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8/10 PM 2:30 狂気

8/10 Saturday PM 2:30

 ~ドドロ洞窟、悲鳴の先~



 駆け出したのは、兄が一番早かった。嫌な雰囲気を感じさせる、夏の暑ささえ打ち消すような異質な空気を感じさせるその洞窟に、兄はなんの迷いもなく飛び込んでいく。それを追うように私も駆け出し、後ろから黄島先生とセイコさんが追ってくるのを感じる。


 そして、駆け出した先。

 薄暗い洞窟の先で。


 「……っ!!?」

 「来るなっ! くりむっ!」


 ソレ・・はいた。


 それを、なんと呼ぶのだろう。

 それは人以外の何物でもなかった。

 しかし同時に、どうみても人ではなかった。


 その肌の色は、とても人の持つ肌の色ではなかった。顔の半分が、異様としか言えない、黒から黄金色までありとあらゆる色で作られた斑模様に染まっていた。同様の模様が、脇腹と太腿にも見られている。そう、見えていた。その部分を覆うはずの服が、削ぎ取られたように千切れているからだ。


 (なんで……)


 なぜ。その理由も、直後にわかった。指だ。両手の指から、夥しいほどの血が流れている。それと同時に、両手が飛び散った血で手首まで真っ黒に染まっている。


 ―――掻き毟ったのだ。自分で、自分の体を。


 「――――――イ……」


 斑に染まった唇が動く。

 その声は、私には聞き取れた。


 ……聞き取れて、しまった。


 ―――アツイ。


 彼は、そう言った。


 「みんな離れてろ! コイツもうダメだ!」


 兄の声が響く。言われる通り、離れなくては。

 なのに、私の体は凍りついたように動かない。


 「おおおっ!!!」

 「―――ッ……」


 咆哮とともに一気にその化け物と距離を詰めた兄は、そのまま渾身の力で蹴りを繰り出す。空手有段者のその鋭い右足が、化け物を打つ。異形の人間はその異形ゆえか、はたまた別の理由か、素早くは動けないようで、なすすべなくその蹴りを左半身に受ける。


 受けて。


 ……嫌な音を立てて、左半身が砕けた。


 「うっ……!」


 兄の顔が、歪む。


 いくら空手の有段者だろうと、人の体を砕くほどの蹴りなど繰り出せるはずがない。せいぜい骨が折れる程度だ。しかし蹴りを受けた彼の左腕は、まるで脆くなったガラス細工のように……いや、綿毛でできていたかのように、その衝撃に爆散した。意味不明な胞子に、飛び散る血に、兄の体が硬直する。


 「―――イト……」


 そんな兄を置いて、彼はその見開かれた眼で周りを見回す。

 その時のつぶやきも、私の耳には聞こえる。


 ―――タベナイト。


 次の瞬間、腕の痛みなどまるで感じていないかのような動きで……いや、実際感じていないのかもしれない……化け物は飛び掛かってきた。早くはない。格闘技の覚えのある動きでもない。ただめちゃくちゃに、本能のままに、右腕だけを伸ばしてこちらへと来る。


 避けられる。

 冷静になれば、避けられる。


 なのに。


 ……体が、動かない。


 つかまれる。つかまる。つかまえられる。


 「どきなさい!!!」


 咄嗟の声が、横から響く。声の主は動かない私を突き飛ばし、私の代わりにその手を受け止める。血に塗れた手が、先生の左腕を血が出るほど握りしめる。先ほどああもあっさり折れた腕と同じとはとても思えないほどの力が加わっているようで、先生の顔色がみるみる悪くなる。


 「っ、っ……むんっ!」


 だが、先生はひるまず、相手の手を冷静に振り払うとそのまま滑らかな動きで彼の腕を絡め取った。そのまま合気道の脇取りの要領で体を地面に押し倒し……た、ところで、再び化け物の腕が千切れる。だが折れた箇所から噴水のように飛び散る血を浴びながら、それでも先生は手を緩めない。


 「はっ!!!」


 折り取った腕を放り出し、続けて起き上がれないように背中に体重をかける。そこで、勝負は決した。ボキリ、という嫌な音を立てて化け物の体から肋骨がまとめて折れる音が響く。ごぼり、と音が聞こえそうな勢いで口から大量の血が吐き出される。


 そしてそのまま、彼は……熱海先生だったものは、動かなくなった。



8/10 Saturday PM 3:00

 ~洞窟の外、幸運にもあった水辺~



 誰も言葉を出せなかった。

 さっきのは夢だと、誰もがそう思いたかったのだ。


 しかし、そうは言えない。

 そして言えないならば、これは私から切り出さなくてはならない。


 「……あの、の持っていたカバンからの資料です。残念ながら、研究記録……あのサプリについての情報こそ簡単に書かれていたのですが、その成分や記録におかしな点は見受けられませんでした。あったとすれば、最後のほうに……その、狂的な食欲と熱さの記述が見られたくらいでした」


 そう、彼は最後、熱に苦しんでいた。「アツイ」という言葉が紙面を埋め尽くす様は、彼の外見に負けないほどの狂気を感じさせた。……そしてそれは、今はそこまでのものではないものの、レット君やセイコ君と同じ症状なのだ。


 そしておそらく、私がこれから体感する症状。


 (私は、彼の体を素手で触れましたからね……)


 あれだけ派手に触れた上に血まで浴びたこの有様では、あれに感染していないということはあるまい。今は、そんな楽観的に物事を考えていい事態ではない。常に最悪を想定して行動するべき時だ。……あの異様極まりない死に様を見てしまえば、否応なくそう思える。


 「先生、腕のほうは……」


 聞いてきたのは、セイコ君だ。


 私の左腕には、簡素極まりない包帯と添え木が充てられていた。正直医者とは思えない粗雑さであるが、自分の腕を自分で治療するなんてのは正直経験がないのだから仕方ない。看護学科の学生であるセイコ君はそれなりに処置できるのかもしれないが、感染がほぼ間違いない自分の体に触れさせるのは少々底高があった。せめて、手袋でも持ってきておけばよかったのだが。


 「……大丈夫。折れてはいない、と思う。……ただ、帰りの運転はお願いできるかな?」

 「わかりました。私が運転しますね」

 「その間に、二人の様子を見よう。……いいね?」


 私は、ずっと黙ったままの二人……レット君とくりむちゃんに言う。

 だが、二人は弱弱しく生返事を返すだけだった。


 (無理もないか……)


 あの至近距離で、しかもあんな有様で人の死ぬところなんて、めったに見るものじゃない。特にレット君のほうは、直接自分の手で相手の腕を折ってしまうというオプション付きだ。トラウマになってしまうことも十分考えられる。


 (そうならないように、出来る限りのことをしておかないと……)


 皆に悟られないように、唇を噛む。


 熱海先生ではなかった。いや、彼がこの現状を引き起こしてなおかつ自滅したという可能性もゼロではないが、彼はこの事態に対処する方法を持ち歩いてはいなかった。ほかに思い当たる部分といえば、例の黒尽くめの大男くらいだが、あいにくと今どこにいるのかが想像できない。


 (後手に回っているな……)


 次の手が、打てない。

 特に今、自分は負傷している。


 打てるとすれば、それは。


 「……レット君。例の手、頼めますか?」


 行きがけの車で冗談交じりに話した、その計画くらいだった。



8/10 Saturday PM 6:30

 ~保健センター、閉鎖ぎりぎりの時間~



 一通りの処置を受けて、痛みが一段落して私はやっと一息ついた。土淦山から帰ってきて、ある程度の医療器具があってこの時間でも空いていそうな場所、ということでレット君が真っ先に思いついたのが、この大学の保健センターだった。


 「空いていて助かりました、……江戸和、先生」

 「いえ、六時で保険センターは締めるので、ぎりぎりセーフです」


 そう言って、江戸和(と、レット君から紹介された)先生は柔和に笑う。大学の保健センターというところは骨折者も多いのだろうか、彼女は手慣れた様子で私の骨折を処置してくれた。レントゲンを取らないと詳しいことはわからないが、彼女も私と同じであっても軽いヒビ程度だろうという見立てだった。


 「一体何をしていらっしゃったんです? まさかレット君と組手とかじゃないですよね?」

 「いえいえ。……ちょっと派手に転んでしまってですね」

 「沼かどこかですか? 感染症が心配だなんて」

 「いえ、そういうわけじゃないんですが。……少し、気になることがあったので」


 言葉を濁しておく。明日ちゃんとした病院で検査を受けるように、という勧めにも、同様だ。あんな囲蛹としか思えない現象、いたずらに人を巻き込むわけにはいかない。


 「そういえば、江戸和先生は土曜日もセンターに来られてるんですね」

 「ええ。大学の部活動は土曜日が一番激しいから、けっこう怪我人多くてですね。……まあ、それ以外でもレット君とか藍原君とか遊ぶように来るからね」


 藍原。その名前がでて、自然と唇が引き締まる。あの熱海先生の死に様を見てしまえば、彼のほうも望みがないことは決定的だった。きっとレット君が見たというそれが幻覚ではなかった、ということなのだろう。


 (……)


 だとしても、疑問は残る。


 「……江戸和先生。ちょっと藍原君が行方知れずなんですけど、先生何かご存じないですか?」

 「んー、昨日ここにレット君と一緒に来てからは、会っていませんね……その時はちょっと貧血そうでした。どこかへ出かけるようなことも言っていなかったですよ」


 江戸和先生の目をうかがう。細められた瞳は、嘘をついている様子はない。とすれば藍原はここにも来ていない。……だとすれば。


 (藍原の死体は、いったいどこへ行ったのだ? ……熱海先生のように、粉々に砕けてしまった? いや、あれはレット君や私が壊したからだ。それにもし誰かが壊したなら、あの部屋に血痕があんなに少量しかなかったのはおかしい……)


 何かを見落としている気がする。

 何か、まだ全く触れていない箇所がある。


 「黄島先生、特に気分が悪くないようでしたらセンター締めたいのですけど。……ああ、痛み止めはどうしますか? お医者さんですし用法とかもわかるでしょうから出しておきましょうか? 明日は私もここにいないので、出すなら今のうちですよ」

 「できればもらいたいですね。……少し多めにもらっても?」

 「ええ。では、三日分だしておきますね」


 うわの空で答えながら、考える。だが、思い浮かばない。そして。


 (レット君……やはりまだ鍵が足りません。……頼みますよ)


 自分が治療されている間に、もう一度あの場所へと向かった彼らを思った。



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