8/10 AM 11:30 血
8/10 Saturday AM 11:30
~食事科学研究室~
(……これ、は……)
私は絶句した。それほどに、その結果は異様だった。
私、レット君、セイコ君の三人は、レット君がモニターを受けたという研究室へと来ていた。くりむちゃんを置いてきたのは、もしかしたら荒事になるかもしれないという予感があったことと、……一刻の猶予もないと私が判断したからだった。
レット君の症状だけならまだしも、その症状はセイコ君にも伝染している。当然何らかの伝染病の類を考えるのだろうが、これほどに早く症状が現れるうえにこのような幻覚や幻痛を伴うような疾患は、精神科とはいえ長いこと医者をしている自分も聞いたことがない。先ほど彼らの痛みの大元たるレット君の右手、セイコ君の顔を見てみたが、めぼしい所見はなかった。わかったのは、ほんの少し、動脈の拍動が強いように感じたこと、静脈がやや虚脱していることくらいか。
だが、それだけではなかった。
それは無理を言ってその場で取らせて貰った採血の結果に現れていた。
(一日で、こんなに鉄が減少している……? ありえるのか、こんなことが……!?)
昨日出されていたデータと照らし合わせたレット君の血液は、驚くほどに鉄分が減少していた。ここまでとなると消化管や悪性腫瘍からの急速な出血を疑うレベルだが、あいにくと彼にそれを示唆するものはない。鉄、だけではない。ナトリウム、カリウムといった無機物……いわゆる「金属」に分類されるものが、軒並み減少しているのだ。
(いったい、何が……? それに、このデータ……)
眉を顰める。
今日、私が測定した採血のデータは、基本的な項目のみだ。だが先日出されてたデータは、かなり多くの項目……銅や亜鉛、果てはほとんど血中には含まれていないような微量な金属までが測定項目として含まれていた。
「これは、どうして測定されたんです?」
「……さあー? アタシたちもー、教えてもらってないんですよー。たぶんー、熱海先生しか知らないんじゃないですかー?」
「た、確かに、変だな、とは、お、思ったことありますけど……」
尋ねても、熱海先生のラボ員たる二人はまともに答えてはくれない。どうも彼らはそこまで熱心な研究者というわけではないらしい。嘆かわしいことに、このサプリメントの基となった「アカカネ草」とやらが一体何なのかと尋ねても、「隣町の土淦山でとれる特産品で、いい栄養食品になりそう」というくらいの知識しかない。当然、くりむちゃんが図書館で調べてメールしてくれたことのような、怪しげな伝承なんて知っていようはずもない。
だと言うのに。
「変なとこ触らないでくださいねー。私たちー、センセーに留守頼まれてるんでー」
「ええ、わかってますよ。レット君の項目だけです。私も医者とはいえ、勝手に研究データを見ないくらいの分別はありますよ。ちょっとレット君の健康が気になったので、そこだけですよ」
「ならいいですけどー」
妙なところで、面倒なくらいに釘を刺してくる。
(セイコ君が具合が悪いのが、少し惜しかったですね……)
いつもはこういった連中を説き伏せるのは彼女の役目なのだが、車の中で突然の幻覚に襲われた彼女はそれどころではないらしい。今はよくなったらしくレット君と一緒に研究所をうろついているが、さっきまで研究室のベッドを借りて休んでいたくらいだったのだ。一応今の採血ではそこまで顕著な貧血は見られていなかったが、これから症状が進行していく可能性は十分ある。無理をさせるのは、禁物か。
「先生は、どこに?」
「なんかー、休日使ってまた土淦山にいってるみたいですよー。あのサプリの原料をもうちょっと確保しておきたいとかなんとかー。月曜の夜まで帰ってこないみたいですー」
「ぼ、僕らは、研究のまとめで……なんとか、ぼ、盆休みまでには終わら、らせたいし、」
「土淦山に……」
会話しながら、二人の表情を伺う。嘘を言っているようには見えない。どうやら熱海先生が土淦山に再び向かったというのは本当のことか。山までの距離は、片道車で二時間。行って行けない距離ではない。彼しか話が聞けないのならば、すぐにでも行くべきか。血液検査の結果を鑑みるに、おそらくそうそう悠長に構えている時間はない。
と、今までぼんやりと研究室をうろついていたレットが言った。
「あのクスリ、俺と藍原以外にも誰か飲んだんスか?」
その問いには、神経質そうな男のほうが答えた。
「あ、ぼ、僕らは飲んでますよ……先週サンプルができたんで、も、もう……一週間毎日朝晩。ぐ、具合はいいですよ……もともと、貧血もちでしたけど、ぼ、僕……」
「アタシはそんな変わんないけどねー。モニターは今は二人だけ、あ、あと先生はサンプル結構いっぱい持ってたよー。だから個人的に誰か、ほかの人に配ったりしてるかもー」
続けて、口の軽そうな女のほうが言う。やはりどちらも嘘をついているようには見えない。……それは薬を飲んでいるということに関しても……「体調が悪くない」ということに関しても。「幻覚などはないか」と聞いても、不思議な顔をされただけだった。
(サプリが原因では、ないのか……?)
何かが起こっているのは、確か。しかしそれは、あるいは別のものなのか。しかし、くりむちゃんが送ってくれたその「アカカネ草」のメールを鑑みると、どう考えても無関係とは思い難い。謎はまだまだとけそうにない。
ただ一つわかっているのは。
(やはり、実際に熱海先生を追うしかないか……)
鍵は間違いなく、彼が握っているということだった。
◆
8/10 Saturday PM 1:00
~黄島の車、土淦山への道中~
「黒服の、男……」
「ええ、そうです。……これ以上関わるなら、死ぬぞ、って」
「気味悪いわね、こんな暑い中コートに帽子だなんて」
くりむの話に、黄島先生とセイコが言う。図書館で調べてほしかったことは既にメールで伝えてくれていたから、自然車内での話はそれ以外のことになった。……くりむが出会った、怪しさ抜群の黒服野郎についてだ。このタイミングで土淦市の伝承を調べているということは、どう考えても俺たちに無関係ではあるまい。
―――俺がそこにいれば。
そう思わなくはない。そんじょそこらの野郎に負ける気はない。というか逆に言えば、俺こそがそこにいるべきであった。研究所に居たほうでは、ゴミ箱の中にサプリの殻がいくらか散らばっているのが見つけられたくらいだった。
だが、俺のそんな意味のない思考とは違って、黄島先生はもっと生産的なことを考えていたようだった。運転しながら、迷うように眉を顰めて言う。
「……少し迷ったが、言っておこう。その男、私もあったことがある。昨日の夕方だ。病院の入り口で見かけた……というか、病質のほうをずっと見ていた。……顔を覆う、奇妙な面をつけていたよ」
「奇妙なお面……それ、仮装用のお面じゃないですか? それなら、その人、灰さんじゃないですか?」
その言葉に反応したのは、セイコ。
どうやらセイコによればこの男、夏になってこの町に現れた流しの大道芸人らしい。火を噴くパフォーマンスが子供たちに人気でよく公園なんかで遊んでいるのと同時に、その(たぶん模造品だが)海賊刀なんかを振り回す芸が危険だと奥様方からは避けられている……そんな男。
「そういえば、どうしてこの町に来たのかとかは全然聞きませんね。あとなんか昔に事故か何かにあったみたいで、ずいぶんしゃべるのが難しい人らしいですよ。だからしゃべるところ見た、っていう友達はいませんでしたよ」
「ふむ……」
それにどれくらい納得したかは知らないが、黄島先生はまた難しい顔をして黙り込む。
その姿を見ると、俺は安心する。黄島先生が考えてくれるから、俺はいつだってバカでいられる。体力と腕っぷしだけのバカ。今のところ最も怪しそうなのは俺をこの件に巻き込んだ「熱海先生」で間違いないが、この男もどうやら何らかの関係がありそうだ。
「出会ったら、迷わず頭に一発叩き込んで何企んでるか聞きだしゃいいっしょ」
つぶやく。
「全く、レット君はいつも考え方が荒っぽくていけないよ。……まあ、今回ばかりはそれもアリかもしれないね。とにかく君は自分のことを第一に、くりむちゃんのことを次に考えるんだよ」
「私のこともその次くらいには考えてほしいな? 一緒に、ちゃんと助かろうね」
「まあ、法律関係のことは僕もそこまで詳しくないけど、医療系のことならそれなりには融通きくようには最大限努力するからさ」
その言葉に、先生とセイコが笑う。
そのことに、妙に励まされる。
腕はまだ疼くような熱を放っている。診察してくれた先生は特に明らかな……少なくとも今すぐに問題になるようなものはないといっていた。しかしそれでも、「自分のデータだから」ということで無理に見させてもらった血液検査の結果がなにやらよくないものだということもまた、先生から聞いていた。
セイコのほうは、というと、血液検査の結果とは前回……つまりは以前の記録がないとよくわからない部分も多いらしい。ただ、アイツも同じような幻覚を見て、さらには倒れるほどのことになっていたことから考えるに、俺と同じか俺より重症なのだろう。
(……俺の病気が、感染っている)
それは二人が昨晩一緒にいたからなのか、あるいは別の要因なのかわからない。だが、わからない以上、それが黄島先生やくりむに感染らないという保証はどこにもないのだ。そしてこの病気が、最終的にどんなことを引き起こすのか……それは、俺だけが知っている。俺だけが見ている。
(藍原……)
あの、俺が気を失う前に見た、藍原の惨状。
あれこそが、この病気の末路。
時間はない。
「黄島先生。……俺、山で熱海先生から話を聞き終わったら、今日中にやりたいことがあるんスけど」
俺はそういって、先生たちに俺の計画を話した。
◆
8/10 Saturday PM 2:30
~土淦山、草木を抜けた先~
そこまでの道は、思ったより険しかった。
「っていうか、自信満々にレットさんが言うから……」
「悪かったって、マジで! 一応山道はある程度慣れてたから、ちょっと甘く見てたンだよ!」
「まあ、まだ日の高いうちに到着できたら良かったよ。くりむちゃん、暑い中けっこう歩いたけど、大丈夫かい?」
「大丈夫です。あの兄の妹ですから」
「わーお、すごい説得力。セイコ君も、ふらつかないかな」
「はい、先生。研究所で休んでたから、今はずいぶん楽ですよ。ちょっと、火照ったような感じがあるくらいです」
「……俺には聞かないんスか?」
「聞く必要もないだろう?」
土淦山。麓の村についたとき、村に唯一の宿にいる……いるはずの熱海先生は、いなかった。宿の職員の話によると、やけに慌てた様子で、チェックインだけして荷物も置かずに山に向かっただとか。もともとの予定では研究室のメンバーだと嘘を言って上がらせてもらい、そのまま捕獲……という計画だったのだが、急遽変更して山へと向かったのだ。
宿に帰ってくるまで待ったほうがいいのでは、という意見も出たが、いつ帰ってくるかわからないということ(昨日の発作が夜中に出たことがあって、出来れば夜は医療設備の整った場所に居たいと先生は言っていた)、そして熱海先生の「やけに慌てた様子」というのが気になったということで、山まで探しに来たのだ。
土淦山。
そして先生が向かったという、山の麓にあるという「洞窟」。
(……そこが、「ドドロ洞窟」なのかな……)
漠然とした不安が、私の胸をよぎる。まさかそこに「子ドドロさま」なる人を喰う化け物がいるだなんてことを、本気で信じているわけではない。どちらかといえば、そんな伝承があって、地元の人も「神域」だといって近寄らないような場所に一人で駆け込んでいったというその人のほうが不気味に思う。いずれにしても、何か嫌なことがありそうな予感は、ずっと頭の中にあった。
(草……生えてないな……見落としてるだけかな……)
ふと思いついてあたりを見回してみたが、伝承にあった「アカカネ草」なる草らしきものは見当たらなかった。地元の人が言うにはずいぶんと貴重なものらしく、群生のピークである夏の始まりを逃すとめったに見られないのだというから、素人同然の私が見つけられないのも無理はないのかもしれない。
そんなことをしながら、どれだけ歩いたか。
兄のナビゲートで一時道に迷ったりしながら、一時間。
「あ、あれじゃね? 例の洞窟!」
歩きづめて、やっと見つけた、ふもとの洞窟。
その洞窟から。
――――――ッッ!!!
耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。