十七ノ怪
鬼さんの最低限の気配りかそれともお情けか。
感覚のなくなった左足は全く役に立たないわけではなく、棒のようにして少し支えにすることが出来て、なんとか歩けなくもない。
それでも片足が不自由だと、どうにも歩きにくい。すぐに疲れてしまって自然と息も上がる。
このままだと現世につく前に倒れてしまいそう。
後ろを振り返れば既に鬼の門の入口は見えず、わたしの辺りだけが不思議にぼんやりと明かりが灯っている。
不安になってくるけれども、立ち止まってる場合でもない。早く先に進まないと。
顔を正面に戻し、はぁと息を吐いて顔を上げる。
そしてハッとして目を見開いた。
「光が……」
微かだけれども、ずっと向こうに光が見えた。きっとあれが出口だわ!
落ち込みそうになった気持ちが上向いてくる。
ぐっと顎を引いて気を引き締め、また感覚のない左足を引きずり歩き出す。
小さな光は足を進めるたびに大きくなる。太陽の光ではないのだろう。射すような強い光ではないけれども、常闇の月たちとは違って柔らかい。
やがて柔らかい光が溢れてわたしを包み込む。それから少しだけ湿気を帯びた風がわたしの髪を撫でると、辺りの空気が変わった。
木々のざわめく音が聞こえてくる。さっきまで自分を纏っていた闇は引いていき、わたしは数多の星と懐かしい妖しさのない月明かりの下で佇んでいた。
「……戻ってきた。現世に……わたしの、元の世界に……」
懐かしいその場を見渡せば、あの頃と変わらない景色。街を見渡せる場所の手すりに行くと、宝石みたいにキラキラと光る街の小さな灯りや流れる車のライトがわたしの目を釘付けにした。
「綺麗。とても、明るい」
思わず呟いて、ふと下の車道に続く山道を見る。
あの時お姉ちゃんが慌てて降りていった光景が思い出される。
「……お姉ちゃん」
じわりと涙が出てくる。きっと今降りて家に帰っても、前に見た夢のように、誰ひとりわたしのことを覚えてはいないんだろう。不審者扱いされて、多分冷たい目で見られる。
……そんなの、嫌だし悲しい。
あぁだめ!
こんな感傷に浸ってる場合じゃない。急がないと!
涙を拭いて鼻をすすると、振り返って真新しいお社へ近づく。
鍵はかかっていないようで扉はすんなり開いた。良かった。これで開かなかったらどうにもならなかった。最悪力任せに壊したりするしかなかったもの。
「お邪魔します」
一応両手を合わせて、お社にお断りをいれてから中に手を入れる。元々何を祀っているのかは分からないけれども、神様が居るのには変わりないだろうから。
……鬼さんに乗っ取られている部分はあるかもしれないけれど。
中に備え付けられているマッチを取り出し台座の蝋燭に火を灯す。
確か左の棚の引き出しに仕舞ってあったはず。
そっと桐で作られた棚の取っ手を引き、中を覗く。そこには懐かしいオルゴール。ゆらゆら揺れる蝋燭の明かりに照らされて、木彫りの向日葵が浮かび上がっていた。
手に取って蓋を開ける。あの時と変わらず、向日葵の髪飾りとバースデーカードが入っている。……本当に、時が止まったままみたいに。
蓋を閉じて手に持っていた紙袋の中へ仕舞おうと紙袋の口を開ける。その時に封筒が目に入った。
そう言えばこれ、なんなんだろう。バタバタしてたから入っていたのは知っていたけれど、気にも止めていなかった。
封筒には何も書かれてはおらず、封もされていないみたい。
何が入っているんだろう。現世に行った時に必要なものだったのかしら。
蝋燭の近くに寄って中身を覗いてみる。
それからわたしは目を見開いた。
「……これは、お金?」
全部一万円札。しかもかなりの束だ。こんな大金、持って来てどうするつもりだったんだろう。
そして封筒の中をもう一度よく見ると、なにか手紙の様なものが数枚入っていた。中身を見ようと手を入れる。――その時だった。
「おねえちゃん?」
「きゃっ!?」
背後から突然声をかけられた。
飛び上がって慌てて振り返ると、揺れる蝋燭の明かりで小さな影が見えた。
「だっ誰?」
背格好と声からして子供だろう。
かろうじて蝋燭の灯りが届く範囲に、おそらく戦隊モノの少年用運動靴が見えた。
「ボクだよ。光助だよ」
「こう、すけ君?」
光助君って、時雨ちゃんの、みっちゃんの弟くんの名前。以前会った時はもっと小さい、よたよた歩きな小さな男の子だった。
驚いているわたしに光助くんがトコトコ歩いてくると、彼の姿が蝋燭の明かりに照らされてはっきり見えてくる。
よれよれのシャツに薄汚れた短パン。少し骨ばった手足に顔。短く刈りあげられた頭。一目見て貧しい家庭なんだと想像がついてしまうような格好で、光助くんは嬉しそうにわたしの方へ近寄ってきてニカッと笑った。
「やっぱりおねえちゃんだ! 来てると思って来ちゃった!」
「来ちゃたって……ここに一人で?」
久しぶりに会ったはずなのにまるでつい最近会ったみたいな口ぶり。
しかも今の正確な時間帯は分からないけれど、夜中なのは確かだ。こんな街灯の少ない山のお社に、小さな男の子が一人でここに来るだなんて。
色々と驚くわたしに光助くんは少し不思議そうな顔をしたあと、ポケットから小さなお守りを出して頷いた。
「そうだよ。ほら、前におねえちゃんからもらった不思議なお守りを持って来たから、大丈夫だったよ。お母さんたちもボクが家を出ても、気づかないし平気」
明るく笑うその顔に、みっちゃんに感じた同じ陰りが伺える。勝手な憶測だけれど、みっちゃんにあんなことをした親たちだ。こんな小さな光助くんが家を出ても興味も無ければ気にもしないのだろう。
「ねぇねぇ、今日はミツおねえちゃんからのお手紙ある?」
「え? 手紙?」
「おねえちゃんはミツおねえちゃんの親友だから、遠いところにいるミツおねえちゃんからお手紙もらえるんでしょう?」
「え……」
遠い所? 手紙? 何の事を言っているのか分からない。
光助くんはみっちゃんが(現世ではというか、人間だったという意味で)死んでしまった事を知らないのかしら?
「あ、あのね、この間おねえちゃんが一緒に買いに行ってくれたクツなんだけどね、クラスのみんなにスゴイ! って言ってもらえたんだ! だからね、お友達できたんだよ!」
頬を赤らめて嬉しそうに話をする光助くん。舌ったらずな口調で懸命にわたしに自分の事を話してくれた。
『前にわたしと一緒に』ってことは、時雨ちゃんがわたしの体を使って現世に行った時のことなのかな。それなら話は合うわ。
「お母さんお金ないから服買えないって。でもミツおねちゃんが遠い所で働いたお金のおかげで公園のトイレで着替えて学校行くから、みんな遊んでくれるようになったんだ! 塾に行っている子からも勉強教えてもらえたりしたんだよ!」
「そう……なの……」
「うん! あ、ねぇねぇ。今日も一緒にお買いもの行けるの? ボク、友達とゲームしたヒーローの服とズボン欲しいな! ゲームはおじさんに見つかると捨てられちゃうから買えないけど、服ならトイレで着替えるから!」
トイレで着替える。
新しい服を買ったことを知られたらどんな目に遭わされるか。
意図せず光助くんの言った言葉の裏に嫌なものが想像出来て、常闇で経験したものとは違う、背筋が寒くなるような胃の辺りが悪くなる感じがした。
「光助くんは、わたしと一緒に買い物に行ったの?」
「そうだよぉ。忘れちゃったの? ミツおねえちゃんは遠い所から出られないから、代わりにおねえちゃんがボクに会いに来てくれたんでしょ。お手紙とお小遣い持って。ね、今日もお買い物行こ! 大きなお店に行ってお買物しよ」
買い物もなにも、こんな夜中に営業しているお店なんて地元にあるかしら。都心の方へ行けばあるかもしれないけれど、遠いし。
そもそも今何時だろう。
「光助くん。今何時か分かる?」
「えっと朝の三時半だよ。お店まだ空いてないけど、ファミレスならやってるよ」
「三時半!? そんな真夜中なの!? そ、それにファミレスだなんて」
「ここにはないけど、僕の住んでる所にあるよ。二十四時間営業しているの」
そう言えば、お母さんと光助くんはみっちゃんの葬儀の後引っ越したんだ。
そうだ。ここに、お社に光助くんが来れること自体おかしいんだ。
「ねぇ光助くん。君、どうやってここまで来たの? ここから遠い所に引っ越したよね?」
「えー? おねえちゃんがくれたお守りで来たんだよ。また忘れちゃったの? ボクのお家の近くにあるお社にお願いして、ここのお社の場所にワープ出来るんだよ」
「そ、そうなの? わ、ワープが出来るんだ」
「うん。ミツおねえちゃんがボクのことすっごい心配してくれるから、お守りとかおまじないとか掛けてくれたんだって、おねえちゃん前に言ってたじゃんか。だからね、おじさんにぶたれたり、お母さんが怒らなくなったんだ」
……みっちゃん。
ぎゅっと胸が締め付けられる。
あれだけわたしに代わって日向の世界で暮らすだなんて言ったいてけれど、自分の為じゃなくて、光助くんの事が心配で来たかったんだ。
なんで、そう言ってくれなかったんだろう……。
「でもね、ミツおねちゃんが強い男の子にならなきゃダメだから、大きなしせつっていう場所で暮らさなきゃダメって。ボクお母さん怖いけど、お母さんと離れるの嫌だな。おじさんだけいなくなれば良いのに」
「おじさん? さっきもおじさんって言ってたけど、お父さんじゃなくて?」
「うーん。ボクのお父さん出てっちゃったんだって。今は知らないおじさんがいるよ」
なに、それ。
またあの母親は繰り返すの? また同じに? これだけ子供たちが苦しんでいるのに? また?
言いようのない脱力感が身体全体に圧し掛かり、肩がズシリと下がった。
……あぁ、もう……この姉弟の母親は……駄目なんだ。負の連鎖から抜け出す気も無く、立ち直る気もないんだ。
子供よりも、男の人に縋って生きることしか頭に無いんだ。
「おねえちゃん大丈夫?」
顔色が悪くなっているであろうわたしの顔を、幼い顔が覗きこむ。
心配そうな顔はどこまでも無邪気で、その純粋な瞳は憎悪や怨恨とは程遠い。みっちゃんだって昔はきっと、こんなだったんだろうな。
一度強く目を閉じて、見開いた。
「光助くん」
「なぁに?」
「おねえさん、今日は早く戻らないといけないの。だから光助くんもお家に今日は帰ってもらえないかな」
「えぇー!!」
絶叫とともにすぐさま泣き顔になると、光助くんは激しく首を左右に振りながら地団太を踏んだ。
「やだやだやだ! せっかく会えたのに! お家帰るやだ! お母さんたちきっともう出かけてるし嫌だ! もう一人嫌だ!」
「あのね、光子ちゃんが、光助君のお姉ちゃんが危ないの! 急いでお姉ちゃんの所に戻らないと」
「ミツおねえちゃんに会うの? ならボクも連れてって! じゃなきゃ嫌だ! 帰んない! ぜったいぜったいぜったい帰んない!」
夜の静寂に光助くんの泣き声が響き渡る。
困ったわ。すぐに戻らないと、みっちゃんが、時雨ちゃんが。もしくは紫さんがどうになかってしまうかもしれないのに。
「お願い。今日は帰りましょ? 一緒にお家まで送っていくから」
「ぜったい嫌っ!」
「光助くん……」
「お、置いてかないでよぉ~。ボク、い、嫌だよぉ。み、ミツおねえっちゃんに会いたいよぉ! 遠いところにいくならボクも連れてって! おねえちゃあぁん!」
泣きじゃくりながら訴える光助くん。
きっと日常的に辛い目に遭ってる光助くんにとって、以前わたしに、というより時雨ちゃんと会って過ごした時間は、今日まで支えになっていたんだろう。
その小さな肩に両手を置いて、それから宥めるように小さな頭を撫でる。
「遠い所はね、とっても危ない所なの。だから光助くんを連れてはいけないの。怪我したりしたら、きっと光助くんのおねえちゃんだって悲しよ」
「それでもいい! ミツおねえちゃんに会いたい! 会いたいよ! もう一度会いたい! 会うまで帰んない!」
……どうしよう。困ったわ。本当に時間がないのに。
光助くんの様子ではどうあっても動きそうにない。でも光助くんをこのまま残して行くわけにもいかないし、常闇に連れて行くだなんて絶対に出来ない。
あんな魑魅魍魎どころか鬼だらけ妖怪だらけの世界にだなんて、それこそ絶対に連れていけないわ。
どうやったら説得できるんだろう。
「お困りの様だね」
不意に男の声が聞こえた。反射的に光助くんを引き寄せて構える。
木々のざわめきと共に表れたのは風に流れる銀糸の髪に、月明かりに浮かぶ細い角。
「あなたは……」
目の前に現れたのは、夜叉を思わせる白い影。その姿とは対照的な通り名を持つ黒い鬼。そう、愚痴の鬼だった。




