8/10 AM 8:30 捜索
8/10 Saturday AM 6:30
~赤城家、ロビー~
朝、赤城の家に四人もの人間がいるというのは、なかなかに久しぶりでそのことに私は妙な感慨を覚えていた。しかし同時に、今はそんなことに耽っているような場合ではないこともまた、同時に理解していた。そしてそれは、兄妹以外の二人……黄島先生とセイコさんも分かっているようだった。
「やあ、おはよう、くりむちゃん。昨日は、ゆっくり眠れたかい?」
「そこそこです。心配ありません」
「それは良かったわ。ああ、朝食の材料は買い出し行ってきたから、大丈夫よ」
「あ、ありがとうございます……」
驚いたことに、決して寝坊ではない私よりも二人のほうが早起きだった。そして。
「おはよ……昨日は、なんつーか、心配かけたようで、スマン……」
兄は、申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。セイコさんのおかげで昨夜はいくらか眠れたようで、その顔は帰ってきた時よりもは幾分かマシだと言えた。もちろん、「幾分かマシ」であって、「いつもの本調子」でないことは明白なのだが。
「先生たちにも連絡してくれたんだな。……まあ、正直そこまで大事なのかってのは俺としてははなはだ疑問なんだが……。昨日見たものはどこまでが現実でどこまでが夢なのかが全く分かんねぇ。とりあえず俺の腕が燃えたのは夢だったんだろうが……藍原のことは、確認したい」
「今日は朝から藍原君の家に行こうかと思っているよ。休日で助かるよ」
「勿論、私も一緒に行くわ。ああ、レットさんのバイトは全部キャンセルしたから大丈夫よ。この連休くらいは休まなきゃね。それで、」
「ええ、私も行きます」
当然だ。藍原さんのことは、知っていた。兄の大学の同級生であり、家に遊びに来た回数ならセイコさんよりも多かった。ちょっと不健康そうなやせ形の人だったけど、いつも優しくて笑顔を絶やさない人だった。あの先輩に何かあったなら、私も他人事ではない。
「朝食を食べたら行きましょう。善は急げ、です」
私が〆るのもおかしい気がしたが、流れ的に口にしてしまった。
しかし三人は茶化すこともなく、しっかりと力強くうなずいてくれたのだった。
◆
8/10 Saturday AM 7:30
~藍原家、全て終わった部屋~
藍原の家。そこに足を踏み入れたのは、俺とくりむ、黄島先生の三人だった。セイコの奴は別働隊だ。そもそもアイツは顔はいいが目鼻がいいわけではないのでここにいても仕方ない、もっと別のことができるだろうとの判断だ。
「で、この部屋……か……」
そこには、昨日……あの時に見たものは、何一つなかった。金色の粉の広がりも、バケモノの姿も、そしてもちろん、藍原の死体も。やはり夢だったのか。メールが受取人不在で帰ってきていることさえ除けば、単純に留守なだけに思えなくもないのだが。
だが、二人には、そうではなかったらしい。
「……窓、壊れてますね。しかも破片は内側に散っています。……外から何かが、破って入ってきた。この、ベランダもないような家の、二階に」
「……血痕、だ。不思議なことにこの埃の上にはついていないけど、その外まで飛び散っている細かな血は残ってる。何か、あったんだろうね。……それにこの埃、どう考えても不自然だよ。部屋の真ん中に放射状に広がるなんてありえない」
「そ、そーなんですか……?」
探偵さながらに、周りの様子をつぶさに観察していく。言われてみれば確かに窓ガラスは割れているし、細かい黒いシミが床にいくつか。埃だって、普通は部屋の隅とかに溜まるものであってこんなど真ん中に積もっているのは確かにおかしい。
そんなことにも気づけない自分にやや失望するが、とりあえずそれは今は置いておく。そういうことによく気付く二人に任せて、自分は自分にできることをする。そういうことにも気づけないセイコだって、今は別のことをしているのだ。
俺にできることって何だろう。
……まあ、それは後で考えようか。
「とりあえずこの部屋で分かるのは、何かよくないことが分かった、っていうくらいかな。……ほかに、なにかこの部屋のことだったり藍原君のことで気になることとかあるかな? 繰り返すけど、今は異常事態だ。気になることは、なんでも言ってくれ」
黄島先生が言う。
ううむ、そう言われても。
「気になることは、特にないけど……確かにちょっと顔色が悪かったが、それはいつものことだったし。何か変わったコト……モニターのバイトをしたくらいしか……」
「モニターのバイト!? それはどこで!?」
「え、っと、大学の研究室の一つだよ。えっと、先生なんて名前だったか……」
「熱海先生。大学で熱量系の研究を主にしている准教授、だったからしら確か」
話に割り込んできたのは、入り口に立ったセイコだった。
にやりと笑うその顔が様になっているのがなんだか妙な悔しさを掻き立たせるが、この様子ならきっと上手くいったのだろう。この女の「そういった技術」は、はっきり言って天才的だ。神様の悪戯のおかげも相まって、こういう女を小悪魔と呼ぶのだろうと実感させてくれる。
「管理人さん、ちょおっとお願いしたらいろいろと話してくれたわ。こういう小さな下宿だと個人情報保護とか徹底されてなくていいわね。今回も「藍原君のお見舞いに」って言って聞いたら簡単だったわよ」
セイコは、さっきまで下宿の管理人へと話を聞きに行ってくれていたのだった。
◆
8/10 Saturday AM 10:00
~図書館、人気疎らな郷土史棚~
郷土史、なんてものを、私は生まれて初めて真剣に読んでいた。
怪しい夢、友人がたまたま不在、その程度であればここまでにはならなかったろう。
しかし。
(あんな有様を見せられちゃうと……)
例の発作が、また起こったのだ。そろそろ藍原の家を調べていた最中、再び兄が倒れたのだ。連日ハードなバイトをこなす彼を私は日々見ているわけだが、あんなふうに膝から崩れ落ちる兄を見るのは、これが初めてだった。
そして。それは兄だけに留まらなかった。
(早く、何が起こっているのか、確かめないと……セイコさん……)
発作は、兄だけではなかった。それから少しして、黄島先生の車で研究室へと向かう途中にセイコさんにも同様の症状が現れたのだ。具体的には、眩暈とふらつき、そして―――炎の幻覚。人並みには体力のあるセイコさんだが、やはり体力バカの兄と比べると症状は重かったようで、車の中で青い顔をしていた。
―――伝染したのだ。あの狂気が。
あまり、悠長にしている時間はない。
私は焦りを何とか抑えながら、郷土史のページをめくる。そこにあるのは。
(土淦市、土淦山に関する事件……)
兄の曖昧な記憶から抜き出された、その隣町の伝承だった。
◆
~ドドロさまの伝承・民話~
土淦山には、神おわす。眠れる地神、ドドロさま。
ドドロさまはくいしんぼ。なんでも食べるが、人が好き。
人さえ食べれば、ドドロさま。
静か安らかに、眠りませう。
ドドロさまには子がおわす。子ドドロさまは、遊び好き。ドドロ洞窟で、いつでも会える。子ドドロさまは、遊び好き。来てくれたなら、遊ぶませう。日が暮れるまで、遊びませう。時を忘れて遊びませう。いつもいつまでも、遊びませう。
ある日町の娘さん。
ドドロさまへとお供え物。アカカネ草と、その体。
アカカネ食べた子ドドロさま、ぽかぽかおいしい喜んで。彼女と一緒に遊んだと。
子供が喜ぶドドロさま、娘のことを気に入って。娘と一緒に遊んだと。
アカカネ草を喜んで。山にその草生やしたと。
アカカネ草は、神の草。
食べればぽかぽか、いい気分。
心も体も元気になって、ドドロさまも喜ぶと。
◆
8/10 Saturday AM 11:00
~図書館、異様なる伝承~
悍ましさを感じた。それはどこにでもあるような怪奇譚であり、人を食べる神を鎮めるありふれた日本神話に過ぎなかった。それなのにそれはやけにリアルに感じて、生々しくて、それでいて身近なものだった。それは私の中の何かが、それこそが今兄たち……いや、私たちに起こっていることなのだということが本能的にわかっていたからかもしれない。
伝承の中の、「ぽかぽか」という言葉に、言いようのない不安を感じた。
兄とセイコさんの見た幻覚の炎が、「ぽかぽか」なのか。
(……ぽかぽか……ドドロさまに、子ドドロさま……そして、アカカネ草……)
不安は膨らむばかりだ。兄たちが受けたという、「食事科学研究所」の治験。それこそが、「アカカネ草」なのではないか。そして今まさに彼らは「子ドドロさま」と遊んでいるのではないか。人を食う化け物との、遊び。それがどんなに恐ろしいものか、想像できない私ではなかった。
(違う、そんな、無理に化け物に考えなくても、単純に……)
単純に、それが毒だったのではないか。その怪しげな草を基にしたサプリメントが、兄や藍原さんに悪影響を及ぼして、幻覚や幻痛といった症状を引き起こした。そのせいで藍原さんは何か……そう、自傷行為にでも走ってしまったのではないか。
(いや、でも……)
しかし、そうだとしても、セイコさんのことは腑に落ちない。彼女は、その「サプリメント」を飲んではいない。一晩兄と一緒にいたのだから、そこで何かに感染した……と考えるのが一番妥当なのだろうが、サプリで起こったものが接触で感染するのだろうか。
(わからない……そっちは、先生に任せるか……)
本を閉じて、立ち上がる。調べるべきことは、調べた。昼前に合流する……先生の車で迎えに来てもらう予定だったが、思ったより早く調べられたために時間がある。他の三人が向かった食事科学研究所は歩いていける距離だ。こちらから出向けば時間の短縮になるだろう。
本を本棚に戻して、踵を返して歩き出す。
そして。
「……その本、読むんですか?」
後ろに感じた気配に振り返り、私は声をかけた。
「……珍しいですね。伝承学でも学んでらっしゃるんですか?」
異様な男だった。背丈は長身の黄島先生よりさらに頭一つは高いだろう。さらにこの暑い季節に、真っ黒のロングコート。室内にも関わらずに脱がないつばの広い帽子もまた黒。立てた襟元と俯き気味の姿勢のせいで顔が全く見えない。男は、私以外には借りる人などいるはずもない「土淦市昔話伝承奇譚」をまさに本棚から抜き出そうとしていた。
「……」
「……っ……」
男は、本を手に取って、そのまま固まる。その不思議な硬直が、異様な姿と相まってひどく不気味に感じる。話しかけてしまってから、今のこの状況が非常にまずいことに気付いた。兄やセイコさん、黄島先生と違って、私は荒事の心得はない。もちろん図書館、人が全くいないわけではないだろうが、あいにくとこんなマイナーなコーナーだ、見ている人など居ようはずもない。
(だったら、何かされそうになったら叫んで、……っ!?)
息を吸い込んだところで、……口を塞がれた。
一瞬、だった。男は瞬きするほどの間に一気に私との間の距離を詰めて、そのまま私の口を大きな手で覆った。黒い革の手袋は分厚く、たとえ噛みついたとしてもびくともしないだろう。声を出すこともできずに目を見開く私。
そんな私に、男は。
……コレガ、サイゴダ……
くぐもった、聞き取りにくい声で囁くように耳元で言う。
……コレイジョウ、カカワルナ。……シヌゾ……
それだけ言って。
「っ、はっ、あ、あなたは、!」
また瞬きするほどの間に、大男はいなくなってしまっていた。
「土淦市昔話伝承奇譚」の本は、そのまま持ち出されてしまったのだった。