十三ノ怪
どれだけの日数が過ぎたんだろう。
窓も無く音も無いこの狭い空間にいて、食べる物もほんの僅かで。闇の中一人取り残されている日々が続いた。
時雨ちゃんが時折部屋に来てはわたしの痣を見た。
少しでも動いていると、とても嬉しそうにしては優しくしてくれるんだけれど、まったく動いていないとまたわたしを痛めつけた。
「早く闇に馴染んで。鬼になって」
繰り返し呪いでもかけてるように呟きながらわたしを壁に、あるいは床に叩きつける。
辛いし、痛い。もうやめて欲しいと何度も思った。
けれども、それよりも彼女のその般若の表情が気になってしまって。
痛めつけている本人が何よりも悲痛な顔をして、気が付いていないのか、時折涙まで滲ませていた。
身体が痛みに強張る度に、時雨ちゃんの感情がわたしの中へ入り込んでくる。
知らない男の人。お母さんの友達。
あの人が来てから、みっちゃんのお母さんが変わっていった。
時雨ちゃんに顔を思い切りはたかれる。
みっちゃんのお母さんがみっちゃんにしたように。
お母さんのお友達は、みっちゃんのお父さんになった。みっちゃんのお母さんはあの男の人と再婚したんだ。
それから年の離れた弟さんが生まれた。
みっちゃんと仲良くなったのは中学生の時からだ。
でもその頃にはみっちゃんの家庭環境は劣悪で、それでも誰にも気づかれないくらい、学校や遊ぶ時のみっちゃんはいつも穏やかだった。
壁に身体が激突し、ずるずると床に倒れ込む。
もう体のどこもかしこも痛くて、逆にどこが痛いのかもよく分からない。
「辛い? ……私のことが憎い?」
ささやき声が上から降って来る。
呆然としながら歪む視界に綺麗な顔を映した。今日はもう般若顔じゃないんだ。
「鬼になるまでの辛抱だから。私サエちゃんが鬼になってくれるのなら、怨まれても全然気にしないからね。親友だもの」
ボロボロの服越しに綺麗な手が優しく撫でてくる。
「私のお友達はサエちゃんだけ。サエちゃんが日向に溢れていると他の子達が寄って来ちゃうから、早く無くなると良いな。また二人でお茶をしたいし、私も早く日向にあふれた生活をしたいから……ね?」
冷たい水が頭から掛けられる。
その鋭い冷たさにぶるりと震えれば、水は生きたように身体を覆い巡って傷に寄り添い消していく。
「大事な私達の体だからね。大切にしないと」
嬉しそうな声がした後、部屋の片隅に乾いた音が響いた。
「今日もご飯は少なくしておいたから。お腹一杯になったら痣の移りが遅くなるものね。あぁでもきちんと食べてね。身体が死んでは意味が無くなっちゃうから」
時計も窓もないから定かではないけれど、お茶碗に気持ちほど入れられたお粥は毎食出ているわけではないみたいだ。毎食どころか、数日に一回かも知れない。
痛みと疲労で閉じていた目を開けた。でもすぐに視界は暗く覆われた。
「またね。サエちゃん」
慈愛に溢れた声が暗闇に響いて静かになった。
ぐったりと横になる。
時雨ちゃんはまたと言っていたけれど、今度来るのはいつになるんだろう。
常闇に来たばかりのころに、紅い鬼に和鳥籠に入れられた時を思い出す。
あの時は暴力も無かったしご飯も少なからずあったけれど、何故だろう。今これほどまでに痛みつけられているのに、辛さが大差なく思えるのは。
どうしても怨めなかった。
ただ悲しかった。
時雨ちゃんが闇を訴えれば訴えるほど、みっちゃんの辛さが生々しく鮮明に感じられる。
実の親からこれだけの仕打ちを受けてなお、学校でも浮いてなじられて馬鹿にされて。それでも好かれようと努力して、恨み事一つ言わないで。お母さんが大好きで。
だからあの時。好きな先輩に裏切られた光景を目にして、自分の悲しい気持ちに素直になったあの瞬間。みっちゃんの心はすでにあの悲しい顔をした鬼になってしまったんだ。
どうしてそんな彼女を怨めるというんだろう。
鬼になって、人間に戻りたくないだなんて言うくせに、日向にあふれた生活を夢見てるだなんて。そんなの……悲しすぎる。
でもわたしのそんな気持ちが顔に表れてしまったのか、日ごと般若の顔がより歪んでいき、さらに暴力が増していくのだ。
耳が痛いほどの静寂の中、部屋の片隅で膝を抱える。
わたしが鬼になれば全て丸く収まるのだろうか。
自分の体を差し出して、人間を辞めて鬼になって。ずっと時雨ちゃんと暮らして。
……でもきっとそんなことになれば、それこそ悲しみも何もかも忘れて怨むようになるんだろう。そして本物の鬼になるんだわ。
そしたらどうなってしまうんだろう。今度はわたしが妬ましさや寂しさから、家族や友達を常闇に連れ去ろうとするのかしら。
嫌だ。そんなこと絶対にしたくない。
人間を捨てることよりもそっちのほうが恐ろしい。
はぁっと深く息を吐いた。
鬼になるわけにもいかないし、人間を辞めるわけにもいかない。だとしたら、分かり切っているのはここから、時雨ちゃんの所から出ていくことだ。
行く先なんて無い。現世にも恐らく、鬼に与えられた名前しか持っていないわたしには行けないだろう。
でも、ここから出ていかないと。彼女の傍にいても、お互いに良いとは思えない。
もっと他に、時雨ちゃんを説得できる何かがあれば良いんだろうけれど。今のわたしには無理そうだわ。
多分、オルゴールと先輩の話をしようとしても、その前にまた激昂して叩かれてしまうんだろうし。
とにかく、やるだけのことはやろう。
結論が出るまでにずいぶん時間が経ってしまった。
おそらくある程度ぶたれ慣れたせいもあって、考える余裕が出たのもあるだろうな。
……決して良いことではないんだけれど。
傷は癒えたけれど動くと体は鈍いし、起こせば重い痛みが走る。
壁を支えに何とか立ち上がる。顔を上げても辺りは真っ暗だ。音もよく聞こえない。
慎重に足を動かして頭を持ち上げる。その時、目に何かチカッと光るものが飛び込んできた。
なんだろうと頭を巡らし、暗闇の中必死で頭を上下左右に動かす。そうしているとまた、眼に光が飛び込んできた。
そういえば、ここには台所に続いている小さな穴があったはず。
あそこから覗きこめば、外の様子が見えるかもしれない。
わたしが生活している間は誰も訊ねてこなかったけれど、わたしがいなくなったのであれば、もしかしたらお客さんが来るかもしれない。
おそらく妖怪しか来ないのだろうけれども、なにか解決の糸口は見つかるかもしれないわ。
それは途方も無くゼロに近いどころかマイナスのような希望ではあったけれども、今はこうしてなにか動かなければなにも得られない。
一か八かの賭けだ。
誰でも良い、気づいて欲しい。
重い足を引きずってチラチラ光るそれを頼りに壁へ辿り着く。そしてへばりつくように壁に両手と身体を預けて、光が漏れるその穴を覗き込んだ。
ちょうど穴を挟む形で湯呑が置かれているらしく、視界は狭いけれど障害物がなくてなんとか部屋の中がえた。
少し薄暗く、明るさからして夜の様だ。もしかしたら、わたしがもう外で生活していないから、仮の陽を上げる必要が無くなっただけなのかもしれないけど。
「誰か……」
声を出しかけてやめる。
あまり大きな声を出したらあの三人の子達と同じように、時雨ちゃんに気付かれてしまう。最悪な場合、穴の存在に気づかれて、唯一外部に通じるこの穴を塞がれてしまう。
何かいい方法は無いかしら。
……そう言えば、部屋の中が見えるっていうことは。誰かが棚の戸を開けているっていうこと?
ふわりと空気が動く気配がした。穴の向こうからお香の香りが漂ってくる。
もして、時雨ちゃんがいるの? 気づかれた?
「どなたか……?」
ギクッと体が飛び跳ねた。
ドクンドクンと心臓が飛び跳ね体が硬直する。
でも、すこし間があってから気づいた。今の声は女性じゃない、低い男の人のもの。
まさか――
「紫さん?」
覗き穴の向こうにある戸が静かに閉まると、薄らとした紫色の霧が流れるように戸の隙間から入り込んでくる。
そしてあっという間に、目の前が紫色に包まれた。
「御姫さん、こちらにいらっしゃいましたか」
労りのある声。
真っ暗で姿こそ見えないけれど、辺りに紫さんの気配が漂っているのが分かる。ふわりふわりとしたものが、石ばかりで出来た部屋の空気を震わせている。
「紫さん、どうしてここが」
「私は煙ですよ。香隠れの里に行かれたのでしたら、すぐに耳に入ります」
「だって時雨ちゃんには分からずに、そんなことが?」
時雨ちゃんは香隠れの里にずいぶん行き慣れていて、知り合いもずいぶんいた。後から聞いたけれど、偉い方にも口止めをお願いしていたのも知っている。
しかも時雨ちゃんが行ったのはたったの一回だ。わたしはニ回行ったけれど、どちらも鬼の姿だったし。
「鬼姫様とて全ての妖に精通しているわけではありません。それにいくら長く里を離れているとはいえ、私が鬼姫様より里の繋がりが浅いわけがありません。鬼姫様はそこを読み間違えたのでしょう」
背景はよく知らないけれど、紫さんは独自のネットワークを使ってわたしを探し当てたんだ。結界だとかいろいろあるはずなのに、一体どうやってこの箱庭に入ってきたんだろう。
鬼さんの力でも借りている、とか?
そう思ってハッとする。
「も、もしかしてっ紅い鬼も、鬼さんもわたしがここにいる事を知っているんですか?」
焦った声が石壁に囲まれた部屋にこだまする。
思ったより声が大きかったせいか、わんわんと耳が鳴った。慌てて身体を強張らせるも、時雨ちゃんが気づいた気配は無かった。
ほっとして紫さんからの返答を待ったけれども、返ってきたのは静寂だった。
「……紫さん?」
気配はある。でも、声は返ってこない。
不安になって両手で前のほうを掴んでみるけれど、紫さん相手なら当たり前で、なにも手には収まらない。
「……御姫さんは鬼様のところへは戻られないおつもりなので?」
沈黙を破ったのは重苦しい声。
息が詰まる様な声音に思わずたじろいてしまうけれど、なんとか口元に力を込めた。
「ここからは、時雨ちゃんのところからは出ていくつもりです」
正直に言って、わたしは紫さんの問いに逃げた。
代わりに自分が決めたことを口にする。
「ではここを出て何処にいくのです?」
「それはまだ……で、でも、ここにはいられないですし……」
「ここを出て鬼様の所にも行かずどうするんです? 常闇を生身の人間が生きていけるとでも?」
「そんなの……やってみなければ、分からないじゃないですか」
しどろもどろなわたしの答えに、大きな深いため息が聞こえた。そして「なんて愚かな」と蔑んだ声が耳に届いた。
一瞬ムッとして口に力が籠ったけれど、確かにわたしが言っている事はあまりにも無謀だし幼稚すぎる。
でも他にどうしろというのだろう?
人間として望みゼロで常闇をさまようか、人間を辞めて鬼になるか、それとも廃人覚悟で鬼の人形になるか。
もうこの選択肢しか残されていないのなら、紫さん達から見たらどんなに馬鹿馬鹿しくてもやっぱり人間でいることを選びたい。
「わたしは人間でいたいです。でも鬼のおもちゃにされながら生きていくなら、人間のままで死にたいです」
鬼さんの所から逃げた事は後悔している。
でもそれはあの三人が死んでしまったことや、時雨ちゃんが残酷なことをしてしまった原因になったからであって、自分が辛い目に遭っている事に対する後悔じゃない。
こみ上げてくるものを堪えながら口を強く結ぶ。
ぎゅっと握りこんだ皺だらけのブラウスがさらに手の中で縮まった。
「……困りましたねぇ」
頭が痛いとでも言いたげな溜息がまた聞こえた。
顔色を伺おうと思って目を上げても、真っ暗闇では何も見えなかった。そもそも紫さんの場合、ただの煙の姿でいるのなら顔色も何もないのだけれど。
「とにかくはわたしは、ここから出ていきます。それから先は」
「誰と話しているの?」
闇の中に響いた高い声。
それは不機嫌さを含んで明かりが点いた時には、部屋の入り口に声の主が佇んでいた。
「これはこれは鬼姫様」
明かりに入った部屋で目にした紫さんの姿は、いつも見せてくれた神主のような姿だった。
ニコニコとしながら人を食ったような顔をして、恭しく現れた鬼女に頭を垂れた。
対して美しい顔をした、鬼姫と呼ばれた彼女は、無表情に鋭くした金色の目を紫色の頭へ突きつけていた。




