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大学生活最後の夏休み。早々に大学院への切符を獲得していた俺は、友人たちがスーツを引っ掛けて炎天下の中走り回っているのを尻目に、涼しい新幹線に乗って我が故郷である蔵菱集落へと帰ってきていた。
帰省の理由は特にない。ただ、夏の間マンションの部屋の中で腐っているのも不健康だろうと思い、それならば食費、光熱費諸々の節約のために夏いっぱいを実家で過ごそうと考えただけである。それも、新幹線代を考えれば結局差し引きゼロ……むしろマイナスなあたり、やはり真面目な理由があってのことではなく、足が向いたから帰ってきたというのが一番しっくりとくるのだが。
着替えと音楽プレイヤーぐらいしか入っていないリュックを家の玄関に下ろすと、荷解きもそこそこに俺は外へと踏み出した。後ろから「五時までには帰って来なさいね―」という母の声を背に、裏手の山へと足を踏み入れてゆく。裏山といっても、それほど標高があるわけではない。せいぜいが数十メートル。横に広いので遠目には多少高い丘に見えなくもないという程度のものである。頂上付近には祖父が趣味でやっているブドウ園がポツリとある以外は特にこれといったものの無い場所である――訂正、実は割りとおかしなものがあったりする。というより、現在裏山へと来たのはそれが目的でもあった。
この裏山にはあるのである。アレが――電車が。
幼い頃、裏山を駆け回っていてそれに出会った時は目を疑った。ドがつくほどの田舎、それも木々が生い茂った山の中に突然電車が鎮座していたからである。それがどのような経緯でそこにあるのかは、山の所有者である祖父母も、集落の皆も知らなかった。ただ、いつの間にかそこにあったというのである。
まあ、正直電車の由来に興味を持ったことは無い。幼い頃の俺はこの珍しい電車を秘密基地として十二分に活用出来るという事実だけで十分だったし、今の俺はこの珍しい光景が合コンの時の話題の一つにでもなれば――無論、それでいい雰囲気になれればなお――良いのだから。
そんなわけで、携帯電話片手に裏山へとやってきた俺の目的はこの電車に再会することだったのである。木々に囲まれ、薄暗い森の中に鎮座する赤い電車。特殊なコーティングでもされているのか、長年雨風に晒されているはずなのに、その車体はまだ新しく見える。
そのことを今更ながらに不思議に思いながら数枚の写真を撮る。正面から、斜めから、後ろから、中から。そして、この電車最大の不思議である……シャワーも。
そう、シャワーである。シャワーとはいっても、きちんとしたものではなく、小学校の屋外プールにあるような、取り敢えず水が出るだけの代物ではあるのだが。それが電車の後尾についているのだ。どこから水を引いているのかは知らない。電車からパイプのようなものは地面に刺さっていないので、或いは雨水を電車の中に溜め込んでいるのかもしれないが、お湯も出るのでやはりおかしい気もする。
よくよく考えれば、やはりこの電車はおかしい。こんな場所にあるのもそうだし、出所不明のシャワーが利用出来ることも。
携帯の画面越しに電車を見つめていた俺は、ようやくそれに気が付いた。というより、どうして今まで俺が、家族が、集落の者たちがそう思わなかったのかが不思議で仕方がない。
有り体に云って、この電車は存在そのものが奇妙だ。このことに気がつけたのは携帯電話というフィルターを通して見たからだろうか。肉眼では、生身の視点では決して気がつくことの出来ない違和感、異物感。それが機械の眼を通すことによって神秘のヴェールを暴かれたのだ……ッ!
――なんて、厨二病は卒業したはずが、どうにもまだ燻っているものがあったらしい。
「ん――……。どうせやることもないし、これについて調べてみるのもいいか……」
誰にともなく呟いた俺は、脳内で今回の帰省中の予定を書き込んだ。そして、さらに数枚の写真を撮った後、我が家へと足を向けた。必要なモノを揃えるためである。
◆01
「あら、おかえり。はやかったわねえ」
裏山から戻り、家の玄関を開けるとそこにはエプロンで手を拭く母の姿があった。伊須梨 琴理。我が母であり、今となっては唯一の家族――同じ集落に祖父母もいるが――である。女手ひとつで俺を育て、父が遺した畑を切り盛りしている母の肌は小麦色に焼け、快活な笑顔の中に際立って白い歯が浮かぶ。実は良いところのお嬢様らしく、昔の写真などを見ればどこの深窓の令嬢かという風体だが、今では美しさこそ失われていないものの、田舎のおばちゃん連中に一歩も引かない女丈夫へと成長していた。
――なんて、自分の母を改めていうとどうにもむず痒いものがあるが、事実なので仕方がない。無論、マザコンとの言葉は甘んじて受ける覚悟であるが。
「ああ、うん。ただいま。裏手の山にさ、電車があるじゃん。あれっていつからあるか知ってる? どこから来たのかってのでも良いんだけどさ」
「うーーん。知らないわね。ママがおじいちゃんに聞いた時は、昔は電車じゃなくて飛行機があったっていっていたけど……」
「……飛行機? あの、あの飛行機だよね。空を飛ぶ」
「ええ。なんでもおじいちゃんが小さい頃山に入ったらあったらしいわよ。でも、いつの間にかなくなっていたんだとか。確か、そう。パパが小さい頃には飛行機の代わりにバスが置いてあったらしいわ」
「…………」
どういうことだろうか、電車も大概だと思っていたが、飛行機や車だったこともあったらしい。もしかして、あそこにあるものではなく、あそこという場所にあることが重要なんだろうか?
「そうなんだ。他には何か知ってるはない?」
「ないわね。別に気にするようなものでもないし、あまり気にしたこともなかったから」
やはり、アレだけおかしなものがあるにも関わらず、あまり気にしたことは無かったらしい。顎に手を当てて考えこむ母。飛行機や車についての情報は初耳だったが、それ以外は大した情報がないらしい。
「そっかありがとう」
「どういたしまして。で、なに。あれのことを調べているの? もしかして大学のレポートとか?」
「いや、別にそんなんじゃあないんだけどさ。ふと気になって。どうせ予定もないまま帰ってきたわけだし、暇つぶしに調べてみようかなって」
「ふーーん。まあ、家でゴロゴロしているよりは健康的で良いかもね。でも、折角大学院に行けるんだから勉強の方もしておきなさいよ」
最後にお決まりの文句を言って台所へと帰ってゆく母。その背中を見送り、靴を脱いで玄関に置いたままにしていたリュックを背負う。そして、一歩ごとにギシギシと音を立てる古い板張りの廊下を渡り、自分の部屋へと辿り着いた。
七畳半ほどの部屋はガランとしている。勉強机と本棚、そして運ぶのが面倒でマンションには持って行かなかったデスクトップPC。大雑把にいってこれくらいしか物がない。定期的に母が掃除をしてくれていた成果であろう、チリひとつない畳の上に寝転んでダラダラとしたい衝動に駆られはするが、それを我慢して部屋の隅の押入れへと向かう。そして、所々破れた襖を開けると、そこには部屋とは相反するゴチャゴチャとした空間が広がっていた。
実は、部屋がガランとしていてモノが少ないのは、俺があまり物を持ちたがらない性分だからではない。必要なものの大半をマンションへと持って行き、そして残りの物を全て押入れへと押し込んだ結果でしかなかったのだ。その中を漁り、目的の物を探しだす。ただでさえ暑い部屋にあって、押入れの中は空気が停滞し淀んでいるため余計に暑く感じられる。埃と暑さと格闘すること十五分。体力と体内の水分を対価に得た物は父の遺品の一眼レフカメラとランタン、寝袋に蚊帳、簡易食料、水、固形燃料、ライター、箱ティッシュ、懐中電灯であった。このラインナップを見れば判ると思うが、つまりはキャンプ道具である。それらを、服の入っていたリュックへと詰め込んでゆく。別段本格的なキャンプをしようというわけでもないので、何れも一晩保てば良い程度の量でしかないためどうにかリュックに詰め込むことに成功する。服は元よりさしたる量も入っていないため出さずにおく。
――準備完了。
夜に備えてやるべきことは全てやった。後は夕飯を食べて行動に移るのみである。時計を見れば、母が帰るように言っていた時間――午後五時を回って少しというところだった。
「甘利ー! ご飯ー!」
丁度夕飯を告げる母の声が聞こえる。東京のマンションでは夜九時、十時の夕飯が当たり前になっていたが、田舎の夕飯は早い。大抵が五時から六時には始まり、遅くとも七時までには終わってしまうのだ。
「あーい、今行くー」
無駄に広い家の中、離れた場所で意思疎通を行おうとすれば必然声を張り上げる必要がある。
俺は母に返事を返し、道具を詰め込んだリュックを持って食卓へと向かった。
◆02
『いただきます』
母と俺の声が重なる。今晩のメニューは鶏の釜飯に鶏の唐揚げ、馬鈴薯の味噌汁、冷奴であった。見事に俺の好物ばかりである。
「ママ、唐揚げ美味しいよ。いや、やっぱ一人暮らしだと中々揚げ物とかはやらなくなるからさ……」
――さて、ここで言い訳を一つ。うん、『ママ』なんだ、呼び方。勿論、外では母さんと読んでいるけど、家の中ではママ。二十歳を超えた大の男がママ。自分でもどうかと思うけどママ。
あれだよね、昔からの呼び方だから、多少恥ずかしいと思っても、一度機会を逃すとズルズルと呼び方を変える機会を見失ってしまって……。だからまあ仕方がない。おそらくこれからも変えることは出来ないのだろうし、いつか彼女が出来たら
――言い訳でも何でもない、事実上の敗北宣言であるという説もあるが。
「そうね。揚げ物は油たくさん使うから洗い物大変だし、火も危ないからねえ。一人だとママもあんまりしないわ。だから、甘利が帰ってきた時くらいはいつもやらない分豪勢にやろうと思って」
唐揚げを頬張る俺をニコニコと笑顔で見ながら箸をすすめる母を見つつ、俺はこれからの予定について切り出した。
「ところでさ、ご飯食べ終わったら明日か明後日までちょっと裏山でキャンプしてくるけどいいよね?」
「キャンプ? なんのために?」
「さっき玄関で話したけどさ、あの電車のことが気になって、ちょっと篭ってみようかなって。それに確か、今日、明日は流星群がくるとかいってたから裏山からなら綺麗に見えるだろうし一石二鳥だからキャンプでもしようかなって」
どうかな、と目線で問いかける。なんだかんだと過保護な母のこと、難色を示すだろうと思っていたが、結果はそうならなかった。
「いいんじゃない? 裏山なら何かあってもどうにかなるだろうし、電車の中で眠るんでしょう? ならイノシシとかが来ても大丈夫だろうから。あ、蚊帳は持っておかないと蚊がすごいかもよ」
「ああ、そこら辺は抜かりなく。ちゃんと準備したよ」
そういってちゃぶ台の横に準備したリュックを指し示す。
「そう。ならいってらっしゃい。でも、何かあったら直ぐに電話しなさいよ。携帯は持って行ってね」
「了解。それじゃあ話も終わったしご飯に集中するわ」
そういって食事に戻る。その後は一心不乱に食事を続け、三十分程で食事を終えると手早く皿を片してリュックを背負った。
「じゃ、行ってくる」
「はい。いってらっしゃい。何度もいうけど危ないことはしないようにね」
「はいはい。大丈夫だって。それじゃあ、行ってくる」
背中にリュックの重みと母の視線を背負って玄関を跨ぐ。俺は、薄っすらと紫がかってきた山道への足を踏み入れるのであった。