8/9 PM 10:30 恐怖
8/9 Friday PM 10:30
~赤城家、ロビー~
私は絶句した。文字通り、言葉も出なかった。
言葉を考えていなかったわけではない。むしろ久々に二人での夕食をすっぽかしたバカ兄貴に対する思いつく限りの罵詈雑言をいつでも放てる準備をしていた。兄の帰りは遅いのかもしれなかったが、どうせ私は明日はバイトも何もなく、兄が早朝の配達のバイトを控えていることを知っていたから、遅くとも火を跨ぐくらいには帰ってくるだろうことが分かっていたのだ。
そんな私が、絶句した。
「っっ……っ……!」
帰ってきた、兄の顔を見て。
見たことのない顔だった。見開かれた目。半分開いた口。荒い息。夏の暑さだけとは到底思えない、浮き上がった汗。そのどれもが、私の知らない兄の顔だった。どんなバイトで疲れたときにも、苛立った時にも見せたことのない表情だった。
挨拶もせずに部屋に籠り、そのまま鍵をかける兄。
それを私は、呆然と眺めることしかできなかった。
怖がってる。
兄さんは、何かに怖がっている。
では、何に?
そこらの不良? ありえない。兄はもう今はやめているとはいえ空手の経験者だ。高校時代にはかなり上位の大会まで勝ち上がった実力者であり、続けていないとはいえ一般人の喧嘩程度に臆するとは思えない。もっと別のモノだ。
(ユーレイ、とか?)
それでも、あんなことになるだろうか。仮にも大の大学生が、放心するほどに。と。
~♪~~♪♪
ポケットの中で、電話が鳴った。私は着信音に拘るほうではないので、知り合いとそれ以外程度にしか分けていない。まあ、すべて統一電子音の兄よりはマシだと思う。今回鳴ったのは知り合いの着信音であり、取り出して確認した画面あったのは。
「セイコさん?」
青葉晴子さん。兄さんと……ひいては私と同じ大学に通う女子学生。年は兄と私の中間で、看護学科の三年生だ。大学のミスコンに出場したこともある美人であり、長い黒髪の映える剣道女子でもあり、……そして何より、兄さんの恋人である。
「私に?」
怪訝に眉を顰める。
私は自慢ではないが愛想は良くない(兄が私のバイトを止めるときに使う攻め手の一つだ)。それは当然セイコさんに関しても同じであり、兄の恋人ということで私に出会う機会の多い彼女は私のことをきっと良くは思っていないだろう。その私に対して、電話。
十中八九、兄のことだろう。
「はい、もしもし」
『ああ、くりむちゃん、よかったつながった~! あなたまでつながらなかったらどうしようかと思ったわよ。ごめんなさいね、こんな時間に突然電話して。レットさんからメールと電話が来てたのに気付いてかけなおしたんだけど、つながらなくって。この時間に、バイトもないはずなのに三回かけてつながらないのがちょっと気になっちゃってね、それでなにかあったのかな、って思ってね』
相変わらずセイコさんは早口だ。なのにその声は快活で、聞いていて心地がいい。私の声は籠り気味でぼそぼそとしているから、正直うらやましい。が、今はそんなことを言っている場合ではない。
「セイコさん、なにがあったんです? さっき兄さんは家に帰ってきましたが、普通ではありませんでした。挨拶もしなければ、様子もおかしいし、いつもの兄ではなくて……なにか、心当たりはありませんか?」
『……電話に出ない段階で、おかしいなとは思ったけど……』
セイコさんの声が、ゆっくりになる。
彼女も感じたのだろう。これはなにか、良くないことが起こっているのだと。
おそらく、私たちの予想以上に。
『私のほうから話すわね。私は昨日は遅くまで遊んでて、昼夜逆転生活。今日も夕方まで寝てて、電話の着信に気づいたのはもう8時過ぎ……ああ、電話の着信自体は7時ごろね。それですぐにかけなおしたのだけれども、不通。その時は移動中か何かかと思って一旦置いてメールだけして、返事がないからかけなおしたのが10時で、その時も不通でメールもなし。藍原のほうも電話に出なくって、流石に何かあったかなと思って、くりむちゃんにかけなおしたところよ』
「こちらは、……正直、何も分かっていません……」
『……教えて。くりむちゃんが感じたことだけでいいのよ。……くりむちゃんも、レットさんがおかしい、って思ったんでしょう?』
「……兄は、深夜でも帰ってくるときには必ず挨拶をします。近所迷惑なくらいに、部屋にいる私にも届くようにと。そんな兄が、今日は何も言わず……なんというか、放心したみたいな感じでした。目が見開かれてて、口も半開きで……なんというか……」
そう、そうだ。
「何か、ひどく恐ろしいものを見たかのような……」
『ひどく、恐ろしいモノ……』
その言葉に、セイコさんが低い声で呟く。
それがなんなのかは、分からない。分かるとすれば。
『今から家に行くわ。鍵、閉めないで待っててくれるかしら?』
「い、今からですか!?」
『大丈夫よ、竹刀持ってくから。くりむちゃんも、何かできることをしてあげて。きっと今は緊急事態よ。やりすぎ、大げさなんてことは無いわ。できること、全部してみて』
「は、はい!」
セイコさんの力強い言葉に、思わずうなずく。すごく、すごく相手を元気づける、そんな力を持つ話し方だった。きっと彼女のほうが心理学科に向いているだろう。私はそれに励まされるままに頷かされ、納得してしまう。彼女がこう言ってくれなければ、私はただ「兄が帰ってきたときに挨拶をしなかっただけだ」と自分で納得して、そのままにしてしまったかもしれない。
だが、彼女に言われて、確信する。
これは、非常事態だ。非常事態なのだ。
「だったら……」
セイコさんからの電話が切れてすぐに、番号を探す。その名前は。
「黄島先生……!」
5時間前まで顔を合わせていた、信頼する先生の名だった。
◆
8/9 Friday PM 10:45
~赤城家、ロビー~
「お邪魔するわね、くりむちゃん」
「こんばんわ、セイコさん。……黄島先生がもうすぐ来てくださるそうです」
「うん、ありがとうね。そしたら私は、部屋に行くわね」
「はい、……お願いします」
くりむちゃんがかなり疲弊していることは見てすぐに分かったが、それは心労以上のものではないと判断して私はそのまま彼……レットの部屋へと向かった。たかが心労、されど心労。あの見かけよりタフなくりむちゃんが見るだけでああもなる有り様というのは、正直想像がつかない。
(あの、レットさんが……)
掴みどころがない人。あるいは、底の知れない人。
それが私の彼に対する印象だった。自らの想い人に対しての評価ではない、と友人から言われたことがあるが、それが私の偽らざる本音なのだから仕方ない。そしてそれは決して悪い意味ではない。少なくとも私は、そんな彼に憧れていて、彼を慕って、彼を好いていた。
彼のことは、昔から知っていた。彼のほうは私のことなんて知らなかっただろうが、高校の大会で武道場での彼の試合を私は見ていた。確かに名のある大会に出場して勝ち抜くだけの実力はあったが、際立ったものがあったわけではない。
ただ彼は、潔かった。現代武術では基本ともいえる、「勝つため」の技に拘らなかった。あくまで、直接的な強さ、速さでの勝負にのみ臨んでいた。まともに戦えば勝てない(そしてそれは現代武術では非常に顕著だ)時でさえ、自分のそのスタイルを貫いていた。
大学で、付き合う様になってから、彼の底なしの体力を知った。
それは単純な「体の力」という意味だけでなく、精神的、心理的強さでもあった。
その彼が。
「レットさん……」
今は部屋で、まるで子供の様にうずくまっているのを、私は見た。
◆
8/9 Friday PM 10:50
~赤城家、雑然とした部屋~
(……ああ、なるほど)
様子を見た私は、頭の中で納得した。その様子は、私の知る彼ではなかった。あるいはくりむちゃんの様子からするに、妹の彼女ですら見たことのないものだったのかもしれない。いつもの、どんなときも余裕を失わない、そんな彼とは真逆に位置する、焦燥しきった彼。
乱雑に散らかった部屋の中で、彼は膝を抱えていた。
汗の浮かんだ顔に、見開かれた目。
明らかに、何かに怯えたような表情。
でも、私は納得していた。
「レットさん。私。セイコだよ」
呼びかけながら、ゆっくりと近づく。
彼も、人間なのだ。私が、あるいはくりむちゃんが難しいことをごちゃごちゃと考え込むように、彼だって同じように考え込むことがあるのだ。時にはそうやってうずくまってしまうことだってあるだろう。そんなことで私は彼を幻滅したりはしない。
「なにか、恐いモノでも見たの?」
「夢、……だ……」
震える彼が、呟く。
その彼の隣に、寄り添うように座る。
「へえ、夢か。どんな夢だったの?」
「コワい、……すげぇ怖い夢。……死んでた。……金色で、それで、化け物……」
「怖い夢だね」
「怖くて、なのに、体が勝手に動いて、……アイツ、……殴りかかって……許せなくて」
「許せなかったんだ」
「それで……でも、倒せなくて……気付いて、それで急に怖くなって……!」
彼が震えだす。がたがたと音を立てて、隣の私にもはっきりと感じるほどに。その体を、私はゆっくりと抱きしめる。ふり払われるかと思ったが、彼は一瞬びくりと体を震わせこそしたものの、動こうとはしなかった。それを確認した後、腕に徐々に、しっかりと力を入れていく。
「怖くなったんだね……」
「怖くて、……夢だ……夢であって欲しくって……怖いんだ……!」
「大丈夫だよ……私は、ここにいるから……」
彼の震えが、ゆっくりと落ち着いていく。その目から、涙が零れはじめる。一滴、二滴と落ちたそれは勢いを増して、どこかが壊れてしまったように滂沱となって流れ落ちていく。それを流れるままにしながら、彼はぶつぶつと呟き続ける。
「……藍原……あいはらぁ……うあぁ……!!!」
「怖かったね……」
藍原、という単語に、一抹の不安を覚える。彼になにかあったのだろうか。しかし今あわてて聞き返せば彼は再び恐怖を感じるだろうし、その「夢」とやらを思い出してしまうかもしれない。もし万が一彼の気が触れでもしたら、私では到底抑えきれない。
だから、私にできたのは。
「うん……それは、落ち着いてから考えようね……」
問題を先延ばしにして。
「今日はただ、悪い夢を忘れるだけを考えて……ね……」
ゆっくりと、彼に口づける。
彼はそれに安心したのか、私の頭を掻き抱く。
そうやって、彼にひと時だけの安らぎを与えてあげることくらいだった。