九章~自らの、可能性の翼を折り畳む行為を恋と、人は呼ぶ~
僕がとみに妄想の世界に遊ぶようになったそもそもの契機、起こりを探れば、思えばすることもなく授業も退屈だった高校時代に朝から放課後まで図書室に入り浸るようになってからのことであった。僕はそこで、幼少期には知り得なかった様々の世界を神の視点から覗く愉しみをひとりでに享受したのだ。それが妄想の始発駅だった。
こんなにも美しき世界が、世の中には無造作に転がっていたのか……!
僕の通っていた高校はスポーツでもって他校と競り合い、受験生を誘引するのに汗を流す以外に余念のない私立校だったので、図書室の存在はどこか冷遇されている感があった。運動に熱心な高校の例に漏れず、図書室はいつの時間も係りの図書委員長の文学少女を除いては人っ子一人見受けられず、また回される経費が乏しいのだろう、今にも朽ちかかりそうな色合いの本棚からは、幾列も幾列もすえたような臭いがたちのぼり、一瞬僕の侵入を拒むかのような言い様のない感動をいつも覚えさせられる。
それにごく稀にだが本棚の手前の床に一冊の本がぽつんと寂しげな背表紙を覗かせて落っこちていることがあった。僕は入学して間もない頃にたまたま校内を散策し、そのついでに立ち寄った図書室でそういった本に出くわすや思わず手にとってしまい、感動にしてやられ、前記したような感興を覚えるにいたった口だが、それ以来僕はあらゆる本を、尊敬のまなざしで見つめるようになっていた。生ける形象としての高校の教師以上にそれらの不定形な中身は僕からのリスペクトを勝ち得ていた。それは外部というものを管のように細い穴からしか覗いてこなかった僕にとって、けだし革新的な世界の例証となりえたのだった。ありていにいってしまえば、蒙を啓かれた。
僕は来る日も来る日も図書室を訪れては、入りしな必ず眼に入る一人の女子生徒に声をかけていた。
「こんにちは、カガミさん。今日はフランス文学を舐めてみようと思うのだけれど、なにかおすすめはあるかい?」
などと、軽快なノリを装ってフレンドリーに話しかけたところが、根が暗い性分なのだろうか、はたまた人見知りするタチなものか、闇の世界の住人が急に光を当てられてたまらずよろけてしまうように、ほぼ毎日、必ず一人でカウンターに座っていた図書委員長のおとなしめな同級生は、僕からの視線を躱すようにして分厚な眼鏡のかけられた小顔をハードカバーの背表紙でシャットアウトする。僕がこの部屋のほとんど唯一といってもいい明かり先に立っていたもんだから、彼女からすれば陰になって文字なんか見えてこないだろうし、第一そんなに眼を近づけて本を読んでしまっては眼鏡をかけていることから推してみて弱いのだろう視力をさらに弱めてしまうのではないかと憂いもしたが、ライトに照り付けられることなく照れているのだろうことは顔を見ずとも一目瞭然であったし、いじらしくも本を読んでいるフリを継続して僕のクエストをさらりと回避しているだけなのだから視力に障りがあろうはずもなく、僕はいつものごとく入室者名簿にいそいそと名を記してから、「この前借りた本、どこの棚にあったかな?」と聞こえよがしに独り言を口にして迷うことなく静寂の図書室を突っ切るのである。不思議そうに僕を見る彼女の視線を背中にたっぷり感じながら。
入室名簿には、いつも彼女と僕の名前が交互に記載されていた。教室ではあまり社交的にふるまわない彼女はとかく孤立しがちで、所属するクラス内グループも僕なんかの加わる派閥とは異なっていたから話をする機会もあまりなかった。しかし誰もいない薄暗がりの図書室で、授業をすっぽかしてまで古今の本を繙こうとする僕に興味というか、そのうち珍奇さを見初めたか、いても立ってもいられなかったのだろう、僕が図書室通いを続けているうちに、放課後になってやってきた彼女はやがておずおずと僕に声をかけるようになってきた。
「……ねぇ、崎村クンはどうして授業に出ようとしないの……?」
「まだ一年生だし、どうせ成績はテストの点数ではじきだされるんだから、ノートを借りて猛勉強すれば単位不足で留年の心配も要らない。それだったら、こうしてずっと本を読んでいたいね」
「……どうしてクラスのお友達と、お喋りしたりしないの?」
「え?」
それは意外な言葉に聞こえた。正直、それをお前が言っちゃうのか、という感じだった。
彼女のルーチンは既に織り込み済みで、放課後のホームルームがひけるや颯爽とここに現れては、彼女の指定席ともいえたカウンターに居座り、そこで決まって分厚い本を読むのだ。僕は図書室の西日に照らされた一角が好きだったから、教室の奥の方にいつも陣取っていて、そこはカウンターとはかなり距離がへだたっていた。尤も距離はあっても、閑散とした図書室に僕らが二人きりという事実は胸に近かった。本を読んでいるようで、その実僕は彼女の飾ることのない横顔をまじまじと眺めていたように記憶している。もしかしたら、彼女の方でも僕がページに眼を落していた隙にそうしていたやもしれない。なんにせよ、不思議な距離だった。やがてページが夕日色に染まり、またブラスバンド部のトランペットの音、というよりもほとんど黄色い叫びだが、それが徐々に徐々に聴こえなくなってくるあたりが帰り時で、どうやら彼女もそれを潮と心得ていたかのごとく、閉室の札を机の抽斗から持ち出して楚々と立ち上がるのだ。そんな彼女の流れるような肩までの黒い髪を、僕は黙って眺めていたのだった。
僕はいつも彼女と僕しかいない図書室で、夕日にまどろみながら味わう本の内容を思い出すように咀嚼しながら、どうしてと問う彼女に問い返した。
「それを言うなら、君こそどうして毎日一人でここにいるんだい? 他の図書委員の、先輩たちは?」
クラスで存在がちょっと浮いた女の子だったから、仲好く話せる友達がつくれずにいたことは容易に思慮できた。であるから、僕は扱いに注意が必要な割れ物を運ぶ時みたいに気をつけて、きみだってなぜクラクメイトと歓談にふけるでもなく、いの一番に教室を抜け出すのかなんていう意地悪なことは尋ねずに、そう訊いた。
「……みなさんクラスの人たちとの役割分担で、なかば押し付けられたみたいな方々ですし、それに部活動やアルバイトでなにかと忙しいみたいで……」
さも遠慮がちに、最後まで言おうとせずにそこで言いさした彼女の後を僕は引き取った。
「みんなの分まで、きみが引き受けたの?」
彼女はうんと小さく肯いた。下を向いた拍子に黒い前髪が眼鏡のレンズを覆い隠した。垢ぬけないその仕種を見て、しかし僕は不覚にもドキっとしてしまった。といって、なにもそれは僕が無類のメガネっ娘好きであるということを意味するものではないことをここに申し述べておく。僕はそのような軽薄かつ浅薄な時流に流される肌でもなかったし、どちらかというと眼鏡をかける前の彼女の素顔が見てみたいなと、ご尊顔を拝したいなと、まぁ一人だけ主に水素を呼吸しているようなイメージのある女の子に対してティーンど真ん中な男子がよく抱く月並みなことを僕が思っただけなのだが。ん、これは時流に流されている、ということになるのか……? 時流といっても、この頃にはすでにメガネっ娘ブームなんて下火も下火だったろうが。そうなると、ならばなぜこの時僕の胸が一瞬高鳴ったのか、論理的に説明することができなくなるから不思議なものだ。
彼女は答えた。破けそうなほどにクレープなソプラノで。
「私は暇だし、それに、どうせ誰も来ないから……」
「ゆっくり気兼ねなく本が読めるというわけだね、なるほど」
彼女は小さくうんと肯いた。意志があるというよりも、首に重さ一トンを越えるボールダーとつながった紐でもかけられているかのような首肯だった。やはり前髪がいちいち眼鏡にかかる。
僕はどうして彼女が運動で名高いこの学校に入学してきたのか、ちぐはぐなように思われたので、覚えず訊こうとしてしまったが、考え直してやめておいた。まだ学校指定の制服を着こなしているとは思い難いその矮躯では、僕も似たような体躯ではあっても、そこは高校生男子の健全な肉体なのだから、あまり踏み込んだ質問は受け止めきれないだろう。僕は彼女に迫ろうとする脚をぎりぎりのところで抑え込んで何も問うことはしなかった。……僕はカウンターと西陽に色づく窓辺との距離感を大事にしたく思ったのだ。それは何にも増して、美しい距離感だった。入射する光は矩形の窓を最大限引き伸ばして床に黄金色の砂でも撒いたかのよう。僕と彼女との間にわだかまる空白には、その種の色がいつでも照り輝きながら、僕らは日々を消光していった……。具体的には、図書室の電灯を常にすべてターンオフの状態にして。




