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十七章~自然な笑顔は無い、ただ作為があるだけ~

「……どうしてさっきモノレールに乗ったワタルが、折り返してこっちにいるのよ」

「……それを言うなら、サヤカこそ、どうしてここにいるんだよ。強風で停まってるんだぞ? あと一時間は動かないと思うよ」

「……そんなの、私の勝手じゃない……」

 そう言って、近くの書肆で購入したと思しき文庫本に眼を落とす。風がびゅうと吹き荒れた。

「……あんたはいったい、どんな手品を使って戻ってきたのよ? どこでもドアでも拾ったの? さっきのさっきモノレールに乗ったばかりで、しかも強風で運転見合わせなんだから、折り返しも停まってるっていうのに……」

「……なに、そんなハイテクなものに頼ったりなんかしないさ。原始的な方法を使ったんだよ」

 人間は、一駅区画くらいなら走ることができる。日々の運動に慣れていなくても、お金を使わずに駆けつけることくらい、誰でもできるのだ。自転車があれば、見知らぬ郊外の町までだって辿りつける。

 僕は次の駅で降りると、即座にこっちの駅までとって返したのだ。確信はなかったが、ひょっとしたら彼女がそこにいるのではないかと、そう思って。

 エスカレーターを使わずに、階段を一段飛ばしで駆けただけでも心臓が飛び上がりそうなほど息が上がった。人間の肉体は不便だなとは思いつつも、僕の運動不足がたたっただけのことなので、なにをかこつでもない。思うだけだ。ともかく、青息吐息で段差を一気に上がると、程なくして、よく聴きなれた彼女の明るい鼻唄のリズムが吹きさらしになったホームを滑って流れてきた。

「……何の用よ、もう話は済んだでしょ。あんたと口、利きたくないの」

 彼女はぶすっとして、そっぽを向く。流れる風がさらさらと髪を揺する。

「話がしたいんだ」

「メールでお願い」

 と言って、自前のケータイを僕の前にちらつかせる。眼がダイヤの、熊のストラップ。僕らはそれを、見て笑って、愉しんだのだ。そういう時間を、ともに共有していたんだということを忘れない。

「メールは嫌だね、君はそそっかしくて、文字を打ち間違える」

「あんたほどそそっかしくない、あんたほど間違えたりすることもない」

「うん、たしかに。僕の方がいっぱい間違ってた。けど、NとMを打ち間違えたり、聞き間違えたりするのは、世界広しといえど君くらいじゃないかな? きっと頭の中で、そういう変換しちゃってるんじゃない?」

「え……?」

 僕は黙って例の「ゴネン」を見せつけた。動かぬ証拠を見せつけられて、たまらなく恥ずかしくなったのだろう、顔を真っ赤にし、今しも風に流されそうに小さくなった。

「僕たちは、別れちゃいけないんじゃないかな」

「……いまさらなによ。もう遅いの。どうしようもないの……私たち、擦れ違ってばかりで……相性が悪いんだから、どうしようもないでしょ……」

 ぷいとそっぽを向いてみせるその仕種がいかにも子供っぽく見えて、僕は、ああやっぱり僕はサヤカのことが好きなんだな、男の未練とかじゃなくて、本当にたまらなく好きなんだということを、風の冷たさの中に知った。そう気づいた途端、変な勘繰りは、風にかき消えた。

「どうしようもないって決めてるのは、君だけでしょ」

「だって……あんた、何にも変わってくれないじゃない」

「変わったよ……僕は変わってきたんだ。イメチェンしたんだ、これまでのノミ野郎と思ってくれるな」

「……メンズエステにでも行ってきたの?」

「モノレールが転落したの」

「なにそれ」

 彼女はぷっと笑ってくれた……その飾るところのない反応が、僕は本当に、たまらなく好きだった。フェチとかじゃなく、本当に純粋に僕は女の人のそういう表情が、仕種が好きだった。彼女のえくぼを見るためになら、僕はそのためにいくらでもおどけてみせよう。道化を演じてみせよう。

「サヤカ……とにかく僕は、僕たちは絶対に別れちゃいけないと思うんだ。そんなつまらないことで、別れるべきではないよ。食い違うのは当然じゃないか。イスカの嘴ってやつさ。僕らは擦れ違う生き物なんだよ――どうしようもなく擦れ違って、摩擦していって、焼けるように発火していくんだ――でもそんなの、一瞬なんだ。それを憎く思うのは、ほんのひと時なんであって、擦過するのは瞬間なんだよ、すぐに通り過ぎるんだ」

 咽喉もとすぎれば、熱さは忘れる。

 だから僕らは溜飲をおし下げて、胸の奥でぐっとこらえて、人と人とが擦過する時の痛みを、吐き気を忘れないといけない。マゾヒストのようにその痛みを愛そう、MをNに変えようではないか。

 僕らは常に、近くに在ろう――。僕らはもう一回、撚りを戻そう――今度こそ、愛し合おう――。

 ――高らかに唄おう――相性よりも深い二人は、擦れ違ってもかまわない――のだと――。

「映画」

 ――どれほど言葉を尽くしたろうか、正直僕は、あまり必死すぎて覚えていない。めくら滅法とはこのことで、僕は思いつくかぎりの、彼女を呼び止めるだけの、湧き上がる限りの言葉を尽くして彼女に全部投げたところ――ぽつりと、雨だれが石に垂れたように、彼女が愛嬌のある口許に薄い笑みを湛えながらそう口にした。

「映画、連れてってよ……そうしたら、仲直りしてあげる」

「……今から?」

 彼女は噴きだしたように、けらけら笑った。

「そんなメロドラマみたいな情熱的なキザな台詞口にしといて、ワタルってば、時間をおいて仲直りデートなんてできるの? 興醒めなことしないでよね」

「……ご存知のとおり、僕は要領の悪い人間でして……」

「うん、知ってる。仮免何度も落っこちたしね」

「……その、近づく試験が心配なので、できれば今日の講義には出席しておきたいなと……」

 ――妄想の中では僕は、授業をサボってもへっちゃらなくらいクレバーな性格を有していても……現実の僕は、単位不足を極度に怖れる、しがない大学生だった。

「だーめ。今からじゃないと、許さない」

「そんな無体なぁ……」

 風が木の葉を巻き上げて、駅のホームに音楽を添える。かさこそかさこそ、枯れ葉の狂騒は黄色い点字ブロックの上で音階をつむぎ、竜巻のような強風が高架ごと揺らしてみしみしいう主旋律となる。彼女はプラットフォームのベンチから立ち上がると、うーんと伸びをして、

「それじゃ、行きますか。ワタル」

「うん、行こう」

 風に押されるように、僕らはホームをそぞろに歩き出した――寒い街並みを共に並んで歩いたいつかのように、ぎゅっと手を握り合いながら……。冷え性の彼女にしては妙に温かかったけれど……本当にそれは、彼女の手だった。

「……ところで、サヤカ。なんの本を読んでいたの?」

「さあ……なんだろーね。~~♪」

 クイズめかせて言うと、当ててみろとばかりに鼻唄の続きをやった。葉のこすれる音と風の音が愉快なポップスに合わせるように、クラシカルなゆったりした調子から一転、たちまちテンポを速めた。「夜明け前」のサビの部分だった。

「意地悪。教えてくれたっていいだろ。流行の本なの?」

「えっへへー。実はねぇ……」

 寒いのに舌を出すように、彼女はそう言って。

「じゃーん。梶井基次郎の『檸檬』」

「……驚いた、どうしてサヤカが……その本を……」

「んー、なんかね。予感っていうのか……さっきワタルと別れた後で、本屋さん行ったら眼について……思い出したのよねぇ、そういえばあの時読んだタイトルが、まさにレモンだったなって」

「あの時?」

「うん。高二の夏休みだったかな? 家の玄関ポストに、掃除機のチラシと地域の回覧板にまぎれて変な冊子が入ってたのね。粗末な紙を、テキトーにホチキスの針でまとめただけのようなもの。お母さんが気味悪がってゴミ箱に捨てたのを、私がひょいと拾って読んだのよ。あの頃は漢字が難しくて、檸檬ってなによ、って思いながら、ほにゃららって読み飛ばしながら眼を追ってたんだけど……この本の表紙見て、そっかレモンって読むんだぁって、謎が解けたみたいになって……懐かしさのあまりつい買っちゃった。……あれ、どうしたのワタル? 泣いてるの?」

「……ううん、眼にゴミが入ったの」

「その言い訳、いまや古典的すぎるよ……まぁ、梶井さんほど古くもないと思うけどね」

「眼にゴミが入ることが?」

「それを言い逃れに、大の男が泣きそうにしている理由をはぐらかすってことが」

「ほんとうになんでもないってば……ただ、擦れ違ってもかまわないって思ってたことが、伝わってたなんてこともあるんだなって……ほんと、棚ぼた的な話だけどね」

「眼からぼたぼた垂れそうな案配だけどね……まぁ、悪い涙じゃなさそうだから、深く追及しないであげる」

「ありがとう。身に染み入る優しさだよ」

「なにその感謝……ほんとに変わったわね、ワタル。タイムスリップでもして、色んな事件に巻き込まれているうちに人間が変わった?」

「モノレールが墜落した……妄想を逞しくした、それだけの話さ。ところで話変わるけど、檸檬はどうだった?」

「うん、綺麗でいい話だった。好きだよ私」

「伝わった?」

 彼女は僕の言葉をおかしそうに受け取った。ころころと、猫のように愛らしい声を出して笑った。





「うん、充分すぎるほど伝わったよ」


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