かつてありし屍
抜け道――古びた井戸は枯れていた。
とはいえ地下は濃厚な湿気に包まれて、かびくさい。
そして粘りつくような漆黒の闇が周囲を支配する。
足下を照らすのは村から拝借してきた松明の頼りない光だけ、だ。
「むう、暗いな。これでは足下が見えん」
どこへ向かうか定かではない横穴。息苦しさを感じた正重は小さく不平を漏らした。
そんな若侍に野菊はきつい視線を向ける。
「ぜいたくを言うでない。凶屍がおるかもしれぬ道のほうが好みであったか?」
「いやいや、そうは言っておらん」
正重はあわてて首を横にふった。
「ならば黙って足を進めておれ。ほれ平太、つかまるがよい。すべるからな」
頼りにならぬ同行者を叱咤したあと、野菊は慈愛に満ちた言葉を後ろに続く少年に送る。
「はい。大丈夫です――ところで姫さま。いったいなぜ、こちらへおもどりに?」
野菊の好意に謝してから、平太はなにげなく問うた。
十年と少し前、野菊とその父、高坂甚内は一族の仕官の口を求め、江戸へ向かったはずなのである。
幼児だった平太は、いつも遊んでくれた少女が村を後にする姿を、ひどく悲しい思いで見つめたものだったが……
それが長い年月を経て、なぜ、またこの甲州にもどってきたのだろうか?
「……ふん、くだらぬ用じゃ」
野菊は視線をそらし、苦々しげに答えた。
(もしかして聞いてはいけないことだったのかな?)
敬愛する少女のしぐさに平太は後悔する。
と、そこへ正重が口をはさむ。
「おい。公儀の御用をつまらぬとはなんだ!?」
「御用? 徳川さまのお仕事ですか?」
正重の言葉を受け、なにげなく問うた平太。
「……ッ!?」
しかし平太は思わず息をのんだ。
見上げた野菊の顔、見たこともないほど強烈な怒りが浮かんでいたからだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
三人の娘――野菊、小夜、胡蝶。さらに加えて大久保正重がこの村へやってきた理由とは?
――発端は三日前、深夜にまでさかのぼる。
ところは江戸市中――幕府要人たる老中・本多佐渡守正信が屋敷。
その一室に並んで座る三人の娘がいた。
燭台の灯火は一つ。室内は暗く息苦しさを感じさせるほどにせまい。
しかし実はこの部屋、屋敷の主・本多正信の私室である。
「広い部屋は勝手が悪くてかなわん」
と、正信はあえて狭い部屋に起居しているのだ。
このきわめて私的な空間を使い深夜に人を招く。
つまり人目についてはまずい会談ということである。
「……………………」
せまい室内には張りつめた空気がこもっていた。
殺気というべき悪意の発生源は二人の娘である。
一人は巫女姿の少女だ。
彼女はかつて名を馳せた武田忍び、高坂甚内が一女、野菊。年は十七になる。
きゃしゃな体つきと玉から彫られたように美しく無表情な顔が相まって人形のような印象を受ける。
だが生気と知性を感じさせる瞳の光芒、そしてしなやかな動作が彼女が見た目だけの存在でないと知らしめていた。
野菊は武田家に仕えた忍び、透破衆の縁者である。
彼女が呼ばれたのは今回おもむく場所――甲州に土地勘があるという理由だった。
さて、その野菊に対し強烈な敵意を放っているのは男装の女剣士である。
背は並みの男より高い。健康的に焼けた肌、きりりと男性的な美貌にすらりとした痩身――若侍の装束が実に似合っていた。
名を風魔小夜という。
影の存在としては異例なほど高名な忍び、風魔小太郎の孫にあたる。
もっとも、この風魔の首領は十年少し前、すでに死亡していた。刑死である。
彼を捕えて、刑場に送ったのが、だれあろう野菊の父――高坂甚内であった。
つまり高坂野菊の父、甚内は小夜にとって祖父の仇ということになる。
二人に漂う敵意のゆえんはここにあった。
その風魔小夜――無言のまま腰に差した脇差にそっと手を乗せている。
彼女はこの脇差いや『鋼線小太刀』の使い手であった。
『鋼線小太刀』とは小太刀に鋼でできたひもを組み合わせた兵器のこと。
柄頭の先、頭骨に似せた飾りがあり、細い鋼線がぜんまいじかけでしこまれている。
小太刀を投げ打ち、鋼線を用いて軌道を操り命中させる――これが鋼線小太刀の使用法となる。
この武器の恐ろしいところは自在に変化する軌道、そして小太刀をかわしても襲い来る鋼線の威力にあった。
鋼線は一族秘伝の方法で編み上げたもの。柔軟さと切れ味を両立させたその威力はすさまじい。肉、骨、内臓のみならず、操り手によっては鉄や岩石なども切り刻める。
そして今、小夜の手の中、鋼線と小太刀は飛び出さんばかり。
その双方が眼前の巫女姿の少女を標的としていた。
「………………」
一方、野菊のほうは屋敷の者に弓と刀を預けていた。当然、無手である。
しかし襲撃があろうと即座に反応できるよう、きゃしゃな体の全身に張り裂けんばかりの気をめぐらしていた。
繰り広げられる無言の暗闘――、
痛いほどに突き刺さる殺気の応酬のなか――、
「……ふふ、ふふふ」
この極めつけの修羅場を、薄笑いさえ浮かべて見ている少女がいた。
色鮮やかな小袖をあでやかに身にまとった少女――名は胡蝶という。小夜や野菊より年長の十八歳。
鉄砲、火縄銃のあつかいに長けた『雑賀党』の生まれ。少女の身ながら銃の名手であり、さらに火薬も自在に扱える。
もちろん、ここは幕府要人の屋敷の中。胡蝶も得意の武器は預けてある……が、衣服に焚き染められた甘い香の向こう、胡蝶の体から火薬の臭気がかすかにただよう。
――どうやら油断なく、偽装した爆弾を体のどこぞにしこんでいるらしい。
さて、こうもぶっそうな娘たちを前に――、
座敷にはさらにもう一人、冷徹な視線を送る老人がいた。
屋敷の主たる本多佐渡守正信である。
年は八十近い。衰えを隠せぬようになり、歩行も困難なほどだ。
だが天下人・徳川家康の知恵袋と称される頭脳と胆力に変わりはない。
裏に回って表ざたにできぬ仕事をこなし、徳川家を支えている。
その老策士は野菊と小夜の殺意のやりとりなど気にも留めず、唐突に口を開いた。
「先ごろ金山奉行、大久保長安の遺族が罰された一件、そなたらも存じておろう?」
「……はい」
話の先が見えないまま、しかし暗闘に水を差された野菊たちはうなずく。
『大久保長安』といえば幕府の金山奉行を務めた異能の男の名だ。
野菊たちも諜報にたずさわる忍びのはしくれ。さすがにその名くらいは心得ている。
「やつは元は一介の能役者に過ぎなかったが、徳川に召し抱えられるや否や、その才能を存分に発揮することになった。佐渡、石見ほか各地の鉱山を管轄したやつは南蛮渡りの技術でもって生産量を数倍させたのじゃ。昨今の徳川の財政はこの男に支えられたと言っても過言ではない。その多大な功績によりやつめは瞬く間に出世した」
野菊たちはうなずいた。
金山から上がる役得で主である将軍より、ぜいたくな生活を送ったという話も聞いている。
――そしてもちろん、彼の栄華の末路も知っていた。
権勢の強まりは驕慢につながり、他者の嫉妬も呼ぶ。
彼の死後、不正な蓄財が罪とされ、一族および関係者はことごとく罰された。
そして長安の屋敷に調査の手が入ったのだが……。
「やつの遺品の中、厳重に隠されていた地図があった。記されていたのは――なんと隠し金山のありかじゃった」
「は、隠し金山……でございますか?」
おだやかならぬ言葉。野菊は思わず言葉を返す。
老策士は、そんな少女にうなずきで応じる。
「うむ。それもただの金山ではない。地図には『日の本の富すべてを合わせたより価値がある』との一文が添えられていた。鉱山技術にかけてこの国の第一人者たる長安にそこまで言わせる金山……わしは調べずにはいられなかった」
甲州――甲斐の国、地図に記されたその場所へ、正信は極秘裏に厳選した人材を送ったという。
「……じゃが、それこそ長安の遺した罠だったのかもしれん」
老練の策士・本多正信の口調に後悔が混じる。
「調べに送った者たちは全滅した。いや一人、逃げおおせたものがいたが……街道で馬につかまったまま発見された男は満身創痍でひん死のありさまであった」
「むむ」
「まあ……」
「……なんという」
野菊、それに胡蝶と小夜が声を上げる。
まさか、天下を手中にしつつある徳川の家臣が襲撃を受けるとは――、
戦乱の世ならばいざ知らず、天下が治まりつつある今日この頃、しかも徳川領内での話である。
忍びである彼女たちにとっても、異常な事態であった。
――だが、老人はそれだけではないと首を横に振ってみせた。
「いや。驚くべきは襲撃されたことではない。その先なのじゃ。その唯一の生き残りがのう」
続けて老人が語るには、調査隊の最後の一人となった男が――、
「襲撃が……金色の目をした死人に襲われ……」
と、断片的な情報を伝えて息絶えてしまったという。
「むろん、それだけなら末期の妄言と切り捨てられたところじゃったが……」
本多正信はそこで言葉を濁し、野菊が話の先を求める。
「……なにか、ありましたので?」
「駆けつけた役人の目の前で、その男は息を吹き返したのじゃ。ただし人外のものとして……な」
正信は暗い声でこたえた。
「生き返った男は、まるで化け物のようなありさまとなり暴れ出した。足に負った深手のせいか獣のように這いまわると、うなりを上げて周囲のものに襲いかかったらしい。開いた腹の傷からは腸を引きずり、それは凄惨なありさまだったそうじゃ」
この化け物に対峙した役人は果断に「もはや人にはあらず。すみやかに討ち果たすべし」と決めた。
長槍でもって遠くから動きを止め、数人ががりでなますに斬り刻み、ようやく仕留めたという。
おかげで犠牲者が出ることはなかったが――、
「……そやつの目は金色に光っていたらしい。これ以上ない形で己の話を実証してみせたのじゃ」
低く告げた老人の不吉な言葉――娘たちはごくりと息を飲む。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
天変地異か、それとも妖異のしわざか?
とにかく調査隊は不審な全滅を遂げてしまった。
驚くべき報告を受けた正信が武田旧臣にあたり、遺された古文書など調べていくと、五十年前、武田家でも似たような事態があったという覚え書きが見つかった。
判兵庫という陰陽師が当時の武田家当主――晴信と名乗っていたころの武田信玄に命を受け、秘密裏に対処し、これを日誌に記していたのだ。
――日誌に記された怪物のありようを知り、正信は仰天し、戦慄した。
「金色の目をしたこの化け物は凶暴で、なおかつ強靭な生命力を持っている。……なにより恐ろしいのは絶命させた人間を、自らと同じ化け物に変えてしまう点じゃ」
そう語った正信の顔は青ざめていた。
長年、政治と軍事の修羅場をくぐってきた老策士ですら恐怖を隠せないでいる。
その事実がなにより事態の深刻さを物語っていた。
「兵庫はこの化け物を不吉なる屍、すなわち『凶屍』と呼んでいた。唐国にキョウシキという似た妖異がおるらしく、その音を借りたという。兵庫は秦代の方士・徐福が求めにきた秘薬が原因かとも推測しておったが……ま、そのようなことはどうでもよい。幸いというべきか、当時、凶屍が発生したのは隠し金山。山奥の閉鎖された一帯であったため、犠牲は少なかったそうじゃが……」
ここまで一気に語り、正信はようやく一息ついた。
「これはあまりに恐ろしい化け物じゃ。信玄公が秘匿させられたのもしかたなし。そんなものが出たとあっては金山で働こうというものなどおるまい。しかし隠匿されていたせいで……わしは前途あるものたちを無為に死なせてしまった」
老人は恨み言とともに、かすかに沈痛な表情を浮かべた。
しかし、その表情も一瞬で消え、すぐに冷徹な老策士の顔があらわれる。
「じゃがのう。その凶屍がまた出てきたのじゃ。しかも今度は甲州、人里の近く――」
正信が告げたことの重大性を三人の娘はすぐ理解した。
甲州といえば徳川家の本拠、江戸からわずかの距離である。
(人を襲い、襲われたものを仲間にして数を増やす――そんな化け物が江戸へ集団で襲ってきたら?)
三人はぞくりと背筋に寒気を感じた。
想像しただけで身震いがする事態だ。
表情を硬くした少女たちのようすを見て、正信は説明がたしかに伝わったと確信し、その上で――、
「事態の危うさ、そなたらにも理解できたようじゃの? そこで……じゃ」
――正信は少女たちに対する依頼を口にする。