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8/9 PM 5:00 火種

 8/9 Friday PM 5:00

 ~黄島精神科病院、スタッフ控室~



 「ふぅ……」


 私は一つ、息をついた。それは一日のバイトという慣れない労働のせいなのかもしれないし、それ以上に心的な負担がかかっているからかもしれない。それでも、今日この一日は、私……赤城あかしろくりむという人間にとって、非常に有意義なものであったことは疑いようもなかった。


 大学生の段階で社会を……おそらく将来の職場候補になる場を見るというものは、日々の刺激としても将来の仕事としてもとても意味のあるもののように感じる。こんなことなら。


 「……もっとバイト、してもいいのに」


 呟いてしまう。そう、私は大学生でありながら、バイトをほとんどさせてもらっていない。赤城家は両親が不在であり、大学生の二人暮らしという関係上金銭的にはまるで余裕がないのが正直なところなのだが、くりむは兄であるレットからバイトを原則禁止されていた。今回のバイトは、心理学科学生としての勉強と社会見学の一環であるということを、必死に説得した結果になんとか勝ち取った仕事だった。


 内容としては、病棟事務だ。一応心理学科の学生であるということはほかの病院スタッフにも伝わっており、知り合いの医師のつてもあってたまに検査やリハビリ、診察の手伝いなどをさせてもらうこともあり、まだまだ現場を見る機会の乏しい学年の私にはどれも新鮮な経験だった。


 だから、そのことにはとても満足していた。

 満足していなかった……というよりも、驚いていたのは。


 「これだけ働いても、このくらいなのね……」


 賃金の安さについてだった。


 もちろん、ほかのバイトに比べて決して時給が安いわけではない。かなり優遇されていることも感じている。それでも私がこのバイトで稼げる金額は、兄が日々稼いで家に入れている金額よりもはるかに少なかった。


 「…………」


 いったいどんな生活を送ればいち大学生にそんな金額が稼げるのか、世間知らずな私は想像できない。分かるのは、兄がその人間離れした体力で昼夜を問わずに働いているというくらい。そこにどれほどの苦労があり、どれほどの負担を強いているのかは、聞いても適当に誤魔化されてしまうせいで私はいまだに知ることができずにいた。


 両親がいなくなって、兄は変わった。小学生のころからずっと続けていた空手をやめた。私よりもは悪かったけど、それなりによかった成績は赤点をぎりぎり潜り抜けるようなくらいまで落ちた。代わりに高校生でも可能なバイトに明け暮れ、大学生になってからは給料のいいバイトに片っ端からくらいついていくようになった。


 よく喧嘩した。

 高卒で働くといった兄を無理矢理に大学に行かせたのは、私の勝ち。

 自分も働くという言葉を断固拒否したのは、兄の勝ち。

 この夏季休業中のバイトは、まあ、引き分けと言ったところか。


 「ああ、いたいた。くりむちゃん、今日はもうあがりでしょ? どうする? 一緒に夕食でもどう?」


 と、ちょっとしたノシタルジーにふけっていた私は、呼びかけられた声に振り向いた。台詞だけ聞けば出来の悪いナンパと間違えそうだが、今回はそうではない。なぜならそれは自分のそれがよく知った人の声であり、その人に悪意のないことを自分は知っていたからだ。自分のことを職場で「くりむちゃん」呼ばわりする人は、現段階ではこの人しかいない。


 「すみません、黄島さん。今日はちょっと都合が悪いんです」


 黄島きしま心一しんいち。この黄島精神科病院の跡取り息子であり、自身も精神科の専門医をもった、わかりやすく言えばこの病院の現場の主力の医者である。かなり長身だがどこか薄味な顔と空気で警戒心を抱かせないのは、精神科医としての技術かもしれない。


 ついでに付け加えれば、黄島医師が例の「ちょっとしたツテ」でもある。話せば長くなりそうだからざっくり言えば、この病院には不在の両親の片割れである母がもう何年も入院しており、黄島先生はその母の主治医だという関係。子供二人を残すという不安の残る母をなだめ、私たちにいろいろと手助けをしてくれた人なのだ。今回の食事の誘いも、純粋な好意からくるものであり、赤城家の食費の負担を減らしてあげようという気遣いだったことを、私は知っている。


 「おや、残念だ。そうだ、今日からの土日は日直も当直もないから、なにかあったら連絡しておくれよ。仕事のことでも家のことでもいいからさ」

 「いつもすみません。……今日は珍しく、兄が夕食に帰ってくると言っていたので」

 「ああ、そうなのかい。それならぜひ一緒に食事するといい。……こんな状況だからこそ、できるだけ家族の時間は大事にしないとね」


 黄島医師は、そう言って笑ってくれた。


 あの人は、とても「わきまえた」人だ。助けるべき時は助け、しかし決して余計なおせっかいを焼こうとはしない。それでいて、本当に困ったときは助けてくれるという姿勢を取り続けてくれる(母がこんなにいい医者にあたったのは、とても幸運なことだと私は思っていた)。今だって、家族の時間を気遣い、身を引いてくれる。


 私は一礼して……本当はもっと感謝を伝えたかったが……待合室を出る。

 そのまま病院を後にしてまずはいまどきの女子大生らしくメールを見て、


 「あの、クソ兄貴……!」


 そこに並んだ、「本日ファミレスで食ってくるので夕食不要」の文字列に殺意を覚えた。


 「家族団欒をなんだと思ってやがリますか、あの愚兄は……!」


 すれ違ったコートの人がびくりと体を震わせたのが見えたが、無視だ。


 「せっかく黄島医師が気を遣ってくれたのに、この体たらく……! ただでさえまかない付バイトの嵐のせいでまともに二人で夕食を食べることができんというのに、その貴重な機会をあっさりとファミレスごときで潰すとは、あのバカ兄は有罪です、極刑です、慈悲はありません!」


 ぐちぐち……と言うにはやや大きな声量で携帯電話を責める。すれ違った人はそのまま足を止めて、しかし顔はこちらには向けないで立ち尽くしている。精神科病院からこんな人間が出てくればやはり少々気にはなるのか……などと考えるが、それでも無視。


 これでは一人で夕食だ。かといって今から病院に戻り、黄島医師におごってくださいというのはさすがに最悪の空気を生む。あれだけ気を遣ってもらっておいて、あまつさえ「兄と食べるので」なーんて恥ずかしいことを言った後にこれは、自分的にはアウトだ。


 「まったく、勉強さぼりだして思考まで衰えたというのですが。脳みそつるつるのエテ公ですか。ええいいでしょう、貴様がそうなら私は食えなかったことを羨ましがられるようなディナーを頂くだけですとも。残りなんて用意してあげませんから」


 思いつく限りの罵倒を携帯に打ち込み、送信。


 ふんす、と意気込み私はスーパーへと足を向ける。認めたくないが、確かに今日の夕食のメニューはなかなかにこだわって考えていた。特売日をしっかりと押さえたラインナップで、低予算で高カロリー、そして深みのある料理……の予定だった。いや、今から変更するのもそれはそれで癪だ。


 いいだろう。

 その料理、私の、私による、私のための料理にしてくれようぞ。


 もうひとつ、ふんす、と荒い鼻息をついて、私はスーパーへと一歩を踏み出したのだった。



 8/9 Friday PM 5:30

 ~黄島病院前、まだ夕焼けには早い通り道~



 精神科医、という職業柄、変わった人間に出会う機会というのは多いものだ。その判断基準はいくつもあるが、一つには「服装」があげられる。身だしなみに気を使う余裕がない精神状態を表すこともあれば、季節感などをきちんと感じ取れているかどうかの指標でもある。


 だが、そんな状況から見ても、それは異常だった。


 「……当院に、なにかご用でしょうか?」


 声をかける。

 通りから、病院を見上げている、黒のロングコート・・・・・・・・の大男に対して。


 その格好は、「異常」の一言に尽きた。黒のつばの広い帽子が顔の上半分を、たてたコートの襟元が下半分を隠すせいで顔がまったく見えない。長身の自分よりも大きい……百九十は超えると思われるその大きな体全体がロングコートや長袖で覆われて、肌の露出がまったく無い。それは真冬であれば違和感がなかっただろうが、この立っているだけで汗が噴き出すような真夏には、奇異以外の何者でもなかった。


 「まだ日が照っていますし、熱くありませんか? 当院の面会は18時までですから、ご用があるのであれば少々急いだ方がいいかもしれませんが」


 続けて言うが、大男は答えない。自分も、それ以上言葉を続けはしない。「待つ」というのは、心理学的にとても大切な行為だ。……そしてそれにこたえるように、男がこちらを向く。ようやっと覗く、その顔は。


 「っ……!?」


 顔では、なかった。


 三日月のように唇の吊り上った、仮面。仮装パーティーでもこんな悪趣味な仮面をつける人間などいないだろうという、奇妙な面。言いようのない恐怖を抱かせるような、そんな面。その面の奥で、くぐもった、しゅうしゅうという音が……いや、声が響く。


 それは、注意しなければ聞き取れないような、そんなかすかな音。


 ……カカワラナイホウガ、イイゾ


 のどに胃常を来した人間独特の、掠れるような声。


 ……コレカラハジマルコトハ


 それだけ言い残して、男は踵を返す。背中に背負った大きな……ゴルフケースほどのバックには、何が入っているのかわからないもののかなりの重量を感じさせて膨らんでいる。そこにはなにか、……そう何か、見てはいけないものが入っているような錯覚があった。


 仮面の大男。


 彼は、赤城兄妹の母親の病室をじっと眺めていた。

 彼は、赤城くりむのことをみてその足を止めていた。


 そのことを、自分はひどく……ひどく不吉に感じていた。

 もしかしたら。


 「また、あの兄妹に、何かが起こるのでしょうか……」


 根拠のない不安は、いつまでも消えず。

 そしてそれは、杞憂に終わってくれるとは到底思えなかった。




 8/9 Friday PM 7:00

 ~大学近隣ファミレス、席の埋まり始めた店~



 イラついていた。甚だお門違いだとは分かっていたが。


 「……ったくよぉ……」


 それは俺がバカであり、目の前に広げられた講義の授業プリントの意味が全く理解できないことのせいでもある。バイトに明け暮れるようになってからはかなり授業態度のよろしくない俺は、出席こそ妹がうるさいせいで欠かさずしているものの授業中に起きていることはなかなかに少なく、結果として頭は悪い、そこそこに。


 だが、苛立ちの原因はそれだけでなく、……明らかにそれ以外の要素が強かった。


 「なんで俺一人なんだよっ!!!」


 思わず大声を出してしまった。……ファミレスだというのに。


 周囲のざわめきが聞こえる。ひそひそ声が聞こえる。そして大学最寄りのファミレスであることも相まって、俺の名前を囁く声もいくつか聞こえる。非常に気まずいことこの上ない。割と適当野郎を気取っている自覚のある俺だが、さすがにファミレスでイタい人になりきれるくらいには常識から解脱しきれていなかった。


 「……ったく、セイコに藍原、恨むぞ……」


 見当違いな恨みを、本来来るはずだった二人にぶつけておく。


 「まーた藍原の奴、倒れたりしてねーだろうな……」


 保険センターを出たあと、俺はいったん家に帰ってレポートに必要なものを取りに行っていた。藍原も自分の勉強道具を取りに行くと言っていたが、奴の家はここからは歩いても十分はかからない。人通りもそこそこに多いために倒れたらちゃんと通報されるし、もし通報されていればここからなら充分にサイレンの音が聞こえる。


 (それに、江戸和先生がちゃんと帰っていいって言ってたしな)


 加えて、医師の診察のあとだ。貧血もふらつきもとりあえず緊急を要するものではないとの判断は下されているわけで、そのあたりも心配はあるまい。であるならばこの明らかな遅刻は、なんの用事が入ったか、あるいは家で仮眠でもとってそのまま眠りこけているのか。


 (連絡ぐらいしろっての……セイコはどうせ寝てるんだろうがよ……)


 電話はかけた。だが、夜遊び大好きのセイコはともかくとして、藍原まで電話に出ない。不安ではあるが、だからと言ってどうこうするほどのものではない。ああ、不安というのは電話に出ない二人に何かがあったのではないか、ということではなく、このままいったら自分はこのレポートが終わらないんじゃないか、という不安だ。明日以降も当然バイトが山積みであり、今日終わらせなければこの先はない。


 (……ったくよぉ)


 ちょっと顔でも洗うか。

 ため息一息ついて、立上がり。


 ……その瞬間、俺の体は膝から崩れ落ちた。


 それこそが、本当の意味での悪夢の始まりであり。

 俺の心と体を蝕む、黄金色の炎を幻視した最初の刻でもあった。



 ???

 ~黄金煉獄の夢~



 熱い。熱い。あツい。アつイ。アツイ。

 猛烈な熱が、自分の体に、……右腕に、まとわりつくのを感じる。


 ……悲鳴を上げた。


 その炎は、明らかに、この世のものではなかったからだ。そこにあるのは、暴力的で、無慈悲で、恐るべき炎。色はこの世ではありえない金属による、黄金より眩い黄金。動きは物理法則をかけらも感じさせない、むしろ生物的な動きで右腕を縛るように渦巻く。


 振り払う。振り払う。振り払う振り払う振り払う振り払うふりはらうふりはらうふりはらう。


 離れない。どうして。なんで。なぜ。

 まるで笑うように炎が揺らめく。意思がある。息がある。命がある。


 怖い。怖い。怖い怖い怖いこわいこわいこわいコわいこわイコわイコワイコワイ。


 叩きつける。右腕を必死に地面に叩きつける。叩きつける。ぐしゃり、と嫌な音が右腕から上がるが、それでもやめない。やめるという発想がわかない。気持ち悪いほどに毒々しい鮮血の赤が飛び散る。何か分からない黒い物体が、白い欠片が、肉変が、地面に広がるのを見ながら、叩く。叩く。


 痛いのだろうか。痛いはずだ。痛いに違いない。

 なのに、体が叩きつけるのをやめない。


 ……分かっているからだ。


 脳が、本能が、精神が叫んでいるのだ。ここで右腕が砕けようと千切れようと、この炎を消してしまわないと、取り返しのつかないことになる。命に代えてでもここでこの炎は消さなくてはならない。それだけの脅威が、この炎にはある。


 なのに。

 そう思い、死ぬ気で叩きつけるのに。


 ……消えない。消えてくれない。


 炎は猛る。その黄金の光は周りの肉片に宿り、真っ暗だった世界を黄金色に染める。その無機質な金属光沢に相反する生物的な脈動を宿して、炎は世界を包み込んでいく。腕から始まった火は肩へ、胴へ、頭へと広がり、嬉々として全身を焼き尽くす。血も涙も、悲鳴さえも覆い尽くして俺を焼き殺す。


 ……いやだ。焼けたくない。死にたくない。


 炎の轟音の中で声にならない声で叫び、手を伸ばし。

 その先に、何も知らない顔をした妹の姿を見た。

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