プロローグ~敗残せる者の魂は、浮遊する~
――――眼を閉じると、いまでもはっきりとした肉声で親父の声は聴こえてくる。冷たい洞穴の奥深くから、がなり立てるような親父の声が、その口から漏れてくる酒臭い息がうるさいと感じられるほど、大きく地鳴りのように足許も危うげに響き渡って……。
「いいかワタル、俺が天国へ行くというその志半ばでおっ死んでもなぁ――――ゆめゆめ俺の意志を継ごうだなんて思ってくれるなよ。ワタル、お前は強くなれ。俺は弱いから、失敗した。俺と同じ時代に生きた奴らは、俺と同じことを夢想していた筈なのに――――妄想していた筈なのに、俺だけ失敗し、ここに取り残されたわけは、俺が弱かったからだ。自分で自分のことを、ちゃんと考えなかったからだ。ワタル、お前は強くあれ。生きたいのならエゴに染まれ、大波をさらに取り込む大波となれ、我欲のままに突き進め、ノミのように、血に飢えろ……!」
僕はその声が、嫌いだった。そんなことを吐き捨てる親父が、たまらなく嫌いだった。僕は親父は大好きだったが、親父のこの台詞だけは好きになれなかった。だから循環器系に異常をきたし、何度も心肺停止の淵に陥り生死の境を行き来するようになっても、僕は一度も親父が搬送された病院の、見舞い客一人おとずれない殺風景な病室に花を飾りに行くことはなかったし、そんな状態にあってもなお酒やタバコをやめようとしなかった親父を窘めたことだってない。
眼を閉じれば、必ず聴こえてくるその声……僕は胸のうちに頼りない灯をゆらめかせながら、真っ暗な洞窟を手探りで進んでいく。親父の声のする方とは、反対に行く。そこに本当の親父が僕を待っている。約束したのだ、僕と一緒に行くと。だから僕は、嘘には呑み込まれない。親父の言葉には、惑わされない。
……僕は、僕の眼につくあらゆるものを、それこそが美しいのだと確信しながら、僕の身体を擦過させてきた。……そのせいで多くの人を誤解するようにもなった。その結果として僕は、僕の放つあらゆる言葉を失った……あらゆるものを、僕は擦過していくようになった。
通り過ぎて――――身をかすめて――――一過性の墓地に僕のあらゆるものが葬りさられたのだ。
世間とは、ずれていった。
……明け方近い、それでも夜明け前の暗がり……僕は妄想の中に逃げるように、深い深い闇に没する……。