七ノ怪
一体どれくらいの時間が経過したんだろう。
ニヤニヤ笑う鬼を前に思いつく限りの「おねだり」を実行したものの、依然として鬼さんは首を縦に振らない。
「ナンダ? もうお終いカ?」
「……もう思いつきません」
正直に答えれば鬼さんはあぐらを掻いた足に頬杖をして「まだあるだろう」と笑って催促してくる。
そんなこと言ったって。
頭を下げてもダメだし、手を着いてもダメだし、丁寧に言ってもダメ。もう他にどうしたら良いのか。疲れてしまって、頭も回らない。
鬼さんはわたしにこんな事をさせてどうしたいんだろう。惨めったらしい姿を見て楽しんでいるのかしら。
「鈴音、こっち来い」
ふいに鬼さんが手招きしてわたしを呼ぶ。わたしが必死に頭を下げ通している間、鬼さんの不機嫌さも徐々に消えていき、わたしの努力のおかげかどうかは分からないけれど、今では不穏な雰囲気は感じられない。
そのことに少しほっとしながら、呼ばれるまま鬼さんの前まで膝を進めた。
「お前さん、もう思いつかンというガ、まだやってない事があるダロウ」
「えーっと……例えば、どんなものですか?」
「良し。教えてヤル」
そう言って鬼さんがわたしのほうへ手を伸ばすと、わたしの両手をとって自身の胸に当てさせる。いきなりの事に驚いて手を引こうとしたけれど、強く腰も引かれて鬼さんの膝の上に強制的に下ろされる。
「な、なにを」
抗議を上げようともがいたら、有無を言わさない力で頭を硬い胸に押さえつけられた。滑らかな布地に頬が包まれて紫煙の香りが鼻をくすぐる。
なにこの格好は。恥ずかしさと嫌悪感で歪んだ顔が赤くなるのを感じて、余計に恥ずかしくなってしまう。
「鈴音。俺を見ろ」
顎をすくわれて鬼を見上げる格好にさせられる。
あまりに酷い行いの連続に思いっきり眉間に皺を寄せたものの、妖しい紅と眼が合った瞬間、間近にある鋭くも端整な顔に思わず固まる。
「鈴音」
囁く、というよりも、呪いでもかけるような声音に背中がぞわりとする。ゆったりと硬い指で頬を撫でられ、言いようの無い緊張から体が強張っていく。
「花が欲しいと、言ってみろ」
「え?」
「強請ってみろ」
言われて思い出すあの花。あの綺麗な、不思議な花。甘い香り。
それに、この光景……どこかで見たような……。
すぐ見上げた先には笑う鬼。だんだんぼやける頭の中。
それにまた、どこからか漂ってくる甘い香り。後もう一つは――
『悦ばせないと』
『怖くないよ』
透き通る声が耳に反響する。雨水が土へじんわり染み込む様に、艶っぽい涼しげな声が頭の芯へ響いていく。
……そうだ。これがわたしの役目。役目を果たせば、平穏な日常が送れるんだ。鬼さんとも上手くやっていける。
「鬼さん……」
夢心地で呟いてひたと妖しい紅を見つめ返す。
甘い余韻が意識を朧げなものに変えていき、声に出すべき言葉をわたしに伝える。
「鬼さん、あの花を、わたしに下さい」
どこからかあの品の良い笑い声が聞こえてくる。なんだか頭の中に直接響いて聞こえるみたい。くすくす笑う声が消えると『どうしても』とわたしに囁いてくる。
あぁそうか。『どうしても』って言葉も添えて言わないと。
……あの時と同じように。
「どうしても、欲しいんです」
知らずに艶っぽい赤銅色の鎖骨に手を添えて、笑い声と同じように澄まして囁く。
添えていた手に大きな手が被さり、そこから離れたら今度はゆったり耳から頬へ無骨な手が流される。
「鈴音……」
囁くような声が聞こえると同時に、煌く紅が二つ閉じられ、枝模様が広がる顔が近づく。
何度も嗅いだ紫煙の香り。花の香りよりも強くなって、次第に包まれる。その刺激の強い香りがわたしの鼻の奥をついて――
「っく……しゅんっ!痛っ!」
おでこに衝撃が走って思わず手で押さえる。
ずきずきする場所をさすりながら鬼さんを見上げると、盛大にくしゃみが出たと同時に思い切り鬼さんの鼻と衝突したらしく、鬼さんが指で自分の鼻をさすっていた。
「鈴音お前……」
呆れと驚きと、あとよく分からない感情が混ざったような顔で、鬼さんが顔を引きつらせて呟く。
いや、それよりもわたし、どうしたんだっけ。なんか、変な感じ。起きたばかりのような、寝ぼけているような感覚がするけれど。
はっ。まさか鬼さんにまた変な術でも掛けられたんじゃ……
鼻を気にしている鬼さんをいい事に、ずりずりと鬼さんの上から降りて畳の上に逃げる。が、すぐに腕を掴まれて引き戻され、顎を鷲掴みにされると有無を言わさず目を合わせてきた。
そしてそのまま視界いっぱいに枝模様が広がり、口を塞がれた。
驚いて仰け反るも、物凄い力で抑えつけられて逃げられない。そうこうもがいている間も、唇ごと何度かすくい上げられ一瞬離れたかと思ったら、またすぐに塞がれる。
く、苦しい……!
甘ったるい感覚なんてなくて、まるで噛み付かれているかのような錯覚を起こせば、歯列を割って入り込んだ熱い舌が中を抉るように暴れまわる。
息が、苦しい。あまりの力の強さと酸欠状態に、だんだん心が恐怖に挿げ替えられていき、知らず知らずのうちに鬼さんの着物を掴む。
もう駄目。
息が出来ない!
堪らず両目から涙が零れ、横に流れる。そして涙の跡が冷たくなって限界が近づいた直後、唐突に解放された。
塞がれていた口からめいいっぱい酸素を吸っては咳き込みながら、這うように畳の上に逃げ込んで両手をついた。
「なンダ。この程度で根を上げて。鈴音は情けないナァ」
小馬鹿にした口調が背中に投げられる。
それでもわたしは怒りよりも、嫌悪感と怖さでなにも返せなかった。ただ俯いてずっと下唇を噛んだまま、固まっていた。
「……さて、籠に戻るカ」
しばらく沈黙が続いて、鬼さんが口を開いた。わたしはある程度息が整っても、鬼のほうを向けないでいた。
……どうしても鬼さんの顔を見たくなかった。
畳を踏む音が背後から近づいてくる。わたしの鼓動も比例して早くなり、ぎゅっと胸元を握りこんで足音に耳をそば立てる。
すぐ後ろで足音がやむ。心臓がはねて息を詰めるけれども、何も起きない。重い沈黙がまた広がり、緊張の糸が張り詰める。
「……オイ」
「嫌っ」
声とともに肩に掛けられた手を反射的に払う。
素早く立ち上がって和室の襖に向かって駆け出し、取っ手に手をかけた。襖はすんなり口を開けてくれて、何の抵抗もせずにわたしを真っ暗な廊下へ通した。
後ろを振り向かずに滅茶苦茶に走り出す。
もうとにかく、鬼さんから離れたかった。
ある程度走った後、昂った気持ちも落ち着いてきて足を止める。見慣れている廊下とはいえ、正確な道順がわからない。
仕方ない。暗い廊下をとぼとぼ歩き始める。そして曲がり角を曲がったその時。急に発火音がして目の前が紅く広がり、暗い廊下が照らし出される。まじまじと前を見つめれば鬼火がわたしの前にふよふよと浮いている。
び、びっくりした。
胸を撫で下ろす私をよそに、ふらりふらり宙を漂いながら鬼火は廊下を進んでいく。
これで部屋に戻れるんだろうけれど、鬼さんがいたら嫌だな。
鬼さんはどうして嫌がることばかりするんだろう。わたしと穏やかに付き合っていく気はないのかしら。
勿論、妖怪である鬼さんからしたら自分が楽しむ為にわたしを傍に置いているんだろうから、わたしの望む平穏な生活なんて知ったことではないんだろうけれど。
鬼火の後について行きながら、わたしは涙まじりの溜息をついた。
部屋へ戻っても鬼さんの姿はなかった。
いつもと違うとすれば籠の出入り口は開け放されているだけで、他はいつもと変わらない。
鬼さんがいないことにホッとして籠の中へ戻れば、格子戸が静かに閉まり鍵がかかる。見図ったかのように鬼火も現れた時と同じ音を鳴らして消えた。
籠の中心に座ってまたホッと息を吐く。気分が重い。
その時ふと、鼻をなにかがくすぐった。
これって――
香りのするほうへ顔を向ければ、整頓されている机の上にそれはあった。
肉厚のある大きな花弁をいっぱいにして、淡く光る常闇の花。あの甘い香りを零れさせながら籠の中を華やかにしている。
そっと近づいて、両手でゆっくり持ち上げる。
少し顔を寄せただけで頭の髄にまで届く優しくて甘い香り。目を閉じて思いっきり吸い込めば、まるで花畑の中にでもいるようだ。
――鈴音ちゃん
凛とした声が聞こえる。
わたしを、呼んでいる。
そっと目を開ければ、見えてくる。
籠の向こうに佇む、美しい妖艶な姿が。
――鈴音ちゃん。またお話しましょう?
今度は何を話しましょうか。
そうね。今度は何が良いかな。
鬼さんもいないし、女の子だけの話でもしようか。
綺麗な顔が香りと同じように優しく頷く。
籠に近づいて、わたしの目の前にきてにっこり笑った。
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「う……ん。えっと……あれ?」
喉の奥が震えて目が覚める。意識が浮上したなら、いつの間にか寝てしまったんだろう。
畳の上で長い時間眠っていたのか、体が痛い。うんと伸びをしてから、軽くストレッチをして体をほぐす。
あ、そう言えば。
はっとして机の上に目をやる。
そこには花は無く、黒く縮こまった花弁が数枚落ちていただけだった。
あれ? わたし、どうしたんだっけ。
それにあの花。あれはどこに行ったんだろう。
机の下を探しても籠の向こうを覗き見ても無い。
どこに行ったのかな。
残念に思いながらその場に座り込む。
それにしてもなんだか、体も頭も軽い。なんだかスッキリした感じだ。たくさん寝たからリフレッシュ出来たのかしら。
一息ついてからしばし考え込む。
特に急いでやることは何も見当たらないし、寝たばかりだから頭も冴えてる。丁度いいから日記でも書こうかな。
わたしは日課となった日記を書くため、机に向き直った。




