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十一章~僕に対して差し伸べられた慈悲の手が、僕の首を絞めているだなどとはまさか誰も思うまい~

 翌日――すなわち休日の朝のことである。早朝から部活があるでもないインドアな図書委員二人が図書室からパソコン室、さらには印刷室にいたるまでの距離をえっちらおっちら渡り歩く姿を見咎める者は、幸いにして誰もなかった。

「……崎村くん、ほんとうにやるの、そんなこと?」

「うん、やるよ。どのみちもう、引き返せないよ。既にここまでやったんだから、乗りかかった船さ」

「でも……そんなことをして何になるっていうの? 内申に加点されたりとか、ましてや表彰なんてされたりしないよ? むしろ色んな人に迷惑かも……うるさがられるだけだよ、きっと」

「やると決めたからにはカガミさん、僕はやり遂げてみせるよ。どうしても気乗りしないっていうなら、べつに降りてもかまわないよ。あとは一人でもできるから。時間はそれなりにかかると思うけど……夏休みまでにはなんとか間に合うと思うから」

「……ううん、私も手伝えることは手伝うけど……」

 そういって、不承不承ながらに本のページを開き、その文章を一字一句間違えないようにパソコン画面に彼女は打ち込んだ。

「ねぇ、崎村くん。伝えたいことって、きっとこのことだったんだよね」

「うん、もちろんこのことさ。それがどうかした? あ、そこのやつ、けっこういいお話だから、写し間違わないようにしてね」

「……はい」

 僕らは朝からずっとそうやって座椅子にかけたまま、休日を返上してたくさんの文章をプリントアウトしていった。できあがったそれを冊子にまとめて、校内で配り歩くという試みだ。

 それは生徒会とタイアップして持ち上げた、一大読書キャンペーンだった。最近、図書室の利用が少なすぎます、と。もちろんそれは今に始まった話でもなかったのだが、人をアジる声は必ずしも正確なものとはいえないからここではおくとして、とにもかくにも僕らは随意に選んだ短い本を印刷しては冊子にし、軽けりゃ人の眼にも触れんとばかりにそれを配り歩いた。図書室には、こういうお話がいっぱいあるんですよと。

大それた計画だったが、しかしほどなくしてその運動は頓挫してしまった。廊下中で紙飛行機がびゅんびゅん飛び交うようになってしまったのだ。僕らはなんだか、学校に書を読む学び舎としての体裁を取り戻させるというよりも、却って滑走路を敷設してしまっているような気がしたので、悲しくなると同時に、それ以来生徒会は図書委員の出し物には非協力的になってしまった。

しかしそれでも僕は、その失敗を意味がないとは思わない。かのトーマス・エジソンも失敗をイコールで成功と直列つなぎさせていたわけであるし、そのうえ僕には、やりたいことが、試してみたいことがまだ一つあったのだ。それを実行してみないことには、僕は僕の行動を失敗だなんて認めることはしない。

あるいは見る人が見れば、僕の行為は狂気以外のなにものでもなかったろう。たしかに僕は、世間でいう本の虫という言葉以上に、本という魔性にとり憑かれていたのやもしれない。

僕はページをめくるたびに、新たな世界へ僕をいざなう感動と興奮が、おさまりきらない僕の脳へ、僕の胸へ、いつだってちっぽけだった僕の身内へ本流のごとく一気に流れこむのを楽しんでいた。

 それでいて僕は、これはなぜなのか判然としないが、いつしかこの本の世界を――美しい妄想の数々をみんなにも見てもらおうと、積極的に図書を推薦するような人間になっていたのだ。いっそ煩わしいとさえ思われるくらいに。

 そのために、僕が校内で尽くしたあらゆる努力は、しかして徒労に終わった。僕は「布教活動」と周りから窘められたり笑われたりしながらも、それでも本が持つ愉しさ、美しさを理解してもらおうと骨を折った。躍起となるあまり、本当に骨を折ってしまったから笑えない。電子書籍業界の忍び寄る跫音が僕の背後にもかつかつと鳴っていた折柄だったが、古きよき紙媒体をごっそり抱えた僕を階段の踊り場から誰かが僕の背をイタズラに押し、それで腕をぽきっとやってしまったのだ。

いま思うと、骨折してまでなぜあんなことをしたのだろう。僕が日々にみせる挙動の中には、必ずなにがしかの本の影響が色濃く見て取れたものだが、僕が高校の三年間で実行したこの行為の出どころだけは、どこにもとめることもできなかった。あの本でもないし、この言説でもなかった。誰かの言葉というよりも、誰か浩然の気を纏った者の鷹揚そのものの態度だったような……。

 何かの読みものではあった気がする――ひょっとしたら、それは活字にアウトプットされた媒体ではなく、もっと古めかしい、もっとアナログな何かの影響をこうむっていたのかもしれない……それがあまりにも身近すぎて、却って根拠がわかりづらくなっているような、そのような類いなのかもしれなかった。その影響が、高校時代の僕をつくり、僕を駆り立てていた。

 とにかく僕は、周囲の素っ気ない態度をなんとか打破して、なんとしてでも彼らにこちらの気持ちをわかってもらいたい――否、美しい世界の扉を自ずから開いてほしいと思って、学び舎から離れた世界にまで「布教」の足を展ばすことにした。

 具体的には、以下のような奇矯を僕は行った――僕の気に入った好個の短編小説を――国内外問わず、また純文学であるか否か、古典か現代ものかを問わず――アトランダムに選んだいくばくかの短編小説の全文をプリントアウトし、ホチキスで留め、手当たりしだい近所の郵便受けに投函したのだ。もちろん、読んでほしいために。中には翻訳ものもあるから、当然著作権的な問題で法に悖るのもあったろうが、若さが免罪符となり、僕の行為を正当化させていた。

 高校二年生の夏休み――特大サイズの修学旅行用のカバンを装着した自転車にまたがった僕は、見慣れない瀟洒な私服姿をしたあでやかな図書委員長に「それじゃ、行ってくる」と決然とした言葉を投げて、ペダルに力を入れようとした。ずっしりと、のしかかるような重さが僕の膝を跳ね返すような反発力で応えた。

「……ねぇ、本当に大丈夫なの……?」

 前髪がいつもよりあがっているせいか、額が広くなったような印象がある。普段見慣れた制服から私服に着替えるだけで女の子はこうも違ってくるものかと僕は息を呑みながら、あまり丈夫そうでない水色の傘で公園の地面を突っつきながら心配そうに問うてくる彼女に、僕は気休めを言った。正直、体力的な意味での不安はないでもない。

「大丈夫さ。これだけの冊数だから、時間はかかるだろうけど、夕刻までには全部配り切れるよ」

 と、僕はそれらの小説を投函された各家庭の様子を妄想して、一人悦に入った。朝陽は強烈な白さで眼に染み入り、僕の視界をさえぎるように機能していたが、それも昼頃までの辛抱だろう。

「でも……新聞の天気予報欄には、午後から降雨って書いてあったよ。自転車に乗ってたら傘なんてさせないし、危ないよ」

「間違いなく降るのかい?」

「降水確率九○パーセントだって……」

「なら、一○パーセントの確率で降らないってことじゃないか」

「九○パーセントは必ず降るよ……」

「必ず降るんだったら、自信をもって一○○パーセントと書きそうなものだけれど」

「それは……万が一外れた場合に、責任とかとらされるのが嫌なだけであって、九○パーセントは絶対に降るんだってば……」

「じゃあ、その万が一だね。僕は降らない方に一万ペット」

「せめて傘くらい持って行った方が……」

「あっても荷物になるだけだよ。それに絶対、雨は降らない」

 ふんぬとばかり力を入れると、あやうくこけてしまいそうになった。地面から脚を離した途端、重心の統制を欠いた僕のママチャリはあわや横転しそうになる身をすんでのところでもちこたえてみせた。……彼女がその細い腕で、僕の身を支えてくれたのだ。

「大丈夫?」

「うん、ありがとう。転んでいたらどうなっていたことか……」

 彼女の白い腕が、僕の白いギプスの上からいたわるような手つきで僕の肌をさするような動きをしていた。むんむんと草いきれのする夏の香は彼女の身体から生まれるものと溶けてあわさり、じりじりと聴覚神経を灼くかのようなセミの声が、のそりのそりと、アスファルトを熱しながら近づいてきた。……やめろ、そんな声は僕にふさわしくない。

「私も行くよ。一人じゃ危ないだろうし……」

 そう言う彼女の常になく粧しこまれた顔に僕は視線を遣ることなく、何かもの憂いことでもある時のように、たまらなく下を向いた。僕のものと比べてもちんまりしたスニーカー、そこから腿まで伸びる黒いニーソックスに覆われた、小枝のように細い脚。白いキュロットとの間から覗く絶対領域の眩しさに太陽を直視する思いに焼けながら、僕は随伴を乞う彼女に下を向いたままふるふると首を振って応えた。

「……いや、僕一人で行くよ。けっこうな距離になるだろうから、カガミさんにはちょっと不向き、かな」

 彼女の表情を覗きこむと、艶のあるその肌に一筋の汗が流れていた――顔色はどんよりと曇っていて、今しも泣きださんばかりの風情だったが……まぁ、泣きはしないのだろう。ここは泣くべきところではないのだから。

彼女の自宅前。僕なんかの家と違って、随分といい建て構えの一軒家に暮らす彼女は、毎年の夏を緑なす公園とそこを駆ける子供たちの健康的に色づいた中に過ごしていた。ひょっとしたら、彼女が運動で名高い高校に入学したのも、これが理由だったのかもしれない……遊具の撤去が全国的におしすすめられる中、子供たちは晴れの日ならばめいめいにボールを持ち出しルール無用のドッジボールのようなサッカーのような球技をしながらてんでに楽しんでいた。統制のない愉楽を、おのがじし享受していた。そんな彼らを二階の部屋の窓から眼下に見下ろすかしているうちに、彼女も風景に同化したいと思うようになったのだろう、気付けば運動の盛んな高校で図書委員を率先して努めるような変わり種となっていた……。運動の質や量において、公園と高校とでは桁が違っていたのが誤算だったのだろうか。

僕らはその広々とした公園の、かげろう踊る砂利の上で自転車を挟みながら立っていた。跨ろうにもギプスの巻かれた右腕のために、自在に動ける左腕だけで操縦しなければならず、これがなかなか大量の冊子を抱えた自転車は重く、両の脚を地面から離せずにいた。

 そんな僕を見かねたかしたのだろう。彼女はやおら僕の背後に回ると、後部席――自転車の後部荷台にはすでに幾冊かが収納されたケースが載っていたが――を見つめ、小さな尻の置き場をもとめるように思案すると、次いで何を思ったか、大胆にも僕の注目する前で大股を開いて後輪を挟むように自転車に乗り上げると、片足を地面に着けたままケースの上にちょこなんと乗っかった。

 僕は危うくキュロットのスカートの中身を見てしまいそうになったので、慌てて前を向いてから「なに?」と疑義の声だけを後ろにやった。

「こうすれば、発進できるでしょ。私が脚と傘の先を地面に着けてるから、倒れそうになったら支えるね」

 僕はまた彼女の強気な言葉の出どころがいったいどこにあるか探ろうとし、たまらず振り向いてしまったが、愛らしい白と黒の夏用のベストから覗く白っこい細腕で器用に開けられた股の間を塞ぎながらこちらを見返す彼女は、ほんのりとだが、笑っていた。柔らかな白い脚の付け根は細く、どうしても僕の倒れ掛かる身体を支える用にはならないと思えたけど、彼女の表情は妙に自信ありげだったし、なにより細いながらもむっちりと肉の柔らかそうなたるみを荷台の上に見せるそれは、なんだかあまり長いこと見てはいけないような気がして……僕はふいとまたそっぽを向いた。夏の風が柑橘系のフレーバーを彼女の方からもたらしてきた。

「カガミさんを乗せるくらいなら、まだしもその辺の子を捕まえた方が得策だよ」

僕は苦しまぎれにそう言った。正直、すぐ後ろにいる彼女の重さが、ペダルに脚をかけないうちからひしひしと感じられてきたのだ。

彼女は優しく、言葉を口の中で遊ばせるように答えた。

「でも、みんなどの子も私より脚は短いよ? 大人用の自転車なんだから、あの子たちじゃ無理だよ」

公園の端々で子供が奇声を上げている。一人が力いっぱい蹴り上げたボールは垣を越えて他人の家の敷地に入り、ちぇっとばかり、気重な空気がそこわたりに横溢したが、すぐにまたボールを使わない遊びに湧く……。公園を取り囲むように植樹された樹が暄風にしなうパームツリーよろしく、視界の隅にちらついている。その囁き交わすかのような葉の擦れ合う音が、そよと吹く風を意識させて、既に汗の浮かんできていた僕の身体に滑走の喜びを伝えようとしていた。隅にある花壇に咲き誇ったマリーゴールドの花々が、うんと背を伸ばして僕たちを見ていた。

「このまま、ずっと乗っかるつもり?」

「乗っかるつもりです」

「最後まで?」

「できれば」

 僕は言葉を探した。彼女をおろすための言葉をだ。身を案じてのことではない。鼓膜を溶かしそうなほど暑苦しいセミの声から他でもない、僕の貞操を守るために。

「二人乗りは、きっと法律違反だよ」

「怪我をしているのに、自転車をこぐ人なんて見たことないよ」

「その上、そこに二人乗りまで加えるつもり?」

「著作権侵害も」

 まんまと言いくるめられた。法律を盾に取ろうとした僕の試みは、しかし俄か仕込みの話なんて持ち出したもんだから却って手玉にとられ、僕は渋々ながらも、彼女を荷台に乗せたまま走りだすしかないわけで。僕は罪の意識というか、罪悪そのものを背負うような心地して、しかしそれでも思い立ったことを遂げるために、いざペダルを踏みだした。

「お姫様、発進の用意がととのいましたよ」

「くれぐれも気をつけてくださいね、運転手さん」

 彼女の身体は、擦過する夏の風のように軽かった。僕らはいつになく身体を密着させながら、公園を後にする。

「ねぇ、ちょっとカガミさん。身体くっつけすぎやしないかな……? そんなに抱き着くようにしなくとも……」

「転ばぬ先の杖といいます」

 僕の身体のどの辺が杖なのだろう、むしろ傘を持っている彼女の方が杖持ちの気がするが、と益体もないことをそぞろに考えながら、僕は片手運転が許すかぎりの最大のスピードで見慣れた街並みを疾走して行った。適当と思われるあたりで自転車を停めると、さっそく荷からむんずと小説の冊子を取り出し、眼に付いた家々の郵便受けにそれらを手当たり次第に入れていく。小説にかぶりはなく、本当にランダムだが、しかしハズレはない。どれもこれも、素晴らしいものだ。もちろん名前や学校名の記入もないから、誰の仕業かわかりようもなく、特定される心配はない。とにかく、読んでほしいという一念で、僕はその配達を近所中に行った。

 近所という範囲には、高校生が休みの日に自転車にまたがり日帰りで帰ってこられる限界までを含めていたから、土地勘のない郊外を真っ直ぐに下りやがて東京湾に注ぐのだろう大きな河の流れに背いて僕らは走りぬいた。すごい量の紙束をおさめた旅行鞄を前にも後ろにもひっさげた僕たちを見て、擦れ違う新聞の夕刊の配達をしていた人たちも首を傾げていたことだろう。僕は冷めやらぬ奇天烈なテンションを若さ爆発させて、果ては暮れなずむ世界の路面にあるかなきかの影を滑らせながら自転車を爆走させていた。二人でくっついていたせいか、彼女の方にもその奇妙な伝染病が災いしたらしい。普段の彼女を知る人達がいまの彼女を見たら、間違いなく別人と思うだろう。

 なかなかどうして、短編の寄せ集めといえど、紙の重さはギプスの身に耐えかねたが、若気のいたりはそれをカバーするのにあまりあった。

 空が暮れなずむ前のこと……アヒルたちがぐわぁぐわぁと鳴きながら一列に泳ぐのと並行しながら、陽も落ちかかった河べりで小休止がてらに自転車を押して歩行している時なんか、なんだか女の子と一風変わったデートをしているみたいな気分だった。お金は一円も使わないし、経済的で、エコノミックな雰囲気で、なんだか今日日の高校生らしくないとも思えたけれど、これは世間的にみて、やっぱりデートと映るんではないか、と……そう思うと、僕はなんだか隣に寄り添い、密着する彼女の香りを、たまらなく居心地よくさせるもののように感じながら……それと同時に、距離が近づけば近づくほどに、どういうわけか遠のく気もしてきて……すぐそばにいるというのに、彼女の存在が名前の知れないさざなみを刻んでいる河の反対側の岸に立ってもいるようで……。僕の胸は、河面のように波打つ。

 河に面した住宅街は夕映えに赤く焼けていて、モミジを散らしたようにそこいら中が輝きに満ちていた。僕は鞄から冊子を取って、赤い光を放つそれらを同じように赤く染まる郵便受けに入れる……今日一日何度も繰り返してきたその作業をここでもこなしながら、僕は隣に寄り添う彼女に言う。

「そういえば、だいぶ前にどこかで小耳に挟んだしょうもない話なんだけど……三、四○回ほど折り畳まれた新聞紙は理論上、もとい、机上の空論上、宇宙まで達するそうだよ」

「宇宙まで?」

「そう、宇宙まで」

僕は新聞配達の人が夕刊を入れたそのすぐ後の郵便受けにプリントアウトした小説をねじこみながら、紙媒体の無限の奥行、永遠ともいえる長さの行間に思いをはせた。ごく短い小説であっても、軽いセンテンスであっても、味わいようによっては一生を費やして初めて一文が読めるようになってくるのかもしれない。……僕は一○一三ヘクトパスカルの地表から成層圏を越えた先の宇宙までの垂直の距離を水平に消化したころには、正直疲れ知らずの体力もへとへとだったが、青さたぎる胸の原子炉は抑えようもないほど常にパッションの臨界事故を引き起こしていて、とどまるところを知らなかった。

夕映えには、香水のような匂いがあった。燃えるような夕焼け空を仰いでいると、ちょうど音楽室から流れてくる図書室での調べが僕の身を包もうとする……自転車のペダルは回されたオルゴールのゼンマイだった、彼女を後ろにのせ、彼女の胸のふくよかさを初めて背中に感じることで湧き起こる胸のときめきはセレナードを奏でる……僕の中のあるものは、この時僕自身の肉体を回路として、自転車の(ホイール)と直結していた。夕日色に塗装されたその銀体は、もはやこの情景において欠くべからざるパーツとなっていた。

「崎村くん、もうちょっとだね!」

「うん、あと少しで……」

 ……いま思い返してみれば、まぁ誰だって自分の胸に手をあててみて、ほんの数年前のことでもいい、自分の過去のふるまいを別の視点で見つめてみた時、あの頃僕たちはなんてバカなことをしていたんだと気づけることだろう。無意味な、非生産的なことをしていたんだろうと、自嘲することだろう。指摘するまでもなく自明のことなのかもしれないが、しかしそれは大事なことである。

 他人同士に摩擦が生じるのは当たり前でも――人は自分自身にさえ、軋轢を生んでしまえるという格好の例がそれとなるのだから。つまり、過去の自分が信じていたものと、今の自分が見つめているもの……正義とは、その種の時代感覚、大きくはイデオロギーという肥大化され極大化された意識の中から何かの拍子でまろびでて、生み出され、ごくありふれたものとなる。いまの自分が認識している正しいと思うもの、当たり前と思うもの、これらはいっさい、後の自分、後の時代を生きる人たちにとって、大きな誤謬となる。

「――あ、」

と、彼女が手を差し伸べた……さながら音もなく流れる小夜曲の旋律にワルツを共に踊る相手を求めるかのような淋しい手つきだったが、しかし僕は手の方ではなく、幻想的な赤い風景がいつの間にか終わっていることに注意した。

 にわかに雨が降った。陽もいよいよ沈みかけ、スタート時にはあれほど重かったカバンの中身もだいぶ減った頃。その雨は予兆もなにも匂わせることなく、いやひょっとしたら段々と薄曇りになっていたのを夢中になって配り歩く僕らが気付けずにいただけのことなのかもしれない。雨粒はあっという間に車軸を流したような豪雨となって、疲れ知らずだった僕らの背中をしたたかに打ち付けた。

いっそ気持ちいいくらいに洗い流された汗のことを思えばこの雨は霖雨ともなろうが、少なくとも現代人は唐突な雨を歓迎しない。スーツを着ていたサラリーマンは舌打ちしてどこかの店の軒先に隠れるし、申し訳程度に折り畳み傘をさしていた女性も、せっかくの夏物ファッションがぐしょぐしょだった。

「崎村くん、傘、傘!」

と何度もそう言って、水色の傘を開こうとしていた彼女だったが、突然のことで動揺するあまり手許が狂うのか、思うように、満足に傘すらも展開できないありさまだった。そうこうしているうちにも、身体はどんどん濡れそぼっていく。

「カガミさん! どっかで雨宿りしよう!」

 僕らは急いで雨宿り先を探したが、なかなか見つからず、やっと見つけた小さなバス亭の屋根の下へと避難できたのは本降りになってから三分ほど経ってから、豪雨の中で滝行をした後だった。

 僕らは全身、雪のように冷たい雨粒を受けてぐしょ濡れだった。

「すごいね、こんなに降るなんて」

 彼女はそう言うと、時刻表そばの粗末なチェアに落ちかかるように沈んだ。よほど疲れていたのだろう、息も絶え絶えといった様子だったが、声の抑揚からは何かをかこつような、こぼすような色はこれっぽっちも見受けられなかった。ただ水をしたたらせながら、雨を見て、その音のむせぶような凄まじさに声を奪われながらも、不平をもらすことなくありのままを受け入れている……そういう彼女を見ていると、なんだかたまらなく、いじらしく思えてきて……。

 彼女の側頭を濡れ羽色の髪がおどろと張り付いていた。僕はシャツの裾を雑巾みたいにしぼりながら、出会った頃とはずいぶん変わって見える彼女の容姿をまじまじと見つめていた。

「……崎村くん、その、できればあんまり見てほしくないかな……」

「どうして?」

「だって……」

 と、言われて初めて気づいたことだが、彼女の纏う薄物の生地から、桃色の五弁花を散らしたような下着が透けて見えた。僕は慌てて眼を逸らしたものの、正直眼のやり場に困った。

 ……彼女はこんなにも、色っぽい身体つきをしていたろうか。十七歳という年齢を思えば、いかさま鬼も十八番茶も出花というくらいで、嫣然と僕に微笑みかける彼女らしからぬ今日一日のふるまいも自然と頷けてもくるようで……。その華奢な外観は変わらないまでも、出会った頃と比べてみれば、たしかに彼女の変化には著しいものがあった。それを年相応の発育だと思えばそれまでだが、これまでそれが眼についてこなかったのは、男女共学高校でのこと、トレンドに敏感な少女の多勢を占める中では彼女の変化は微々たるもので、埋もれていたにすぎないということなのだろうが、しかし彼女がその種の成長を遂げてしまうのは、僕にはなんだか悲しいような、淋しいような気がしてもきて……。

 僕はバス亭の裏側、脆くも外れかかった手すりに寄りかかりながら、轟々と濁流のごとくして海嘯を鳴らしながら僕らの傍らを流れる大きな河を見た……さっきまではカモが浮いていて穏やかだったせせらぎはなりを潜めて、夏の香に憩っていた蝶や花々の微笑む土手は増水した泥水にかっさらわれており、氾濫した水を辛うじて堰き止めている堤防を削るように増幅する貪婪な急流の面には、おぞましさ以外のなにものも上澄んではいないように見えた。

「河、荒れちゃったね……」

「うん」

「こんなにすぐに、水って溢れかえっちゃうんだね」

「うん、そうだね」

 僕はその荒れ狂う大蛇のような大水を見下ろしながら、その河を挟んで向こう側に、夕焼け空の奥に一点、沈もうとする紡錘形に湾曲した陽を拝みながら、少し涼んできた外気を漁船の投げかける網のようにして自転車の滑走で肌に集めていた先ほどまでの時間を思い起こしていた。彼女は僕の後ろに座っていて、座りながらにその景色を眺めつ、まどろみつしながら、空の紅と河面に映える紡錘形の茜ばかりの光の中で、タイタニックみたいに両手を広げて風をまともに受けていた。彼女の黒髪が、最初はセミロングだったはずの、今ではすっかり長くなった病的なまでに細い髪が、土手際の舗装された殺風景な舞台をたなびく緋毛氈となって夏の夕空の空気とかすむ……。

 ……僕は濡れそぼつ手すりをぐらぐらとゆすりながら、今ではそればかり眼につくようになった河の騒擾を黙って見下ろしていた。黙って、見下ろすしかなかった。何を言おうとしたって、流れの引き連れる轟音は騒々しくて、河原に自生するあらゆる植物の枝を、茎を、根こそぎ呑噬するばかりで、僕なんかがそれについて何かを言うのもおこがましいし、気が引けてくるし、なにより彼女に、声は聴こえまい。

「崎村くん、どうしたの?」

 と思うそばから、彼女の方から声がかかる……僕は驚いた。静かな、誰一人として姿のない図書室にあっても、時として外の快活な、統制のとれた軍隊式の掛け声や音楽室の吹き鳴らす音色に負けていたりして聞こえないこともある彼女のか細い声が、降りしきる雨の中、アスファルトを砧打つようにしたたか下る水の音にも、コンクリートを侵食せんとばかりに喰らい尽くす河の轟音にもかき消されない確かな声で、僕の耳朶に触れたからだ。

「どうもしないよ。ちょっと黄昏れてただけ」

 やはりというか、僕の声は聞こえなかったのだろう。彼女は露わになった耳を近づけるために、ちょっと首を突き出すようにした。これは珍しいことだが、僕は彼女の方へちょっと近づいて、耳うちするようにもう一回繰り返した。

「おかしな崎村くん。雨降りなのに黄昏れるの?」

「いけない? 雨の中で黄昏れてちゃ」

「ううん」

「ところでカガミさんは、いつもになく黄昏れてたよね」

「私、黄昏れてた?」

「自覚なかった? けっこう黄昏れてたよ」

「えへへ」

 彼女はそこで、女の子っぽくなまめかしく微笑みだした。

 ……どこもかしこもしとどに濡れていた。僕ははっと彼女を見るも、水に濡れたその表情は、いつもとは違う趣を湛えていて……ほのかにチークがかっていたせいか雨に洗い流されてほんのり朱のさす頬に、いつもは眼に留まらないつんと上向いた鼻に、濡れてかたまる鬢を後ろにやった拍子に初めて覗けたその耳に、そしてつぶらな眼に……僕は吸い込まれるように、彼女の瞳を直視していた。

「……眼鏡」

「やっと気づいたの?」

 衝撃だった。彼女が厚ぼったい、あの黒縁の眼鏡を、彼女のアイデンティティーともいえる眼鏡をかけていないことに、いまさらやっと気付いて……。

「た、大変だ、眼鏡、落としちゃったの? まさか、河に――」

 ――僕は名前の知れない、それも数時間足らずしか思い入れのない灰色の河を覗くも、濁った流れをいつまで覗いていたところで、金縁眼鏡と銀縁眼鏡と黒縁眼鏡を持った女神さまが浮き出てこないことは、僕が一番知っていた。もし現れることがあるなら、僕は正直に、黒縁の眼鏡を受け取るつもりでいるのに……女神さまが受け取るように言う金縁銀縁の拝領もうやうやしく辞して、一人でも多くの人にその眼鏡が行きわたるよう、厚かましくもそうお願いする心づもりなのに……どうして、妄想の中ででしか女神さまは微笑んでくださらないのだろう。

「違うよ、崎村くん」僕の動揺の何が面白かったものか、彼女はおかしな劇でも見るみたいに、手すりを掴んでがくがく揺れる僕に告げた。

「眼鏡は失くしたんじゃない、初めから置いてきたの」

「……失くしたんじゃ、ない……?」

「うん、そう。置いてきた」

 失くしたのではなく、置いてきた。

 僕にはその言葉が、よく呑み込めなかった……彼女が眼鏡をかけないというのが……僕の中にいる彼女が、眼鏡をかけずにここにいて、濡れて肌に張り付いた服越しにピンク色の下着を覗かせ、婀娜な具合に脚を揃えてみせたりなんかして、そうしてなにより、明るい――明るすぎる白さで、僕の相貌を見、僕に太腿の肉付きを――彼女の脚を、機能としてではなくそんな風に覗いてみたのは、これが初めてだった――見せてくる、見せつけてくる彼女を、僕はこれまで見たことがなかった。否――。

 ――そんな彼女を、僕は知らなかったのだ。

 ばっくん、ばっくん。

 僕は手すりを強く握る。転ばぬ先の杖。覚えず尋常ならざる衝撃を受け、不意打ちを喰らい、彼女の変化の側杖でまさに転倒してしまいそうになった僕は、朽ちかかってきぃきぃ悲鳴をいう黄色い鋼鉄製の手すりに縋る。後ろにさがる。彼女との間に、距離を設ける。

「眼鏡を、置いてきた……?」

 おそるおそる、問いかける。胸の鼓動があまり激しいせいか、あるいは寒さのためにか、言葉はゼラチン質な顫えを帯びる。ナイーブで、デリケートな肌と心象の摩擦。やめて、いま近づかれると、僕は崩れる。

「うん、そう。だから今は、コンタクトつけてるの……崎村くん、ほんとに鈍いんだから……」

「僕が、鈍い?」

「うん、満場一致で鈍いよ」

 違う、僕は鈍くない、氾濫する河が早いだけだ。あんな流れの中を、たかが木の葉にすぎない笹舟がどう泳げという? 濁流にもまれて、浮くことすらかなわない。専売特許の、十八番の浮くことすらできない僕に、なにを、どう在ることをもとめているのだ?

 満場一致で、寄ってたかってもとめているのだ。

「ねぇ、すっかり濡れちゃったけど、どうかな?」

 ……そう言って、彼女はチェアの向きを変え、ずいと身体を寄せてくる……狭いバス亭、屋根の面積は限られていて、僕は半身を再び雨ざらしにする。手でつかんだ手すりは痙攣的な震えをやめない。いや、違う。揺れているのは僕の身体、激震が走っているのは、僕の心臓、僕の脳髄、僕の……、

「私、どうかな……?」

「どう、って……?」

「……可愛く、なれてる、かな?」

 面映ゆいのか、それとも人工的な朱の色が雨水に溶けて拡がっただけのことか。わからない。僕にはわからないものが、僕の前にずいと身を寄せ、僕を追い詰める……透けて見える胸元が寄ってくる。ニーソックスとキュロットの間の黄金比が崩れる……パンツはもう、すっかり見えていた。僕自身首を逸らすことを、忘れてそれらに恍然としてしまっている。吸い込まれたように、視線が彼女の肉体の上をさまよい歩く。

身体的な距離が、縮まる。対して僕は、縮こまった。ひどく臆病にも見られようが、それでも僕は、縮こまらざるをえなかった。誰かに助けを求めたいくらいに、なんとかして脱出口を見つけ出したかった。僕はここから出たかった。流れの傍は、いやだった。

「……可愛いよ、きみは可愛い……」

 身体から上気したように何かがたちのぼって見えるのは、そろそろ冷え込む時間になってきたからか。僕はぶるぶると震えながら、心臓まで寒さにわななかせながら、なおも近づいてくる彼女に、距離をあける。

 彼女は語りだした。

「私ね、お父さんの仕事の都合で、関東の色んなところを転々としていて……それで、高校に上がる前にあの家に移ったんだけど……小さい頃から転校ばかりしていたから、自然と本を読むようになっていて、小説ばかり読んでたら、行く先々でうまく振る舞うことができなくなって、友達もうまく作れなくて……それでも、小説の中には魅力的な人物がいつも登場してきてくれて、気を紛らわしてくれるの! 学校では、みんながみんな同じ人のように見えてきて、男も女も、みんな同じ顔をするようになってたの。でも、小説は違った! 登場人物にはみんな、個性があったの。クラスの中では人気者っているでしょう? それってキャラクターが強烈だからなのかもって、思ってたんだけど、違ったみたいで……いろんな学校を遍歴してるとね、それこそ私の場合、旅芸者一家のように転々とするもんだから余計なんだけど、そこにある種のパターンがあることに気付いたの。一風変わった人には、ある一定のパターンがあるの。小説の人物みたいに、それぞれ別個のものを持ってるんじゃなくて、みんな結局同じものを持っていたの。それに気付いて私、がっかりした……転校して、俯いていても、物語みたいに、誰かが気さくに声をかけてくれることはなかった……だから私は、あ、この世界は物語とは違うんだって、気付いたの……私はもう、私の物語を半ば諦めて高校に入ったんだけど、そうしたらいきなり、あなたが図書室に現れた。授業にも出ないで、私より早くに図書室にいて、本をむさぼってた。ああ、来てくれたんだって思った。私の物語に、やっと登場人物が出てきたの。

……崎村くん、ありがとう。私の登場人物になってくれて、ほんとうにありがとう。ふふ……私、変わったでしょう? こんな風に、変われたのも、きっと崎村くんのおかげなんだと思うな……あなたが私を、変えてくれたの……ねぇ、崎村くん……どうして退がるの? そんなに後ろに行ったら、よけい濡れちゃうよ……こっちへ来なよ、ほら、その手すり、なんだか壊れそうだし、落っこちちゃうよ」

うっとりするような声で、彼女は言った。僕は甘い蜜の中に身をひたすように、頼りない手すりから離れ、彼女に近づこうと思う反面……既に没したか、あるいは雲に隠された西日が彩るあの図書室の距離、黄金色の価値観をここに再現する。僕の手首は一瞬抜けた力を取り戻す、しなだれかかるようになお一層、ひとしおの握力でもってぎゅっと手すりをにぎった。

 彼女は酔ったように眼を細めていた。酒だ。酒が空から降ってくるのだ、それで彼女は、酔ってしまうのだ。ろくでなしの親父のがなり立てるような声音が玉露のように去来した。酒だ、酒を持ってこい! 口さがない近隣住民は、その声を聞くだに眉を顰めて、「あんたの父親は、ろくでなしさね」と頑是ない僕に吹き込む。僕は親父をろくでなしと呼ぶようになった。僕は天国の別名をろくでなしと呼ぶのだと、思うまでになってしまった。彼女は酔う。彼女は寄る。僕はようよう、後ろに倚る。脆い手すりに、僕は縋る、重心をあずける。神様仏様親父様、どうか助けて――。

「――崎村くん、危ないっ!」

 空転――だしぬけに叫ばれた彼女の声は、しかし遅きに失した――もとよりそれこそ、その遅々たる言葉の歩みこそが、僕の中での彼女だった……。そんな彼女が、その彼女との、広がる距離が僕はたまらなく好きで――あれ、遠すぎる……こんなに遠いと、声が聞こえない。ノイズが空から打ち付けてくるせいか、ちっとも声が聞こえなくなる。どうして、なぜ、聴こえない――?

 ざぶん。沈む。僕は落ち込む。没頭する、没身する。ここはたゆたう、水の中。早瀬にも似た、いやさそれ以上に早い、速い、流れの中を――僕はしかし、泳げない。流転する。ギプスが泳ぎの障害となる。自分がかくまでに情けないカナヅチであったのかと、慨嘆する遑もあらばこそ。流れは尽きることなく、乾くことなく、やむことなく、濁流はさらに勢いを盛り上げ、僕の身を翻弄する。流れのさなかに、いろいろなものに僕はぶつかる。もんどりを打つ。

 どうやら凭れていた手すりが根方から外れて、僕はまっさかさまに転げ落ちてしまったようだ。僕の身体は堤防の勾配を無様に転げ落ちながら、波瀾の威容を彷彿とさせる流れに呑み込まれていった。

 とにかく息をつごう――僕は水面から顔を出そうとして、匯る流れをかいてかいて、浮こう浮こうともがき苦しむ。

 溺没の奔流の中で、濁水の勢いに浮遊もままならない中を、僕はもがき、もがき苦しみながらも必死に、何か掴まれるものがあるならそれをつかもうとした。溺れるものは、藁をもつかむ。

 左手であらゆるもの探ろうとする――前後もなく、左右もなく、水をかくのでもない動作に、何がしたいのか自分でもわからないような、甲斐の無い実の無い動作を連続的に続けているうちに――息ができなくて、苦しくてたまらなくて、眼を瞑って、もうどうしようもない、耳の中で水のゴボゴボいう音だけが不気味に鳴り響いて、そんなような状況の中で僕は、なぜか今日一日かけて配り歩いた短編小説のことを思った。

 左手で水をかいたり、何かこの手で掴める物をと探ることを徒労に思いながら、それと重ねて、今日一日の疲労もまた、明日筋肉痛をこさえるばかりの無駄骨と、そう思った。

 あんなことをしたからって、何も伝わらない――なにがなしに、そう確信した。激流の中で身を悶えさせることによって、そう気づかされた。

 人々は郵便受けの中に入った、表紙にタイトル以外何も書かれていない、かといって押し売り的な広告とも違うそれを見て、気味悪く思うことだろう。思し召されることだろう。怪訝に首を傾げる。そうしてそれを焼き捨てるかシュレッターにかけるかするだろう……誰も中身を、検めはしない。それについて僕の方に何か落ち度があるのだとすれば、表紙に小説のタイトルだけでなく、きちんと作者の名前まで書きこんでおくべきだったのだ。人々が読むのは文章ではない、眼を惹く装幀だとか、呑み込みやすい金句だとか、まさにその作者の名前それ自体を読もうとするのだ。偉大すぎる作家の名前がないとダメだった。人は妄想へは、いたることなく、

脱線することなく、

 溺没することなく、

本を読むとは、本以外のものを読むということだったのだ。本を読もうとすればするほどに、それは人を本の虫と変じさせるのであり、まさしく古い本のページを泳ぐシミとなる……ノミみたいな僕にこそ、分相応のレッテル。

僕は顔も出しあぐねるほどの激流のなかで、満足に腕も回せないような痛めつける暴力の中で、それでも必死になってもがいていると、あがいていると、やがて何かを掴むことに成功した――そして、渾身の力でもって叩きつける斥力を向こうに回しながら、僕はなんとかまだ水の手が届いていない土手に上陸することができた。幸いにして、音は激しくともこれで意外と河の勢いは弱い方だったらしく、僕はほんの十メートルほど身をもてあそばれただけで済んだのは僥倖だった。いや、この場合、盲亀の浮木だろうか。

僕は仰向けになって胸を激しく上下させる。心臓が爆発するような叫びをあげている。すると、僕の腋に手をかいこんで、より安全な高い方へとずりずりと誰かが力強く僕の身を運んでいく……。

「――バカっ! そんなに退がってちゃ危ないって、言ったでしょ! もっと川幅が広かったら、今頃はっ……!」

 彼女は……ひしゃげた傘を持って、僕の隣で泣き暮れている彼女は、強い語調で僕を責める彼女は……僕のよく知る、図書委員長に他ならなかった。

 どこにそんな、脆弱とはいえ高校生男子一人を何の変哲もない傘なんかで引き上げる膂力を隠し持っていたのだろう。彼女の裡のどのあたりに、不注意な僕を叱ってくれる、力強い女性がいたのだろう。僕はわからなかった。あまりな急転の連続で、僕は傍らで身も世もなく泣いている彼女の忍び泣く声を聞いていながら、雨天を仰いで、愧じ入るように考えめぐらしていた……。

 バスの走行音が遠くの方で聞こえた。どこかのあばら屋のトタン屋根で雨露をしのいでいた人が好機とばかり、走り出したのだろう。ちゃぷちゃぷと地面の水を跳ね上げながら駆ける足音がやけに大きく聞こえてくる。バスはもう、すぐ近くまで肉薄していた。

……なんだ、結局は全部、全部、僕の妄想だったんだ……妄想がはびこり、彼女に対してさえも、その変化を認めようとせず――時が歩めば、人は渝わる、それこそ流れる水のように、そんな当たり前なことまで忘れて、僕は妄想の中の彼女との、変わらぬ関係に至上を抱いていたのだ。

ありのままの彼女を見ているようで――その実、架空の、虚像にすぎない彼女との馴れ合いに、距離感に、やきもきとしていた。

ばつの悪いことに、お互いがてんでに異なる、食い違う物語を帯びていた。

「……はは、ははは、はははは」

 さめざめと泣いている彼女に、僕は何も言えなかった。ごめん、僕のせいで心配をかけて。助けてくれてありがとう、溺れそうなのを、助けてくれて……本当は力強い女の子でいてくれて、ありがとう……そんな簡単な言葉さえ、口を衝いて出てこなかった。僕は、気でも狂ったようになって、しばらく雨に当たりながらそこでずっと笑っていた……。もう一度、そのコンタクトレンズの後ろにある瞳で僕を見てほしくなかったのだ。錆と土と申し訳程度に香る泥くさい草の臭いに溶けて、僕の吐く白い息は、どういうつもりか、僕の意志とは関係なく天にまで上がっていった。


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