七ノ怪
どくんどくんと鼓動が鳴る。
決して激しくなっているわけでもないのに、胸が騒いで苦しくなる。
笑っていた。時雨ちゃんは笑っていた。
なんの罪もない妖怪を利用して、罪悪感もなにもなく、綺麗な顔を綻ばせて無邪気に笑って。
まるで紅い鬼みたいだった。
いや、正確にいうと紅い鬼の場合は悪いと分かっていてやっているけれど、時雨ちゃんは悪いとは全く思っていなくてしているような。……そんな感じだ。
もちろんだからと言って時雨ちゃんがしたことはまったく悪くないとは言えないんだけれど。
ごろりと寝返りを打つ。
明かりをつけていない部屋の中は暗くひっそりとして、時折外で風に揺れる木々の音が遠くに聞こえるぐらいしか音はない。
結局、紅い鬼の悪夢のことは言えなかった。
別に鬼の言葉に従ったわけじゃない。自分の本能の声に耳を傾けただけだ。
でもそれって、時雨ちゃんを訝しんでいることには変わりがないのよね。本当のことが言えないのだから。
フゥと息を吐く。
やっぱり考え方が人間のそれとは違うようになってしまったのかしら。もうわたしとは、感覚が違っているというのかな。目を閉じてもう一度深く息を吐く。これからどうやって時雨ちゃんと顔を合わせればいいの。
こんこん、とドアをノックする音が聞こえた。
弾かれたように飛び上がって上体を起こすと、上擦らないように気を付けて「はい」と返事をする。
あ。そうだ、明りをつけなきゃ。
「サエちゃん。寝ちゃった?」
「ううん、まだ起てるよ」
枕元の明りを付け終えたわたしは、適当に取った本を持ちながら布団に腰掛け、ドアから除く時雨ちゃんにぎこちないながらもなんとか笑いかけた。
部屋に入ってドアを締めると、おずおずと時雨ちゃんがこちらへ寄って来る。その顔はとても困惑げだ。
「もしかして、さっきの話のこと気にしてる?」
背中がぴくっと引き攣る感じがした。それでも幸いにも肩は跳ねなかったようで、時雨ちゃんの様子を見る限り、わたしの表情にもこれと言った変化はないようだ。
それでもどうしても、気まずくって頬をかきながら目を泳がせた。
「えっとそうだ、ね。ちょっとびっくりしたかな。……なんていうか、その、ちょっと荒々しいことには慣れていないって言うか、そんなことがあったなんて、驚いて」
しどろもどろになりながら、弁解じみたことを口にする。
なんだか、紅い鬼に詰問された時を思い出してしまう。時雨ちゃんはそんな子じゃないのに。なんだか変に緊張してしまう。
「……ごめんなさいっ」
「え?」
「サエちゃんに残酷なこと話して。どうしてもこの世界にいると、こういった事が当たり前になってしまって……嫌な思いをさせて、ごめんなさい」
夕暮れに似た金色の瞳を潤ませ、雪の様な白い手でぎゅっと時雨ちゃんは胸元を握り締めた。そして、勢いよく頭を下げたのだ。
「え、あ、ちょっと、時雨ちゃ」
「言い訳にしかならないけれど、あの主の使いは行く宛も帰る宛もなく苦しんでいて。このままだと周辺の妖怪たちに危害を加えるかもしれないと本人も悩んでいたの」
「そんな時雨ちゃん、頭を上げて」
「……主の使いが了承してくれたとは言え、私がその命を利用としたことは事実。サエちゃんにも怖い思いをさせて、申し訳ないことをしたわ」
「時雨ちゃん……」
「身勝手だけど、どうしてもこれを伝えたくて。本当に、ごめんなさい」
わたしの声にも顔を上げず、悲しげな声には涙が含まれていた。深く、心から悲しんでいるんだ。
まだ……時雨ちゃんは相手を思いやれる心をもっている。まだ彼女は人の心を忘れていないんだ。
「時雨ちゃん顔を上げて」
艶やかな黒い小さな頭に生える金色の二本の角。その上から語りかけるように、穏やかに話そうと口を開く。
もう時雨ちゃんに隠し事はやめよう。時雨ちゃんはわざわざ部屋に来てまで、正直にわたしに話してくれたんだもの。きっと悩んで、勇気を出してわたしのところに来てくれたに違いない。今度はわたしが正直に話す番だわ。
「ねぇ時雨ちゃん。実はわたしも伝えたい事があるの。あの――」
紅い鬼の悪夢の事を話そうとして口を開けた――その瞬間。切りつけられるような、背中に鋭い痛みが走った。
頭が真っ白になる。何本もの鋭利な刃物で背中が真っ直ぐ縦に切りつけられたような痛み。声も上げられないくらいのその痛みに体が硬直する。
「……サエちゃん?」
下がっていた頭が揺れて、金色の大きな目が不思議そうに見上げてきた。
瞬時に息を止める。そして考える。
ふっと息を吐いて冷や汗を押さえ込むと、わたしはまた口を開いた。
「あ、その、またあの鬼の人形に入って、今度は別のところに出かけたいなー……なんて思って。あとほら! 慣れてきたら一人で出かけたりとかしたいし、そのほうが時雨ちゃんも楽になるんじゃないかって。い、忙しいのに図々しいこと言っごめんね」
即席で作った「代理伝えたいこと」はボロボロになって口から出てきた。途中から支離滅裂で自分で言ってても苦しいと分かる。
だいたい一人で妖怪の群れに飛び込むだなんて絶対にしたくないし、それで時雨ちゃんが楽になるとか意味がわからない。
「え? でも、一人でだなんて大丈夫なの?」
「へっ!? も、もちろん! だっていつまでもビクビクしていたって仕方ないもの! 鬼の姿になれば他の妖怪も怖くないし!」
そんなことは断じてない。
妖怪の群れの中にいた時だって発狂するほど怖いわけではないけれども、ずっと落ち着かなかったし。しかもそれは時雨ちゃんが付いていてくれてたからというのもあったし。
「サエちゃん無理しないで? 頼もしいのは嬉しいけれど、あまり頑張りすぎると壊れちゃうよ?」
「ありがとう。でも本当に、いつまでもビクビクしていたら前に進めないから」
無意味な強がりに笑顔を貼り付けて時雨ちゃんに向ける。
でも時雨ちゃんの強張りを解くことには成功したみたいで、彼女もぎこちないながらも笑ってくれた。
「じゃあ明日また、連れて行ってあげられるところ探しておくね。本当に、寝る前にごめんね」
「ううん、話してくれてありがとう。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
手を振って部屋を出ていく時雨ちゃん。
ややあってからそっとドアに近寄り、耳をそばだてる。
……もう部屋に行ったかな。
彼女の足音が遠ざかったのを確認してすぐさま姿見に駆け寄り、服を脱いで背中を見た。
肩ごしに、鏡に映った自分の背中。そこには細くて長い、赤い引っかき傷が浮かび上がっていた。
「こ、これって……」
ガクガクと震えて思わず呟く。
この傷はあの時の。
思い出したくもないのに、頭に過ぎっただけで苦痛な記憶が鮮明に呼び起こされる。
覆い被さってきた屈強な肉体。身動きがとれないほどの圧迫感と恐怖感。自分の全てを駆使しての抵抗は、全く意味を成さなかった。
痙攣のような震えが起こり、両手で口を押さえその場で蹲る。
――思い出すな、思い出しちゃダメだ。
早く、忘れるんだ。忘れるの!
強く自分を抱きしめて頭を振る。そして唇もぎゅっと結んだ。それでも、必死で言い聞かせても。一度火が付いた恐怖感は悲痛に叫んで、あの時のことをわたしに何度も訴える。
剥ぎ取られていく浴衣。無残に切られた帯。押さえつけられた心と体。首筋を執拗に這う生暖かい舌。全身をまさぐる無骨な大きな手。獲物を捕らえたように冷酷に光る妖しい紅。
……悲しかった。怖かった。悔しかった。
そして今まで抱いたことのなかった、暗くて苦しい感情が沸き起こった。
震えたまま顔を上げる。
肩ごしに振り返った先には、鏡に映る自分の真っ青な顔と背中の細い線のような赤い傷。紅い鬼がわたしを貪っている間につけた傷。
ぶるり体が大きく震える。そして恐怖に歪んだ目で凝視するうちに、傷は背に吸い込まれて消えてしまった。
……もう、疲れた。
ふらふらと吸い込まれるように布団の中に入る。
一瞬悪夢のことが頭を過る。でも、もう考えられなかった。とにかくもう、今日一日を終わらせたかった。
その夜、青い顔のままで布団に入ったわたしは紅い気配を感じることはあっても、夢を見ることはなかった。
ただ静かな夜に包まれてぬくぬくとした布団の中で眠り続けた。今思えば、久しぶりの安眠だった。
翌日、わたしは時雨ちゃんと一緒に常闇に出かけていった。
鬼の人形に入って、時雨ちゃんが連れ出してくれるお店をあちこち回った。
お茶屋さん、反物屋さん、お菓子屋さん。万事屋さん。色々な妖怪たちが様々な場所で営む数々のお店を。鬼と過ごした記憶を塗り替える勢いで、回りに回った。
そして買った材料を使って料理をした。慣れない調理器具や食材に悪戦苦闘することもあったけれど、とても楽しかった。
そんなふうに、あっという間に充実した日々が過ぎていった。
夜も悪夢にうなされることなく穏やかに眠りにつき、仮初の朝日で目を覚まして、朝の支度が終われば妖怪の町に繰り出す。それから料理やお話に勤しんでいた。
「今日はどこにいくの?」
朝食の席で、時雨ちゃんに尋ねる。
もう結構あちこち行ったから、そろそろネタも尽きてきたんじゃないかな。もしリクエストして良いなら、また香隠れの里に行きたい。あれから結構日が経ったから、多分紅い鬼関係の妖怪もいないだろうし。
期待を込めて尋ねると、時雨ちゃんが少し迷った顔をしてわたしに目を向けた。
「ごめんね、実は急な用事が入っちゃってわたし行けなくなっちゃったの」
「え? そうなの?」
驚いて聞き返すと、時雨ちゃんがすまなそうに眉尻をさげて頷いた。
「うん。でもどうしても買わなきゃいけないものがあって。申し訳ないけれど、一人でお使いに行ってもらって良いかしら?」
少し切羽詰まったような表情を浮かべて言う。こんな表情するだなんて、彼女にしては珍しい。よっぽど緊急なんだろうな。だとしたら、ここは親友として助けなければ。……ちょっと怖いけど。
「うん、良いよ。どこへ買いに行けばいいの?」
「前に行った香隠れの里は覚えてる? あそこでお香を一つ買ってもらいたいのだけれど。あの梅枝のお店」
「あ、香隠れの里には丁度行きたいと思っていたの。買い物のメモと船を用意してもらえれば大丈夫だよ、行ってくる」
前に出任せとは言え一人で行きたいと言ってしまったのもあるし、丁度いい機会だわ。勇んで告げると、綺麗な顔が花が咲くようにパァっと破顔した。
「あぁ良かった! ありがとう! とても助かるわ! それじゃあご飯が終わったあと準備するね」
朝食を終えてお皿洗いも終わり、部屋に戻って支度をする。といっても、このままで行くわけではないので簡単に済ませていつもの地下室へ向かった。
台座に横たわり、もう慣れてしまった幽体離脱で鬼の人形へ入る。今ではすっかり気だるさも目眩もなくなった。人形にも馴染んだのか、あまり違和感なくすぐに体が動く。
箱庭に咲き誇る花たちの向こう側に舟屋がある。
囲いになっている竹と同じもので作られているドアを開いて石畳の階段を下り、舟屋に入る。船首にはすでにお香が取り付けられていた。
「香隠れの里に入るときに自然とお香が焚くように仕掛けをつけておいたから、サエちゃんが特に何かをすることはないようにしておいたから」
「ありがとう。それじゃあ行ってくるね!」
「サエちゃん」
「うん?」
「……気をつけてね。あんまり無理しないで。もし何かあったら舟の中にある黄色いお香を使って焚いてもらえれば、わたしと連絡取れるから」
硬い表情をしてわたしに深刻そうに言う時雨ちゃん。
やっぱりわたし一人でお使いに行かせるのは心配なのかしら。正直なところちょっと、いやかなり心細いけれど、ここは一つお使いを成功させて、時雨ちゃんの心配を取り除かないと。
いつまでも時雨ちゃんにべったりしているわけにいかないんだから。うん。
「分かったわ! おつかい行ってきます!」
めいっぱい元気よく答えて、ビシッと敬礼する。
するとさっきまで不安そうにしていた顔が噴出した。
「もうっサエちゃんってば!」
「あはは! じゃあね!」
舟に乗り込んで障子窓から時雨ちゃんに手を振る。時雨ちゃんも佇んで綺麗な白魚の手を振り返してくれた。
舟は時雨ちゃんに見送られながら、常闇の闇が広がる水面の上を滑り始めた。




