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十四章~人は一人で生きられない。人でなしも、一人で生きられない~

 通話を切ると、言い知れぬ不安が電気のように僕の身体をすばしこく駆け巡った。ノミの身体を、電気椅子に座らせでもしたように灼き尽くさんばかりに、放電した。

 ……僕は、自分から電話を切ってしまった。糸電話の糸が、ぷっつりと切れてしまったみたいに……あとにはただ、どうしようもない後悔だけが、僕のたなごころとやらに握られているばかりで……。

 僕は、自分自身と向き合うことすらおそれて、衝動に身をまかせて電話を切ってしまった。電話は二度と、つながらない。音を絶やしたその道具には、もはやなんの価値も付随していなかった。声を運ばないのなら……いったいそれに、なんの意味があるのだろうか。

 電話とは、そもそもなんなのか……?

 僕は闇の中で、沈思黙考する――そうすると、必ず親父の声が、酒に酔い潰れたがなりたてるようなろくでなしの声が、耳に胼胝になって聞こえてくるのだ。

 僕は再び、回線をつなげた。自分から断ち切った糸を、自分で撚り合わせた。

 撚りを戻すとは、そういうことなのだ。

『……はぁい、やっと向き合う決心した――?』

 電話の向こうの僕は……その女は、僕の神経を逆撫でするような声を作って、開口一番そう切り出した。

「親父のせいなんです」僕は言う。さも、この世の中の唯一絶対の事実であるかのように。

「すべては、あのろくでなしの親父が元凶なんです。三歳の頃に僕を拾ったあの――」

『あーあ、はいはい。なんだ、結局は人に責任をなすりつけるサイテーな人間だったんだね、あんたは』

「そうじゃありません。ただ、ようやくわかったんです。僕が人とは違う理由が。三つ子の魂は百までって、本当だったんですね」

『……ねえ、あんたさ。慥か彼女と、映画を観たよね? 退院した矢先に、彼女に誘われるがまま、映画を観に行ったよね?』

「ええ、行きましたね」

『なんの映画だった?』

「たしか……アン・リーっていう監督の、『ライフ・オブ・パイ』だったような……」

『バナナは海に浮くと思う?』

 と、そこで唐突に言われて、僕は大いに戸惑った。

「バナナ?」

『浮くかって話。観たんでしょう、映画?』

映画の終盤、一人の人物が発する台詞に「バナナは浮かない」というのがあった。電話相手がそれのことを示唆しているのがわかって、僕はちょっと考えてから言った。

「ええ、まぁ……僕は文系畑だから、塩水という与件が物体の浮力にどう関わってくるかなんてさっぱりですが……それでも僕は、バナナは浮くと思います。世界中の科学者が、プラグマティスト達がこぞって否定しようと、僕はバナナは浮くと思います。浮かないなら、浮かせてみせます」

 僕の決意をこめたこの台詞を、しかし電話相手は『甘い!』と言って一蹴した。

『まるでシュガースポットのように甘いわね! あんたはいま、浮かない顔してそんなカッコつけたようなこと言ってるのかもしれないけど、そんなのは世間知らずにも程があるわ!』

「……と、言いますと? バナナは、浮かないんですか」

『バナナは浮かない』彼女は冷やかに、鞭でびゅんと空気を鳴らすように言った。しかし――、

『でもね、バナナが浮く世界は、あるのよ。バナナボートは浮くように作られてるし、バナナを浮かせようとする人たちも、この世界にはごまんといる!』

「……でも、それは、だからつまり、どういう……」

『どっちでもないの。浮くんでも浮かないのでもない。浮いたり沈んだりする。釣り人の垂らす糸のように、浮き沈みがある! それが人生、そういう世界をこそ、人は現実と呼び、物語として嗜むことができる』

「……そんな、でも、そんなのって……卑俗になれってことですか? 高潔であることを、捨てろと……? そんな世界、僕は……」

『バカ』

 怒気も露わに、言う。

『あんただけ高潔でいれば、それでいいでしょう? みんなにまで高潔を強いることはない』

「でも、きっと平和に、平穏に、擦過するだけなんてこともなく――」

『バカバカバカ。みんながみんな、聖人君子になれるわけないでしょ? みんなエゴだよ、人はエゴなんだよ、結局。人は神になれない』

「でも……人は聖人になれなくても、神になれなくても、聖人に憧れることはできる、神に祈ることができる……!」

『で? 憧れるのは? 祈るのは? いっつもどういう人達なのよ? 転落するモノレールの中……パニックに騒ぐ人たちの中に、いったい神に祈っていたのはどれくらいいるの? あんたみたいに――生き残る術を、模索していたんじゃないの? がむしゃらに、しゃにむに』

「……じゃあ、どうしろというんです……僕は、どう在れば……?」

『見ればいい。黙っていればいい。何も言わず、何もせず、ただ浮くにまかせない……浮こうとするから、もがくから沈むんだよ、息苦しいんだよ。ただありのままを見なさいよ』

「ありのまま……シモーヌ・ヴェイユ?」

『ほら。また難しい名前が出てきた。そんなのはいらないの。考えなくたっていいの。ぷかぷか、浮いてりゃいいのよ』

 唖然として、声もなく……僕は電話相手のその言葉に、呑み込まれるような心地がした……自分がバナナになりでもしたように、真っ黄色なその肌を南国の夏空に焼かせながら、どんぶらこどんぶらこと、水の上を器用にたゆたう……冷たく襲いくる白波をかいくぐって、息もつかせぬほどの時化に遭っても沈むことなく、鈴生りの房を誇りかに波間に泳がせ……一本では無理でも、そうか、房であったなら僕らは荒波をものともせず、さながらサーフボードのように、地球の七割を彩る青き絵の具で描かれた絵の上を滑るように渡れるのだと気づかされた。

 混濁する灰色の、無地の大波に揉みつ揉まれつされながらも……僕らは広いこの大きな世界の中で、黄色いその実を一点輝かせ、大海の一粟となれよう……映画を観終わった後、彼女と交わした会話……。

「綺麗な映画だったね、ワタルくん……」

「そうだね……綺麗だったね……」

「ねぇワタルくん、私のこと、好き?」

「うん、好きだよ」

「ねぇ、ワタルくん。私と結婚する気ある?」

 僕は立ち止まって考えた。言いだすならここだった。いま言わないと、一生彼女に、本当のことを隠したままになってしまいそうで……タイミングを逃すと、言い出せなくなりそうで……。

 僕は君を助けたわけじゃない。僕は僕を、助けようとしただけなんだと……告げなければ。

 しかし、言えない。擦れ違ってしまうことが恐ろしすぎて、唇が縫われたようにくっつき、かさかさと乾いた摩擦の音ばかりをかすかにさせる。僕は彼女に、本当のことが告げられずにいた……。

『動け』

 電話の声が、僕に告げる……力強く、励ますような声で、飴のように、甘ったるい声をして。

『動きだせ。あんたが好きなのは、誰なんだい? あんたが好きなのは、何なんだい? まどろっこしい妄想は抜きにして、シンプルに考えりゃわかりそうなもんだろ。もっと素直になれよ! もっと自分を、しっかり持てよ! そして自分に、素直に、正直になれよ! 自分に嘘をつくな! 自分に正直になりなさいよ! 周りを見なさいよ、自分だけの殻に閉じこもるなよ! これが世界なんだよ! 共有しろよ! 自分だけで浮けると思うな! 教室でもどこでも、誰かがいるから、誰かがいてくれるから、浮くことができるんであって、人は一人じゃ浮けないんだよ! こういう世界を、あんたは愛しなさいよ! なにかに縛られるな、無いものに身を縛るな、そこにあるものだけを見て、くよくよ考えずに動きなさいよ! 欲しいものがあるなら――それが手放したくないものなら、なおのこといっそう、手放さないように努力しなさいよ! ――妄想に逃げるな、バカタレ!』

 僕は思わず――携帯電話の、ストラップを握りしめていた。眼がダイヤの、ツガイの熊のストラップ。取り出し口から一緒に出てきた、二つのうちの一つ。二つで、一つ。

「……ありがとう」僕はやっと、そう言うことができた。ずっと言えなかった、その言葉をいまやっと、言うことができた……電話相手になら、僕はなにかを伝えることができた。

「ありがとうカガミさん、僕は、本当のことを――自分の想いを、彼女に告げるよ――」

 そう言うと、電話相手は笑ってくれた。人はこういう時に、意味もなく笑うものだから……。

『頑張ってね、崎村くん――』

 今度は僕の方からは、電話は切らなかった。


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