十章~人と人とのあわいに横たわれる一冊の本~
「……、ねぇ、私も授業サボタージュしていいかな……?」
前日に大雨が降ったせいか、空には雲ひとつ失くなった二学期のある日、彼女はやおらそう問いかけてきた。いつもの指定席から立ち上がり、真向いにある文化棟の開け放たれた窓から流れ込む何かの交響曲の茜色の旋律に幽かな声をのせるかのように。僕はちょっと考える風にした。そりゃ、誰もいない教室に朝からずっと一人で閉じこもっているよりは、誰か話し相手がいたほうがまだしも健全といえるかもしれない。読書にも張り合いがでてくる。僕が聴こえてくる吹奏楽の音色に耳を傾けつつ、もし自分があちら側の人間だとしたら――つまり僕が、図書室にではなく音楽室に入り浸っていたら――今頃は怪談のタネとしても風化してしまったきらいのあるベートーベンの肖像画と仲良く熱視線を交わしていたのだろうかなどと益体もない妄想を軽く頭に描いてから、だからといって人恋しさに彼女までをも僕と同じ「いけない子」にさせてしまうのは、なんだかしのびなく思えてもき、是非にとは言いかねた。
しかし――どういうわけか僕は、いつしかもっと彼女といたい、彼女と一緒にいる時間をもっと共有したいと、思い始めるようにもなっていたから、彼女からのその申し出は、なんというか、嬉しいというか、渡りに舟というか、正直とまどった。
とどまった。思い惑い、留まる。
都合がいいとは解釈しない、戸惑ったのだ。ひどく狼狽したのだ。いや、狼狽は言いすぎか、僕はこの時窓辺に佇み、夕方五時のチャイムが、吹き鳴らされる楽器の奇音に形勢を危うくしている折から、グラウンドからいやがうえにも聞かれてくる汗のほとばしる音に疲れた耳朶を憩わせながら、ゆったりと、鷹揚としていたので、彼女の眼にはその静かなる立ち居振る舞いはおよそ狼狽とは映っているまい。
しかして僕は、少なからず戸惑う。たいていのティーンエイジャー男子が僕と同じような状況に遭遇したらおそらくこうは思わなかったろうが……僕は彼女ともっと親密になりたいと思いながらも、しかし心の中にどうしてか、動物的なその感情をせきとめるような形で、人間的ななにかが、僕にはたらきかけるように言うのだ……そう、僕は彼女との、今の距離感を保っていたいとも思っていたのだ。
どうしようもなかった。触れれば風圧だけでも割れてしまう、人の眼をあざむく手品にでも使用すればたちまちタネもろともに割れてしまう脆弱な風船のような彼女を守りたい、守ってやりたいのではなく、対等に守りあいたい。そんな、もっと近くに在りたいというシンプルな感情とまぜこぜに、いまの距離感につくりものめいた陶酔の美を見出す自分もたしかに存在していて、氷炭ともに相両立していて、そうして僕はその二つを矛盾とはこれっぽちも思わないのだ……。
彼女は待っていた。夕映えの色香る陰鬱な空間……そこで彼女は、僕の言葉を待っている。僕の認可を、待ちわびていた。まだ一年と経たずもう汚くなった白い上履きで彼女のテリトリーに僕が入ることを、彼女は欲しているかのように、黒めがちな瞳で僕を見つめ――。
そこで唐突に、僕は自分の中の両義性、自家撞着にやきもきとする二律背反にけりをうつべく、古典的な弁証法的思考法にのっとって、折衷案を模索した。暗中模索ならぬ、夕中模索していた。尤も、いいかげん暮れなずんでもきたから、射し込むオレンジ色の光はだんだんと明度をうしない、僕に及ぼす効力を――光力を失っており、あるかなきかの乏しい光が、はたまた闇が、二人の間を曖昧に濁した。
……彼女の要求を呑む、という命題がとりとめもなく、ひどく抽象的に頭に飛び込んできた。僕は彼女と近づきになりたい、理屈ぬきで、もっとそばにいたい……。胸の鼓動を共振させていたい。
……と同時に、この窓辺とカウンターとの純粋数学的な奇跡のような、それが計算される前からそこにあったかのような距離というものに神秘を置きたくなるような自分が、アンチテーゼを厳しく突き出してもくる。僕は彼女とのこの距離が好きだったのだ。
返答を用意するのに要した時間は、映画的な調べに揺れるマーラーの曲が二小節ほど室内をたゆたってからだ。僕は自分も授業をボイコットしたいが、その判をくれだなどとおかしな許しをおかしな人物にわざわざ請うてくる彼女に、結局こう告げたのだ。
「いや、残念だけどカガミさん、それは許容できない」
――がっくり、肩を落としたように見えたのは、開け放たれた窓の外、グラウンドから聞こえてくる幾たりもの快活な声を、スポーティッシュな叫びを聞くだに条件反射的に、環境にそぐわぬ彼女が疲れてしまったものか――僕は続けて、心づくしのいたらなかった言葉を、僕の不徳のいたしたところをフォローするようにこう言い添えた。
「だけど、決めたよ。もう僕はこれから授業をサボらないことにするよ」
彼女は僕の唐突な宗旨替えにさぞ驚いたのだろう。落としたばかりのはずの肩を、しかし今度は肩すかしを喰らったみたいにちょっと揺らして、鳩が豆鉄砲から繰り出される強烈な一射をもらったみたいなキョトンとした顔をして、呆気にとられながら僕の意欲表明を聞いていた。――余談ではあるが、それからというものサボらなくなった途端に僕の成績はうなぎのぼりになったから、そのお蔭で大学受験にも成功したようなものでもあるし、彼女の僕の人生で果たした役割は結構大きいといえるのだ――。僕は続ける。たたみかけるように、彼女にこう言った。
「その代わり、と言ってはなんだけど、」
――ただでさえクラスで浮きぎみな存在である君が授業をサボることによってもっと浮ついてしまう危険性がある以上、僕はおいそれと首を縦に振ることはできないけれども――とは言いかねた。
「僕の方でも実は一つ、折り入ってお願いがあるんだけども」
「……、なに?」
彼女はちょっとかまえたようにして、しゃちほこばって、体軸を斜めに変えた。ほっそりした身体の前面を、夕映えが見せる最後の光が、散る木の葉のごとくそっと優しく滑り落ちた。
「できればでいいんだけれど、僕を図書委員の仲間に加えてもらえないかな。そりゃ、委員はクラスで一人だってことは知ってるけど、僕はどうしても、もっとここにいる、ここに近づく正当な口実がほしいんだ」
「……」
そうして僕は、呆気にとられたようでありながらも二つ返事で容認してくれた彼女の推薦の甲斐あって、晴れて図書委員の身分を手にすることができた。
近くもあり、遠くもある。そんなディスタンス。いや、それでいうなら根が引っ込み思案な彼女とのトークはあんまりなかったかもしれないが、しかし僕らは無言のうちに何かを共有できるという、おそらくテレビのニュースや新聞、学校の授業で教えることのできない何かをその距離で学んだのかもしれない。僕ら二人は映画の話で盛り上がったり、色恋沙汰に一喜一憂したりする級友らを尻目に、ただひたすら無言のうちに、教室という場違いな場所で仏道修行に励んでいるかのごとく、てんでに内容も毛色も異なる本を読み合いながら、読み合いへし合いしながら、距離を少しあけて、微妙にあけて、至妙にあけて、同じ場所にいた。そのせいか、もはやクラス内カーストにおいて自分を上位におくことも困難な三学期にもなると、僕もちょっと、名前が口唇に浮上してこないという意味で浮くようになっていたのかもしれない。成績が上がり坂だったケミカルな話でその様子を譬えるなら、当時61.7キログラムを数えていた僕の体重の中から、教室で不安定だった異分子にほんの9.109×10( ―31)キログラムほどの重さを持つ浮き輪みたいなものをぽーんと放り投げてイオン化したら、たちまち僕の方が浮いてしまったと、そういう話だ。電車に轢かれそうだった人を助けようとしたら、却って自分が轢かれてしまっただとか、ミイラ取りがミイラになるとか、要するにそういうことなのだろうが、僕からしてみれば異例の二人目である図書委員になったのは、彼女を助けるという意味合いを、まあ完全に含んでいなかったかと真面目に問われればうーんと悩ましいところだが、あくまで折衷案、自分の中の相容れない矛盾に応えてみせただけの姿勢だ。一人で寂びしそうにしていた彼女のためでも、ましてや僕のあさましさのゆえでもない。イジメとは言わないまでも、ちょっとしたハブりの憂き目(必ずペアになることを要求してくる体育の授業で「積極性に欠ける」との教師からの低すぎる評価)に遭った結果を自業自得とも思わないし、そもそも損得勘定でははかれない話だ。損益計算書にも貸借対照表にもない彼女という項目は、見返りをもとめての貸方だとか借方だとかにも分類されず、そのため学期ごとに清算されることもない。その未記入な感じの関係は永遠に続くかに思われた。続いてほしかった。
二人で一緒にいる時、彼女はよくなんでもないような時にクスクスと笑っていた。僕の変人ぶりが気に入ってもらえたようで、なんというか、変人冥利に尽きるというものだった。僕が普通の人とどこかで何かが違っているところがあるんだとしたなら、それは頭のネジ、ではなく、後天的な読書から形づくられた性格、だとするよりも、やっぱり、かのジグムント・フロイト先生もホフマンをテクストにおっしゃっているとおり、幼少期の特殊な経験が一般的な日本人家庭で育まれた人達と僕との間に差異を生じさせたものだろう。実の息子が高校生になっても相変わらず酒やタバコをやめずに、狭い部屋の中で僕はワイシャツを干すもんだから煙の臭いがすっかり染みついてしまい、動物的な嗅覚をもった体育会系の先生に「さてはお前、吸っているな⁉」ととっちめられたことを告げても知らんぷりで喫煙し続ける重度のヘビースモーカーと長いこと屋根を同じくしていれば、きっと僕でなくとも同時代的な高校生からは感覚がズレて人からおかしく見られるようになっていたかもしれない。それがたまたま僕だったというだけで、そこへいくとあくまでクジ運の問題だ。
ところで僕は、図書委員になったからにはいつものように本ばかり読めばいいというわけにはいかず、当然のことながらその仕事もこなすわけだが、主な仕事は誰か先生がレポート課題でも出さない限りはめったに来ない貸出受付や蔵書整理といったありきたりなことだらけなので、特にそれらはくたびれるほどのハードワークということでもなかったのだが……。
僕は隔月で刊行される校内「図書新聞」の作成に並々ならぬ情熱を傾注していた。その様子は、ミーハーでハイカラで垢ぬけた同級の女子高生たちからも「カガミさんって、ちょっと引くよねー」とたびたび陰でネタにされることの多かった委員長からすらも、「崎村くんの図書新聞にかける熱意、ちょっと引くレベルかも……」と言葉とは裏腹に大いに引き気味な態度で観察されてしまうくらいに、僕はそのデスクワークに意欲を燃やした。
没頭した。文字通り、明け方近くまで続いてしまう作業にそろそろ嫌気を覚えようとする僕の怠慢のカルマを、僕は洗面器いっぱいに汲んできた冷水の中に頭を没することによって円木警枕の蛍雪の努力へとそれを変えていた。尤も円木警枕だなどというと時代考証を思わせる円い卓袱台を枕に、酒瓶とともに突っ伏している親父の方こそが頑張り屋さんに見えてしまう日本語マジックがはたらくが、僕は寝もやらずに明け方近くまでそうやってまんじりともせず、親父の卑屈ないびきをBGMに、ひねもす寝ずの努力で毎隔月意欲作を仕上げてくるのである。しかしてその原動力は、ありし日の二宮尊徳とは異なり、決して褒められたことではなかったかもしれない。なぜなら、僕の書いた図書新聞というのは……。
図書新聞の執筆は本来ならば輪番制で、こればかりはサボることも「カガミさん、今日もまたよろしくね!」と言って他人に押し付けることもまかりならない避けがたき宿命として全学年・全クラスの図書委員に平等に、フェアに課せられていた義務だった。そのためにクラスの合議(ほとんどはクジ引きだが)で図書委員に選ばれてしまうことは割を食わされることと同義でもある。しかし中には、指定校推薦だとかAO入試だとかで大学を受験する生徒らが少しでも自己をPRする材料をもとめて率先してこの任務に励む者もいるが、それとて僕のように毎回引き受けたりなんていう熱意溢れながらに取り組んでいる様子まで偽ろうとするなかなか徹底して狡猾な受験生までは一人もおらず、また僕の筆がのりにのって文量がかなり厚くなってからは誰もがその執筆をやりたがらなくなり、卒業するまで筆者の欄は僕の独壇場だった。
もちろんそれは、僕なりに本を読むとはどういうことなのか、いかなる発見があるのかということを追究した内容にいつも終始していた。毎回何か必ず一冊の本を取り上げ、そのあらましを一通り書き終えた後で、簡単な感想を述べ、何かと比べたりしながら作品の魅力や素晴らしさ、問題点や矛盾、書き足りないのではと思える点などを含めて分析し、最後にまたそれらをひっくるめたうえでの感想を書いて、適当なオチを着ける……。
本を読むことに神秘主義のようなものを感じてこその行動事由と言って言えなくもない。僕は電車の中で本を開くという、通勤退勤途次のサラリーマンを見てさえ神秘めいた尊敬を抱くまでになったが、それがマンガ本を驚異の速さでめくっていく若者だったりするとたまらなくげんなりした……とはいえ後には、そのマンガを読む人の態度さえ美しく思えてくるようになった。何かを読もうとして、何か電車の中には存在が在りえない別なものを見ようとするスタンス……そういう読書こそが、僕の中にシンパ的な一部分をつくった。
読書とは何か……その語りかけを自分では全然哲学的だとは思わないし、むしろ自分の中で下される答えはいつも似非哲学で、どんな本を読んでさえ、どんな活字に眼を細めてさえ結局これが正しいに違いないという付和雷同が僕の性情だったから、図書新聞で書かれる内容はいつもその問いかけに始まり、その問いかけで締めくくられる至極平板なものだったが、周りからはどういうわけか哲学的で、思弁的な暑苦しい内容だと思われていた。ある日の午後、いっつも薄っぺらな短編しか読もうとしない僕に対して、いっつも分厚いハードカバー本しか読まない図書委員長が、これは彼女が僕に何か問いかける際におきまりの表情なのだが、さも不思議そうな顔をして訊くのである。
「崎村くんはさ、どうしてそんなに一生懸命になれるの?」
「なにに対してさ? 生きることに対してというのなら、僕は藁をも掴んででも生き延びてみせる所存でいるけど、そのことかい?」
「いや、そこまで深い質問をしたわけでは……」
彼女は苦笑しいしい、短く続けた。
「図書新聞。どうして?」
「どうしてと言われても、伝えたいからだよ」
「何を伝えるというの?」
「何を伝える?」
僕はちょっとだけ首をかしげた。
「そんなもの、本を読む楽しさとか、人生の奥深さとか、そういうありきたりなことに決まってるじゃないか」
……僕は自分でそう口にしておきながら、なんだか自分の思っていることそのままを喋った気がしなかったので、少なからず驚いた。グラウンドからファイっオー、ファイっオーの掛け声が響いてきて、僕の背にする窓をうち叩いている。
「違う、そういうことじゃなくて……」
彼女は逡巡していた。なにか言いたいことがあっても、それを口にすることはご法度だとか、そういうことをあらかじめ承知しているかのような、それでいていま言わなければどうしてもならないということまでわかってしまっているかのような、そういうジレンマを思わせるような顔つきだった。
「そういうことじゃなくて……私が言いたいのは、訊きたいのは、つまり、そういうことじゃなくて……それを、いったいどうやって伝えるつもりなのっていう……」
正直僕は、引っ込み思案で言葉少なだった内気な彼女が、まだ自分の中でも言葉としてまとまってもいないような、科学実験のスライムのような未完成な言葉を口からどろっとおもむろに吐き出してきたことに、いささかなりとも驚かずにはいられなかった。
「どうやってもなにも、だから図書新聞で……」
「……だって、あれ、崎村くん……頑張っているあなたにこんなこと私、本当は言いたくないんだけど、でも……崎村くん、図書新聞ね……」
……僕は待っていた、到着の遅い彼女の言葉を。彼女の速度で、彼女の言葉を待っていた。彼女の言葉――すなわちすれは、宇宙飛行士になることを夢見る少年(というのも、今やいささか古い譬えだろうが)に突き付けられる、無情の事実。
鋭利な刃物、言葉のジャックナイフ。僕は待ちながらにして、彼女の震える口から発される言葉をしかし知っていた。予感していた……否。
予知していた。おそれながらに、確信していたのだ。彼女の言いたいことは、痛いほどわかっていた。それこそ痛切に……手術台の上で寝かされ、これから開胸のためのメスが肉に入り込むのを待つばかりの身となった患者のように、僕は彼女の言葉を待っていたのだが、そのひんやりしたメスのような声を聞かずともわかりきっていた。
知っていた。ああそうとも、知っていたさ。僕の苦労がつまった図書新聞なんて、誰の眼も集めていないなんてことくらい、とうに知っていたさ……。
行く先々の廊下の隅に、ちょうどティッシュ紙を丸めたほどの、くしゃくしゃになった白いゴミがある。僕は自ら死地に赴くような足取りで、なにをバカなことを考えたものか、そいつを拡げてみて、もとがなんであったのかをいちいち確認するのだ……墓穴を掘るとはまさにこのことで、うちやぶられた図書新聞の一片であることを認めると、僕はたまらない気持になった。僕のサボり癖はある日を境に、授業から清掃へとシフトしていった。授業に出るようになった代わりに、僕は校内奉仕作業に一切の関心を示さなくなった。
そう、校内奉仕とされていることに関して、一切の興味を……僕は失くした。気付く者があれば、図書新聞に書かれる内容も段々と卑屈さを帯びていることを僕に直接問いかけもしたろうが……僕が箒や塵取りに寄せる関心ほどにも、そういった意見は聞かれなかった。
意見というか、感想。読んだればこその、述べうべく所感。
図書新聞は本来、担当の先生ないし事務の人が印刷したそれを職員室前にあるクラスボックスに収納し、各クラスの配布係がそれを放課後のホームルーム時間中に持ってきて運び、同級生に配られるというシステムで耳目に触れていた。しかし、誰に命ぜられるまでもなく僕が専横的にその執筆をやるようになってからは、紙幅も厚くなってきたので印刷も大変になったのだろう、出来上がったそれは職員室前のクラスボックスの中ではなく、単純に職員室前の大学案内だの文科系の催しだの、あとはどこぞで開かれる球技のお知らせなどのパンフレットが雑然とおかれたインフォメーションゾーンの末席に加えられるようになった。もちろんそれは、単に刷られる部数の減少をさすばかりでなく、教室で配られていた時よりもさらに人の眼に触れられなくなったことをも意味していた。職員室まえに通りかかる生徒なんて、進路や成績の相談でやって来る物憂い気分を山と携えた者や、部活で使う鍵だのを取りに来るだけの、図書新聞とは全然縁遠いような人たちばかりだろうし、そこを足しげくする教員たちとて、ほとんどが部活動の顧問の仕事とやらで忙しくしており、隔月発行の図書新聞なんて見向きもされていなかったろう。実際、最初こそ「崎村、お前の書く図書新聞なかなかよかったぞ!」と快活に褒めてくれた先生も、そのうちまったくその話題を上せることもしなかった。継続して読んでいてくれたのかもしれないし、あるいはそもそも一回目からして読んでいなかったのかもしれない。可能性は幾重にも思い浮かぶが、もし後者だとすれば、くだんの先生は僕に嘘をついたことになる。お愛想を言っていただけかもしれないが。ところでこの国には「嘘つきは泥棒のはじまり」だなんて諺があるけれど、僕の図書新聞にかぎっては、それを読みもせずに盗んでは野球の球のように丸めてバッティングアイテムへと変貌させてしまう元気のありあまった発明家たちの方がよっぽど正直者といえそうだった。みんなみんな、泥棒じゃないか……などと言ってしまうとエピメニデスのパラドックスに陥るわけであるが、はてさて僕は、それらのことをすべて承知のうえで、なおも図書新聞に僕の青春を鮮やかに燃やしながら、彼女の言葉を、身を切らんばかりにして僕を切ろうとする、粉骨砕身の諸刃の彼女の言葉を待っていた。
とどめを刺してくれるのを、期していた。
……しかし彼女の言葉は、僕が予想していた以上に弱く、僕の若気の至りをこっぴどくやっつけるためには不十分すぎた。もはや事実を告げ知らされただけでは、とても制動できない道を、常道とは逸脱したレール上を僕は歩んでいたのだ。
「図書新聞ね、誰も、読んでないんだよ……」
「うん、知ってるよ」
あっけらかんとそう応えた僕の言葉が意想外だったのだろう。彼女は口をあんぐりと開け、「じ、じゃあ、図書新聞、校内表彰されないかもしれないって、気付いて書いてたの……⁉」
と、三点リーダーの後に「⁉」が続く台詞というのが、か細い声ながらも彼女なりに驚いてみせたその度合いを視覚的に闡明しようとした苦心の技法なのか、はたまた語尾で息を呑むという高度な離れ業をやってのけた彼女にここでは敬意を表すべきか、判断に迷うが、僕は卑下と謙遜の相半ばするくらいの意をまぜていらえした。
「……いやいや、校内表彰だなんてとてもとても畏れ多いことだよ……そもそも僕は、功を挙げて名を成そうだなんてことを、これっぽちも企んでいたわけじゃないんだから……」
「でも、それって……じゃあ、意味がないってこと?」
「意味がない?」
「図書新聞、書いた意味……」
「僕が図書新聞に心血を注いでいたのは、校内表彰されるため? 一躍檀上の人と我をせんがためなのかい?」
と、皮肉めかせて他人事のように訊いてみるも、彼女はもどかしいのか、おしとやかな彼女に許される範囲内での渋面をつくると、
「……だって、そうじゃないと、みんなに伝えられないよ……本を読む楽しさとか、人生の奥深さとか、を……」
「……」
みんなに、伝えられない。
僕は押し黙った。思えば僕の方から切り出した四方山話を彼女が折りのいいところで(持ち前の控えめがたたって、それ以上言葉が紡げないだけだろうが)うちやめるということはそれまで何度も見られた光景だったが、僕の方で沈黙でもって彼女の語を継がずにうっちゃったのは、後にも先にもこの一回きりだったかもしれない。
僕はゆっくりと、ただでさえゆっくりとせせらぐ彼女の聞き漏らしようのない言葉を、それでもゆっくりと咀嚼しながら、頭でリピートしながら、その意味するところを考えてみた。
みんなに、伝えられない。伝えられないとは、いったいなんのことだろうか。もちろんその言いだしっぺは他ならぬ僕に相違ないわけだけれども、仮に僕が発した「伝える」という語彙を彼女がそのまま流用したにすぎないにしても、この場合、この時の場合、「伝える」は文脈が違うなと思った。それが使用されるシチュエーションが、場が、違う。
場違いなように伝わってくる。
僕はつらつらと考えてみるに、僕が図書新聞において「伝え」ようとしていた事柄と、そして彼女がそれを聞いて、それを解釈し、それを用いた彼女が云うところの「伝え」られないというのは、漠然とではあるが、方向性がまるで違うと、そう思った。僕の言った「伝える」は、言葉にはできないけれども、そういう意味ではないのだ。
なぜズレたのか。同じ言葉なのに、同じ言語の同じ発音なのに、なぜ意味が違ってしまうのか、そうしてなぜこの僕の耳に意味が違って聞かれてしまうのか。すりぬけるように――耳の穴から入って鼓膜を震わせうずまき管を何周もグルグルと巡り、眩暈のように僕の三半規管のまっとうなはたらきを鈍くさせたりと――そういう一連の手順をいっさい踏まずに耳朶をすり抜け、擦過してしまうかのようなその言葉の空疎な響き、うつろなどよめき……。僕はなにを言うでもなく、気取るわけでもなくちっぽけな背中で何かを語るようにしながら、彼女に背を向けた。少し思うところがあったのだ。僕はものを思うためには、親父のがなりたてるような卑俗な音声がないと沈思黙考できないようなタチだったので。
宿題……とはいかないまでも、まる一日そのことで頭を悩ましてみたが、ついぞその答えは見出せぬままに夜が明け、答えを持参せぬままに再び彼女と面会を余儀なくされる放課後がやってきた。二年生に進級してクラス替えがあったために、幸か不幸か僕と彼女が気詰まりなまま授業に出席するという事態だけは避けられたものの、正直新鮮味のない教科書どおりなテンプレート指導にはちっとも身が入らず、教師の伝えんとする声は単なるオブジェクトと化すなか、僕は気もそぞろに昨日の彼女の言葉を何度も反芻していた。そう、彼女の言葉。「伝える」というのは、僕を経由した言葉であって、もはや僕の言葉ではなかったということを申し添えておきたい。
しかしなるほどよくよく整理してみれば、あの時彼女が「伝えられない」と言ったのは、どうもうなずけるような気もしてくる。というのも、彼女はどうやら僕に図書新聞を書く事由を問うた際、僕が答えた「伝える」を取り違えて、それがまるで心か何か――小説やらを読んだ時に感じるであろう胸の顫え――それなるを伝えるためだと解釈してしまったらしい。とんだ勘違いだ。心なんてものは、物質としても概念としても、もはや成り立たない世にあって、それを伝えるなんてことは、証明しようなんてことは、よしんば名にしおう一流の著述家がここにいたとしても、諸手を挙げて仕事を放ることだろう。なればこそ僕だって、はなからそんな夢見がちな壮挙は抱いていなかった。
ではなぜ僕は、図書新聞を書くのか……その問いを僕に投げた当の彼女は隣のクラスで相変わらず今も浮いているのかもしれない真っ最中に、僕は自問自答するようにもう一度その問いと向き合っていた。僕のいう「伝える」というのは、誰かへの理解を前提とした用法などではなく、ともするとその執筆が僕自身に作用する何かをして伝わしめる、いわば反射的な、二重化された台詞だったのかもしれない。こういう言い方をするとまるで自分の無意識と格闘しているような、雲をつかむような抽象的詮議ばかりで自分でもうんざりするが、煎じ詰めればそういうことだろう。つまり、僕は咄嗟に彼女から、執筆という情熱の炎に理由もなくいたずらに榾をくべていただけの、まさにその理由を問われたわけだが、それに際して僕ははからずも「本を読む楽しさとか、人生の奥深さとかを伝えるため」と言い切ったのであるが、そうではなく、つまり僕の咄嗟の返答は僕自身をすら裏切る虚言なのであり、本当のところ僕は、それを書くことによって自分自身、安らぎを得るとか……いや、陳腐な言葉はつかうまい、はっきりと僕は、語弊をおそれず言うなら、そう、味わうために図書新聞を書いていたのだ。
図書新聞を味わう、だなどというといささか以上に奇天烈な印象を与えてしまいかねない剣呑なフレーズであるし、なにより「コイツの先祖はいったいヤギか」なんていうチャールズ・ダーウィンも真っ青な珍説まで登場しかねないからここに釈明するが、もちろんそれはものの譬えで――なんて言葉を尽くそうとすればするほどにますます野暮ったく思われてもき、まさしく僕のいうところの「味」は損なわれてくるのであるが――僕は図書新聞を書いたことでつながる世界、サイト上に表示されるリンクのように広がる天地というものを意識するにつけ、矮小な自分が飛翔するような、それこそ重度のドラッグ乱用者は自らを有翼のそれと勘違いして大空を羽搏けるものと過信すると聞くが、それに近いどころか、それをも超える、とても筆舌に尽くしがたいその種の浮遊の感覚を、読者ではない他ならぬ僕が味わえるということ。
それは単に、知識の集積とか、視野の拡大とかを指す言葉ではなく、純粋に、無為自然に充足するという意味での一人よがりな味わいだった。僕はこの味わいを専らにしたいばかりに、きょうびの高校生におけるケータイ機器のごとくして図書新聞の執筆を自家薬籠中の物としていたのかもしれない。さながら古びた救急箱に入れて持ち歩く常備薬のように、発作のたびに――書きたいという衝動がまさに発作的だった――それを呑み、味わうような、酔わせるような酒……それが僕にとっての図書新聞なのではないか。こう自分の不可解な行動事由を整理してみると、次のように、はじめて気づけることもあった。
ひょっとすると、「伝える」というのは反射的な用法で自分自身に伝える、というなんのこっちゃわからない複雑な二義的な意味などではなく、その通りの意味で、つまり彼女が用いた言葉のとおりの意味で、この種の感覚を人にストレートに伝えんがために、僕はかの文章をせっせと書いていたのではないか……時として没頭するほどの心境というものは、自分自身という、独我論的にみてこの世界で唯一確信できる揺るぎなき真の命題にすら、不透明な膜を張ることもある。そういうのを、人は心と呼ぶのであろうか。そういうものを交換し合おうとするのであろうか。考えても、僕にはわからないことが多すぎた。考えすぎるほどに、疑問と不可解は膨れ上がる一方だった。
さらばとて僕は、彼女に歩み寄ることを決心した。といってこれは、恋路に積極的になろうとしたわけではない。フェアであることを己と、そして彼女に課したにすぎない。僕は常に、彼女とはあの図書室のカウンターと窓辺との距離でありたいと望み、それ以上もそれ以下もないと考えていた。ゆえにクラス分けというよんどころない事情があったとしても、その距離が物理的に阻害されるというのは耐え難かった。黄金比的な神秘の距離をかき乱されるのが、我慢ならなかった。僕はできることならば、さるマンガに出てくる熱血教師のようにクラスを隔てる壁をハンマーで取り壊したく思ったが、それを実際にやってしまうのは、あくまで妄想の中だけにとどめておいた。代わりに僕のしたことといえば、卑小ながらケータイのアドレスと番号を交換したにすぎない。しかしそれで、隔てられた距離の埋め合わせは済んだ。
不即不離、つかずはなれずの美学。僕は彼女とのその距離すら、いっそ味わい深いもののようにとらえていたのだった……。
「昨日の答えなんだけどさ」
「え?」
今の今まで忘れていたのだろうか。所有するケータイまでおしとやかそのものだった彼女は僕の中のイメージそのままに、キョトンとした顔で僕を見返してきた。どこか風呂上がりののぼせたような風情がしたが、忘れているならばといって先延ばしにした回答をしてやらないのも潔くない。僕は僕自身が図書新聞にかける熱意――その由ってきたる訳を、彼女にだけ伝えることにした。もっとも言葉はじれったいうえに、先日の「伝える」のミスリードがあったように、まれに食い違うことがある。齟齬がでないように、へたに勘ぐられることのない言葉を選ぼうとすれば、自然と胸中のつれづれは要約されてしまい、そうしてそれが本来持つべきだったはずの醍醐味も、冷めてしまったようにどこへか遠のく。音楽室から聴こえてくるマーラーのアダージェットが意味深な旋律を泳がせながら、僕の言葉をリズミカルに脚色する……。
「僕は好きなんだ、図書新聞を書くのが。そうしてカガミさんと、ここでこうやって話しているのが、たまらなく愛おしいんだ」
……きっと両者の間になにか由々しき食い違いがあったものだろう。歯の浮くような、食い違いが。
彼女は烈火に包まれたがごとく、顔を猛烈な勢いで真っ赤に染めると、何を言うでもなく、一目散に図書室を辞した。急に具合でも損ねたかして、手洗いにでも行ったのだろうと呑気にかまえていたのだが、その日結局、彼女が当番として自らを戒めていたカウンター業務に戻ることはなかった。これは僕の知るかぎりで、彼女が初めて当番をサボった日だった。
彼女を待っている間、僕は日がな一日――といっても、もう日暮れ間近だが――いつもは彼女の特等席として、僕の眼には彼女のパーソナルカラーでくっきり塗られたカウンターに腰かけ、普段は読まない類の本を斜めにすっとばして読んでいた。そうしていた理由は二つある。一つには、そこが窓辺ではないこと、もう一つには、カウンターの作務机のうえに彼女が置き残した文庫本が何冊かひろげられていたから、それを手当たり次第に、まぁ時間はかぎられているから読みこそしないものの、何の気なしに、ぱらぱらとページをめくっていたのだ。不意にそのうちの一冊がどうしても苛烈な色でもって僕をむかえた。といってその文庫本は、何も鮮明な色でもって見る人の気を惹こうと工夫が凝らされていたわけではないのだけれども……梶井基次郎の『檸檬』と題された短編集だった。僕はなんだか薄気味悪いような予感がした。予感というか、そう、予知。なんだか彼女が慌てたようにして部屋を出て行ったきり戻ろうとしないのは、僕にこの本を読ませようという魂胆からなのか……と思えてしょうがないのだ。平生自分から主張することの鮮少な彼女のこと、いくらここ一年ほど気を許した仲とはいえ、いつも読む本のジャンルで食い違ってばかりいる相手に自分の趣向をオススメするのはなかなかどうして気が咎めるものだろう。彼女の積極的すぎるほどに消極的な性格を考えれば、むべなるかなである。仮想しよう。脱兎のごとく教室を後にして、その後荷物を取りに戻らないとなれば、さて困ったものと僕は心配になりだす。といって図書室を空にするわけにもいかなければ、どうすることもままならない。となれば、後は彼女の帰還を待つのみばかり、ここにかぎって盗難の心配はなくとも、荷物番は僕がせずばなるまい。そうなると、いやでもカウンターに散乱する文庫本が眼についてくる、という次第で……。
そこまで考えたあたりで、いやいやそれはさすがに妄想のしすぎかとも思いなおす。そもそも彼女は、僕に読んでほしい本が何かあるのだとすれば、やはり直接「これを読んでけろ」といって小悪魔的にマンガチックな舌を突き出しながら真正面から言ってくるはずだ。相手が僕以外の、それも男子ともなると気恥ずかしさと人見知りゆえにそんな簡単なこともしあぐねるのだろうが、少し過剰な自負かもしれないが、この僕を相手にたじろぐ彼女でもあるまい。少なくともその信頼は勝ち得ていると、僕は是が非にでも思わないではいられなかった。
梶井基次郎の小説だが、とりあえず僕は表題作の「檸檬」だけをそこでちょっぴり舐めてみた。ごく短いお話だったので、時間をとられたというほどの気はしなかったが、しかし読み終えてなお彼女が帰ってこないという事実の方には天井近くの時計を見上げてみずにはいられなかった。疾走かつ失踪からまだ十分と経っていないのに、たまらなく待ちわびしい。僕はもう一度、今度はぱらぱらと流し目で「檸檬」を読んでみたが、そのセンセーショナルなタイトルにはもしかしたら口数の少ない彼女一流の示唆がはらまれているのではと、またぞろくだらない妄想に時間をつぶそうとしていた……。
彼女はこれらの本を置き去りに、なんの脈絡もなく図書室を辞した。直前までのその様子から、何か急用を思い出したというでもなく、突然のお通じに衝き動かされた……というのは推測といえど、いやしくもレディに対して勘ぐってはいけないことだろうから、まぁ不意のテレパシーを受信して驚いたくらいにしておこう、ともかくそんな感じで取り残された僕がここを離れるわけにもいかないことは、もちろん彼女とてスポーツ校といえどそれなりに偏差値もある高校に通っている女子高生、人並みに口は利けねどバカでもあるまいし、そんなことは百も承知だったろう。ならば僕に仕事をほっぽりなげて全部押し付けるような心象の持ち主こそが彼女の本性だったかといえば、それは限りなく否だ。僕が図書委員に推挽されるよりはるか以前から、彼女は一度として図書委員の仕事をおざなりにしたことはない。それは僕が保証する、尤も僕程度の折り紙やお墨なんかもらったって、彼女が少しも喜ばないのは知ってはいるけれども、彼女は本来、図書委員としての仕事を真の意味でまっとうするためになら、普段の授業でさえサボってでもして異端者である僕の応対に当たろうとしていたほどであるのだから。ならばこの、彼女が放課後の図書室にいないという動かしがたい事実をどう説明してくれよう。僕は悩んだ。悩んだすえに、ヒントをもとめてやはり「檸檬」に逢着した。表紙カバーのない裸の状態で置かれた文庫本には、イラストも色もへったくれもなかったが、やはりレモンと聞けば誰しもあの黄色くて酸っぱい柑橘系の紡錘形が眼に浮かぶのではないだろうか。そうしてそのタイトルは、シンプル・イズ・ザ・ベストだった。奇抜というでもないし、ありきたりでもない、それはシンプル。いってみれば、あるがままだ。そのあるがままのタイトルを見て、あるがままに彼女のいない図書室で初めての時間をすごす現実を実感するや、僕はどうしても残された「檸檬」の示唆にミステリー小説を読む時のような熟考のステップを踏まずにはいられなかった。この小説において、レモンという一種の作品内ガジェットは、最後に爆弾として美術棚に設置されていた。つまり、置き去りにされるという点で、今の状況は小説の中身と酷似していた。ということは、まさか彼女が本と一緒に置いて行ったスクールバッグの中には……爆発物が仕組まれているだなどという短絡な思考の方がむしろぶっとんでいて、確認のためにもしも僕が彼女のカバンのファスナーに手をかけていようものなら校内一の変人を通り越して真の意味で変質者になっていたかもしれない。誰が見ているというわけでもないが、他ならぬ僕が見ていた。しかしと思って、今度はとりとめもない妄想の矛先をそのバッグの中身へとむけてみる。細い肩にかけるためだろう、随分と小ぶりなサイズなので、内容の限界は底がしれていたが、はて彼女はその限られた容積をどう工夫して、いつもこれだけの本を持ち歩くのだろう。教科書に筆記具、それから昼食の弁当箱と、それだけでもかなりかさばるというのに、この収納というよりもコケティッシュなファッションのためにあつらえられたかのような容れ物ではとうてい納まりきるまい。いわんやハードカバー本をや。なにか某マンガのロボットのポケットの秘密にせまる心地して、僕が常にない興奮もあらわにその男子禁制の匂いがする魅惑のカバンへ手を伸ばそうとすると、
「おーっす、崎村! 邪魔すんぞ!」
と快活な声が静寂のしじまを引き裂くようにして入ってきた。
「おっじゃまー。お、あらま珍しい。今日は崎村クン一人なんだ。カガミさんは具合でも悪いの?」
「え、カガミって、あの影薄い子? 今日の授業に出てなかったっけ?」
「いや、俺憶えてねぇし。サヤカちゃん、体育でペアなんでしょ?」
「うん、そうだけど……あんまり具合悪そうには見えなかった……ような?」
「あっれー、歯切れ悪い言い方だなー」
「だってあの子、毎回ペアになってあげてるのになかなか打ち解けてくれないんだもん。よくわからないよ」
「うっわ、サヤカひっど! 同じクラスの友達にそんなこと言っちゃうんだー、後で本人に言いつけてやろ~」
「やめてよ、もう……でも、本当に具合悪くしてたら私だって気付いてたよ。同じ女の子なんだもん、そういう日かどうかも見てればわかるし……それでもそう見えなかったんだもん」
「そういう日って、どういう日?」
「男は知らんでよい」
「んだよ、それ」
と、常にはない男女の溌剌とした声が図書室の空気をかきまぜた。僕は突然のことに驚き、彼らに入室者の名簿を差し出すという平常業務をつい忘れていた。相方がいないと、僕はどうしようもなく腑抜けてまともに仕事もこなせないのだ。
「なぁ崎村、図書室の看板娘ことカガミさんは早退したのか?」
と、中学校来の友人の一人が不審そうに訊いてくるのを、僕はそれ以上に怪訝な眼をして迎えていた。
「……よくわからないけど、僕の方から何をしたわけでもないのに、やにわに怒ったように顔を赧めて、どっかに行っちゃったよ」
僕がそう言うのを聞きながら、彼らはずかずかと図書室を進み、一人の中心的だった女子生徒が「ここにしよ」と言うと、太い色とりどりのマーカーやらカッターやらを室内中央の机にどかんと置き、小脇にしていた大きな紙をテーブルクロスのようにそこへ拡げた。
いったいなにが始まろうとしているのか、僕が興味と疑念の半ばした眼を向けていると、
「転校する部活の先輩のために、みんなで一言寄せ書き書こうってなって……けっこう場所とるから、図書室を使わせてもらおうって」
集団の中でひときわ眼を惹く、それは女生徒だった。髪は校則で禁じられている茶髪を、シニョンというのか団子状に結って、明るい色のカーディガンを着こなしていた。決して濃くはないはずのナチュラルメイクが、なぜか僕の眼にはうるさいように見えた。活字に眼を細めすぎていたせいかもしれないし、あまり暗いところで眼を酷使していたせいかもしれなかった。
「ていうかさ、ここ暗くない? 崎村クンよくこんなとこで長時間読書できるよね、すごくない?」
少し離れた一団の方から別の女子生徒の声がそう言うのを聞いて、僕は「ごめん、いま点けるよ」と叫ぶように言ってから立ち上がり、カウンターのすぐ横にあったスイッチを入れた。
ばちん。いつもは光ることを忘れていた蛍光灯もこの時ばかりは饒舌だった。連続的な光明のもと、わいのわいのとやかましい団体の声が室内のいたるところ、棚という棚、蔵書という蔵書に跳ね返って騒いでいた。
「迷惑だったかな」
と、なぜか彼らと距離をあけ、未だに僕の目前に立ち尽くす女子生徒がぎこちなさそうに僕の顔色をのぞき込んできた。頭上の電灯がぶっぶっとハエの激突するときのような息苦しい音をたてている。
「そんなことはないけど……おおいに大歓迎とは言い難いね。ここは本来、騒がしくするようなところじゃないから」
「そうだよね、ほんとにごめんね。どうしても他に場所が見つからなくて」
と、口では言いながら本当に申し訳なさそうな素振り一つ見せることなく、彼女は続けた。
「カガミさん、急に飛び出してっちゃったの? 心配だね」
僕は彼女の顔をまじまじと見ていた……どうも彼女の方が背丈はいくらか高いようで、見たというよりも、それは見上げるといった方が適当な不甲斐ない格好になってしまったが。彼女の容姿には、いささか見覚えがあった。といっても、同じ高校に通う学生同士なのだからそれは当然見知った顔ということになるわけだけれども、そうではなく、名前や行状やなんかはとんと聞かないが、どうも朝がけの校門前とか帰りしなの下駄箱前だとかで何度か見かけて、素通りしていたような……そういう類いの女子生徒だった。普通ならそのような生徒のことなんて雑踏を行き交う通行人と同様ほとんど記憶に留まることもないのだろうが、いかんせん彼女の容色が十人並を抜けたいわゆる美人の部類に入っていたために、どうも我知らず記憶のコルクボードに人相画を鋲していたものらしい。初めて言葉を交わしたという気がしなかった。むろん彼女の方では、僕なんかのことはまったく露ほどにも関心を寄せていなかったろう。彼女にしてみれば、僕という存在はただの寂れた図書室を守護するガーディアンにすぎず、いつでもどこにいても友人を数名うち連れて、賑やかな輪の中で快活な花を咲かせている彼女と対照的に日陰者な僕なんかが本来こうして口を利いているのもおかしいくらいなのだ。距離があまりにも遠すぎた。であるから、僕は初めて言葉を交わす相手が先輩なのか後輩なのか判別つかない時に感じる二年生に特殊な緊張をひっさげながら、彼女の名を問おうとしたところへ、
「崎村くん、」と他ならぬ彼女から名を呼びかけられてしまえば、いまさら名を問うのも失礼な気がしてきたので僕は口から出かかったそいつを飲み込むはめにたちいたった。……いったい彼女がどうして僕みたいな校内の光を浴さない人間の名まで知っているのだろうか。注目を浴びる日なたの生徒というのは、どうでもいい瓦みたいなやつの名前も全校生徒の名と顔と共に一様に知悉しているとでもいうのだろうか……。
とはいえ僕は、僕のことを崎村くんと呼ぶ彼女が、よほどフレンドリーな人間でもないうえは僕より年下という線はないだろうと考えて、ほっと息をつかないでもない。まぁ、たった一年しか違わない相手に対して先輩ヅラ吹かしたり、お愛想を言ったりなんだりし、高校二年生という中間の肩書は、なんともふわふわとした、どっちつかずの生きにくいものだった。対応のテンプレートマニュアルが是非とも欲しいと思えるくらいに。
ともあれ、彼女が僕の名前を知ったのは、推理するまでもない、ついさっきのことだろうとも思う。中学校来の僕の友人と同じ部活動にマネージャーとして属するのだろう彼女は、たびたび彼らから図書新聞なんていう日の目を見ない舞台に命をかけている変わり者として僕の評判を聞いていたろうし、入室してくるなり「崎村」と僕の名を呼ぶ声を聞けば誰でも僕のことをそう呼べるに違いない。
そんな彼女は、根が社交的なのだろう、僕なんかとは初めて声を交わすはずなのに、少しも屈託なく問いかけて来る。ぐいぐいと、押しかけてくるように、積極的に。和光同塵、程度を僕に合わせる。
「崎村くんはさ、カガミさんの彼氏なんでしょ?」
「……どこでそんな根も葉もない風評を聞いたんだい?」
「あれ、二人は付き合ってないの? いっつも二人で、放課後は図書室にいるじゃない。あれってイチャイチャしてたんじゃないの?」
「……僕のこと、知ってるの?」
「いやだなぁ、もう。あたしたち同じ学年の友達同士じゃない、知ってて当然でしょ」
発された言葉の、意味深な響き。彼女はさもなんでもないことを口にしたという表情で、僕の前に何が面白いものか、にっこりとして佇んでいた。
友達、なんだそれは。僕には本気で、その言葉の意味がわからなかった。僕とこの子は、いったい友達なんだろうか……名前だってまだ知らないというのに。友達とは、なんだろうか。どういう距離感のことを友達と呼称するのだろうか。僕は覚えず、電灯によって隅々まで覗けるようになった室内を遥かに見渡してみた。そんなに広くはない教室だったが、それなりに多い蔵書を陳列する都合上、奥行きは確かな部屋にあって、カウンターから窓辺までの一直線を思ってみた。もしかすると、その距離のことをこそ本当は友達というのかもしれない。しかしどういうわけかカウンターの向こう側にいる僕へとキリンみたく首を伸ばしてパッチリ開かれた瞳をくれる彼女は、自然なものと遜色ないアイラインによって年頃な可愛さが引き立った顔とつくられた科のような声で自信満々に「友達でしょ?」とさらに踏み込む。踏み込むというか、強制だった。正直、こういう向きで、こういう風に確認をとられてしまえば、頷く以外に正しい道はないように思われた。
僕は拍子抜けしたような気分だったが、直上の電灯がばちっとまた一つやる音を聞くと、まぁ同じ学年だというならたしかに友達といっていえないこともないだろうと光に包まれたような心地して、「うん、そうだね」と特段に思うこともなくうべなっておいた。彼女はやはり、にっこりしていた。いっそ可愛いとさえ思えてしまうほどの笑顔。
グループの方は教室の中央に集まってミーティングを開始していた。あっちからもこっちからも椅子という椅子を引っ張り出し、しまいには「崎村、これも借りんぞ」といって、僕の許可なんか聞きもしないうちから図書委員用のパイプ椅子までひったくる始末。僕は猛々しい盗人でも見るような眼で傍若無人きわまる彼らを見ていたが、彼ら以外に人はいないわけだし、本当に傍らに人がいないならそれは傍若無人ではなく無人だ。誰が座ることもない物をくすねたとて、それは横領にはあたらない。この明るい世界には、泥棒はいない。
「で、どうなの? カガミさんとは、付き合ってるの、付き合ってないの?」
「なぜそんなに食いついてくるの?」
「だって私、体育の授業でいつもあの子とペア組んでるんだもん。なんというか、子の成長を見守る親の心境ってやつよね。ほら、カガミさんってああいう子でしょ? 見ていると、なんだか危なっかしくて……気になっちゃうのよね。あまり立ち入るのもどうかなとは思うけれど、プライベートはどうなんだろうとかって。崎村くんみたいな人が彼氏だったら、私も安心できるんだけどな」
「付き合ってないよ。せいぜいがさっき、彼女のナンバーをゲットしたくらいで」
「ふぅん、そうなんだ」
彼女はそう言って眼を泳がせると、依然として笑みを見せたままなにやら考え込むような間をあけていた。
「……ん、さっき? さっきって、いつのさっき?」と、ことさらに眼を丸くして僕の発言の一部をとらえた。
「さっきはさっきだよ。君たちがやってくる前、彼女が部屋を出ていく、その直前のことだよ」
「……顔を真っ赤にして出てったっていうさっき?」
「うん、まぁね」
「それじゃん! モロにそれじゃんよ! 明らかにそれが原因だよ、カガミさんが出て行ったのは!」
と、あたかも一部始終を見ていたかのごとく、彼女は断定的な語調で言う。
「……つまり、僕がメールアドレスや電話番号を無理に聞き出したのが、まずかったということなのかな?」
この辺りは、悔しいかな女性にしかわからない機微なのだろう。僕が意図せずした行動のどれかが、彼女の逆鱗に触れてしまったということなのか。それを探る意味で問いかけたのだが、対面の少女は顔に笑みをたたえたまま、しかし難しい顔をしていた。
「カガミさん、たぶん崎村くんのこと好きなんだと思う」
「それは……」
どうかな、と僕は思う。あまりに短絡な妄想ではないかと。僕の言葉から知れることを直結しただけの、いたり詮索ではないか。もとより妄想の質、その限界の深さにおいて僕はこの少女と競う腹積もりは毛頭ないのだけれど、しかしその場にいたわけでもない人間に、いったい人の機微のなにを知ることができるだろうと、思わなくもない。
尤も、岡目八目という謂いも世の中にはないでもない。当事者たる僕の妄想がそこへ及ばなかったというだけで、何も見ていないかのような彼女の客観からでしか見えてこない事実も、あるのかもしれなかった。まぁ仮にそうなんだとしても、あの華奢で繊細で自己主張という概念から遠くに在るような野暮ったい眼鏡の図書委員長が僕に恋してるなんて、そんなことを確信するナルシスト野郎に自ら堕することもあるまい。僕はあくまで可能性の一つとしてその説を聞き流すことにし、「それは考えすぎじゃないかな? 彼女にかぎって、僕みたいなへんてこな男子に恋するなんてまずないよ」と、謙遜からではなくそう言ったのを、しかし彼女はそうは受け取らなかった。
「ううん、そんなことない! カガミさん、絶対崎村くんのこと好きなんだってば。二人はとってもお似合いだよ、あ、なんなら私、応援するよ。体育ではペアだから、それとなく崎村くんの話題持ち出したりして」
「いや、そこまでしてくれなくても……」
「するよ、するする! 絶対するから! ……あ」
と、なにをそんなに盛り上がることがあるものか、カウンターに身を乗り出した彼女は、さきほど僕が内容を開陳しようと手を伸ばしたバッグに眼を留めて、
「カガミさんのバッグだ。クラス同じだから、特徴はわかるよ。それカガミさんのでしょ? あの子、荷物置きっぱなしにして行っちゃったの?」
「して行っちゃったの」
「うわ、もう確定だよ、脈ありだよ崎村くん。荷物まで忘れてっちゃうなんて、よほどテンパってたんだよ、うんうん。あなたはメアドだけじゃなくて、彼女もゲットすべきだと思うよ」
僕はなにも言わなかった。なにも言えなかった。電光によってすべてが明るみにさらけだされる室内において、僕の言葉は光に酔っていた。
「この本も、カガミさんの?」
「カガミさんの」
「なんて本?」
特に興味もなさそうにして、彼女はさっきからいろいろなことをずけずけ訊いてきた。僕は気にした風もなく、なんだか僕の言葉を欲しているかのような彼女の追及に、とりあえず応接した。
「檸檬」
「レノン?」
そして擦れ違った。どこかで伏線が張られていたお約束のように、お定まりのように、僕たちはいつもすれ違う。夕暮れのあやふやな光が電光に頭から打ちすえられ、床に叩きつけられる。その種の色合いがいつも僕らを隔てていた。二人の間を、ビートルズの無音の調べが揺れる。
「伝記かなにか? 知らなかったぁ、カガミさんってビートルズが好きだったんだ」
「あ、いや、ジョン・レノンじゃなくて――」
「ちょっとサヤカ、みんなでレイアウトの案出し合ってるさなかに、一人だけ抜けないでもらいたいなぁ」
と、嫌味ったらしく聞こえるような声が割り込んできた。見ると一座の中心的な垢ぬけた少女がつかつかとこちらに近寄ってきていた。
「あ、ごめんごめん、ほら、あたしカガミさんと授業でペアでしょ? だから彼女のことについて権威であらせられる崎村大家から、いろいろとご指南してもらってたの」
「なにをよ」
「彼女についてのもろもろを」
ね、と言わんばかりの流し眼を僕にくれると、それきり僕が何かを言う前にそそくさとみんなのところへ向かって行った。
「……崎村クン、よくよく気を付けることね」
と、これは彼女と入れ替わりにカウンターへやってきた少女の言。僕は何に気をつけたらいいかわからずに、頭頂の蛍光灯がそろそろ切れかかってきているフィラメントの熱を思いながら訊こうとするさきから彼女は声をひそめて告げてきた。
「サヤカのやつ、崎村クンのことマークしてるから」
「……まさか」
僕は何がなんだかわけがわからずにそうもらした。
「まさかなわけがない」と彼女、さらに声を低めて言うに、
「部室や教室でやれば済むものを、わざわざ図書室くんだりまで足を運んだのにはなにかわけがあるとは踏んでたけど、今ので確信したわ。サヤカのやつ、間違いなく崎村クンを狙ってるね。それとなくカマかけてきたりしなかった? 水を向けてきたり?」
「さぁ、どうだったろうね。なんにしても、考えすぎだと思うよ? 彼女……サヤカさんっての? ほんとうにアズサさんとの接し方に困ってて、それで僕に近づいただけかもしれないし」
彼女もまたカウンターにずいと身を乗り出してきた。
「甘いわね、崎村クン。そのマスクのように甘いわ」
「マスク?」
「どうやら自覚がないようだから教えてあげるけど、あなたって女の眼から見て、結構なもんよ」
「はぁ」
「イケメンってやつ」彼女は僕の反応が期待していたのと違っていたので、面白くなかったのだろう、それを言えば伝わるんじゃないかという語気でそう口にすると、顔をさらに僕に近づけて一層声に気をくばった。
「正直、あたしでもキープしたくなるくらい」
「はぁ、まぁ」それを告げられたところで、僕にはうぬぼれるくらいしか抜け道がないように思えたので、なおのこと彼女にとって面白からぬ生返事をする。彼女は困るだろうが、僕だって困っているのだ。いったい、それを僕に伝えて僕にどうしろと彼女らは言おうとしているのか、さっぱりわからなかった。
「サヤカのことだもん、ほっとくわけないなと思ったら案の定手を出したよ。そもそも寄せ書き書こうって言い出したのもサヤカだったし、思えば先輩もいいように利用されちゃったわけね」
しみじみとそう言ってのけるこの少女に対し、僕はどう応えたものか適当な言葉を探していると、
「ちょっとちょっとちょっと! あんたなに一人だけ抜け駆けしてんのよ⁉」
「やべ、ばれた。それじゃね、崎村クン!」
と舌を突き出すように言って、もと居た場所に取って返した。僕から少し離れた陰で、二人の少女が軽く押し問答をしている。僕は呆けたように、男子だけでかたまって寄せ書きについての意見を出し合う彼らを見つめていた。低められていても、口さがない鈴を転がしたような声が、どうも耳にかしましい午後のひと時であった。
さて、そこで僕は、寄ってたかってメッセージの文句について、かぶらないように相談している彼らを後景に、誰かに何かを伝えるということの意義について考えてみる。
僕は誰かに、果たして何かを真の方まで伝えることができるだろうかと。
結果からいえばもちろんそんなことはできるはずがなかった。第一僕は既に(その後も継続してはいたものの)図書新聞を通して何かを伝えるということについて苦い蹉跌を味わっているのだ。今の僕に図書新聞以外の表現方法がないうえは、いまさらどんな手段を弄すれば誰かに何かを伝えるということができるだろう。
はからずも、僕のことが好きだという説が浮上した、図書委員長についてもしかり。まことにそうであったならばそれはいじらしい、なんとも身に余る有り難い話ではあるけれども、しかし大いに残念な気もしてくる。それは僕と彼女との距離の消失を意味してもいた。そしてそのことを、彼女に対して正確に伝達する術を、僕はもたなかった。
僕はここに、今一度妄想してみよう。彼女が僕に、面と向かって告白してくるシチュエーション。なんとも女々しい、男の欲にまみれたいやしい目線からだと非難もされようが、これが妄想なんだからしかたがない。降りしきる雨の中、僕は彼女から想いの丈を打ち明けられる。どうぞ付き合ってけろ……どうでもいいことだが、どうして僕の妄想の中ではいつもステレオタイプな田舎娘として彼女の声は再生されるのだろう。全然都会人なんだから言葉が訛りようはずはないのに。まぁいい、細かいことは気にすまい。とにかく僕は、ずぶ濡れになりながら、傘もささずに篠つく雨の中を突っ立ちながら、彼女と対峙するのだ。そう、対峙するだけだ。彼女から気持ちを真正面から打ち明けられたとて、僕はそれにどう応じたらいいのだ。それにありがとうと添えて頷いてしまえば、僕はたちまち彼女との距離を失ってしまうだろう。いやだった。僕は彼女と、もっと美しい関係でありたかった。据え膳くわぬはなんとやらとはいうが、僕はよしんば恥をなめたとて、そんなありきたりな、彼氏彼女の関係などはまっぴらだった。なればといって一も二もなく峻拒してしまえるものでもないからこその浮き世なのだ。私のことが嫌いなの、彼女はそう問うかするだろう、それに僕はいいや、そんなことはないと真面目に答えてみせる。ならばどうして断るのかと詰め寄る彼女に、僕はなにほどのことも言えずにそこでつくねんと力なく立っているのだろう……そんな光景が眼に浮かぶ。僕は彼女との関係を、その距離を壊したくはない。絶妙な距離、至妙な距離……それを保っていたかった。そして、ここに及んでなおそれを遂げるには、肯くにしろ、否むにしろ、いずれにしても足りなかった。真意が不足していた……伝わらないのだ。
なにをどうすればいいのか……結局妄想に時間を費やしても僕は答えを見つけられぬままに日は没し、僕をこんな風な境涯におとしいれた元凶である二人の女はうーんと伸びをして口々におつかれーと言い合うそばから僕の許へやってきた。
「ありがと、崎村クン。おかげで助かった。金欠だったからファミレスにも行けなくってさー」
「べつにかまわないさ。どうせ誰も来ないんだし。なんだったら片づけ、僕も手伝おうか?」
「いいって、べつに。それくらいは野郎どもにさせておくから」
と、語尾に音符がつくほどに明るく言うと、彼女らはすましたように顔を見合わせ、二人だけに通じる目顔で意思を疎通していた。なんだか釈然としない心持がした。からかわれているようで、いたたまれなかった。
「ねぇ、カガミさんに電話したの?」
「電話?」
思いもかけないようなワードだったので、頓狂な声を上げてしまった。片づけに奔走する男子生徒らが僕の方を見た。
「交換したんでしょ、カガミさんと連絡先。だったらホラ、荷物のこともあるし、居所割り出さないと」
「そっか……すっかり失念してた」
「まっすぐ家に帰ってるといいんだけどねぇ……最近はなにかと物騒だから」
「そうそう。あたしなんてこの前、変な男の人に声かけられたしねぇ」
「うわぁ、でたよ……サヤカ一流の自慢話。どうせまたナンパされましたってんでしょ?」
「もう、自慢じゃなくて、ほんとに迷惑してるんだからね。あーあ、誰か頼りになる男の人がついててくれるといいのになぁ」
僕は急いでブレザーの袂から僕の端末を取り出すと、さきほど入手したばかりの、アドレス帳に登録されてほやほやの彼女の番号をコールした。
ぷるるるる、ぷるるるるる。
ところでこの電話は、ちゃんと彼女の許へ届くのだろうか……僕は現代文明の利器たる携帯電話の通信システムに疑いを容れるつもりはないが、しかし、たとえば僕が彼女の番号をコールしても、それを受けた彼女の端末は軽快な(かどうかは知れないが)メロディを彼女の耳へ届けることなく、くぐもったような音をこのカバンの中からさせてくるかもしれないのだ。
荷物は全部置いて行ったのだから、ケータイだって忘れて置いていてもおかしくはない。
『……』
と、声はなかったが、彼女の弾む息遣いが回線を飛び越えて聞こえてきた。よかった、どうやら携帯電話だけは僕のように制服ブレザーに入れるなりなんなりして常に持ち歩いていたらしい。僕はケータイという科学文明の粋によって彼女とのつながりを保てて安心するというよりも、それを衣服のように常に持ち歩く習慣――風習といってもいい、そちらの方にむしろ感心した。
話し相手が目の前にいない淋しさは、その伏し目がちな、眼鏡の奥の眼差しを思うことによって僕はお互いの距離を持ち前の想像力で補う。
「もしもし、崎村です」
『……はい』
「もう図書室を閉室しようと思うんだけど、荷物は取りに来れる?」
『……』
僕はなぜ彼女が僕に一言もなく駆け出したのか、そんな野暮なことは問わなかった。もちろん、彼女が僕を好いていて、なんていうとんでもない説を真に受けたわけでもない。その提唱者は僕の前で、眼を爛々と輝かせている。二人して、堂々と盗み聞きしている。いや、忍んでいないからそれは盗み聞きですらなかったかもしれないが……。遠くの方で、地鳴りのようにブラスバンドの吹き鳴らす楽器の音がかすかに聴こえてきた。そろそろ帰り時だ。
僕は気持ちを切り替える意味で、ぱちんと電気を消した。室内には一気にどんよりとした闇がたちこめた。きゃっ、真っ暗と前方より声がする。まだ荷物をしまい終えていなかったものか、真ん中の方でも男子たちのおいおいそりゃないぜ崎村という批難が飛んできた。いつもならばそんなに暗くはならない時間帯だったが、明暗順応というのだろう、人間の部分としての瞳孔は闇と光の転調に即座には対応できない仕組みになっている。急に電気が消されたことによって、誰も彼もが前後を失う不安の中を泳いでいた。
僕は電話相手に提案を持ちかける。
「ちょっと君に伝えたいことがあるんだ。明日の朝……せっかくの休日だけど、学校に来れるかな? 今からじゃ遅いし、僕はきみの家を知らないから、荷物は明日渡すよ――」
――安心して、僕は泥棒じゃないから――嘘つきじゃないから。
正直な心で、君と向き合いたいから。
『明日……朝……?』
「明日の朝」
『……伝えるって……?』
「どうしても伝えたいことがあるんだ。来れるかい?」
彼女はうんとは言わなかった。ただ、申し訳程度に聞こえてくる呼気のリズムは、否やのあろうはずもない顫えを帯びていた。
「じゃあ、待ってる」
そう言って、僕の方から電話を切ると、待ち構えていたかのように二人の女がかまびすしく詰め寄ってきた。
「告白ですか! 明日告っちゃうんですか⁉」
「さすが色男はこうと決めたら決断が早いですねぇ!」
僕は電気も消えて室内は真っ暗になっていたので、茶化してくる彼女らの言葉には取り合わず、いそいそと机上の本をカバンにしまい込んでいた……それらの本は僕のカバンに納めておいた。あまりの厚さに、常にないほど僕の荷はぱんぱんに膨れた。いっぱいいっぱいだったのだが、背負わずに歩くことは、人の道に大きく外れてしまう……。
「ねえ、サヤカさん」
と、僕は声をかける。
「寄せ書きって、どんなことを書いたの? いなくなるっていう先輩に、何を伝えたの?」
「何を伝える?」暗闇の中で、彼女は小首を傾げたのだろうか――仕種は伝わらなかったが、不審そうな声がすぐ近くから聞こえてきた。
「そりゃもちろん、向こうへ行っても元気でねって。先輩ね、家庭の事情で、実家のある能登で暮らすことになるんだ。こっちより寒いだろうから、風邪引くなよーって、そういうありきたりなことよ。それがどうかした?」
「どうもしないよ、お疲れ様」
「うん」
そう言って、彼女らは暗くなった図書室から退散しようとする。不思議なもので、いつも見慣れた図書室に、これだけ大勢がつめかけて、それでいて、僕にとって肝心な人物がいないというのが、なんだか能登半島よりも遠いところに僕を置いて去って行ってしまったようにも思えてきた。僕はカバンに入りきらなかった最後の一冊――本当に、どうしてこれだけの本を彼女は毎日持ち歩けるのか、謎だ――梶井基次郎の『檸檬』を携えて、出ていこうとする人波に続いた。痛て、崎村、俺の踵踏むなよ。あ、ごめん。
ところでどうして彼女は、梶井基次郎なんて読んでいたのか、ここへきて僕は不意に気になりだした。たしかに、この年頃の少年少女は梶井を読んでいても全然おかしくはないわけだが、しかし彼女は明言してこそいなかったものの、読む本といえばハードカバーと相場がきまっていたし、それも短編集となれば、畑違いもはなはだしい。大した違いでないように思われようが、本来短編小説を好んで読むのは、この図書室においては僕の役割だったはずだ。それが、どうして、彼女がこれを読むのだろう――。
……あるいは女子生徒の間で、密かに流行っていたのかもしれない。意外とそういうのは校内ではままあることなので、僕は何気なく、ぞろぞろと図書室を出ようとする一団の一人を呼び止めるようにして訊いてみた。
「……サヤカさん、檸檬のことだけど」
「ジョン・レノン?」
「……梶井基次郎」
「……能登ジロー?」
誰だそいつは、いやどこだ、そこは。
どうやら人には、既知の範囲ででしか物事を聞き取れないという深刻な欠陥があるらしく、ならばと思い僕は彼女に近寄り「これ」と言って、顔の近くに本を直接持って行った。
「読んだことある?」
彼女はまじまじと表紙を見ているようだったが――光を失くした図書室の中では、それがなんなのか、明確に知ることは難しい――だというのに。
彼女はあいもかわらずスマイルを顔面に張り付けて、明るい声音で答えていわく。
「もちろんないよ。読んだことあるわけないじゃん」
がちゃり。図書室の扉は開かれた。外に出ようと、僕は決心した。




