屍の樹海
それは三月、弥生のこと――であった。
ところは富士のふもと。
暦の上では春だが森深き一帯はまだ冬の気配を漂わせている。
厚くたれこめた雲も陰鬱さを際立てていた。
と――、
鋭く吹きぬけた寒風が空を覆う雲を吹き散らした。切れた雲間から月が顔を出すと一筋の光が差し込む。
びいいいいいいいぃん!
その月光が行きつく先、深く深い森の中では高く歌うような鳴弦が響いていた。
名残を惜しむように長く続く余韻は木立に吸い込まれていく。
物悲しく響くこの音、その発生源は葉影から差しこんだ月明かりの中、舞い踊る人影。
――千早をまとった一人の少女だ。
夜光の中、彼女のなびかせた黒髪が柔らかな艶を放つ。
一方、長いまつげに縁どられた切れ長の大きな瞳は、わずかな月明かりと星明りを万倍に反射して鋭く光を放射する。
闇に浮かび上がるような白い肌、紅く一筋走ったくちびるが引き結ばれていた。
いや、この少女の容貌、くだくだと長い説明などいらぬ。ただ一言で表せる。
……そうだ。彼女は《美しい》
緋の袴をひるがえし、弓を手に舞うしぐさはまるで神楽のよう。優雅にして神々しい。
しかし、少女が手にした弓は舞いのための飾り物――梓弓などでない。
戦場で使うような大ぶりな弓である。細く紅い紐がぐるりまかれた大弓は夜目に鮮烈。血のように紅い装飾がまがまがしさを感じさせる。
この弓、かなりの強弓であろう。森にこだまする弦音だけで威力のほどがわかる。太く強靭な弦が不吉な音を鳴らすたび、放たれた矢が鋭く風を切る。
びっ!
雷光のごとく空間を切り裂いた矢は鈍い音を立て、狙った的をあやまたず射抜いた。
矢尻は的――すなわち、彼女を追う人影の頭部に吸い込まれる。
鋭利な金属片は眼球をすみやかに抜けた。
眼底を突き破り、やわらかな脳幹をえぐり、存分にかき乱すと向こう側の頭蓋を貫通したところで、ようやく止まる。
どうっ
少女に迫りつつあった人影は頭部を射抜かれ、のけぞると重い響きを立てて大地に倒れ伏す。
その瞬間を少女は見向きもしていない。全力疾走の合間に、すでに矢をつがえ直し、他の標的へと狙いを定めている――流れるような動作であった。
と、そこで――。
「おい! まだ着かぬのか?!」
少女に無粋な声がかけられた。せっぱつまった口調だ。
「ちっ!」
集中を乱された少女が、いらだたしげに首を振る。
「いや、もう少しじゃ。あとわずかで咎人社につく!」
漆黒の闇の中、少女の凛とした声が告げた。
もっとも年よりじみた口調は、やや息切れしている。
「咎人の社?!」
少女の後ろ、青年が再度、問う。
青年……といってもまだ少年の面影を残している。年は二十くらいだろうか。
引き締まった体型だが、その顔は中性的だ。優男といっていい。
このような森深い一帯でなく、御殿で小姓として殿様の寵を受けているほうがお似合いのような――そんな外見である。彼は戦い続ける少女の数歩あとを必死で追いかけていた。
(ちっ、侍のくせに頼りにならない)
同行者のようすに舌打ちしたあと、巫女は短く告げる。
「ああ。社までいけば安全じゃ」
「安全? 野菊、なぜ、そう言い切れる?!」
「……説明している暇などない!」
野菊と呼ばれた少女は、そっけなく返す。
「おい! 野菊!」
「気安く名を呼ぶな。大声も出すな。やつらが寄ってくる」
「し、しかし……」
少女が見せたあまりのつれなさへ、青年が抗議の声を上げかけた瞬間。
がさり、
木陰から人影が突然、飛び出してきた。
そして不意をつかれた若者にその手がかかる。
「なッ!」
突然の襲撃者は農夫の姿をしていた。
たれ目がちで愛嬌のある面相をしていたが、人間性を感じさせるのはそこだけ。
口元は血まみれ、鋭く伸びた牙が紅く染まった姿をのぞかせ、大きく裂けた口の端から唾液が漏れていた。
怪物とでも言うしかない外見の農夫は、魂を凍りつせるようなうめきを上げる。
ウゥゥゥゥゥゥぅぅぅぅッ!
「わッ!」
しがみつかれた若者ののどから、情けない悲鳴がもれた。
あガぁアアアアあァァッ!
農夫の姿をした男はあぶくを飛ばし、青年に文字通り、食らいつこうとしている。
「離せッ! 離さぬか!」
こうまで接近されて腰の刀は抜けぬ。青年はしがみついてくる農夫を押しはがそうとした。
だが――
うがアアアアああぁ!
本能のまま暴れる《敵》はすさまじい剛力を発揮する。
「うわ!」
ついに青年は大地に押し倒されてしまった。
首筋に農夫の大きく開かれた牙が迫る。生臭い息が鼻を衝く。
青年をにらみつける瞳が闇の中で金色に光る。
(この色合い、輝き――絶対に人のものではない!)
青年が恐慌の中、思った瞬間。
びょうっ!
またしても弓なりの音が響いた。同時に重い衝撃と音が若侍に伝わる。
う、ウガァ……
と、間近で小さく漏れたうなり――それは断末魔であった。
小姓を睨みつけていた男の眼が、くるくると回転したあと動きを止める。
同時に瞳から金光も失われ、人のものではありえなかった剛力も急速に抜けていく。
「いったいなにが?」
ぐったりとのしかかってくる男の体、苦労しつつ脇に押しのけ、青年は確認した。
男の後頭部、深々と突き立った矢を……。
「これは……まさか」
野菊が射抜いたものにちがいない。
暴れ狂う男の頭を一矢で射抜く――なんという力量だろう。
(年端のいかぬ少女が、いったいどれほど修業を積めば、これほどの域に達することができるのか?)
感嘆しながら身を起こすと、小姓は頭を下げた。
「……助かったぞ。この大久保正重、一生恩にきる」
我が名を名乗った青年・大久保正重が述べた心からの礼に対しても、少女はそっけない態度で応じる。
「礼などいらぬ。それより合流場所まであと少しじゃ……急ぐぞ」
「ああ。しかし、はぐれてしまった、あの二人は無事かな?」
と、不安そうにいった正重に――、
「これしきで死ぬ《忍》などおらぬ、もし不覚を取るようなら、その程度のヤツ、気にする必要もない」
野菊は事実を告げるように淡々という。
そのとき――。
ううううううううぅぅぅぅぅ
周囲から低い唸り声がひびいた。それも二つ、三つどころではない。
「走れ、正重。言い伝えによればヤツらは……凶屍は鼻が利く。ぐずぐずしていれば囲まれるぞ」
そう告げた野菊は返答も待たずに走りだす。
「お、おい、待てッ!」
そのあとを正重が追う。
かくして閉ざされた森の中、二人は駆け出すのだった。