8/9 PM 7:00 怪物
8/9 Friday PM 7:00
~大学近隣ファミレス、ざわつく店内~
膝で何とか体を支えて、両手を床につく。嫌なモノが喉元から込み上げてくるのを左手で押さえる。派手な音がしたせいで店員が慌てて駆けつけてきたのを手だけで制して、俺はゆっくりと、慎重に立ち上がった。
(なんだったんだ、今の……)
額に、玉のような汗がいくつも浮かぶのがはっきりと感じられる。
それがゆっくりと滴り落ちていくのが、いやに肌に痛い。
そして何より、腕が。
(……右腕が、熱い……?)
あの一瞬、倒れる間際の幻覚中で見た炎のように、俺の右腕は妙な熱さを感じていた。半袖から除く腕は全くいつもと変わりないにも関わらず、だ。それは夢で見たような炎にくべたほどの狂った熱さでこそないものの、確かな熱量を持って俺の手にまとわりついていた。
その熱が、気持ち悪い。
幻覚の時の、耐えがたいほどの熱さを思い出し、顔を顰める。
―――なんだなんだ?
―――なんかあったの?
―――人がなんかうずくまってるよ
―――やだー
周りのざわめきが聞こえる。
と同時に、自分の状態を理解する。
(……寝不足かね……ちょっと顔洗うか……)
一つ、二つと頭を振って立ち上がり、心配そうな店員を置いてトイレへと向かう。何も特別な理由があったわけではない。ただまだこの段階でこんな気味の悪い幻覚を見る理由が思い当たらない、というかそんなことに理由があるなどということを考えもしなかった人間としては、普通な、まともな対応だっただろうと思う。
(そんなに最近働きづめだったかな……)
顔をいつもより多めの水で洗う。少し伸びすぎかと思うくらいの前髪が派手に濡れるが、気にせずもう一度。そして、別に幻覚の影響というわけではないが、右手を念入りに洗う。今時のファミレスらしく置いてある手指消毒用のアルコールを数押しして、念入りに手に刷り込む。
なぜか、そうしたい気分だった。
怖かったわけじゃない。
別に誰に言われたわけでもないのに自分で自分を誤魔化していた俺の耳に。
ppp、ppp
携帯の電子音が響いた。
◆
8/9 Friday PM 7:30
~大学からほど近い、藍原の下宿~
俺はすぐに駆け付けた。藍原からのメールがおかしかった。
(今時、空メールなんて、なにがあったんだよ……!?)
得体のしれない気味悪さを描き出すものとしては、これ以上のメールはなかったと言えたろう。これならまだ誘拐されましただの事故に遭いましただの方がそれなりに状況把握ができて焦りは薄かったかもしれない。
最高速で駆けつけ、木造築云十年のぼろ屋の階段を駆け上がり、藍原の部屋のドアをノック。
「藍原! いるか!? 俺だ、レットだ!」
返事はない。
その段階で躊躇いなくドアノブをひねる。
……鍵は、かかっていない。
(ま、掛かっていても開けるけどよ!)
そのまま放り出すように靴を蹴り捨てて廊下を抜け、
「!!?」
俺は凍り付いた。
その世界は、有り得なかった。有ってはいけなかった。有ってはいけない、在ってはいけない、遭ってはいけない、そんな世界。目につくのは、眩い黄金色の部屋。まるで苔のように、綿毛の様に、絨毯のように、金色の何かが部屋に散らばっていた。
そして、その黄金の渦の、真ん中に。
「藍原ァ!!!」
アイツは……アイツだったものはいた。
「藍原ァ!!!」
名前を呼ぶ。それは、そうしなくては、俺がアイツをアイツだと認識できなかったからかもしれない。それほどに、藍原は酷い有り様になっていた。目を背けたいほどに、けれども目を背けることもできず、そして何をすることもできずに俺はアイツを見る。
右腕が、千切れていた。
胴体の半分は、まるでミイラの様に干からびていた。
顔の半分は、恐怖に、絶望に、苦痛にひどく歪んでいた。
そして顔のもう半分は、何をしたらそうなるのかわからない有り様に砕けていた。
困ったように笑い、冗談をいなし、時々咳き込む、そんな藍原の面影は、そこにはなかった。
「あ……あぁ……!!!」
駆け寄ろうとした、その瞬間。
窓ガラスが、ガシャリと不吉な音を立てた。
◆
8/9 Friday PM 7:40
~冒涜的な黄金色の部屋~
それを何と呼ぶのか、レットは知らない。
いや、きっとどんな学者も知識人も、それのことなど知らないだろう。
……羽があった。蝙蝠のような、被膜の。
……節足があった。蜘蛛のような、幾本もの。
……鋏があった。蟹のような、武骨で巨大な。
……粘膜があった。毒々しい色で、その体を纏う粘膜。
そのどれもが、この世界のモノではなかった。巨大な昆虫のようで、それでいて海洋生物でも植物でも菌類でもあるような不可思議な外見のその生物は、窓をその鋏で開けて部屋へと上がり込んできた。羽らしき被膜は飾りではないらしく、その二回の窓から。
―――見ては、いけない。
あれは、見ていいものではない。
それが分かるのに、レットは動けない。
その異形の怪物は、どこに眼球のあるのかのわからない顔で室内を見渡す。
部屋を見、レットを見、藍原を見、その千切れた右腕を見、
……その目を、止めた。
怪物は、ゆっくりと、宙を滑るように進んでいく。
鋏が、千切れた右腕を拾い上げる。
―――息を呑んだ。
黄金色の埃に埋もれていたその腕は、まるで金物細工のように変質していた。黄金色に輝く、しかし金属細工ではありえない切断面から鮮やかな血を滴らせるそれを、怪物の二本の鋏が持ち上げて、その眼前へと運び。
「ッッ!!?」
……残る鋏で、砕き、刻みはじめた。
金属を打ち合わせる、レットには聞き慣れた音が響く。それに混じって、金属ではない……金属になっていない、肉の部分が引き千切れる。血が、肉が、骨が飛び散るが、化け物はそんなことにはまったく無頓着に、レットの目の前でその凶行を続ける。
―――どれくらいそうしていたか。
やがて藍原の腕はその面影を失くし、怪物の鋏には一握りの金塊だけが残った。
怪物は、その塊を掲げる。
まるでそれが何かとても貴重なもののように、恭しく。
……そして、藍原の体にもその鋏を伸ばした。
その瞬間、レットの体が弾けるように床を蹴って跳躍した。
◆
8/9 Friday PM 7:50
~藍原の部屋、怪物と~
訳が分からない言葉を吐いて、俺はその化け物に飛び掛かった。
何かが分かったわけでもない。
いやむしろ、何一つ分かったことなんてない。
目の前の、アニメや漫画のなかでしかお目にかかれないような怪物のことも。その怪物がホラー映画よろしく自分に襲い掛かってこない理由も。目の前で繰り広げられた、藍原の右腕に対する不可解で冒涜的な行いも。そこから取り出されたわけの分からないモノも。
ただ。
―――アイツは、藍原に同じことをするつもりだ。
顔が見えたわけではない。ましてやその視線が藍原に向かったのを、確認できたわけではない。それでも、化け物が体にその金属塊をしまって身震いするように体を動かしたとき、直感した。さっきの行いが、藍原の体で行われることを。
さっきまで動かなかった体が、動いた。
動くとわかった瞬間、足が地面を蹴っていた。
「藍原に、さわるな……!」
さほど広くない藍原の部屋を跳び、一息で化け物と間合いを詰める。
「はなれ、ろ!!!」
声。同時に、全身全霊を込めた右足が、その化け物を薙ぐ。
人間なら頭のある位置、幾本もの節足の伸びる中心となっている場所を、痛烈に撃つ。
素人なら、殺していたかもしれない。
「……っ!?」
だがその蹴りは、化け物の体にぐにゃりとした感触を与えただけだった。
サンドバックとも、ましてや人とも違う、未経験の感覚。
ヤバイ。
すぐに跳び退る。と同時に、さっきまでいた俺が場所を怪物の巨大な鋏が二本、現実ではありえないような不気味な音を立てる。職場で聞きなれた重機械での金属切断もかくやという凶悪な音は、捕まればただでは済まないことがひしひしと感じられる。
だが、不思議と逃げようという気にはならない。
藍原の死か、化け物の姿か、それともその凶行のせいか。
俺の頭の中の正気をつかさどる部分がそのどこかで壊れたのだろう。
その狂気の中で、俺は化け物に殴りかかる。
守るんだ。
俺は、男だし、戦える。
―――だから、なにかあった時は闘うんだ。
もう一度、今度は体を引き絞って拳を突きだす。
嫌な感覚は再び右手に伝わるが、それも関係ないように感じる。
もう一発。
「っっ!!?」
そう思った時、体に激痛が走った。
何をされたのか分からなかったが、今の自分の状態はわかった。
大昔、悪がきだった時に味わった感触。
(……感電……)
ぐにゃり、と視界が揺らぐ。
体が崩れ、膝をつき、そのまま倒れ伏す。
何もできないまま、何もわからないまま、俺はそうして意識を失くした。
全部夢だったら。
そんなことを考えながら。
◆
8/9 Friday PM 10:00
~藍原の部屋、全てが終わった後~
ppp、ppp、ppp……
けたたましく鳴り続ける電子音が、俺の意識を戻させた。寝起きの悪い俺は、それまで自分が何をしているのか、どうなったのか、何が起こったのかを咄嗟に思い出せない。周りを見渡し、そこが藍原の部屋であることを確認し、その中で窓が割れていることを見て、
「っ!!!」
そこで思い出す。
そうだ。俺は、あの怪物は、藍原は。
「っ!!?」
いなかった。呆然とする。そこには、何もなかった。化け物はおろか、藍原の死体も、腕も、あの金属塊も。あれほどに部屋を染め上げていた金色の綿毛のような何かすら見当たらず、部屋の中は何の変哲もない埃のたまっただけのそれに変わっていた。
夢。
すべて、悪い夢だったのだろうか。
妙な幻覚も、藍原のメールも、その部屋での出来事も。
「いや……」
そんなはずはない。足と手に、あの嫌な感覚が残っている。
腕には幽かな、しかし確かに感じる熱い違和感が纏わりついている。
怖い。
怖い。
怖い。
体が震えだす。
何があったんだ。何が起こったんだ。
…………何が、起こっているんだ。
逃げないと。ここから、逃げないと。
いまさら湧き上がってきた恐怖感のままに、俺は一目散に駆け出した。