十二章~お金ってなんですか――欲はにやりと笑った。心ってなんですか――僕はにやりと笑った~
医者は白いマスクをしていた。なぜ白いマスクなんですかと問うと、唾が飛んでしまわないようにですとだけ答えた。それ以外にも理由はあろうと思われたが、まぁ細かく突っ込んだりはしなかった。
どこを向いても清潔感あふれる白い壁に囲繞された室内に、僕はその真ん中にちょこなんと置かれたベッドに上体を起こして、医者の話を聞いていた。
「あなたの身体は、まったく奇跡的といっていいでしょうが、目立った損傷は見受けられません。軽傷……なんて、診断書には書くことになるんでしょうが、そんなのは嘘になりますよ」
「嘘?」
「ええ、あなたは無傷です。落下するモノレールの車両の中から奇跡的にも生き延びて、あろうことか無傷です。そりゃあ、擦過傷は顔や手足にいくらも見受けられますけれど、どれも縫うほどの怪我とはいえません。当院がしたのはせいぜい消毒と、ガーゼと絆創膏を貼ったくらいなもので。あとは人体の回復機能に任せましょう」
「骨も折れてない?」
「骨折もありません。念入りに検査してみましたが、どういうわけかあなたの身体にはなんらの異常もありません。多くの方がご落命なされ、よくても重体、骨折程度で済もうものなら勿怪の幸いと言われる痛ましい災難に遭って、あなたは本当に……あ、失礼いたしました、とんだ不謹慎なことを口走ってしまい……」
「いえ、本当に……僕も、運がよかったんだと思います……生まれつき、クジ運だけは、すこぶるいいんです」
「さようですか」
医者はマスクの裏に、表情筋を隠していたが、笑っているのだろうことはわかっていた。こういう時、人は意味もなく笑うものだから……。
「ところで、レントゲンを見ていて気になったのですが……その、右腕を故障なされたことは?」
「前に一度、骨折したことがあります。高校生の時」
「なにぶん形状が歪だったものですから。あんな形には、よほど外部から強い力が加わらないとならないでしょう」
「ギプスを嵌めてる時に、強い流れに圧されちゃったんです」
「流れ? と申しますと」
「氾濫しかけていた河に落っこちてしまって、それで土手際に這い上がろうとする際に、強い力で圧迫を受けて……」
「さようですか」
「僕の腕は、人と違いますか?」
「通常の形態とは言い難いですね」
僕は通常とは違うらしかった。僕のではない、医者のお墨付きなのだから確かにそうなのだろう。
そこでがらがらと、病室の戸がスライドした。「失礼します」と、聞こえるか聞こえないかの声で告げた看護師の女性は、僕に眼もくれずにまっすぐ医者の許へつかつか近づき「先生、これを……」とさらに潜めた声でなにやら具申する。医者はちょっと、顔色を変えた。
女性がそそくさと退室すると、花も埋けられない淋しげな室内にとり残された医者は、さきほどの女性から渡された何かをしげしげと眺めやっていた。まぁ、訊かなくともわかるし、おおよその察しはつく。僕のレントゲンを僕の眼の前で眺め、おそらくは芳しくない病状を僕に告げねばならなくなり、きまりが悪いのだろう……無傷などと太鼓判を押した後だから、なおさら体面が悪い。僕は彼の権威を損ねてしまわないように、「先生、何かあったんですか?」と、不安げな声をだして問うた。僕はこの通り嘘つきだが、鈍い男ではもうない。
医者はばつが悪そうにこちらを向きなおると、さもなんでもないという声を装って、
「いえ、たったいまレントゲンの、あなたの胸部の検査が終わって、報告がきたのですがね……どうも胸のほうに、ですね」
「胸に……なんですか? 僕の胸に何がいるんですか?」
「胸が、こう、ちょっとね」
なんとも歯切れの悪いその言い様に、僕は歯がゆい思いがしたが、相手を急き立てるようなことはせずに、僕は彼の言葉を、到着の遅い彼の言葉を待っていた。
「……時に、崎村さん。あなたには慥か、ご親族がいらっしゃいましたね」
「……なぜ、そんな話を」
「いえ、その、できうべくんば肉親の方に、聞いていただいた方がよろしいかと」
「そんなに深刻なんですか?」
「いえ、深刻というには及びません。ただその、何分、そのですね……」
「僕には肉親はありません。親父はつい先年、死にました」
「おや、それはまた……おかしいですね、符合しません。慥かあなたには血縁のご両親が――」
「その人たちは血縁なんかじゃありません。僕の肉親は、親父ただ一人です」
「……さようですか」
医者はしばし呻吟していると、おもむろにレントゲンの写真をこちらへ向けてきた。僕はそれを無感動な眼で見る。これが、僕の肺腑、僕の肋、僕の心臓……こうしてみると、本当に自分の中にこんな異形なものが蔵されているのかと、疑いを容れたくもなってきたが、実際にそうなのだから、仕方ないのだろう。
「このような次第で……」
なにがこのような次第なのか、見識貧乏な素人眼にはさっぱりわからなかった。それに加えて、レントゲン写真というものは本来、もっと見やすいようにライトに照らして見せたりするものじゃなかろうか。ここは暗がり、というほどではないにせよ、唯一の光が射し込む窓の前には気の利かない医者が立っていたもんだから、なおさら陰になっていて、上体を起こしても、顔を近づけても、その異常とやらは明瞭ではない。ややもすると、白と黒のコントラストが、大海をうねうねと動いているみたいに見えてもき、たまらなく、眼を逸らしそうになった。他ならぬ僕の身体だというのに、その様子を自ら窺い知ることができないというのが、もどかしかった。
「よくわかりません……」
「最近、動悸が激しくなったことは?」
「あります、心悸亢進みたいな……息が詰まるような思いを、何度となく」
医者は我が意を得たりとばかり、神妙に頷いた。
「……つまり先生、僕は、手術でよくなるんですか?」
「ええ、まぁ」やはり奥歯にものが挟まったような言い方で応える医者は、逡巡することなく頷くと、白衣の内ポケットから何かを取り出すと、室内の何もない一点にそれをきらりと光らせた。
「いまこの場で、摘出してしまいましょう」
「この場で、ですか?」
「ええ、まぁ」
「そんな簡単に、済んでしまう手術なんですか?」
「難しくはありません。ただその、あなた次第で……」
「麻酔は? 衛生面の気づかいは?」
「要りません、今ここで、修復してしまいしょう。悪い虫を、取り除くのです」
と言って医者は、僕の着ている服をはだけさせると、胸に冷たい鋭利なものを、ひたと押し当てた。
「……痛いですか?」と僕はおそるおそる訊く。
「最初のうちは」と医者は経験済みであるかのように請け合う。
つつーと、胸の真ん中をメスの刀身が滑った。ちょっとチクリときたが、蚊に刺された程度のむず痒さでしかなかった。要は、気の持ちようだった。医者の口は歯切れが悪かろうとも、その腕は確かで、そのメスの刃はよく切れた。僕の肉をすぱすぱと切り開き、やすやすと手を内側に差し入れた医者は、やがて一つの病巣を見つけるや、それを苦も無く取り出してみせた。圧巻のスキル。
「これです……これが、あなたの中に……」
「なんですか、それは……」
禍々しい形をして、どろどろの液体を垂れ流し、不規則な蠕動を繰り返す何かが、病室に具現していた。
「これが、あなたの胸の中に……」
僕はそこで、ぽっかりと空けられた自分の胸の穴を覗いた。深淵を莅もうとでもしているみたいに、たまらなく不安な気持ちが僕を襲った。空っぽだった。それが取り出された胸の深奥は、すっぽりとクレーターが空けられたようで、どこか寂しい気がした。
「これを、どうなさいますか?」
あろうことか医師は、僕に確認をとってきた。
「どうするって……そんな得体の知れないものでも、ドナー移植の買い手がつくんですか?」
「いえ、そうではなく……空いた胸の穴に、代わりの物を入れることができます」
「代わりの物?」
「ええ」
医者はそう言うと、手品のように白衣の裾からなにやら怪しげなペースメーカーのような機械を取り出してきた。キューブ状をしていて、いたるところからちろちろと細い舌を突き出すように、あるいはただ、だらんとゴム状のチューブを伸ばしていた。
「これを埋めることができます」
「これを埋めると、どうなるんですか?」
「少なくとも、今後激しい動悸、息切れを覚えるようなことはないでしょう」
「空っぽだとダメなんですか?」
「空のままにしておくのはいけません。空のままでは、人間ではなくなりますから」
人間でなくなる。僕はその言葉を頭の中でもう一度繰り返してみた。
「人間でなくなるとは、どういうことですか?」
「突飛な話で恐縮ですが、およそ人間の形骸を留めえなくなります。前例では、獰猛な虎になったり、大きな虫に変身したり、白鳥になったりなどのケースが報告されています。それらはむしろ、いい方でして……」
医者はそれきり言いよどんで、後を語ろうとしなかった。よほど恐ろしい、縮こまるような話なのだろう。
「その、機械を入れると、どうなります?」
「不備がなくなります。私としては、こちらをオススメしますね。こんなもの……」
と言って、僕の内側から取り出したそれを、汚らわしそうに見やっていた。
僕はそれとなく訊いてみることにした。
「ソレは……僕の中から出てきたソレは、僕に動悸をもたらす以外に、どんな症状を引き起こしますか?」
「これといって特に、眼に付く症状はありませんが……」
医者は不審そうな眼で、僕を見ていた。
「こちらをお入れしてよろしいですね?」
医者は慇懃にそう訊いてきた。
「ええ、お願いします」
――室内に、何がノックともなく風がそよと入ってきた。ひゅるりとめくれるカーテンに誘われて、花の馥郁たる香りが爽やかに入室する。季節外れのタンポポの種子のように、ふわりふわりと、身をまかせる流れのない病室を滞空し、僕の空っぽの胸を柔らかい真綿みたもので埋める。
「……ああ、違うそっちじゃない! そっちじゃないですよ、先生!」
僕はなぜか、医者に反駁していた。何がそっちじゃないのか、空っぽの僕には、そもそもわかりよう筈もなかったけれど。
「え、どちらですか?」
「そっち! そっちですよ!」
正直、どちらでもよかった。とにかく穴をぽっかり空けられて、淋しくなった僕の内部に、何でも、どちらでもいいから早く容れてくれと。
「では、元に戻すのですか? せっかく取り出したものを、捨てずに戻すのですか?」
「そうです、戻すんです! 戻してください、お願いします!」
「……わかりました、そのように……」
医者はさばさばとした手つきで、取り出したそれを元のスペースに設置した。
縫合が終わると、彼は僕に問うた。
「なぜ、戻したのです? あんなものは、今や人体には不要のものです。むしろ、却って息苦しいでしょうに」
「……本当、どうしてだろう、僕にもわからないけど……」
なんだか、その種の痛みは取り除くべきではないと、そう思わされる。
痛みが、恋しい。……僕の中にそのようなマゾヒストな一面が隠れ潜んでいようとは、まったく、たまには胸をずぶりとやられるのも、人間には必要なのかもしれない。僕は痛みがほしかった。死と隣り合わせてでも、なんとしてでも、痛みとともに、あらねばならなかった。
しかしこれを、面前の医者に説明してしまえるものではなかった。僕はマゾですと告げるのが、いっとうの近道として伝わるのだろうが……しかし僕はやはり、Mではない。右腕の形は異形でも、Mではなく、僕はそう、いたってNだ。だから説明は、弁明はいつも遠まわしに、回りくどいものになる。敷かれたレールの上を行くようには、すんなりとはいかない。
「僕は……今のままの自分でいたいんです」
「……駅に留まり、次の電車が来るのを待つのですか?」
「違う、僕が走って、線路を新設するんです」
「……法律違反です」
「僕が最初で、最後の犯罪者になりましょう」
「……さようですか」
医者はそう言うと、メスと機械とレントゲン写真を白衣にしまって、そのままここを立ち去ろうとした。
「あの、先生」
「……なんでしょう」
面白からぬ声で、彼はいらえした。僕はその、表情の読めない顔に対してこう問うた。
「先生は、どっちなんですか」
「どっち、とは?」
「つまり……空っぽなのか、そうでないのか……それとも……」
医者はそこで唐突に白衣を袒ぐと力任せにびりびりと衣服を割いて、自分の胸まで割いて、その中身を示した。
「皆さん、これです」
「……なるほど」
僕はどうやら、違うみたいだった。




