九ノ怪
夕飯を終え、いつもより少し早めに部屋へ戻った。時雨ちゃんがわたしの体を使って現世へ行っている? 何のために?
ふと、鬼の屋敷に突っ込んでいった主の使いだった妖怪を思い出す。
彼女はまたなにかしているんだろうか。わたしの体を使って、現世に行って何をしに行っているというんだろう。
せめて一言いって欲しかった。……いい顔はさすがに出来なかったとしても、理由を話したりしてくれれば、場合によっては快く協力したのに。
なんだか怖い。
わたしの知らない時雨ちゃんみたいだ。
そう思って、気づく。
知らないもなにも、わたしの記憶の中の時雨ちゃんは本物じゃなかったんだと。
時雨ちゃんの人間だった頃を思い出してみる。
彼女はクラスで誰よりも慕われて成績もトップで、美人だと評判で、なんでも器用に出来て。明るく可愛い女の子。まさにいま一緒にいる時雨ちゃんだ。
でも全部嘘だ。これは本物の記憶じゃない。それは分かる。けれど、じゃあ本当はどうだったと思い出そうとしても、思い出せないのだ。
一体どうして、忘れてしまったんだろう。それさえも、思い出せない。
あぁでも。時雨ちゃんがあの三人を助けてくれたのも事実だ。あんな人として最低なことをしている三人を、紅い鬼の手から届かない所に逃がしてあげてくれた。
それだけでも、まだ時雨ちゃんが十分人の心を持っているなによりの証拠だ。主の使いのことだって、わざわざわたしの所へ来て、謝ってくれたんだし。
きっと本当の人間の頃の時雨ちゃんも、優しい女の子だったんだろう。きっと……そうに違いない。
すっと椅子から立ち上がり、大きく息を吸った。
はぁ。今日はこれ以上考えるのはやめよう。なんだか考えすぎて疲れちゃった。もう寝よう。
大きく伸びをしてお風呂場に行く。熱めのお湯でも浴びれば少しは気分が変わるかも知れない。やや重い感じの頭を抱えて脱衣所のドアを開けた。
体を洗い、洗面台で歯を磨く。さっぱりはしたけれど、あんまり気分はすっきりしない。
……そういえば、その三人は今どこにいるんだろう。
鏡に映る自分が何度か瞬きして、歯を磨いていた手が止まる。
時雨ちゃんが現世の安全なところに避難させているのかな。それともなにかしらの術を使って守っているのかしら。
朝起きたら時雨ちゃんに聞いてみようかな。三人の近況が分かれば、まだ胸を燻っている嫌なものも変わるかもしれない。
歯も磨き終わり布団の中にもぐる。そして息を吐いてうずくまると、目を閉じた。
あの三人は時雨ちゃんに守られている事を知っているのかな。もし何かしらの方法で自分たちは守られているんだと分かっているのなら、それを機に改心して真人間になれば良いけれど。
しばらく目を閉じてじっとしていたけれど、なかなか寝付けない。妙に気が立っているというか、なんだか無性にそわそわする。
そっと目を開ければ当たり前だけれど暗い。時計の秒針の音と風に、揺れる木の音が耳に届いて余計に眠れなくなる。
そうだ。なにか冷たいものでも飲もう。そしたら少し気分も良くなるかもしれない。
重い頭をなんとか枕から離し、そっと床へ足先を下す。
少しひんやりとした床を歩いてドアへと進み、音を立てないよう気をつけて廊下へ出た。すでに明りは無く、かろうじて時雨ちゃんの部屋から洩れる明かりでなんとか見えるくらい。
時雨ちゃんまだ起きているのかな。
勉強中だと悪いから音をたてないようにしないと。
そろりそろりと足を進めて廊下を抜け、リビングを通り、やっと台所へ辿り着く。大きな窓から月明かりが射しこんで、明りを付けなくても大丈夫そうだ。
棚の中の一つから湯呑を拝借して、常時置いてある冷たい竹筒の水を湯呑に入れて飲み干す。
う、思ったより冷たいっ。でもこれで少しは目が覚めたわ。
あとはどうにかして朝まで起きていないと。テレビとか携帯とか、パソコンがあれば眠気も払えるし、暇も潰せて良いのに。さすがにそういった物はないみたいだから仕方ないんだけれど。
湯呑を流しにおいて長くため息をつく。
どうしようかな……。そう思って何気なしに棚を見た時だった。
なんだろう。視線……? を感じる。
開け放たれた棚の中には様々な湯呑が並んでいる。辺りを見回すけれど何もない。大きな窓にも人影はないし、時雨ちゃんが部屋から出てきた気配もない。
ちょっと気味悪いな。
箱庭にはわたしと時雨ちゃん以外誰も住んでいない。そこまで制限しないと、どんな形でわたしがここにいると紅い鬼にバレるか分からないからだそうだ。
だから時雨ちゃんも外出は必要最低限にしかしていないみたいだ。
流しに置いた湯呑を洗って布巾で水気を拭うと、棚に手をかける。棚は横一列にしか置けない奥行が狭い飾り棚だ。ぽつんと空いた隙間に、手に持った湯呑を戻そうとしたとき、それは突然起こった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
痛い……寒い……暗い……
ねぇ、なんでアタシがこんな目に遭わなきゃいけないの!? そこにいる二人と違って暴力なんてしたことないのに。
アタシはなにもしていない!
みんなが悪ノリして勝手に盛り上がってやっただけじゃない! なんでアタシ一人だけこんな目に遭うのよ!
もう夢だと言って。誰か嘘だと言ってよ。
なんだって妖怪の世界にいるのよ。こんな大昔の話、とっくに時効じゃない。
あぁ感じる。人の気配だ。あの壁の向こう側に人間がいるんだ。あの小さな穴の向こうに、人がいるんだわ!
「……て。……たす……け……て」
声が出にくい。ひどい声。アタシの声。
あの鬼が来る前に。ねぇ気づいて! 助けてよ! アタシは何も悪くないの! なんの罪もない人間よ!
だからあの鬼から、あの女から助けて!
・・・・・・・・・・・・・・・・・
身体が一度大きく痙攣して、意識が戻る。
危うく手に持っていた湯呑を落としそうになって、慌てて両手で握り締める。
い、今のって……まさか。
気づけば肩で息をしていて、胸も鳴っている。ごくりと唾を呑み込んで乱れる呼吸を抑える。
もう一度棚の中を見つめる。すると、今まで気付かなかったけれど、湯呑を戻そうとしたその場所に小さな穴が棚の壁に空いていた。
全然気付かなかった。こんなところに穴が空いていたんだ。
それを見て一度強く顎を引くと、意を決して湯呑を近くの台に置く。それから身を乗り出してそっとその穴を覗き込んだ。
中は暗い。窓もないみたいでとても見づらい。それでも注意深く凝視していると、ガサゴソと何かが身じろいでいるかのような音が微かに聞こえる。
自分の見た誰かの視線からだと、この穴の向こうにいる人物がわたしを見ていた。けれどこれじゃ何も見えないわ。誰かいるのかも分からない。
「……だ、誰かいるの?」
そっと小声で呼びかけてみる。
自分の鼓動がうるさくって少しだけヤキモキしていると、今度は何かが大きく動いた。
「早……け……て……助……けて」
「どうしたの?」
「ここ……か……ら……だし……て」
「誰なの? なんでここに?」
「鬼……連れてこられ……」
「助け……」
「して……やる……悪くない……から」
声の主は一人じゃない。さっき誰かの気持ちが見えた時も、「そこの二人」って言っていたから、最低は三人いるっていうことだ。
三人。その数にじわりと暗いなにかが足から這い上がってくる。そして頭の芯が冷えて血の気が下がっていく。
落ち着いて。
まだ決まっわたけじゃない。
中の様子を見たいんだけれど暗くてこのままじゃ無理ね。なにか中を照らせるものが必要――
「うるさいわねぇ」
いったん離れようかと思ったとき、声とともに壁の向こう側の暗闇が少しだけ遠のいた。見えなかった視界がいきなりひらかれ、そして見えた光景に思わず叫びそうになった。
石壁に囲まれた重苦しい雰囲気の部屋。そこにいつかみた骸骨が三体寄り添うように部屋の隅に固まって、怯えているようにカタカタ全身の骨を鳴らしていた。
よく見れば骨は黄ばんでいて、ところどころヒビが入っていたり欠けたりしている。
辺りには衣服だったと思われる布の切れ端が散らばり、バラバラになったアクセサリーの破片が転がっていた。
ひ、人じゃなかったんだ。痣が見せた第三者の目はてっきり人間のものだと思っていたんだけれど。違ったんだ。
「静かに出来ないならまた骨をすり潰すわよ」
冷たい声がどこからともなく部屋に響く。軽蔑のこもった、憎悪が滲む綺麗な声音。時雨ちゃんの声だ。
「みすぼらしい姿になっても本当に鬱陶しいわね。骨を残してやっただけでも感謝して欲しいくらいなのに」
ひぃと乾いた悲鳴が響く。そして一番小さな骨が顎を動かした。
「なんで……なんでよ……アタシが、なにしたの? アタシはなにもしてない……」
「俺だってそうだ……なんでこんなひでぇことするんだ」
がっしりした骨格の骸骨も隣で呟く。あとのもう一体はただ骨を酷く鳴らすだけで、何も話さない。
「……なんでこんなことするんだよ……なんの恨みがあるんだよ……」
恨めしげな声で頭蓋骨が天井を見上げた瞬間、その丸い頭に亀裂が走った。大柄な骸骨は細くて甲高い声をあげると、床をのたうち回った。
「うるさいって言っているでしょう。大事な親友が起きたらどうしてくれるの?」
骸骨たちは今度こそ黙り込んで、時折くぐもった呻き声を零しながら部屋の隅で小さくなった。そこに呆れた溜息が抜ける。
「せっかく鬼様の手が届かないあの世に連れて行ってあげようとしたのに。本当、どこまでも意地汚いわ。そんな無様な姿になってまで生きたいだなんて。そんなに自分が可愛いの?」
静かな声でも怨念がこもっている。普段わたしと話している時とはまったく違う、底冷えするような冷たい口ぶり。
それに、あの世って。鬼の手が届かないって……。
「あれだけ他人をごみ屑に扱ってさぞ楽しかったでしょう。人から金を巻き上げて、飽きたら捨てて、暇つぶしの玩具にして思う存分欲を撒き散らして。……だからずっとね、私あなたたちの事昔から思っていたの」
“死 ン デ シ マ エ バ 良 イ ノ ニ”
「……って、ね」
大きな目眩がした。いつか自分が願った声と、鬼女の冷たい声が重なった。
相手の不幸を願う、呪いの言葉。憎しみと怨みがこもった重くて冷たい願い。わたしが抱いた底なしの闇。
「もうこの世に未練なんていらないでしょう? だから早く消滅してちょうだいよ。邪魔なのよあなた達。野放しにも出来ないし困ったものね。魂だけになって彷徨ってもらっても余計に厄介だし。まったく、あの貪欲の鬼様の呪いを受けたら用済みなのに……」
長い溜息がして、グシャっと紙のようなものが握り潰されたような音がした。
「まぁ良いわ。二度とうるさくしないように。うるさくしたら今度こそ両足の骨をすり潰して魍魎たちの餌にしてやるわ」
部屋の明かりが落とされる。その灯りが消える一瞬前、一体の骸骨がわたしへ手を伸ばした。
骨だけになってしまって表情を作る筋も肉もないのに、辛さや苦しみを込めた空虚な暗い二つの穴が、縋るようにわたしを見つめていたのだった。
汗だくになりながら部屋のドアを閉める。夢中で部屋に戻ってきてしまった。彼女に、時雨ちゃんに気づかれていないかしら。
しばらく息を殺してドアに張り付いていた。特に誰かが歩く音だとか、話し声も聞こえてこない。
ガタガタ震える手で自身を抱きしめる。
こんなことって。
そんな……なんでこんなことに……。
ドアを背にその場に崩れ落ちて座り込む。いやに時計の音が響いて、顔を上げれば出てきた時と変わらない部屋があるだけだった。両手で顔を覆って目を閉じる。
時雨ちゃんの言葉。あの三人の骸骨。もうあの会話だけで分かってしまった。
あの三人は、元同級生のあの人たちは、わたしと時雨ちゃんが受けるはずだった呪いを代わりに引き受けたんだ。それで用済みになったから、時雨ちゃんが殺してあんな姿に。
目頭が熱くなってきて、きつくそこを指で押す。
わたしのせいで、三人が常闇に連れ去られて殺されてしまった。しかもただ死ぬだけじゃなく、あんな姿になって苦しんで。
時雨ちゃんだって、わたしが逃げたいだなんて言わなければ、酷いことをしなくて済んだのに。
わたしのせいだ……
わたしが紅い鬼の所から逃げてこんな事になったんだ。わたしが鬼との約束を大人しく果たせば、こんな酷い事にはならなかったんだ。なんてことをしてしまったんだろう。
気づいても、もう遅かった。
常闇で暮らしていた無関係な妖は死に、助けたはずの同級生は生ける屍となった。わたしを助けようとしてくれた、親友の手によって。
紅い鬼との約束を破って逃げた、わたしのせいで……




