のガキになるってんなら、俺のことを父ちゃんと呼べ。いいな、父ちゃんだぞ」
――前触れもなく降り積もった雪にざわつく目抜き通りの中を、僕たちは大小入り混じった足跡を新雪に残しながら歩いて行った。やがて家族連れが眼につく。思わぬホワイトクリスマスに浮かれた子供がはしゃぎまわって、政治家やらなにやらのポスターに雪玉を当てて遊んでいた。いぇーい、総理の顔が真っ白だ! サンタさんみたいな顔、サンタさんみたいな顔! こら、やめなさいったら!
……。
「ねぇ、とうちゃん」
僕は親父に、屈託なく訊いてみることにした。猛獣だらけのこの世界が、いったい何なのか、見極めようとするみたいに……。この世界の正体を、親父の口からならば何か知れるんじゃないかと思って。
「なんだ」
「ソーリダイジンとテンノーって、どっちがえらいの?」
「そんなもの……どっちも人間だ。人間はみな平等で、対等で、フェアな存在だ。偉いもくそもない。天皇も、総理大臣も、この俺だって――みんな同じ人間さ」
「ねぇ、とうちゃん。サンタさんって、だぁれ?」
「誰でもない、強いていうならみんなだ。お前もサンタさんだ。いいかチビ、お前は配り歩く人間になれ。何かを惜しみなく与える人間になれ。人から奪わず、人に与える人間になれ。その教えこそ、人はサンタってんだ」
「ねぇ、とうちゃん。アカちゃんはどうやって、うまれるの?」
僕は通り過ぎた子供たちを見た。クリスマスに着飾った白い街の中で、子供たちは聖画の天使のようだった。そういう風に、大事そうに扱われていた。僕はそれを、見ている側のノミだった。
「拾うんだ」こともなげに、親父はそう告げた。「子供ってのは、拾ってくるもんなんだよ。落ちてる子供を、拾って愛して育てるんだよ。選り好みするんじゃない、見つけたやつを、愛の揺り籠ってやつにのせて、育てるんだよ」
……親父のその、ろくでもない誨えは、後々の僕にまで尾をひきずって影響を及ぼすことになる。僕が人生をうまく渡れなくなるまで、名前のように渡ることができず、落っこちて、ずぼんと溺れてひしゃげて、浮くこともかなわなくなるその時まで……僕は親父の許で、長いこと呑んだくれの親父といたせいで、離れがたい親父のスネをサックしていたせいで、歯止めのきかない妄想のタネを飼い太らせてしまっていた……この世界には、僕の理解の及ばない、なにかがあるのだと、勘違いしてしまっていた。僕の表現の足りないばかりに、照らすことのできない何か……優しい光に韜まれた、それは雪ではない何か、アーク灯の光でもない何か……そういうものが、証明不能なものが、存在するのだと、勘違いしてしまっていた……だって――、
――たった三年しか生きていなかったけど、こんなに温かい気持ちになれたのは、生まれて初めてのことだったから。
総ては、親父がいけなかったんだ……。
「……宝クジか」
親父はそう言って、小さな宝クジ売り場の前でやにわに脚をとめた。一概に小さいといっても、僕にとってはあらゆるものが大きく見えてしまう。なのでそれは、僕にとって大きな宝クジ売り場といえた。
なんとなればそのお店は、僕らに幸せを売ってくれたのだから。
「……チビ、いいか。俺には金が無いから、お前を養うには苦労する。しかしだ、ここの宝クジのスクラッチを削ると、一等で一千万だとよ。わかるか? 一千万だ」
「いっせんまん」
僕は虚心坦懐に繰り返した。
「そうだ。お前に試練を与えよう。俺の息子になるための、試験だ。一千万当ててみろ」
親父はそう言って大様に一つ頷くと、ポケットから小銭を取り出しスクラッチを二枚買ってきた。無愛想な店員が、気のない風に渡してきたのが、雪の積もる冬に幸せの花を芽吹かせる種だった。
「いいか、見てろよ」
そう言って親父は、汚い百円玉の縁でスクラッチの銀色を削る……。
「……ち、ハズレか」
「いっせんまん?」
「いんや、ビタにもならねぇ」
ずい、と今度は親父は百円玉ともう一つのシートを僕に渡す。僕は冷え切ったアスファルトの上で、不器用に手を動かして、指に付着させたりしながら時間をかけて、ゆっくりスクラッチを削った。
そのスクラッチはアルファベット式で、あんまり見られない型だったけれど、とにかく縦横三列の九マスのうち、三つを削り、それが同じアルファベットだったら一等賞という、シンプルなものだった。むろんそのシンプルさは三歳児にはわかりかねることだったし、そもそもそのシート自体に同じアルファベットが三つ用意されている紙の絶対数も意図的に少なく調整されていることを思えば、当てるのは至難の業だった。もとより考えを要すようなことでもなかったので、僕はとにかく寒さにかじかむぎこちない手で、スクラッチを削った。
「――当たった……」
最初、親父が何を言ったのか、僕には理解できなかった。
「当たったんだよ――お前、当てたんだよ! だはは、こりゃいい、こいつはたまげた。本当に当てちまいやがった!」
「いっせんまん?」
「ああ! 一千万だとも!」
親父は周囲を憚らない大きな声で、僕を祭り上げんばかりにして褒めそやした。
「でかしたぞ! よく当てやがったな、こいつ! なんてクジ運のいいやつなんだ!」
僕は嬉しかった。一千万円のスクラッチを引き当てた月並みなことが嬉しかったのではない。僕に温かさを教えてくれた親父がこんなにも、ポスターに雪球を投げて遊ぶ子供みたいにはしゃいでいる様子が、そして僕の頭をわしわしと引っ掻くようにして乱暴にいじくるのが、訳がわからないながらに興奮が伝わってきて、なおのこと嬉しかったのだ。
「よし! メシだ! メシを食おう! うんと高級なもん、食わしてやっからな! こいつめ、天から降ってきたみたいな俺の可愛い天使め!」
親父は僕の顔を突っつき回し、がくがく揺らし、とにかく興奮していた。降る雪の冷たさがじんわりと肌を舐め、溶けた拍子に冷たく感じられたが、そこへ親父の無骨な手が触れると、もう僕はそれだけで、たまらなくぽかぽかした。
「なぁ、おい、あんた。俺のボウズが一千万当てたんだぜ! さっさと寄越せよ!」
と、ほら見ろと言わんばかり、親父は宝クジ売り場の店員に僕の削ったシートを突き出した。そんなことをしたって、一千万という金額は売り場の人がぽんと出せるような軽いものでもなかったが、有頂天だった親父には銀行まで出向いて受け取るとかいうまだるっこしい興ざめなシステムは見えていなかった。
店員は疑り深い細い眼をして確認すると、
「ありゃりゃ、これはダメだよ、お客さん」
「……なにがダメだよ、ええ? あのボウズが当てたんだぞ、あんたも見てたろ、ええ? なにがいけないってんだよ?」
「お客さん、これは一等じゃないよ。よく見てみなよ。NとMを見間違えてるよ。けど、二つ揃ってるから、これは二等だね」
「……二等、……」
親父は間違って石でも飲んだように、そこで突然かたまった。親父の大袈裟な喜びようを見ていた周りの連中は、それを聞いてくすくすと嗤っていた。僕の稚拙な削り方がまずかったのだろう。NとMをそそっかしくも、取り違えてしまった。
「……お、同じじゃねぇかよ、NだろうがMだろうが!」
「お客さん、全然違いますよ」
「同じだろ、ええ! Nと、Mだろ、ほら!」
「エヌとエムですよ、それぞれ別々のアルファベットです」
くすくす、くすくす……やだ、あの人恥ずかしい……。NとMの違いもわかんねぇのかよ……。
僕はよくわからず、ただただ親父のなにが恥ずかしいのかがまったくわからず、事のなりゆきを静観していた。
「……ちくしょう! ぬか喜びさせやがって、紛らわしいんだよ! で、いくらだよ? 百万か? 十万か?」
「いいえ、千円です」
とおざなりに言って、店員はアクリルの向こうからすっと手を出し、千円札を一枚置いた。
「……千円?」
親父が頓狂な声を張り上げると、周りの人たちはどっと沸いた。親父の喜びようときたら、天地がひっくり返ったかのようだったから、誰も彼も、その落差に笑った。一千万円と千円の差額だけ、笑いは寂れた冬の街に充満していた。
「……」
凍り付いたまま、何も言えずにいる親父に、「おめでとうございます」と声をかけて千円を渡した店員は、商業的な笑顔を見せた。
「……とうちゃん、いっせんまん?」
僕がもう少し世間ずれした利口な子供であったならば、こんな間の悪いタイミングで親父に声をかけたりはしなかっただろう。しかし僕はあいにく、なにがそんなに面白いのかわからない中で僕も一緒に笑い続けるだとか、空気を読んで触らぬ神に祟りなし、親父をそっとしておく、なんてこまっしゃくれたことは思いつかない、世間なんてものを何もわきまえぬ、いたいけな子供だった。いまだってそうだが、人の胸に飛びついて、血を吸うだけのちっぽけなノミには、吸血の作法なんてなにもわからなかった。
親父はぎょろっと、陰鬱な眼で僕を睨み、かっとなった肉食獣のような獰猛な顔で周りの人間どもを睥睨し、震えあがらせた後で……、
爆発せんばかりの、さっきよりも大きな大きな胴間声で、僕に向かって、叫ぶように言った。
「――凄いじゃないか、チビ助! 千円当てたぞ、お前! 千円だぞ、千円! すごいな、すごすぎるぞ! お前は神に選ばれた子だ! 天のツキを味方につけてんだ!」
――親父は僕を抱き上げると、遊園地の回転木馬のように何周も何周もぐるぐると回り、楽しそうに無邪気そうに、「千円だ、千円だ」と言い続け、笑っていた。
周りの人たちも、笑っていた。僕もなんだかよくわからなっかたけれど、周囲の反応、親父のさっき以上の喜びようを見るに、そしてなにより――親父に抱かれて、重さを失う浮遊の感覚が、僕の中にあらゆる物をどっと詰め込んできたのだ――僕は笑った。純粋に笑った。親父が笑っていたから、その真似をして、そのひそみに倣って笑ったのではない。
汚らしい、見すぼらしいなりをした親父が、清潔感のない散らばり放題の髭を垢まみれの顔にしまいこんだような親父が、それでも目いっぱい笑っていたから、それを面白いと思って、僕も笑ったのだ。
みんながみんな、笑っていた――象は統一的だったが、内容はばらばらの笑みが、親父を中心に拡がっていく――雪の面に波紋を打ったように、笑いの渦が方々で巻き起こった。それを見ていれば、それに包まれていれば、たといバカでもガキでもノミでも、気付ける論理があった。
千円は、一千万円よりも、何倍も、何乗も、価値のある尊いものだ。ありふれた綺麗言でもなく、実際に綺麗な美辞麗句でもなく、純粋に、それは論理的帰結たりえた。くつがえしようのない事実だった。冬の陽射しがやけに眩しく、僕と親父の身体を包んだ。そのまま切り取って額縁に入れて、あるいはどっかの教会の壁画にでもできるんじゃないかというくらい、その記憶は、僕の中で大切な大切な、唯一無二の実の親父との想い出として、永遠に褪めることのない美しい光景として刻印されていた。
天国の住所が、そこにはっきりと記載されていた。僕があらゆる人たちを通り過ぎるようになってしまったのは――想いが擦過したのは――、このろくでなしの天国のせいだ。これさえなかったら――僕もこの人のようになろうと、降り積もる雪の中の温かさに身を焼かれるような熱量を覚ることさえしなかったならば――僕は回り道をすることなく、真っ直ぐここに辿り着けていたことだろう。荼毘に付された親父の肉体は、今もそこで、子供のように爛々とした眼で僕を見ながら、そこで何かをがなりたてている。変わらずに、永遠に……。
……僕は変わった。変わってしまった。それすらも、ほとんど世界の凡ての縮図みたいなそれすらも、世界にとっては、そのほんの一部でしかないのだと思えてしまうくらいに。




