十一ノ怪
目を覚ますとすでに仮の陽は高く昇っていた。
だるくて重い腕を動かして顔を上げる。枕元にある置時計を見ればお昼ご飯前の時間だ。
ゆっくり体を起こす。掛け布団もかけないで眠っていたせいか、肌をさすれば少し冷えている。
頭が重い……それに痛い。
頭の中身に鉛でも入れられたみたいに重くて辛い。しかも内側から針で刺されたような痛みもある。
俯いて頭を抱えて込んだ時に、膝の下からカサっという乾いた音がした。足をどけてみれば、紙が一枚わたしの下敷きになっていた。
頭にやっていた手を伸ばしてその紙を掴む。
よく見れば畳まれた白い和紙みたいで、皺になってしまっているけれど破れてはいないみたい。
それをゆっくり開いて中に目を落とす。
『起きて支度が終わったら台所に来て』
読める文字に目を走らせた途端、喉が絞まるような錯覚が起きる。肩も重石でも乗せたかのようにズシリとして痛いぐらい下がった。
台所に行ったら、何が待っているんだろう。どんな顔をして時雨ちゃんと向き合えばいいんだろう。
色々考えても答えは出ない。このまま固まっていたら時雨ちゃんが部屋へ来てしまうかもしれない。
そのほうがより気分が重くなりそうだわ。
なんとか自分を叱咤して重い腰を上げる。
そして不安を抱いたままなんとか朝の支度を終えると、部屋を出て四季の絵が並ぶ廊下を歩いた。
……リビングの前まで来たのは良いんだけれど。足が進まない。
何度かリビングの敷居を跨ごうとして足を浮かせるんだけれど、どうしてもつま先が床から離れない。
いやだ、なんだか冷や汗まで出てきそうだわ。
「サエちゃん?」
思わず身体が跳ねた。前のほうに気配を感じて、咄嗟に顔が下を向く。
「よかった目が覚めたみたいで。具合が悪くて起きれないんじゃないかと思って、心配していたの」
いつも通りの口調で、優しく声をかけられる。
あんなことがあったのなんて、夢でも見たんじゃないかとさえ思えるほど、普段と変わらない声。
「もうお昼になっちゃうけれど、朝ごはん出来ているから席に座って。あっさりしたものにしたから、きっとサエちゃんも食べられるわ」
そっと顔を上げれば、いそいそとエプロン姿の彼女が台所へ消えていくのが見えた。
しばらく立ったままでいたけれど、いつまでもそのままで居るわけにもいかず、相変わらず重い足取りでいつもの食卓に座る。
レモン色のテーブルクロスの中央には青と薄緑の花が白い花瓶に活けてあった。
ぼんやりとそれを眺めていると、白い腕が視界に見えて手元に食事と箸が置かれた。
「梅茶漬けにしたの。出汁もしっかりとってるし、美味しいわよ」
強張っている指を動かして箸を持つ。けど、どうしても食事にする気にならない。
「食べないの?」
ビクッと顔が引きつった。僅かに視線を動かして時雨ちゃんを見れば、頬杖をしてこちらを微笑みながら眺めている。
一度ふっと息吐いて落ち着かせる。
それから唇を舐めて湿らすと、食事に取り掛かった。
黙々と食べた。他のことを感じるのを拒否する勢いで食事することだけに集中した。
一度だけ、物音がして箸が止まった。
途中時雨ちゃんが立ち上がり、恐らくお昼ご飯だと思われるものを持ってきて、向かいの席で食べ始めたから。
でもそれ以降は、黙々と食べ続けた。
いつもならお行儀が悪くてもお喋りしながら楽しく食べていたのに、今はお互い何も話さずにひたすら手と口を動かしていた。
時折、窓の向こうで風に揺れる木の葉っぱがざわつく音が聞こえてくるけれど、部屋の中はただ沈黙していた。
食べ終わって箸を置く。
それからコップの中の水を飲んで、静かに置いた。
手持ち無沙汰になったものの、話しかける勇気が出る訳もなく、何気なしに窓の外を眺めた。
外には色とりどりの花たち。四季に関係なく咲き乱れて鮮やかだ。時雨ちゃんがあの三人をどこかへ運び出した時も、不穏な雰囲気とは裏腹にとても綺麗だった。
「お花また増やそうと思うの」
不意に嬉しそうに時雨ちゃんが言った。この言葉も以前と変わらず、普通の会話をしているふうだ。
時雨ちゃんも食事が終わったみたいで、手元のお茶をすする音が聞こえてくる。
「沢山あったほうが華やかで良いでしょうから」
「……うん」
「サエちゃんと一緒にこれからも育てていきたいわ」
期待に溢れた声が向けられる。
今までだったら素直に嬉しいと受け取れたのだろう。でも今は……今この瞬間では……。
暗に「離れないで」と言われているみたいで、背中が寒くなった。
「こ、これだけの花があったらお店が出来そう、だね」
なんとか自分も普段通りに話そうと無難な言葉を選んだ……はずだった。
「……時雨、ちゃん?」
押し黙った気配がしてそっと顔を上げる。
目の前の彼女は、目を見開いて表情を凍らせていた。
「どうしたの?」
怒っているわけでもなく、固まってしまった時雨ちゃんに思わず気まずさも忘れて声をかけた。
わたし、なにかいけない事言ったかしら。でも、別に不快になるようなことなんて……
――あっ
戸惑っていたわたしの頭に、それは唐突に蘇った。
まだ幼かった頃。あれはわたしの家でお泊り会した時だ。
時雨ちゃんと二人で夜更しして、将来の夢を語り合って笑いあった。わたしは喫茶店を開きたいって言って夢を膨らませた。
あのとき時雨ちゃんが言っていた将来の夢。
あれは確か、お花屋さん――
「……そうね」
消え入りそうな声が正面から返ってくる。
時雨ちゃんの方へ意識を戻せば、やや俯いて、その表情は無いようにも見えるけれども、どこか寂しげに見えた。
「ね、ねぇ時雨ちゃんっ、わたし」
「私部屋に戻ってるね」
遮るのと同時に立ち上がって、時雨ちゃんは食べ終えた食器を集めると、すぐさま台所へ姿を消した。そして食器が置かれる音がすると、足早な音が彼女の部屋へと戻ってしまった。
俯いて、無言になる。
どうして良いのか分からない。それしか頭に浮かばない。
このまま時雨ちゃんと、どうやってつき合っていけば良いのだろう。
皮肉にも、なんだか紅い鬼の時と状況が似てきている。
……なんだか頭が痛い。
しばらくリビングにいたけれど、特に何かが起こることもなく、仕方なく部屋に戻ろうと廊下へ出た。
木目調の廊下を俯きながら歩く。
これからどうしたら良いのだろう。どうやって過ごせば良いんだろう。
わたしのせいで、三人が骸骨になってしまった。何の罪のない妖怪も鬼に喰われてしまった。
これ以上、誰かが犠牲になってはいけない。時雨ちゃんにも酷いことをさせたくない。
だとしたら、わたしが時雨ちゃんのそばにいて、彼女にそんなことをしないよう頼み続けるしかない。
でも、そんなことが本当に解決になるのかしら?
他に何か出来ることはないかな……。
不意に立ち止まって、廊下に飾られている四枚の絵を見つめる。
春は子鬼達がお日様の下でお花見をして 桜を眺めていて、夏は河童達が夜の川辺で朝顔を摘んで遊んでいる。
そして秋の絵は妖狐達が陽の光を浴びながら秋桜を耳に飾って、冬は雪ん子が青空の下、椿の花を大事そうに雪を払っていた。
まじまじと眺めたことはなかったけれど、なかなか繊細に描かれていて、前に見た動く絵を連想させるくらい生き生きとしている。
これも動いたりはしないのかしら。
わたしもあっちにいた時は色々四季に合わせた旅行とか行った。
友達や家族と一緒に、お花見や紅葉がりはもちろん、花火や雪遊びだってした。楽しかったなぁ。
それにしても、この絵にも必ず木とか花が描かれているのね。時雨ちゃんは本当に草木や花が好きなんだ。
春は桜。夏は朝顔。秋は秋桜。冬は椿。
どれも葉っぱや花びら一枚丁寧に描かれている。
こうして見ると、夏だけ夜なのね。暗いなら花火のような明るい絵を描けば良いのに。もしくは在り来たりだけれど、真っ青な空と入道雲に向日葵とか。
「……向日葵?」
どくんと胸が高鳴る。
忘れかけていた何かが胸の内から訴えてくる。
思い出せと。
「向日葵……向日葵は……時雨ちゃんが好きだった……」
塞いだ記憶のうちの一つに、小さな箱が思い浮かぶ。
あれはなんだっけ? 蓋が開くと、可愛らしい音が鳴る……オルゴール。
そうだ! オルゴールだ。
その中に入っているのは黄色い、オレンジ色の大輪の髪留め。彼女の大好きな向日葵がついた髪留め。
それと一緒に入っていた制服の第二ボタン。時雨ちゃんが好きだった先輩の……。
時雨ちゃんが鬼になって現世からいなくなってしまった後、先輩は卒業したあの日に、オルゴールをお社に置いていった。
彼女の誕生日に渡すつもりだった髪留めと、第二ボタンを入れて。
それにバースデーカード。先輩の少しガサツな、それでも一生懸命丁寧に書こうとした様子が伺える文字。
『光子へ お誕生日おめでとう』
「……みつこ?」
口からこぼれた名前。この名前。女の子の名前。
みつこ。光子。……みっちゃん。
そうだ、彼女の、みっちゃんの名前!
「みっちゃん!」
その名前が記憶の鍵だったかのように、瞬く間に塞がっていた記憶が呼び起こされた。
教室でいつも小さくなっていた、マッシュルーム頭の目の小さな女の子。
気配り上手で優しいのに、いつも男子に馬鹿にされて、控えめな性格のせいで、女子の話の輪にもなかなか入れなかった。
体育も勉強もちょっと苦手で、でも誰よりも努力家で、放課後は一緒に勉強したり、授業でやっていた課題を一緒に練習したりしていた。
弱々しく笑う顔はいつもどこか悲しげで、けど優しくて、お母さんと弟さんが大好きだった。お父さんがいない家庭のことをいつだって気にかけていた。
そして……太陽のように咲く、大輪の向日葵が大好きだった。
思い出してみる。あれだけの花があるのに、箱庭のどこを探しても向日葵だけが見つからない。
もし過去のことを引きずっていないのだとしたら、向日葵だけを除くだなんてしないだろう。
きっとまだ悲しいんだ。鬼になってしまったことを心のどこかで悲しんでいるんだ。
誰だって好きで鬼になんてならない。でも鬼にならなきゃ逃げ場がなくなってしまう。心が死んでしまう。だから鬼になってしまったんだ。
名前を思い出せた。もしこれで人間に戻れるのなら、彼女がそれを望んでいるとするのなら、まだ救いはある!
急いで踵を返して彼女の部屋へ向かう。
はやる気持ちを押さえて、一度ドアの前で深呼吸をするとノックした。
中から物音がして、それからゆっくりドアが開かれた。
「……サエちゃん? どうしたの? そんなに興奮して」
「思い出したの!」
「え?」
「時雨ちゃん。本当の名前は、みっちゃんでしょ!」
わたしを宥めようとして上げかけた手を掴む。それをぎゅっと握り締めて驚愕を浮かべている顔に訴えた。
「名前を取り戻せば人間に戻れるよね!? だったら、もうこんな怖いことしなくて良いから、鬼でいる必要なんてないから、元の世界に帰ろうよ!」
金色の瞳が歪む。それから頬を引きつらせて桜色の唇が震えた。
「何を言って」
「みっちゃんは不器用だけど努力家で、背と目が小さくて、丸い髪型の女の子だった。からかわれても悪口ひとつ言わない我慢強い子だった。わたしは大好きだったよ、みっちゃんのこと」
思い出した彼女の面影を思い浮かべる。
日差しの中を一緒に過ごした日々を、時雨ちゃんにも思い出して欲しくて、握り締めていた手をまたぎゅっと握った。
「……なんで」
「もしほんの少しでも人間に戻りたいと思ってるのなら、わたし一緒に頑張るから! 頑張ってみっちゃんが元の世界に戻れるように努力するから! だからもうわたしの為に、酷いことしなくて良いから」
「……なんでよ」
「ごめん、今更だよね。もっと早く言ってればみっちゃんは手を汚さずに済んだのに。……あのね、わたし気づいたんだ。箱庭のどこを探しても向日葵がないって。それって――」
破裂したような音と、鼓膜が痛くなるほどの激痛が顔半分に広がった。
脳震盪を起こしていたのか、頭がくらくらした。そして気が付けば、わたしは廊下の壁からずり落ち、左頬を片手で覆っていたのだ。
「……弱い人間のクセに」
上から降ってきたのはあの時の、蔑んだ冷たい声だった。
呆然としながら見上げれば、変わらず美しいはずの顔に、般若の眼差しをした鬼女が、わたしを見下ろしていた。




