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十五章~安眠は永眠、揺籃は墓場、天国は地獄~

 ――ガトンゴトン、ガタンゴトン――冬の揺れる最終電車の中で、僕は考えを整理する。

 僕をめぐって収奪を繰り返す、因果について……妄想の行き着く、終着駅について。

 恋愛というものについて。親父が僕に教えた、天国について……それとは遠くにあるような、結婚という、難しくもないごくありふれた幸せについて……僕はどうして、幸せなカップルの一人になることができないのかについて……。

 電車の車輛には、僕以外誰一人として乗車していなかった。僕は真向いに座す、黒い窓に映るもう一人の僕を話し相手に、終着駅の見えない相談をもちかけようとした。

 ……やがて、どこかの駅に停車する。二人の若い女が、きゃぴきゃぴ何かを言い合いながら僕のいる車輛に乗り込んできた。うわ、イケメン。ええ、そう? ……誰のことを言っているのだろう、少し離れたところで、小声で何かを言い合う……。電車は再び、滑走を始める。

 少し人が混みあってきた。僕の正面にも左右にも、疲れ切った顔をしたサラリーマンが、くつろぐというよりもむしろ皺を刻むような倦怠の息を吐きながら座席に着いた。僕は取り留めもない思慮はうっちゃって、手持ちの文庫本を取り出し、それを読むことにした……泉鏡花の「高野聖」だ。男は聞く、僧侶の若かりし頃の体験を。薬売りは僧侶をからかう、危険な道を行く、彼はそれを、追いかける……。

 電車は遅延もなく、定刻通りに駅に着く。人々は何事もなかったかのような足取りでホームを歩き、人工的な照明の中に溶暗していく。僕はちょっと、考えてみた。我々が定刻通りに次の駅に辿り着くために、いったい駅員はどれほど神経質になって、僕らを送り届けているのだろうと……僕はまたぞろ妄想に走ろうとする僕の無意識をぶんぶんと追い払って、本に眼を落とす。隣のサラリーマンが席を立った。もう一人は、僕の左肩を枕にすやすやと寝入っていた。寝心地良さそうにしていたので、僕はそのまま肩を貸して本の続きを読む。険しい山に、分け入るのだ。

「じゃあ、私はここで」

「うん、お疲れー」

 明るい声をかけあって、女性たちはプシューと空気をもらすような音を鳴らしながら閉じた扉によって隔てられた。電車は動き出す。乗り込んでからずっと立っていた彼女は僕の隣の席が空いているのを目にするや、つかつかとヒールの音をことさらにたてながら、僕の横に静かに尻を落ち着けた……彼女は座るなり、すぐに振り子のようにうたた舟をこぎだした。頭が僕の肩に当たる。揺れにあわせて、次第に接触する時間が増えていき……とうとう僕の両肩は、サラリーマンと若い女性の枕になりおおせた。男の方からはぐーすかと、鼾雷を鳴らす声が聞こえたが、女性の方からはどういうわけか、寝息は窺えなかった。顔も心持ちおし下げられていて、本当に寝ているのか、疑わしい……。

 電車の音は、規則的だった。一定の速度で風を切り、線路の上を、ガタンゴトンと踏み鳴らす。そのリズムは僕に、節づけさせるような調子で僕の読書を促進させた。

 ――草の蔭から、しゃっと蛇が出て来る。僧侶はたまらず、わっと逃げる。……陽の届かない暗い木立のなか、彼方からも此方からも蛇が鎌首をもたげるようで、たまらなく不気味な、森……。

 隣の女性が僕の右肩に、強く強く、額を押し付けてきた。左の男がこちらに圧し掛かるようにしてきたので、慣性のはたらく向きとは逆の方にその女性は傾いているのがバレバレだった。女性は強く、額を僕に押し付ける……僕はどうすることもできない。求めることも、応ずることもままならない……。

 ――僧侶は駆け出した。大蛇か蝮か……いずれとも分からぬままに、草木をわけて進む……やがて肩口にぽつりと、嫌な感覚……蛭が、僧侶の身体のいたるところに付着している。あれよとばかり、ぽたぽたと、大量の蛭が雨霰と、樹上から彼をめがけて降り注ぐ……僧侶はそこでは、吸われる対象でしかなかった。

 電車の揺れは、いっそう強くなった。一度リズムを違えた女性は、居眠りする人達とはいちいち反対の方向へ傾いては、僕の右肩にしなだれかかり、額を強く押し付ける……僧侶は試されていた、僕がまさしくノミだったらば、蛭のようにサックしていたかもしれないそれを、僧侶は固く操を守っていた……。電車は脱線することなく真っ直ぐに、滝のように突き進む……暗い窓からは、月の光はさし覗かれなかった。

 僕は肩に触れる女性の頭の柔らかさに思いを馳せていた。これはなんだろうと、ひどくいぶかしんだ。欲しいのならば、取りに行けばいいというのに……。

 揺れる函の中で、しかし僕はこれでいいと思った。本をぱたりと閉じる。これでいいんだ、と思った。ずっとこうしていた方が、今日という一日を安心して寝ていられる。元来眠りの浅い僕なんかには、電車の中で女性の柔らかさに包まれながら眠れる世界というのが、その女性とは袖こそ擦りあっても、行き擦りの縁でしかない世界というのが、いじらしく思えるようになった。

 ――ああ、たったこれだけのことに気付くのに、僕はなんて、遠回りをしていたんだろうか……遠い世界を、闇雲に駆けていたんだろうか。

 僕はサラリーマンの男の息と女性の熱っぽい額と電車の揺れと窓外の闇とちりちりと眼にうるさい蛍光灯と、僕の握る本との重みに包まれながら、ああこれが世界なんだと、素直な気持ちで実感できていた……。


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